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中臣印達神社
中臣印達神社--兵庫県たつの市揖保町中臣(ナカジン)
祭神--五十猛命
論社:魚吹八幡神社--姫路市網干区宮内
祭神--品陀別命・息長足比売命・玉依姫命
論社:八幡神社(林田八幡宮)--姫路市林田町八幡
祭神--応神天皇・仲哀天皇・神功皇后
付--阿波遲神社(中臣印達神社に合祀)
祭神--不明(大鹿島神・大香山戸臣神か)

 延喜式神名帳に、『播磨国揖保郡 中臣印達神社 名神大』とある式内社だが、上記2社が論社となっている。
 社名は“ナカトミイダテ”又は“ナカトミイタチ”と読むが、“ナカトミイムタチ”とする資料もある。

 阿波遅神社(アハチ)は、神名帳に『播磨国揖保郡 阿波遅神社』とある式内社で、中臣印達神社とは別の独立社だが、何故か同社に合祀されている。

【中臣印達神社】
                                                                     2016.05.20参詣
 JR山陽本線・竜野駅の北東約2km強。駅北の国道2号線を東へ、揖保川大橋を渡って二つ目の信号(西構)を左(北)へ、450mほど先の角を左(西)へ、道なりに進み中臣集落を過ぎた突き当たり中臣山(チュウジンヤマ、H=27m)の南麓に鎮座する(道路輻輳、地図必要)。

※由緒
 社頭の案内には、
 「祭神 五十猛命
  創祀 宝亀元年(770)
 由緒
  五十猛神は父神である素戔鳴神とともに、天照大神が驚きになるくらいの、又、国内が混乱するぐらいの新しい文化文明を大陸より移入。それ以降、国内の農耕・文化・文明は大変な発展をとげたとされる。これらより、ご霊験灼(カガヤカ)な神と信仰が篤い。
  そして、大陸・朝鮮半島より樹木の種を持ち帰ったことにより、植林の神とも伝えられている」
とあるが、祭神の神格については云々するものの、創建由緒については不記。
 なお案内は、当社創建を宝亀元年(奈良後期-称徳朝)というが、それを証する史料はない。

 当社の創建由緒は不明だが、日本の神々2(1984)
 ・現在の揖保川は中臣山の西を流れているが、過去には山の東を流れていたこともあった。
 ・揖保川の乱流する氾濫原を開拓するにあたって、中臣山の小丘は居住地としても神祭りの場所としても絶好であったと考えられる。
 ・中臣山は播磨国風土記にある天日槍と葦原志挙乎の国占め伝承で名高い“粒丘”(イイボノオカ)に比定され、
 ・葦原志挙乎が杖を地に刺すと冷泉が湧き出て南北に流れたとあるが、当社は中臣山の鞍部にあたる湧水地に鎮座し、地形的に南北に通じる位置にある。
 ・中臣山山上には中臣山古墳を中心とした古墳群があり、対岸の養久山にも弥生時代の墳墓群や前方後円墳があり、古くから人々が住んでいたことは確かであろう。
 ・当社の創立は宝亀元年と伝えられているが、おそらく、この山はもっと古い時代からの聖地であったに違いない。
という。

 中臣山に比定されている粒丘とは、播磨国風土記・揖保郡段に
 ・天日槍命(アメノヒボコ)が韓国から渡ってきて宇頭川下流の川口について、宿所をこの国の主である葦原志挙乎命(アシハラシコオ・大己貴命の別名)に乞うたので、志挙乎は海上に居ることを許した。
 ・その時、日槍は剣を以て海水を掻き回し、これに宿った。
 ・志挙乎は、客神の盛んな行為を恐れかしこみ、客神より先に国を占めようと思い、巡り上って粒丘まできて急いで食事をした。
 ・その時、口から粒(イイボ=飯粒)が落ちた。だから粒の丘と呼ぶ。
 ・また杖を地に刺すと、その杖の処から冷たい水が湧き出て、ついに南と北に流れ通った。北のは冷たく南のは暖かい。
とあるのを指す。
 なお、粒丘を式内・粒坐天照神社が鎮座する白鷺山(的場山の連山)に比定する説もあるが、その比定根拠は不詳。

 これらからみると、当社は中臣山に坐す神を水神として崇拝し、山麓を流れる揖保川の流路安定と田畑の豊穣を求める古代の自然神信仰を背景に創祀されたのが始まりかとも思われる。
 当社古来の神が水神とすれば現祭神・五十猛命との直接的な接点はないが、樹木の神とは山の神であり、山の神は水神でもあることから、五十猛命であってもおかしくはない。


 当社に関する古資料としては、
*神社覈録(1870)
  祭神詳ならず。揖西郡中陣村に存す。今、雑王権現と称す。
  古跡便覧に、其の所しれずといひて、中陣村雑王権現を夜比良神社となす、猶考ふべし。
    (今、夜比良神社は当社の南西約550mにある社に比定されている。別稿・夜比良神社参照)
*神祇志料(1871)
  今、揖西郡中陣村にあり、産土神とす。蓋し五十猛命を祀る。
*特選神名牒(1876)
  祭神は中臣印達神とあるを以て、中臣氏に由ある神の如く思はるれど、中臣は中臣氏の事にあらずして地名と聞ゆれば、中臣(ナカジン)の地にます印達神と云ふにて五十猛命を祀れるなるべし。
  所在--今、注進状に揖東郡奥佐見村松尾山に鎮座の八幡宮を往古より中臣印達社と称し、守札に中臣印達神社の朱印を捺し来る事も久しき也。
  さて、古老の伝に、中臣印達社は八幡宮旧域内裏手の八幡より古い在地の社とて、旧趾には一坪余の本殿と九坪余の拝殿とおぼしき所あり、以前大破の時八幡宮へ神体を遷し奉りし也。其の地をカナトビと称し来たれりと云へり。
 然るに、播磨揖東郡宮内村魚吹八幡社を中臣印達神社なりと云へりと、更に其の証みえず。
 又播磨鑑(1762)に中陣村にありともあれば今決めがたし。
*播磨国式内神社考(1908?)
  印達神社は中陣にてはなし。揖東郡林田東之宮、今は八幡八幡宮と唱ふ。日本回国の修行者当国回礼の者詣せざるはなし。修行者所持の帳に、神職の者記印す、其に神名中臣印達神社とあり
などがある。

 これらによれば、当社の比定地(論社)として、古くから
 ・揖西郡中陣村        雑王権現(十二所権現ともいう、現中臣印達神社)
 ・揖東郡奥佐見村松尾山  八幡宮(所在地不明)
 ・揖東郡宮内村        魚吹八幡社(現姫路市網干区宮内・現魚吸八幡神社・ウスキハチマン)
 ・揖東郡林田東之宮     八幡八幡宮(現姫路市林田町八幡・現林田八幡宮)
の4社があったという。
 2番目の奥佐見村とは現林田町奥佐見と思われるが、ネット地図でみるかぎり奥佐見に八幡宮はみえず、隣接する林田町八幡に鎮座する八幡八幡宮(林田八幡神社)と混同しているのかもしれない。

 このうち、中陣村の雑王権現というのが当社だが、雑王権現とは神仏習合時代の呼称で、播磨明神記(時期不明)には、
  「中世には両部神道(真言宗系神仏習合思想)の影響をうけ、修験者が社務に関与し、背後の山上にあった十二所権現と称する木像を合祀し、社名を十二所権現または雑王権現と呼んだ」
とあり、明治12年、神仏分離により中臣印達神社に復称したという(日本の神々2)

 2項目以降の八幡宮3社が式内・中臣印達神社であることを証する資料はなく、式内社調査報告(1980)
 ・3社とも揖東郡内にはあるものの、いずれも八幡神社であって、式内社に八幡神社はないから、これは認められない
   (式内社に列する八幡宮は現宇佐神宮と筥崎宮の2社のみで、他に八幡宮と称する式内社はない)
 ・恐らく八幡信仰の盛んな時期に古社の風格をつけるべく用いられた風説であろう
として、これら3社を式内・中臣印達神社とすることを否定し、
 ・やはり、十二所権現・雑王権現と称されてきた揖保町の当社が式内社に間違いはない
という。

 今、当社名・中臣は“ナカトミ”と読むが、地名では“ナカジン”と呼び、上記古資料にいう“中陣村”を指す。
 当地は、和名類聚抄(937)に“揖保郡中臣郷”とあり旧揖保郡揖保村の東部一帯を指したことから、中臣とは平安中期以来の地名といわれ、大日本地名辞典は「(中臣印達神社は)今中臣の中陣明神是也、中陣とは中臣の訛とす」として、中陣とは後世になっての呼称という。

 ナカトミが古くからの呼称とすれば、古代の中臣氏との関係が推測され、兵庫県史は
  「中臣という神名からして、当社は中央の有力氏族中臣氏のこの地方への進出と関連が有り得る」
というが、古代豪族・中臣氏の当地への関与についての資料なく、また同氏と出雲系神・五十猛命との接点もなく、当社名・中臣が地名・ナカジンを指すものとすれば(中臣・ナカジンに坐す印達神社)、中臣氏とは無関係であろう。

 当社の創建年代は不明だが、新抄格勅符抄が引用する大同元年牒(806)に「中臣神 五戸」とあり、祭祀などに用いるための神封が5戸支給されていることから、9世紀初頭以前からの古社であるのは確かといえる。
 ただ、当社に対する神階綬叙記録はない。

※祭神
  五十猛命(イタケル)

 五十猛売命については、書紀8段一書4に
 「(高天原から追放された)スサノオは、その子・五十猛神を率いて新羅の曽尸茂梨(ソシモリ)に降られたが、『この地には居たくない』として出雲国の簸川の上流に帰られた。・・・
 イタケル神は天降られるとき、沢山の樹の種をもって降られたが、韓国には植えず、すべて持ち帰って、筑紫からはじめて大八洲の国中に播き増やし青山にされた。為にイタケル神を有功の神とする」(大意)
とあり、樹木の種を播き拡げられたことから“樹木の神”という。

 当社由緒は、イタケルを中国・朝鮮半島から文化・文明を招来したというが、書紀によるかぎり、そのような事績はなく、古代の我が国と朝鮮半島との交流をイタケルに付会したものであろう。

 なお、当社名を“中臣(に坐す)印達神の社”と読めば、当社本来の祭神は印達神(イダテ、因達・射楯・伊太氐とも記す)なのかもしれない。
 イタテの神とは、播磨国風土記・飾磨郡因達里の条に、
 「因達(イダテ)と称するのは、神功皇后が韓国を平定しようと思って御渡海なされたとき、御船前(先導神)の伊太氐(イダテ)の神が此の処においでになる。故に神の名によって里の名とした」
とあり、また、朝鮮半島からの渡来神ではないかといわれのが、そのイタテの神が粒丘の南麓に鎮座する当社に祀られる由緒は不明

 このイダテ神がイタケルと同体とされるのは、イダテ・イタケルという神名の類似性、両神ともに朝鮮半島(新羅)に関係することからと思われるが、牽強付会の感が強い(別稿・射楯兵主神社参照)

※社殿等
 中臣集落の中、十字路の北側に道をまたぐ形で鳥居が立ち(傍らに“式内 中臣印達神社”との石碑が立つ)、北へ向かって道が延びている。今は周りが住宅地となっているが、嘗ては田畑の中の参道だったと思われる。


中臣山(南西方より) 
 
中臣印達神社・鳥居
 
同・社標

 参道の突き当たりに小さな広場があり、その奥に境内への石段がある。
 石段の上が境内で、登ってすぐに唐破風向拝を有する拝殿(入母屋造・瓦葺)が、その背後、築地塀に囲まれた中に同じく唐破風向拝を有する本殿(入母屋造・瓦葺)がいずれも南面して鎮座する。

 
同・社頭全景
(左手に“粒丘”との石碑が立つ)
 
同・拝殿
 
同・本殿

◎境内社
 本殿域の背後、左手に拝殿と本殿からなる薬司神社が、右手の小高い処に天満宮・木種神社の小祠が鎮座する。

 ・薬司神社(権現さん)--少彦名命 創建不詳
  傍らの案内には、「もと山上に鎮座していた社で、神仏混淆時代には薬司堂と称していた」とある。
  境内社の中でも特別視されているようで、別称を“権現さん”ということから、神仏習合時代に中臣山から勧請された雑王権現を、神仏分離によって中臣印達神社に復帰したとき、別社として奉祀したものであろう。
 ・天満宮--菅原道真
 ・木種神社--素戔鳴尊
   木種神社というからには五十猛命を祀るのが順当だろうが、書紀8段一書5に
  「スサノオが身体の毛を抜いていろんな樹木と成し、『杉と樟は舟を造るのによい、桧は宮を造る木に、槇は国民の寝棺を造るのによい』といわれた」(大意)
とあり、スサノオも又樹木の神・植林の神としての神格ありといえる。

 
薬司社・拝殿

薬司社・本殿 
 
天満宮
 
木種社

 上記以外に、参道東側に厳島神社(市杵嶋比売命・別名:弁才天)が、境内左手にまだ新しい絵馬殿がある。

 
厳島社
 
絵馬殿
 
絵馬殿内陣
 当社背後の中臣山が、播磨国風土記にいう“粒丘”に比定されることから、
 ・石段下の広場の左手に、“粒丘”と刻した小さな石柱が立ち、側面に
   「粒丘は中臣山の古称にして、そのいわれは播磨国風土記に有り」
とある。
 ・また、社殿域の左手の玉垣に接して、“粒坐天照神社”の石柱が立つ(注意しないと見落とす)。 

  式内・粒坐天照神社は、今、たつの市龍野町日山に鎮座する粒坐天照神社(祭神:天照国照彦火明命)に、粒丘は同社背後の的場山に比定されている。
 粒丘が当社裏の権現山か、日山の的場山の何れかは判断できないが、粒坐天照神社が日神信仰に発する神社とすれば、天明神を祀る日山の神社とみるのが順当であろう(別稿・粒坐天照神社参照)

【阿波遲神社】(アハチ)
 延喜式神名帳に、『播磨国揖保郡 阿波遲神社』とある式内社だが、今は独立した神社としては存在せず、式内・中臣印達神社に合祀されているが、その経緯などは不明。

※由緒

 当社の創建由緒・沿革等は不明だが、式内社調査報告によれば、
 ・平安時代には阿波遲神社と称していたが、中世以降、阿波手明神(播磨国神名帳)・阿波庭神社(神祇志料・特選神名牒・播磨鑑)と称したという
 ・特選神名牒(1876)に、
  「按ずるに、龍野志(1740)に其所不知、幡陽事始(?)に中陣村に社跡ありとみゆ、注進状(?)に揖西郡中陣村雑王権現の境内に社跡ありと云へるを合わせ考るに、廃絶とみえたり」
とあり
 「中世以降江戸中期までの間に廃絶され、式内・中臣印達神社に合祀されたと考えられる」
という。

 今の当社には、境内右手に
  「式内 中臣印達神社 阿波庭神社」
と並刻した古い石標が立つのみで(右写真)、案内を含めて阿波遅神社にかかわるものは何もない。 

※祭神
  神社覈録--祭神・在所詳ならず
  播磨鑑---其神慥ならず、今の中陣村の宮是也と云
と祭神不詳というが、、
  揖保郡地誌・兵庫県神社誌には、大鹿島神・大香山戸臣神(オオカグヤマトノオミ)とある。

 大鹿島神とは、その神名からみて鹿島神社の祭神・武甕槌神(タケミカツチ)とおもわれるが、奉祀由緒等は不明。
 大香山戸臣神とは、古事記に
  「スサノオの御子・大年神(オオトシ)が香用比売(カヨヒメ)を娶りて生みし子は大香山戸臣神、次に御年神(ミトシ)
とある神だろうが(書紀にはみえない)、神格等は不明。
 ただ、父神・大年神の御子神には農耕にかかわる神が多いことから、この神も同じ神格を有すると思われる。
 なお、香山を“微光を発する玉や鉄の原石が採れる山”と解して、この神は“農耕祭祀や機具の原料を採る山を神格化したもの”との説もあるが(ネット資料)、これも農耕神の一面といえる。

※論社
【魚吹八幡神社】(ウスキハチマン)
                                                                     2016.05.20参詣
  姫路市網干区宮内
    JR山陽本線・網干駅の南南東約2km。駅西を通る県道27号線を南下、高田交差点より5つめの宮内交差点を東へ入った北側に鎮座する。
  祭神--品陀別命(応神天皇)・息長足比売命(神功皇后)・玉依姫命

※由緒
 社務所で頂いた魚吹八幡宮略記(以下・略記という)には
  「神功皇后摂政3年(202)大陸交渉の際、御艦(御座舟)を当宇須伎津に御滞泊あらせられた際、皇后が神託をお受けになり、この宇須伎津に浄地を開き、一小社を建立し、玉依比売命(神武天皇の御母、海の神様)をお祀りし、敷嶋宮と号した。
 これが当社創建の起源であります。
 後に16代仁徳天皇7年(319)8月、天皇霊夢を御覧になり、御父応神天皇・御祖母神功皇后を当宇須伎津に祀るべし、と仰せになり、紀角宿弥を遣わし三神を合せ祀られ、この地にお鎮まりになりました。
 ここに当地方開闢の産土神として、祭祀信仰が今日まで脈々と受け継ぎ生き続けていることは、御神威の千古にわたる輝きを知ることができる」
とある。

 略記は、神功皇后3年に玉依姫を祀り、仁徳天皇の御代(5世紀前半頃)に品陀別命(ホムタワケ)・神功皇后を合祀したというが、品陀別命即ち応神天皇が八幡神として顕れたのは欽明天皇32年(571)といわれ(宇佐神宮由緒)、仁徳朝に応神天皇を神として祀ったというのはおかしい。
 当社の創建を神功皇后あるいは仁徳天皇に付託するのは、当社に古社としての風格をつけるべく八幡信仰が盛んとなった頃(9世紀以降)に作られた伝承であろう。

 なお、当社創建に関与したとされる紀角宿弥(キノツノスクネ)とは紀国の豪族・紀氏の祖とされる人物で(伝説上の重臣・武内宿弥の5男という)、応神紀3年条・仁徳紀41年条に百済との外交交渉に携わったとあるが、紀氏及び紀角朝臣と当地との関係は不明。

 神功皇后が留まったという宇須伎津について、播磨国風土記・揖保郡石海(イハミ)の里条に
  「宇須伎津と名づけるわけは、神功皇后が韓の国に渡られたとき、御船が宇頭川の泊(トマリ・湊)に宿られた。
 この泊から伊津(イツ)に渡航なされたとき逆風に遭い進むことかできなくなり、船越(フナゴシ)から陸路を運んで御船を越えさせたが、それでもなお進むことができなかった。そこで百姓を追加徴発して御船を引っ張らせた。
 ここに一人の女があって、背負っている子を資(タスケ)として奉ろうとして入江に落ちたので、慌てふためいてイススイた。だから宇須伎(ウスキ)とよぶ。[ウスキは今の言葉ではイススクである]」
とあり(イススク・ウスクは“狼狽える・動揺する”を意味する古語という)

 略記には、
 「魚吹の由来について、播磨国風土記には宇須伎津と見え、本来、当地方は海べりの砂堆積地であった。
 これが神功皇后伝説と相交わり、魚が群れをなして砂を吹き寄せて、土地ができたと云い伝えらている。
 これは洋の東西を問わず語られる神話的方法で、魚を人と置きかえ、、多くの人々が海を埋めて開いていったと解するが自然であって、後世永く伝えるため、魚吹伝説として今日まで云ひ伝えられたもので、網干の地名も、当社祭礼に、漁民が一斉に休漁して網を干して参詣したので網干というようになった、と伝えられている」
とある。

 この宇須伎津について、播磨国風土記新考(1931)
 ・今旭陽村の南端なる大字宮内に津ノ宮あり、又宇須伎津八幡宮又網干八幡と称せしが、今は魚吹八幡神社と称して県社に列せられたり
 ・ウスキを魚吹と書くは無理なれど、はやく峯相記(1343頃)に魚吹八幡と書けり
 ・宇須伎津といひ津ノ宮といふ津は舟の泊りしが故の名にて、その津は宇頭川(現揖保川)河口の東岸にありき
 ・これより南、即今の網干町は当時は海底なりき
として、当社名・魚吹(ウスキ)は宇津川河口東岸にあった宇須伎の津によるもので、往古の網干の地は未だ陸地化していなかったという。

 また続けて
 ・書紀によれば、神功皇后は今の越前国敦賀より穴門を経て筑紫に幸し、天皇の死後、筑紫から新羅を征されたとあるが、
 ・征韓の途上に播磨国は経由しておらず、風土記の記述はこれと異なっている
 ・これは書紀と風土記とを無理に一致させようしたもので採れない(大意)
として、皇后が征韓の途上当地に至ったというのはあり得ないという。

 当社鎮座地は、今は海岸から遠く離れているが、風土記新考がいうように、奈良・平安の頃には海(あるいは海浜)だったようで、揖保川がもたらす土砂で形成された扇状地(砂州)が次第に広がり陸地化するにつれ、何時の頃かに漁業を生業とする人家集落が形成され、そこに漁労民の守護神としての祀られたのが当社の始まりかと思われる。

 これからみて、当社本来の祭神は自然神としての海神であったのが、神功皇后に付託されるにつれて、皇室の遠祖である神武天皇の母神で海神の娘とされる玉依姫に代わったとも推測される。

※社殿等
 宮内交差点を東に入ってすぐに大きな鳥居が立ち、民家にはさまれた参道を進んだ左手、白い築地塀に囲まれた中が境内。

 築地塀の中央に重層の楼門が建つ(昭和54年県指定重要文化財)
 境内に掲げる案内には
  「建築年代は不詳だが、鬼瓦及び丸瓦に貞享3年(1686)の刻銘がある。三間一戸八脚入母屋造楼門で、規模も雄大で、どっしりとした重量感があり、細部手法も優れており、播磨地方における江戸時代前期の代表的な楼門である」
とある。

 
魚吹八幡神社・鳥居
 
同・楼門と築地塀
 
同・楼門

 境内正面に拝殿(入母屋造・瓦葺)が、その奥透塀に囲まれた本殿域中央に本殿(平成22年たつの市指定重要文化財)が南面して鎮座する。
 本殿について、案内には
 「現在の本殿は、生保2年(1645)の再建と伝えられる。桁行三間・梁間三間の入母屋造、正面千鳥破風付き平入り本殿で、屋根銅板葺き。
 播磨地方において江戸時代前期という遺構の少ない時代の建築」
とあるが、瑞垣に囲まれていて詳細の実見は不能。

 
同・拝殿
 
同・本殿

◎境内社
 本殿域の左奥及び社殿域の背後に5社が、境内右手に一社が鎮座する。
 ・武内宿弥社(祭神:武内宿弥)--本殿域の左奥に鎮座
 ・金刀比羅社(大己貴命)--社殿域背後4社の右端
 ・三神社(神日本磐余彦命・瓊々杵命・崇神天皇)--右から2社目
 ・敷嶋神社(摂社、国常立尊・伊弉諾尊・伊弉冊尊・別雷神)--右から3社目(昭和53年県指定重要文化財)
 ・松尾神社(大山咋神・木花開耶比売命)--左端
 ・厳島神社(市寸嶋比売命)--境内右手
 これら攝末社以外に、境内右手に神仏習合時代名残の“鐘楼”と、八幡宮に多い“放生池”(人工の水路)がある。


松尾社 
 
敷嶋社(摂社)
 
三神社

金刀比羅社 
 
武内宿弥社

厳島社 
 
鐘 楼
 
放生池

【八幡神社(林田八幡宮) 
                                                                     2016.04.25参詣
  姫路市林田町八幡
    JR姫新線・觜崎(ハシサキ)駅の北東約4.5km。国道29号線と県道413号線を連絡する県道519号線の八幡神社前バス停北側の山麓に鎮座する。
  祭神--応神天皇・仲哀天皇・神功皇后 

※由緒
 社頭に掲げる案内には
  「社伝によると、寛平5年(893)に口佐見・奥佐見・林谷・林構・松山・山田・大堤の36名が、山城国石清水八幡宮から当地・鈴が峯の山麓に分霊を勧請したという。
 36名の子孫は小烏帽子と呼ばれ、年2回遙拝式を行うなど当社の神事に深く関わってきた。(以下略)
とあるが、
 ネット資料(兵庫県神社庁)によれば、
  「寛平5年(893)5月、林田庄内(現林田町)の有志36名は、国土安穏・子孫繁栄の為、神祇に祈らんとする念が強かった。
 その時、今の鎮座地の峯に鈴の鳴る音が聞こえ、東の峯に鉾が立ち、西の峯に白羽の矢が立った。
 人々は、これを神を祀るべき地の瑞兆として評議一決し、山城国石清水八幡宮の分霊を勧請し奉るために、この社地より南十町の所に湧出する泉(塩阜)に沐浴潔斎して山城国男山に上り、八幡宮の分霊を勧請供奉して還った。時に寛平5年8月15日である。
 同月28日、社地を定め弊物を捧げ、再び9月2日に三村左近藤兼久以下35人列座して神酒を捧げ、同月8日仮殿を設けて遷し奉る。是が当社の創立である」
という。

 この由緒をみるかぎり、当社は石清水八幡宮(京都・八幡市、860頃創建)から勧請された神社であって、式内社に列する八幡宮が宇佐・筥崎の2社以外にみえないことから(勧請元である石清水八幡宮も式外社)、当初からの八幡宮である当社を式内社とするのには疑問がある。

 当社を式内・中臣印達神社に比定するのは播磨国式内神社考(明治末)で、そこには
 ・印達神社は中陣にてはなし。揖保郡林田東之宮、今は八幡八幡宮と唱ふ。日本廻国の修行者当国廻礼の者詣せざるはなし、修行者所持の帳に神職の者記す、其に神名中臣印達神社とあり
 ・播磨揖保郡林田鎮座、中臣印達神社式内大社 本社桧皮葺 祭神品陀和気命 寛平2癸丑(5年の誤記)勧請
とあり(式内社調査報告)、明治の頃まで、当社を以て式内・中臣印達神社としていたらしいが、創建由緒等からみて中臣印達神社との接点はない。
 なお、今の本社・境内社に中臣印達神社の影は一切みえない。

※社殿等
 鳥居を入り楼門を過ぎ、長めの石段を登った上が境内。
 石段の直上に唐破風向拝を有する拝殿(入母屋造・瓦葺)が、その奥、弊殿につづいて本殿(入母屋造・瓦葺)が南面して鎮座する。

 
八幡神社・鳥居
 
同・楼門

同・石段 

同・拝殿 
 
同・本殿

◎境内社
 社殿背後の高所に境内社2社が、境内右手に合祀殿が鎮座する。
 ・高所--右:高良神社(武内宿弥)
        左:松尾神社
 ・合祀殿--聖神社・天神社・稲荷神社3社合祀


境内社への石段
 
高良神社

松尾神社
 
合祀殿

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