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高 岳 神 社
兵庫県姫路市西今宿
祭神--応神天皇他10座
                                                       2016.03.23参詣

 延喜式神名帳に、『播磨国餝磨郡 高岳神社』とある式内社。
 社名は“タカオカ”と読む。

 JR山陽本線・姫路駅から分岐する姫新線・播磨高岡駅の北約600m、振袖山(蛤山H=125m)の南東麓に鎮座する。
 駅北の国道2号線を右(東)へ、次の角を左折(北へ)、県道414号線を北上した右手(東側)に「高岳神社」との案内表示が立ち、その反対側に境内への入口がある。

※由緒
 社頭の石碑には、
  「当社は延喜式内の社にして、国内神名帳大神二十四社のうち八所明神の一なる当国第五の宮にして、旧安室郷の総氏神なり。
 時の武将世々の国司領主の尊崇厚く、延暦元年(788)坂上田村麿幣帛を奉り、寛元年中(1243--47)鎌倉幕府北条経時、佐貫十郎を遣わして祈雨祭を行い、天文元年(1532)赤松政則本殿を修復して草上の地五町を献じ、寛永18年(1235)姫路城主松平下総守神供料を寄付し、以降累代の城主之を安堵とす。

 さて、初め当社は新在家八畳岩山(八丈岩山・H=172m)に祀られしを、天長3年(826)9月9日に此の蛤山に奉遷す。此所は和名抄に草上郷とある所にして、後安室郷となれり。
 境内には巨大なる岩石多く、殊に社殿の背後にそびゆるもの最も怪奇なり、昔土地の人此岩上にて蛤を拾い、福徳長寿の幸を得しかば、名付けて蛤岩と称す。当社の宝物に蛤の化石今に伝われり。
 明治7年(1874)郷社に列し、昭和7年(1932)県社に昇格す」
とある。
 当社創建年代について、由緒に延暦元年坂上田村麻呂奉幣というから、8世紀中葉にはあったのかとも思われるが、創建を田村麻呂に付会して語る神社は多く信用できない。
 また、当社に関する封戸記録・神階樹叙記録等はなく、公的記録からの推測はできない。

 当社について、近世の古資料には、
*神名帳考証(1813)
   [姓氏録]高岳首 饒速日命十五世孫物部麁鹿火(モノノベノアラカイ)大連之後也 
   姫路の東魚橋之山上餝磨川辺歟
*神社覈録(1870)
   祭神・高岳氏祖神歟  餝磨郡安室郷今宿村に在す  当国五宮と称す
   姓氏録に和泉国神別・高岳首 饒速日命十五世孫物部麁鹿火大連之後也、
    河内国諸蕃・高丘宿弥 百済国公族 大夫高侯之後広陵高穆也とみゆ
    されば神別諸蕃の分め知れがたし 高丘宿弥氏は国史に見えたり
*神祇志料(1871)
   今飾西郡草上郷新在家村高岳山に在り、高岳大明神と云ふ 即播磨第五宮也
とはあるものの、いずれも創建由緒・年代については記していない。

 また日本の神々2(1984)には、
 ・社伝--はじめ辛室郷(風土記の韓室里)新在家村の高岳(八丈岩山)にあったのを淳和天皇・天長3年(826)に蛤山に遷し、社殿を創祀した
 ・播磨明神記(1976)--当社大明神は天長3年当山頂上の八畳山に一人の化童出現し、予言して曰く「我は是れ高岳の神也・・・宜しく此の地の祭るべし云々。更に、現社地の東3丁にある古宮が創祀地で、後数十年して蛤山に移った
 ・播磨鑑(1762)--古への旧地・草上郡新在家村の西・八帖山の座也。播磨五の宮とする
などから、当社は、はじめ蛤山の東約2kmにある八丈岩山を神籬として山麓に社を建てたのが創祀で、のちに現在地へ遷ったものと考えられるが、遷座の年代は不明である。
とある(大略)

 当社が属したという草上郷とは飾磨郡にあった地で、風土記に
  「草上(クサガミ)というわけは、韓人の山村たちの先祖・柞巨智賀那(ナラノコチノカナ)が此の地を請いうけて開墾したとき、一つの草叢がありひどく臭かった。故に草上とよぶ」
とあり、奈良時代、主要街道に置かれた宿駅のひとつ草上駅家(ウマヤ)が置かれるなど交通の要衝という。
 その位置について、行矢射楯兵主神社(姫路市辻井)から当社に至る途中でみた「辻井地区史蹟案内図」によれば、当社の北北東約700mの辺り(辻井3丁目内か)
  「草上駅家(うまや) 奈良時代山陽道の中継地(馬30匹) 草上の地名は風土記にある安室村のこと」
とあり、当社の近くにあった駅家で、草上駅家には官務をを帯びて往来する官人のために馬30匹が常備されていたらしい。

 風土記に登場する柞巨智賀那に関連して、欽明天皇元年(540)2月条に、
  「百済の人・己知部(コチフ)が帰化してきた。倭国の添上郡山村に住まわせた。今の山村の己知部の先祖である」
とあり、注記には、柞巨智賀那とはその一族で、奈良遷都に伴って移住させられたものかという。

 社伝が注記する風土記・韓室(カラムロ)の里とは、播磨国風土記・飾磨郡段に
  「韓室(カラムロ)と称するのは、韓室首宝(カラムロノオビト タカラ)らの先祖、家が大変富み豊かで韓室(朝鮮風住居)を造った。故に韓室とよぶ」
とあり、この地も渡来系氏族が関係している。

 神社覈録は当社祭神は“髙岳氏の祖神か”というが、新撰姓氏録に
  河内国諸蕃(漢) 高丘宿弥 百済国公族大夫高侯之後 広陵高穆より出ず
との氏族があり、百済国系渡来氏族であるこの氏族の関与が推測されるが、
  和泉国神別 高岳首(タカオカオビト) 饒速日命十五世孫物部麁鹿火大連の後也
との物部氏系氏族もあり、即断はできないが、当社の辺りに渡来系氏族に関わる伝承が多々みられることから、百済系高丘宿弥に連なる氏族とみるのが妥当かと思われる。

 なお、高岳首の祖とされる物部麁鹿火(モノノベアラカヒ)大連は、先代旧事本紀(天孫本紀、9世紀前葉)
 「饒速日命十四世孫(姓氏録とは一世代異なる) 物部麁鹿火連公は、匂金橋宮で天下を治められた安閑天皇の御世(6世紀中葉)、大連となって、石上神宮を祀られた」
とある人物という(継体紀には、物部大連麁鹿火が筑紫国の磐井の反乱を平定したとある)

 これらからみると、当社は八丈岩山を神が降臨する神奈備として崇拝する人々が、その里宮として創始したのが始まりで、何時の頃かに蛤山麓の現在地に遷ったものと思われる(遷座時期か淳和朝であった確証はない)
 なお社伝は、当社最初の鎮座地を八丈山というが、上記・辻井地区史蹟案内図によれば、八丈山頂上から南西へ続く尾根の尖端・鳶ヶ巣に「射楯神・高岳神が祀られていた」とあり、その辺りとする伝承があったと思われる。

※祭神
 今、当社祭神は11座
  応神天皇・仲哀天皇・崇道天皇・事代主命・猿田彦神・住吉大神・伊豫親王・藤原夫人・宇賀魂命・市杵島姫命・水分神
とあり、八幡神(応神・仲哀天皇)、御霊神(崇道天皇・伊豫親王・藤原夫人)・著名神(事代主・猿田彦・住吉大神)食物神(宇賀魂命)・宗像女神(市杵島姫)・水神(水分神)など、いろんな神々の寄せ集めとの印象が強い。

 これらの神々について、古老伝説によれば、当初は応神天皇以下5柱を祀り、後世になって住吉大神以下3柱を合祀し、更に明治43年(1910)に宇賀魂命以下3柱を合祀したというが(式内社調査報告・1983)、その鎮座由緒などは不明。

 しかし、延喜式に祭神一座とあることからみれば、本来の祭神は別神だったと思われ、日本の神々は
 ・神社東方に白鳳期の寺院跡を示す礎石があり、発掘調査で弥生住居跡・寺院建物跡・井戸などが発見され、
 ・蛤山には蛤山古墳群が、西に飾西東山遺跡や東山古墳群があるが、
 ・これらの遺跡で生活した人々と当社との関わりは不明だが、祭神も最初はこの地の神であったとおもわれる。
という。

 その在地の神が如何なる神かは不詳だが、当社が渡来系氏族奉祀の神社とすれば、上記・高岳氏(高丘宿弥系)の祖神かと思われる。


※社殿等
 県道414号線西側(左側)に2本の石柱が立ち、その奥の緩やかな石段の上に小さな広場があり、その右手、高い石垣の上が境内。
 広場の右手に境内に入る石段があり(左に回り込んでも行ける)、狭い境内いっぱいに大きな拝殿(入母屋造・銅板葺)が、その奥、斜面に沿ってせりあがる形で弊殿と本殿(流造・銅板葺)が建つが、樹木に遮られ全貌の見えない。

 
高岳神社・入口
 
同・拝殿

同・本殿 

 なお、入口奥石段下の右手に稲荷社の小祠が、広場から境内への石段途中に金刀比羅社の小祠がある。

◎蛤岩(磐座)
 当社は全体が大きな岩盤上に立地するようで、社殿周りにも岩盤が露出している。

 道路の反対側に立つ「蛤岩由緒石碑」によれば、
 「往古の昔、瀬戸内海が書写山の麓まで海に満ちていた。
 高岳神社の直ぐ北の山頂部に、高さ約80mにも及ぶ巨岩があり、蛤岩と呼ばれている。これは土地の人が、この岩の上の窪みの何で蛤の親子化石を拾い、福徳長寿の幸を得たので、このように名付けられたそうである。
 子孫繁栄福徳長寿の大神・高岳神社の御神体として奉遷鎮座、聖域の中心と奉り、高岳・安室郷の総氏神として崇められていました」
とある。 

 拝殿から右に回り込んだ斜面に幾つかの巨石(磐座)があるが、足場が斜面で且つ樹木が密集しているため移動範囲が限られ、その全貌は一望できない。
 最奥に巨石(下右写真)が聳えているが、頂上部が枝に遮られてよくみえず確認不能。
 資料によれば、
  「特に神殿の背後に聳ゆる巨岩は荘厳を極め、鉄門・玉垣を以て囲み、蛤岩と称して尊厳を保持している」
とあるから(式内社調査報告)、蛤岩はこの岩ではないらしいが、境内から鉄門・玉垣に囲まれたそれらしき巨岩は確認できない。

     

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