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夜比良神社
兵庫県たつの市揖保町揖保上
祭神--国作大己貴神(大国主命)
                                                                   2016.05.20参詣

 延喜式神名帳に、『播磨国揖保郡 夜比良神社』とある式内社。社名は“ヤヒラ”と読む。

 JR山陽本線・竜野駅の北東約2km弱。駅北の国道2号線を東進、揖保川大橋を渡って直ぐを左折北上し、集落を過ぎた先の権現山(山というより、樹木に覆われた低い丘)南麓に鎮座する。

※由緒
 境内の案内には、
 「夜比良神社の創建は、千二百年以前と伝えられています。
 御祭神の大己貴命は、他に大国主命・大汝命と多くの別名で呼ばれ、出雲大社の御祭神と同神です。はじめ出雲の国を開拓・平定され、因幡国を経て播磨国に入り、揖保川に沿って南下され、粒丘(イイボノオカ)に足を留められました。そして、この地域を開き、人々をいつくしみ、災禍を祓い除かれました。
 これにより、揖保川流域の北を加護する播磨国一宮の伊和神社を『北方殿』と呼ぶのに対して、夜比良神社を『南方殿』といいます。
 また、中世には下揖保荘の総鎮守として、播磨国の豪族・赤松氏の尊崇をあつめ、『新式は赤松政村これを定む』と伝えられています」
とある。

 案内に、大己貴命が出雲から播磨に入り粒丘に足を留めたとあるが、粒丘について、播磨国風土記には
 ・揖保の里  この里は粒丘に寄り添っている。故に山によって里の名とする。
 ・粒丘とよぶわけは、天日槍命が韓国から渡ってきて宇頭川下流の川口に着いて、宿所を葦原志挙乎命(アシハラシコオ・大己貴の別名)に『汝はこの国の主だから、吾の泊まるところを与えてほしい』と乞われた。そこで志挙は海上にいることを許した。
 その時、客神(マレビトカミ・天日槍命)は剣を以て海水を掻き回してこれに宿った。
 すなわち主の神(志挙乎)は、客神の盛んな行為に恐れかしこんで、客神より先に国を占めようと思い、巡り上って粒丘まできて、急いで食事をした。すると口から飯粒(メシツブ)が落ちた。だから粒丘とよぶ。
とある。
 この粒丘が何処を指すのかは不詳だが、当社の北約500mの揖保川東岸にある小山(中臣山)といわれ、その南麓には式内・中臣印達神社(祭神:五十猛命:イタケル、スサノオの御子で当社祭神・オオナムチの兄弟神)が鎮座している。

 出雲族は、古く出雲を出て南下し播磨にも進出したといわれることから、出雲の大己貴信仰が播磨国にも浸透していたのは確かで、それは、揖保川の下流部に鎮座する当社と式内・中臣印達神社、上流部に鎮座し播磨国一宮である伊和神社(式内・伊和坐大名持御魂神社・名神大)の祭神がいずれも出雲系の神であることからも推測できる。

 当社は、古くは“八牧明神”・“八枚明神”・“八尋社”などと記され、ヤヒラ・ヤヒロと呼ばれていたが、社名ヤヒラについて、
 「上古、一夜のうちに権現山(当社の北に接する丘)西北隅の揖保川流水の突当角にある大岩の上に、白旗が立てられ、その旗の長さが八尋あった。人々不思議に思って之を見ると、山上に於いて『吾は伊和大神なり』との高唱が聞こえた」
との伝承があり、その白旗の長さ・ヤヒロが訛ったヤヒラを社名としたもので、
 古老の言によれば、神社のある所に宮の脇との、その北、権現山の麓に夜比良との小字名があったという。

 絵馬殿に「播州音頭 夜比良神社物語」との扁額が掲げられている(平成26年)
 一部を抄記すれば
 ・夜比良神社の建立は 平安の御世 弥栄の 編纂された延喜式に その名はすでに残りたる
 ・夜比良神社の ご祭神 幾多のお名前あられども 神話で知られた大黒さま 大国主の命なり
 ・数百年の その昔 揖保の流れが荒れ狂い 川の流れは変われども 崇める姿は変わりなし
 ・夜比良神社を南方殿 伊和の神社を北方殿 故事伝統を紐解けば 恐れ多くも神話あり
 ・揖保の流れを神様が 船に乗られて下りられて 伊和の里から着かれたる 南治めが今の場所
 ・上古の昔 一夜にて 大岩石上に八尋ある白旗立ちし 見に行くと 伊和大神の声聞こえ
                             夜比良神社の その社名 これに始まる 伝えあり
などとあり面白い。

 当社は、創建時期は約1,200年前・平安前期というが、当社に対する神階・神封綬叙記録など、創建時期を推測できる公的記録はない。

※祭神
  国作大己貴命(クニツクリオオナムチ)

 大己貴に“国作”を冠するのは、
 ・出雲風土記にいう“所造天下大神大穴持命”(天の下造らしし大神・大穴持命)を承けたものと思われること
 ・播磨国風土記にいう葦原志挙乎命(大己貴)が、“この国の主(首長)たる方”と呼ばれていること
などから、在地の大神としての大己貴を祀ったものであろう。

 ただ、
 ・国造りの大神といえば、在地の神・伊和大神も播磨国風土記に「国を作り堅めた伊和大神」とあること(宍禾郡条)
 ・権現山に顕現した神が「吾は伊和大神なり」と名乗っていること(土地の伝承)
からみると、本来は伊和大神であったものが、より著名な大己貴命に変わったのかもしれない。

※社殿等
 南からの道の突き当たり、鎮守の森に埋もれるように白い鳥居が立ち、その左前に「式内 夜比良神社」との石標が立つ。
 高い木々に挟まれて石灯籠が並ぶ参道を進んだ先が境内で、その正面に拝殿(入母屋造・瓦葺)が、その背後、小さな鳥居をもつ中門(四脚門)と透塀で区画された本殿域の中央に、本殿(一間社流造・銅板葺)が南面して鎮座する。

 
夜比良神社・鎮守の森
(中央左に白く鳥居がみえる)
 
夜比良神社・鳥居
 
同・社標
 
同・拝殿
 
同・本殿
 
同・本殿域正面

◎末社
 境内右手奥、朱塗りの稲荷鳥居列の奥、簡単な造りの割り拝殿の奥に小祠2宇(一間社流造・銅板葺)が鎮座する。
 傍らの「改築記念」との石碑には、「稲荷神社 建速神社」とあり、右が稲荷社、左が建速社であろう。
 建速社とは聞き慣れぬ社名で、その祭神名は不明。

 
末社殿・正面
 
末社・建速社

末社・稲荷社

 境内入っての左手に、まだ新しい絵馬殿があり、20数枚ほどの絵馬(絵馬そのものは古いもので、色落ちがみえる)と播州音頭の扁額が掲げられている。

 
絵馬殿

絵 馬 
 
播州音頭・扁額

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