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橋姫神社(宇治)
京都府宇治市宇治蓮華
祭神−−瀬織津姫命・住吉三神
                                                           2009.12.17参詣

 宇治橋西詰から県神社(アガタ)への参道を南へ進んだ左手にある小社。素朴な木製の神明鳥居を入った狭い境内右手の、簡単な覆屋のなかに一間社流造の橋姫神社(左)、住吉造の住吉神社(右)の小祠が、それぞれ北面して鎮座する。


橋姫神社・鳥居

橋姫社

住吉社

※祭神
 主祭神・瀬織津姫(セオリツヒメ)とは、世の中の罪穢れを祓い流しやるとされる祓戸4神の一(女神)で、六月晦大祓(ムツキノツゴモリノオオハラヘ)の祝詞には、
 「天つ神・国つ神が祓い清めた全ての罪穢れを、高山短山の頂上から渓流となって流れ落ちる速川の瀬においでになるセオリツヒメという神が、大海原に持ち出されるであろう」
とある。
 罪穢れは水によって祓い清められると考えられていた古代、水による浄化力を神格化した女神といえる。
 (六月晦大祓−−旧暦6月と12月の晦日に朱雀門前でおこなわれた儀式で、半年の間に生じた諸々の罪科を祓いやったという)
 今、同じく水に係わる神である住吉三神(ソコツツノオ・ナカツツノオ・ウワツツノオ) が合祀されている。宇治川を生業(ナリワイ)の場とする人々が勧請したのだろうという。

※創建由緒
 大化2年(646、大化改新の年)に宇治橋が架けられたとき、上流の桜谷に祀られていたセオリツヒメを勧請したのが始まりで、当初は宇治橋の中ほどに張り出した「三の間」に祀られていた。その後、宇治橋西詰に遷るが明治3年(1870)の洪水によって流失、明治9年(1876)10月現在地に遷ったという。

 この由緒からいうと、川・水の女神を橋の守護神として祀ったことになるが、セオリツヒメがもつ罪穢れを祓い清めるという神格は、邪霊・悪神の排除にも通じることから、此界と異界の境である橋を通る人々の安全を守護する道祖神的神格をもつ、とみることができる。

 古く、外と連なる主要街路の四辻・村境・川・そこに架かる橋・峠の上などは、聖と俗・異界と此界の接点=境界であり、人・物と共に神霊・精霊はもとより邪霊・悪霊・疫神なども行き来するとされ、そこにはカミが祀られていた(大阪近傍ではほとんど見かけないが、峠とか橋の袂・古くからの村境などに祀られている道祖神や地蔵像がこれに当たる)
 境界のカミは、それが祀られることによって、道行く人々の安全を守るとともに、外界(異界)から侵入しようとする邪霊・悪霊を遮ってくれると考えられていた。
 しかし、本居宣長が「カミとは、普通ではない優れた力を秘め、人々に畏れの感情を抱かせるような存在で、そこには善いカミ・悪いカミの区別はない」(古事記伝・大意)というように、善悪両義性をもって現れるという(神のもつ二面性を、和魂・荒魂ともいう)

 境界のカミも、邪霊・悪神を遮り、旅人を守ってくれる存在であるとともに、時によっては、人々を殺傷するという恐ろしい姿で現れることがあった。
 為に、境界を過ぎゆく旅人は草花を供えて旅の安全を祈るとともに、人々は荒ぶる神霊・荒魂を宥めるために祀りをおこなったという。
 例えば、筑後国風土記・逸文には
 「筑後国と筑前国の境の山に険しくて狭い坂があった。昔、この坂の上に麁猛神(アラブルカミ)がいて、往来の人々の半数を取り殺したため、人々は困窮していた。
 そこで、筑紫君と肥君らが占って、筑紫君らの祖・甕依姫(ミカヨリヒメ)を巫祝(フシュク)として祀らせたら、それ以後は、道行く人々がカミに害されることはなくなった」(大意)
とあり、ここには、道行く人々の大半を取り殺す荒魂として顕れた境界のカミが、祀られることによって和魂へと変わったことが記されている。

 宇治橋に祀られたセオリツヒメは、一般には“宇治の橋姫”として知られるが、これも境界である橋の守護神として旅人を守るとともに、人を取り殺す恐ろしい神格をも合わせもつ女神でもあった。

※橋姫伝承
 宇治の橋姫の原姿は境界のカミ・女神だが、それを引き継いだものとして、山城国風土記逸文に
 「宇治の橋姫は懐妊して和布(ワカメ)が食べたくなった。夫が和布をとりに海岸に行き笛を吹いていると、それを感心した竜神が婿として連れて行ってしまった。
 女が夫を訪ねて海辺に行くと、竜宮の食べ物を嫌った夫がやってきてこの世の食事を始めたので、橋姫は戻ってくるように話しをした。この時は連れ戻せなかったが、その後帰ってきて橋姫と一緒に暮らした」(大意)
とか、
 平安末期の歌人・藤原顕昭(1130--1209?)の著・袖中抄に記す
 「宇治の橋姫とは宇治橋の下におわす姫大明神と申す女神だが、その女神の処へ離宮の大神(宇治上社の神)が毎夜通うという。その帰られるときの印として、明け方に浪がおびただしく立つと伝えている」(大意)
との伝承などがある。

 これらは、未だに神的なものを引き継いでいるが、これが民間説話になると、
 「昔、宇治川の辺に夫婦が住んでいた。男が財を求めて竜宮へ行ったまま帰らなかったので、女が悲しんで、宇治橋の袂で死んで神となった。よって橋守明神といった」(山城名勝志・大意)
 「宇治橋の橋姫の宮の前を、嫁入りする時は通らず、縁を結ぶには橋の下を舟で渡る。橋を渡れば、橋姫の嫉みにより夫婦の末は全うできない」(出来斎京土産・大意)
など、人間くささが濃くなってくる。

 これが平安中期以降になると、一転してロマン漂う歌枕と化して和歌あるいは上代文学に取りこまれ、例えば
  「さむしろに 衣かたしき今宵もや 我を待つらむ宇治の橋姫」(古今集・読人不知)
  「さむしろや 待つ夜の秋の風ふけて 月をかたしく宇治の橋姫」(新古今・藤原定家)
  「橋姫の かたしき衣さむしろに 待つ夜むなしき宇治の曙」(新古今・後鳥羽上皇)
  「網代木に いさよふ浪の音ふけて ひとりや寝ぬる 宇治の橋姫」(新古今・慈円)
などのように、“人(恋人あるいは夫)を待つ女”として詠われるようになる。
 これら宇治あるいは宇治の橋姫を取りこんだのが源氏物語・宇治十帖といわれ、物語が“橋姫”に始まり“夢浮橋”(=宇治橋の比喩)に終わるように宇治が舞台で、光源氏の子・薫君と宇治に住む大姫・中姫・浮舟らが織りなす物語となっている。

 これらは宇治の橋姫がもつ和魂的神格を元にしたものといえるが、半面、嫉妬に狂う鬼女としての橋姫がある。
 嫉妬に狂う鬼女としての橋姫の原形は、源平盛衰記(剣の巻)に収められている物語、
「嵯峨天皇の御代(809--25)、嫉妬にとらわれた公卿の娘が、貴船神社に7日間籠もり、『妬ましい女を取り殺したいので、私を生きながら鬼神に変えてくれ』と祈った。鬼神は哀れに思って、『鬼になりたければ、姿を替えて宇治川に21日間浸れ』と告げた。
 都に帰った女は、髪を五つにわけて5本の角にし、顔に朱をさし身体には丹を塗り、逆さに被った鉄輪(五徳)の3本の足に結びつけた松明を燃やし、両端に火を付けた松明を口のくわえ、真夜中のころに宇治川まで走って21日間浸り、終に生きながらの鬼女となった。これが宇治の橋姫である。
 橋姫は、妬んでいた女・その縁者・相手の男の親類を殺し、終いには誰彼なく次々と殺していったので、京中の人々は丑の刻以降になると外出せず、訪れた人も家に入れなくなった」(大略)
というもので、この後に、渡辺の綱が一条戻橋で橋姫と出会い、その腕を切り取ったという話が続く。
 嫉妬に狂う女性が、鬼となって相手を取り殺すという恐ろしい物語である。

 宇治橋の袂に祀られる橋姫について、柳田国男は
 「嫉みの神としては山城宇治の橋姫が最も古く且つ有名である」
として、宇治の橋姫にかかわる上記伝承を略記した後、
 「何故に、この類の気質のある神を橋の辺りに祭ったかというと、敵であれ鬼であれ、外からやってくる有害な者に対して、十分にその特色を発揮してもらいたいためである。
 街道の中でも坂とか橋とかはことに避けて他を通ることのできぬ地点であるゆえに、人間の武士が切処(セッショ)として此処で防戦したと同じく、境を守るべき神をも坂または橋の一端に奉安したのである(所謂・塞の神)
 しかも一方においては、境の内に住む人民が出て行く時には何らの障碍のないように、土地の者は平生の崇敬を怠らなかったので、そこで橋姫という神が怒れば人の命を取り、悦べば世に稀なる財宝を与えるというような、両面両極端の性質を具えているように考えられるに至ったのである」(「一つ目小僧その他」所収「橋姫」・1918)
という。

 上記源平盛衰記の説話を元にして作られたのが能・鉄輪(カナワ)で、
 「後妻に夫をとられて嫉妬に駆られた女性が、貴船明神に丑の刻詣りを重ねて鬼女となり、後妻と夫を取り殺そうとするが、それに気づいた陰陽師・安倍清明の調伏祈祷に敗れ、『また会うときもあるだろう』との言葉を残して姿を消す」
というのが粗筋。
 能では、たとえ怨霊となって登場したシテ(主役)であっても、ワキ(僧の場合が多い)の慰撫・祈祷を受けて、最後には成仏して退場するのが普通だが、鉄輪の鬼女は成仏していない。女性の怖ろしさとは、それだけしつこいのかもしれない。

 舞台では、火のついた鉄輪を頭に戴き、赤い衣装を着て鬼女となった前妻が、夫の形代(カタシロ−身代わり)である烏帽子に向かって杖を振り上げて捨てられた怨みを告げ、後妻の形代である鬘を掴んで打ち据える所作があるというが、未だ実見していない。
 能面に「橋姫」という面がある。主として鉄輪のシテ(主役=橋姫)に使われる女面で、嫉妬に狂う女性の怖ろしさを生々しく表現している。


能・鉄輪(後妻を打ち据える鬼女)

能面・橋姫

能面・橋姫

※宇治橋
 橋姫神社の祭神・セオリツヒメが祀られたとされる宇治橋は、“瀬田の唐橋”(瀬田川・大津市)・“山崎橋”(淀川・大山崎〜橋本間)とともに日本3古橋の一つとされる。

 今の宇治橋は平成8年(1996)に架け替えられたもので、延長155.4m・幅23m。橋体はコンクリートだが、擬宝珠を冠した高欄などは木製(檜)による伝統的な形状を留めている。橋の中ほど上流側に張り出して“三の間”がある。古く橋姫神社が鎮座していた場所で、豊臣秀吉がここから茶道に使う水を汲みあげたという。

宇治橋
宇治橋(上流側)
宇治橋・三の間
宇治橋・三の間
 最初の宇治橋架橋について、宇治川右岸にある橋寺放生院内にある“宇治橋断碑”(下部3/4は後補、碑文は、帝王編年記−南北朝時代−により復元)に、
 「宇治川の水流の速いこと、川を渡ろうとする人達がたじろいで市のように混雑している。無理に渡ろうとして命を失った人や馬の数は数え切れない。
 ここに一人の僧が現れ、名を道登という。山背の恵満の家の出で、大化二年(646)この橋を構え立て、人畜を済度(川を渡すことで衆生を救う)した。
 小さな善行だが、大願を発してこの橋の完成に結集し、成果を彼岸で見届けよう。仏教に帰依する皆の人達、普くこの願いに賛同し、命のあるうちに以上の苦縁を導こう」
とある。
 いま断碑は、橋寺放生院境内左手の鞘堂内に青いシートに包まれて保管されている(お寺に申し出れば実見できるらしい)。 

宇治橋断碑・鞘堂(橋寺放生院内)

 古代には、架橋・道の築造・改修などが菩薩道の一つとして、僧侶の手によることが多く(その周囲には、多くの人々の寄進・協力があった)、宇治橋もそのひとつであろう。
 なお僧・道登(生没年不詳)は、書紀・孝徳天皇大化元年(645)8月8日条に、「沙門・・・道登・・・を十師とした」との記録があり実在が証されている。

 一方、続日本紀・文武天皇4年(700)条には、
 「道昭和尚・・・後に和尚は天下を周遊して、路の傍に井戸を掘り、渡し場の船を造り、橋を架けたりした。山背国の宇治橋は、和尚が初めて造ったものである」
とあり、ここでは最初の架橋者を僧・道昭(629--700)としている。

 道登・道昭いずれが最初の架橋者か、判定する資料は断碑以外には見あたらない。若き日の道昭が道登の架橋に協力したとも考えられるが、大化2年の道昭は18才であり、ちょっと若すぎる。
 木橋の寿命が長くても50年ほどとすれば、大化2年に道登が架橋した橋が壊れ、その後に道昭が架け替えたのではないかともいう(「京都の歴史を足元からさぐる」森浩一・2009)

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