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摂津(住吉郡)の式内社/赤留比売神社
杭全神社境外末社
大阪市平野区平野東2-10
祭神−赤留比売命(アカルヒメ)

 延喜式神名帳に「摂津国住吉郡 赤留比売神社」とある式内社だが(場所は、少しだが移動しているらしい)、かつて住吉大社の境外末社だった時期を経て、今は杭全神社の境外末社となっている(大正3年1914)

 地下鉄谷町線・平野駅の東約700m(JR関西線・加美駅の南西約300m)、周りを住宅地に囲まれた平野公園に隣接する。
 当地は、戦国時代から近世にかけて繁栄した環濠自治集落・平野郷の東端に位置するが、元は平野郷の西側にあった木戸口・瀬戸口門から南西に伸びる住吉堺道沿いの流町字中山(長山?)にあり、江戸前期の寛文2年(1662)に現在地に遷座したという。当地一帯が秀吉の正妻・北政所の所領であったときの会所跡という。すぐ北に、八尾・久宝寺方面への木戸口・樋尻口門があった。
 地元では『三十歩神社』(サンジュウブ)の呼称が通りやすいという。

※祭神
 当社の創建について、社頭に掲げる由緒には
 『当社の祭神アカルヒメは新羅から来た女神でアメノヒホコの妻と伝える』
とあるが、アカルヒメの渡来について、応神記に
 「新羅国・阿倶沼(アグヌマ)の畔で昼寝していた一人の女の陰部を太陽の光が射し、妊った女は赤い玉を産んだ。これを見ていた一人の男が赤玉を貰いうけたが、新羅の王子・アメノヒホコがこの赤玉を手に入れた。ヒホコは、この赤玉を持ち帰って床に置いていたら美しい乙女と化し、ヒホコはこの乙女の結婚した。
 ある時、心奢ったヒホコが妻を罵ると、妻は『吾が祖(オヤ)の国に行く』といって小舟に乗って渡来し、難波に留まった」(大意)
 とあり、
 「これは難波の比売許曽神社(ヒメコソ)に坐すアカルヒメという神である」
との注記がある。

 通常、アカルヒメが祀られた“難波のヒメコソ神社”は東成区にある比売許曽神社とされているが、何故か、比売許曽神社の祭神はアカルヒメではなく、記紀神話に登場するシタテルヒメとなっている(別項・比売許曽神社参照)

 このアカルヒメとシタテルヒメとの関係は、同じ女神とはいえ、アカルヒメは渡来女神でシタテルヒメはわが国古来の女神だから、元々は異なる神のはずだが、
 「アカルヒメは“明る姫”の意と考えられるから、シタテルヒメ(下を照らす姫)に通じ、異名同神とみて差し支えない」
との説もある(式内社調査報告1977)。しかし、アカルヒメ=明る姫とは語呂合わせに近い。

 当社が赤留比売神社と称することは、当社こそが“難波の比売許曽神社”であると主張するものといえる。 

赤留比売神社・拝殿

赤留比売神社・本殿

 これらは、アカルヒメの神格を渡来神伝承に求めたものだが、元来は、農耕儀礼に奉祀した巫女が祀る田の神であったが、古く、新羅の使節を当社の辺りで饗応する間に、アカルヒメは“新羅で赤玉が化した神である”という伝承が作られたとの説もある(式内社調査報告1977)

 かつて、住吉津に到着した遠来の客・新羅使節等は、雄略朝(5世紀中葉以降)につくられた磯歯津路(シハツミチ)を通って都へ迎えられた。その時、シハツミチ沿いに鎮座する住道社(東住吉区住道矢田の中臣須牟地神社に比定)で醸された神酒が、難波館において供されたという(延喜式、別項・中臣須牟地神社参照)
 この難波館は、難波宮造営(7世紀中葉)時に造られたもので、それ以降は同じ上町台地にある比売許曽神社が関与したが、それ以前はシハツミチ沿いの喜連においておこなわれ、喜連近くにあった当社が関与したというもので、新羅の客を饗応する間に、“当社の祭神・アカルヒメは、新羅の地で赤玉から化した女神である”との伝承が創られたのであろう、という。

 新羅を含む朝鮮半島には、日光に感精して生まれたタマゴ・赤玉などから神の子が生まれたとする伝承は多い。新羅からの渡来女神を祀るとされる当社が、神酒饗応に何らかの関係をもったことは無碍には否定できないが、あえて、その類型であるアカルヒメ渡来伝承を創ってまで客の意をむかえた、というのには疑問がある。

※鎮座由緒

 社頭の由緒には、
 「当地を開発した渡来氏族の氏神として、その創建はつまびらかでないが、平安時代につくられた延喜式神名帳に、当社が記載されている」
とあり、渡来人(新羅系か)の関与を示唆しているが確証はない。
 また
 「かつて住吉大社の末社であった由縁で、7月31日に行われる同社の例大祭“荒和大祓”(アラニゴのオオハライ)に、当地の七名家より桔梗の造花を捧げる慣例となっている」
ともある。
 住吉大社の末社というのは、住吉大社神代記(天平3年731、異説あり)・子神(末社の意)の条に
 『赤留比売神社 (中臣須牟地神・ナカトミスムチ、草津神・カヤノ)
とあるのを指すと思われるが、両社間にどのような由縁があるのかは不明。
 住吉大社神代記には、坐摩神社を初めとして多くの神社を子社すなわち末社として記しているが、その由緒は記されていない。摂津国一の宮という社格から、ほとんどの神社を末社とみなしたのものかとも思われる。
 なお、今では住吉大社との関係は途絶しており、住吉大社略記によれば、今も8月1日に荒和大祓(旧暦6月晦日の夏越大祓を継承した祭)がおこなわれているが、そこには桔梗造花の奉献は記されていない。

 当社は、今、赤留比売神社というより、三十歩社の方が通りやすい。
 “三十歩”とは、室町時代の応永年代(1394〜1428)に起こった旱魃のとき、僧・覚証が当社に法華経30部を奉読して降雨を祈願し霊験があったため、“三十部”と呼ばれたのが訛ったとも、社地の広さ“三十町歩”が訛ったものともいう。
 古くから、当社あるいは祭神アカルヒメは旱天時の雨乞いに験ありとするが、それは覚証の雨乞い祈願の故事によるのだろう。

 なお、杭全神社の境外末社となったのは、明治末からの神社統合政策によって杭全神社に合祀されたもので(大正3年)、祭神や創建由緒などとは関係ない。

 今、境内には、本殿の左右に末社・金比羅社・住吉社・天満宮・稲荷社が並び、拝殿右前には「三十歩大明神 元禄十一年(1698)七月」と刻した石の手水槽がある。

左:金比羅社 右:住吉社

左:天満宮  右:稲荷社

三十歩大明神・手水槽

◎平野郷
 戦国時代から近世にかけて繁栄した平野郷は、平安時代末に摂津国住吉郡平野庄と呼ばれた地域で、征夷大将軍・坂上田村麻呂の次男・広野がこの辺りを所領したことにはじまり、その名をとった“広野庄”が“平野庄”へと訛ったものという。

 平野郷は、自治と自衛のために二重の濠と土塁を巡らした所謂“環濠集落”で、今、杭全神社の北東部と当赤留比売命神社の背後にその面影が残っている。

 環濠で囲まれた平野郷には、大小13ヶ所の木戸口が設けられ、摂河泉各方面への道が放射状に延びていた。そのひとつが、東の八尾・久宝寺を経て奈良方面に至る道の木戸口・「樋尻口門」で、赤留比売命神社はそのすぐ南にあった。
 各木戸口には遠見櫓や門番屋敷が設けられ、傍らに地蔵堂が建てられていたという。これらの木戸口は郷内と郷外の境界をなすもので、郷外に出かける人は地蔵像に旅の安全を祈り、且つ郷外から侵入しようとする災厄・疫病などをここで退散させようとする祈願の場でもあったという。通常、道祖神が担う役割をここでは地蔵が担っていたことになる。
平野郷復元図

 今、神社の北の道端に「樋尻口地蔵堂」が、
隣接する平野公園に「平野郷樋尻口門跡」の
石柱が残っている。
樋尻口地蔵堂
樋尻口地蔵堂
樋尻口門跡の石柱
樋尻口門跡の石柱

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