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比売許曽伝承と赤留比売
ひめこそ でんしょう と あかるひめ

※比売許曽伝承
 その昔、わが国には朝鮮半島から多くの人々が渡ってきたが、彼らは、新しい知識や技術とともに祖国の地で祀っていた神々をも持ち来たっていた。
 それらの渡来神のなかに比売許曽(ヒメコソ)の神・赤留比売(アカルヒメ・阿加流比売とも書く)という女神があり、古事記・日本書紀などに幾つかの渡来伝承が記されている。

◎比売許曽伝承@−−古事記・応神記(天之日矛の渡来)
 ・一人の賤女が新羅の阿具奴摩(アグヌマ)の畔で昼寝していたとき、太陽の光が虹のように女の陰部を射し、女は”赤い玉”を生んだ
 ・それを見ていた一人の賤の男が、その玉を貰い受けて、いつも包んで腰に付けていた
 ・ある時、男が農夫への食料を負わせた牛を連れて谷間に入ろうとしたら、新羅国王の王子・天之日矛(アメノヒホコ)と出会った
 ・日矛は、男が牛を殺して食うつもりだろうとして、男を牢屋に入れようとした
 ・男は農夫に食料を届けようとしただけだと弁明したが、ヒ日矛が聞き入れなかったので、腰に付けた赤い玉を射しだして許しを乞うた
 ・日矛は、貰った玉を持ち帰り、床のそばに置いていたら、玉は美しい娘に変身したので、この娘を正妻とした
 ・妻(娘)は、いつも美味しい食べ物をつくって日矛に食べさせていたが、日矛は思いあがって妻をののしった
 ・妻は『私は貴方の妻になるような女ではありません。私は祖先の国に行きます』と告げ、密かに小舟に乗って逃げ渡り、難波に留まった
 ・これは難波の比売許曾に坐す阿加流比売(アカルヒメ)という神である(大意)

◎比売許曽伝承A−−日本書紀・垂仁紀2年条
 ・大加羅国王の子・都奴我阿羅斯等(ツヌガアラシト)が黄牛に農具を負わせて田舎に行ったとき、急に黄牛がいなくなった
 ・足跡を追っていくと、ある村まで続いていたが、村人は牛を殺して食べてしまっていた
 ・アラシトは牛の代償として、“村で祀っている神”である“白い石”を貰って持ち帰った
 ・その白石を寝屋に置いていると、石は綺麗な娘になった
 ・アラシトは喜んで交合しようとしたが、ちょっと目を離している隙に娘はいなくなってしまった
 ・アラシトが驚いて家人(妻)に尋ねると『東の方へ行った』と答えたので、追っていくと、娘は海を越えて日本国に入っていた
 ・日本に入った娘は、難波に至って比売許曾神となった
 ・また、豊国(トヨクニ)の国前郡(クチノクニ)に至って比売許曾の神となり、二ヶ所に祀られているともいう(大意)

 この二つの伝承は、王子の出自・名前は異なるものの(加羅国は紀元前後に朝鮮半島南部にあっという小国だが、6世紀頃に新羅に併合されており、ヒホコ・アラシトの出自は同じ-加羅であり、同じ人物とみることもできる)、赤あるいは白い玉から生まれた娘が難波の地に至って比売許曾の神になったということからみて、同じ伝承とみても大過はなかろう。

 この伝承は、日光感精説話(女が射してくる日光に感じて子供を産むという説話)と卵生説話(神あるいは偉人は密閉された卵状のもの-卵・石・玉など-から生まれるという説話)とが組み合わさった伝承で、古代朝鮮半島に多いという(我が国には殆どない)

 なお、比売許曾の許曾(コソ)とは、和名抄で筑前国怡土郡(イシグン)の託社を“タク コソ”と読むように“社”を指す言葉といわれ、比売許曾とは神名ではなく“女神の社”を意味し、そこに祀られる神がアカルヒメだという。


 赤玉から生まれた娘(アカルヒメ)は、夫・アメノヒホコから逃れて難波の比売許曾に鎮座したという。
 この難波の比売許曾とは、今、大阪市東成区東小橋にある比売許曾神社とされるが、その祭神はアカルヒメではなく下照姫(シタテルヒメ)であり(何時の頃かに変わったと思われる)
 アカルヒメを祀る社としては、平野区平野東に赤留比売神社、西淀川区姫島に姫島神社があり、シタテルヒメを祀る社としては中央区高津に高津神社境内摂社・比売許曾神社があり、比売許曾の神がアカルヒメかシタテルヒメかについては定説となるものはない。

 しかし、上記伝承Aに「豊前国前郡に至って比売許曾神となった・・・」というように、アカルヒメは難波に落ち着く前には豊前国に留まったといわれ、その地は、今の大分県東国東郡の姫島であり(国東半島北方の小島)、そこにも比売語曾神社がある。

 この豊前国・姫島から難波に遷った経緯として、摂津国風土記・逸文の比売島の松原条に
 『昔、応神天皇の御代に、新羅国の女神が夫から逃れて来て、しばらく筑紫の伊波比(イハヒ)の比売島に住んでいたが、「この島は新羅国から遠くない。ここにいたら夫が尋ねてくるだろう」といって、摂津国の比売島に移って来た。だから、元いた土地の名をとって、この島を比売島(姫島)という』(大意)
とあり、アカルヒメは朝鮮・加羅国から豊前国姫島を経て摂津国難波に遷ってきたという

 これに関連して谷川健一氏は
 ・筑前国風土記逸文・怡土郡条に
  「仲哀天皇が熊襲を討とうとして筑紫においでになったとき、怡土県主の祖・五十跡手(イトテ)が出迎え、『吾は高麗国のヒホコの末裔・五十跡手』と名乗った」(大意)
とあるが、アメノヒホコの末裔と称するものが怡土郡(倭人伝にいう伊都国)にいたということは、アメノヒホコの上陸地が糸島半島であったことを物語る
 ・福岡県糸島郡の前原町(マエバル)高祖(タカス)に高祖神社があり、アメノヒホコの妻を祀るとされる
 ・豊前国風土記・逸文・鹿春郷(カハル)
  「昔、新羅の神が自分で海を渡ってやってきて 、この河原に住んだ」
とあり、この神はアカルヒメと推測される
 ・この近くに赤との地名があり、そこにある峯を“明流(アカル)の神岳”というが、アカルヒメとの縁由によるものではなかろうか
として、豊前国姫島に留まる前に北九州の糸島半島の辺りに上陸し、豊前国鹿春(福岡県田川郡香春町)を経て、同・姫島に移り、その後 難波の姫島に移ったのではなかろうかという(青銅の神の足跡・1989、大意)

 一方、アカルヒメの夫・アメノヒホコについて、垂仁紀3年条には
 「アメノヒホコは日本国に聖王がおられると聞いて、船に乗って播磨国宍粟邑にやってきて、持参した神宝8種を天皇に奉り、その許しを得て、宇治川を遡って近江国・吾名邑に一時留まり、そこから若狭国を経て但馬国に移り、在地豪族の娘を娶って住んだ」(大意)
とある(古事記には、「アカルヒメを追って難波に来たが海峡の神に遮られたため、迂回して但馬国に至り其処に住んだ」とある)

 アメノヒホコは古事記では新羅国の王子というが、谷川健一氏は
 ・記紀及び風土記によれば、アメノヒホコの経由地は、その殆どが銅鉄埋蔵地であることから
 ・アメノヒホコとは金属精錬の技術を持って渡来した集団の象徴的存在を神格化したもので、その妻・アカルヒメとは、その集団の呪術的祭祀を司る巫女的存在ではなかったか(古代の金属精錬は神秘的・呪術的行為だという)
として、
 ・上記伝承は、技術集団の渡来という事実を説話風に物語ったものではなかろうか
という(谷川前掲書)

 また、三品彰英は
 ・アカルヒメの原態は巫女すなわち“祀る者”であり、“祀られる神”であるアメノヒホコは巫女に招祷される存在であるがゆえに、彼女の到るところに従って、その後を追わねばならなかった。
 ・歴史的にいえば、巫女の宗儀が伝来し、彼女らヒホコ族の移動に従って、アメノヒホコの遍歴物語が構成されたのである
 ・巫女である祀る者が祀られる者に昇華するとき、巫女はヒメコソ社の女神となる
といして、アカルヒメはヒホコ集団の巫女であり、それが神となったときヒメコソの神となるという。

 因みに、新撰姓氏録にはアメノヒホコの後裔と称する氏族として4氏がみえるが、そのなかに
 「摂津国諸蕃 新羅 三宅連 新羅国王子天日槍命之後也」
との氏族があり、難波の地にアカルヒメを祀ったのは、この三宅連ではなかったかと思われる(他に左京・右京・大和国にもいた)

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