トップページへ戻る

姫 島 神 社

大阪市西淀川区姫島4−14−2
祭神−−阿加流姫命(アカルヒメ)・住吉大神

 阪神本線が新淀川を渡ってすぐの姫島駅の西約500m、民家と小工場に囲まれた姫島公園の東隣に鎮座する。

 神社略記には、
 『創建年代は不明だが、境内に正保5年(1648、江戸前期)から幕末にかけて奉納された石燈籠が10基あり、江戸時代以前から産土神としてアカルヒメを祀っていたと考えられる。・・・当地は、古代難波八十島のひとつであった比売島がこの地に当たると伝えられてきた』
とあり、続けて比売許曽(ヒメコソ)伝承を略記している。

 比売許曽伝承とは、古事記(応神記)・日本書紀(垂仁2年条)にあるのが著名だが、当地に関係すると思われるものとして、摂津国風土記逸文・比売島の松原があり、そこには
  『昔、応神天皇の御代に、新羅国の女神(比売許曽の神=赤留比売)が夫から逃れて来て、しばらく筑紫の伊波比(イハヒ)の比売島に住んでいたが、「この島は新羅国から遠くない。ここにいたら夫が尋ねてくるだろう」といって、摂津国の比売島に移って来た。だから、元いた土地の名をとって、この島を比売島という』(大意)
とある。

 逸文にいうように、新羅から渡来した女神・アカルヒメが最後に留まった“摂津の比売島”(摂津国風土記逸文)を当地とするのが当社の創建由緒だが、比売島の比定地については諸説があり、当地とするのは、どちらかといえば否定的な説が多い。幾つかを列記すれば、

 ・当地はかつての西成郡に属し、延喜式で摂津国東生郡(ヒガシナリグン)とする比売許曽神社(古事記・応神記)とは属する場所(郡)が異なる。

 ・姫の渡来時期を古事記がいうように応神朝とすれば、その頃の当地は未だ海の中というのが定説で、よしんば、古代の難波津にあった八十島のひとつ“姫島”に当てるとしても、それは8世紀頃のことで時期が合わない。

 ・古事記・仁徳記にある
  「天皇豊楽(トヨノアカリ)したまはむとして、比売島に幸行(イ)でましし時、その島に鴈卵生めり」
という記事、
 日本書紀・仁徳紀の
  「河内の人、奏して言さく、『茨田(マムタ)堤に鴈産(コウ)めり』と」
の記事からみて、比売島とは茨田堤の西端・大阪市旭区・城東区の辺りとする説。
  (茨田堤−−現寝屋川市・守口市・大阪市東北部にかけて築かれたとされる河川堤防)

 ・日本書紀・安閑紀(6世紀前半頃)に、
  「牛を難波の大隅島と媛島松原に放した」
とある大隅島は今の旭区森小路遺跡辺りと推定され、比売島はその南にあったとする説。

などがあり、いずれの説でも、比売島は旧淀川の上流部辺り(現大阪市旭区・城東区から守口市)にあったと推測され、
 「新羅の女神が渡来した難波の姫島に、アカルヒメを祀る比売許曽神社があったとすれば、それは今の旭区森小路周辺ではないか」
ともいう(大和岩雄)

◎万葉歌碑
 拝殿横に
 「妹が名は 千代に流れむ 姫島の 小松がうれ(梢)に 苔生すまでに」
との万葉歌碑が立つている。その意は“この乙女の名は長く伝わるであろう。姫島の小松の梢に苔が生えるまでに”というもので、
 「和銅4年(711)、河辺宮人が姫島で若い娘の死体を見て、悲しみ嘆いて作った歌」
との詞書がついていて、この姫島は当地とされている(守口市高瀬辺りとする説もある)

 万葉集編纂が8世紀で、古事記・日本書紀の編纂が同じく8世紀初頭であることからみると、その頃、当地辺りにあった難波八十島のひとつ姫島を、人々はアカルヒメが留まった摂津の比売島とみて歌に詠んだのかもしれない。
 ただ延喜式神名帳(927撰上・平安時代)には、現大阪市東成区の比売許曽神神社はあるものの、当社の記述がないことをみると、10世紀ごろには、摂津の比売島の場所は忘れられていたのかもしれない。
姫島神社・正面大鳥居
姫島神社・正面大鳥居
姫島神社・拝殿
同・拝殿
姫島神社・万葉歌碑
万葉歌碑

※参考
4・5世紀頃の難波古図
4・5世紀頃の難波古図(推定)
(姫島は海の中になる)
大阪府史・付図より
8世紀頃の難波古図
8世紀頃の難波古図(推定)
(ほぼ当地当たりに姫島がある)
万葉集(小学館刊)・付図より

トップページへ戻る