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摂津(東生郡)の式内社/比売許曽神社
大阪市東成区東小橋3-8-14

                      祭神--本殿:下照比売命(シタテルヒメ)
                             相殿:速素戔鳴命・味鉏高彦根命・大小橋命・
                             大鷦鷯命
(仁徳天皇)・橘豊日命(用明天皇)

 比売許曽神社(ヒメコソ)は、JR環状線・鶴橋駅の東約350m、玉造3丁目交差点の北西角をすこし入ったところに鎮座する。

 当社は、延喜式神名帳(927撰上、平安時代)に、『摂津国東生郡(ヒガシナリのコオリ) 比売許曽神社 名神大 月次相嘗新嘗』とある式内大社で、月次(ツキナミ)・相嘗(アイナメ)・新嘗(ニイナメ)の奉斎をうけた格式高い社で、

 新羅国の王子・天之日矛(アメノヒホコ)の妻で、夫の横暴から逃れて渡来した女神・赤留比売(アカルヒメ)が留まった“難波の比売許曽神社”(古事記・応神記、日本書紀では垂仁紀にあり)が当社だという。

 その昔、わが国には朝鮮半島から多くの人々が渡ってきたが、彼らは、新しい知識や技術とともに祖国の地で祀っていた神々をも持ち来たっていた。
 それらの渡来神のなかに比売許曽(ヒメコソ)の神・赤留比売(アカルヒメ・阿加流比売とも書く)という女神があり、古事記・日本書紀などに幾つかの渡来伝承が記されている。

◎比売許曽伝承-①--古事記・応神記
 『新羅国・阿倶沼(アグヌマ)の畔で昼寝をしていた一人の女の陰部に太陽の光が射し、女は赤い玉を生んだ。新羅の王子・天之日矛(アメノヒホコ)がこの赤玉を手に入れ、床のそばに置いていたら美しい乙女と化した。喜んだヒホコはこの乙女と結婚したが、次第におごり高ぶって妻を罵るようになったので、妻は「私は貴方のような人の妻となるような女ではない。私の祖先の国に行きます」と、小舟に乗って逃げてきて難波に留まった』(大意)とあり、『これは難波のヒメコソ神社に坐すアカルヒメという神である』との注記がある。

◎比売許曽伝承-②
--日本書紀・垂仁紀2年条
 『大加羅国の王子・都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)が、村人にとられた黄牛の代価として白い石を貰いうけ、閨に置いていたら綺麗な娘と化した。アラシトは喜んで交わろうとしたが、ちょっと離れたすきに娘は居なくなった。妻に問うと「東の方へ行った」というので跡を追っていくと、娘は日本国にわたり、難波に至ってヒメコソの社の神となった。
 また豊国・国前郡のヒメコソ社の神となった。そしてふたつの処に祀られているという』(大意)

◎比売許曽伝承-③--摂津国風土記逸文・比売島の松原
 『昔、応神天皇の御代に、新羅国の女神が夫から逃れて来て、しばらく筑紫の伊波比(イハヒ)の比売島に住んでいたが、「この島は新羅国から遠くない。ここにいたら夫が尋ねてくるだろう」といって、摂津国の比売島に移って来た。だから、元いた土地の名をとって、この島を比売島という』(大意)

 しかし、そこに祀られている主祭神は、新羅渡来の女神・アカルヒメではなく、記紀神話の国つ神・下照比咩(シタテルヒメ)となっている。
 比売許曽神社縁起(昭和8年、1933)に、
  『当社は人皇第11代垂仁天皇秋七月朔、愛久目山(アクメ山)にシタテルヒメを祀りて高津天皇と号し給ひしを以て起源と為すと伝ふ』
とあり、また延喜式臨時祭条には『比売許曽神社一座 亦号下照姫神社』とあり、同式四時祭条には『下照姫神社 或号比売許曽神社』とある。
 古くからから、当社の祭神はシタテルヒメとされていたらしい。

※祭神
 シタテルヒメとは、古事記・神代段に
 『オオクニヌシ神が宗像の沖つ島に鎮まるタキリヒメ命を妻として生んだ子は、アジスキタカヒコネ神、次ぎに妹のタカヒメ命で、またの名をシタテルヒメ命という』
とある女神で、国譲り交渉のために天降ったアメノワカヒコの妻、下光比売あるいは下照比売と書く。日本書紀には、『下照比売・亦の名を高姫・稚国玉(ワククニタマ)という』とある。

 記紀にはほとんど登場しない女神だが、唯一、国譲りの段に次の話が載っている。
 タカミムスヒ・アマテラスの両神は、葦原中国を譲り受けるために天稚彦(アメノワカヒコ)をオオクニヌシの処へ遣わすが、ワカヒコはオオクニヌシの娘・シタテルヒメを娶って、8年間ものあいだ返事を持ち帰らなかった。それのみか、その催促に遣わされたナキメ(雉)を射殺してしまう。ナキメを射通した矢が高天原まで届き、鏃に血が付いていたのをいぶかったタカミムスヒが呪言を唱えて投げ返すと、寝ていたワカヒコの胸に刺さり、ワカヒコは死んでしまった。
 これを悲しんだシタテルヒメは泣き叫びながら葬儀をおこなうが、弔問に訪れたワカヒコの友・アジスキタカヒコネの容貌がワカヒコに似ていたため、シタテルヒメは「吾が夫(ツマ)は死んでいなかった」と喜んですがりついてきた。タカヒコネは「吾を死人と一緒にするとは」と怒って、剣を抜いて喪屋を切り伏せ蹴散らしてしまった。(大意)
とある。

 このシタテルヒメとヒメコソの神・アカルヒメとの関係については、別神とする説、異名同神とする説がある。
 古く本居宣長は、その著・古事記伝(1798)の中で、
 『シタテルヒメとは、この社(比売許曽社)の神の号にして、即ち、かの新羅国より来たる娘子を祀れるなり。然るに、この神代巻なるシタテルヒメとひとつに心得たる説あるは、いみじき僻事(ヒガゴト-間違い)なり』
と記している。つまり、当社に祀られているシタテルヒメは新羅の女神・アカルヒメのことであって、神代巻にいうオオクニヌシの娘としてのシタテルヒメとは別の神、といっている。ただ、肝心の当社のシタテルヒメが何故アカルヒメなのかは記していない。

 比売許曽社の祭神をシタテルヒメとすることについては古くから問題視されていたようで、大阪府神社史資料(昭和8年、1933刊)にも幾つかの古資料が載っている。該当部分のみを略記すれば、
 まず、摂津名所図会(寛政10年、1798刊)には、
 「社記に、日本紀垂仁巻に出ている“異国より難波に渡ってきた童女をヒメコソの神と為す”いうのをシタテルヒメとしているが、これは大きな誤りである。シタテルヒメは神代巻にアジスキタカヒコネの妹で、所謂東生郡比売許曽神は、応神記注にいう難波の比売許曽社に座すアカルヒメである。また赤留比売社というは神名帳に住吉郡赤留比売命神社とあり、これは平野三十歩神社という住吉の末社なり。然ればシタテルヒメとアカルヒメとは別にして、社も両所に存せり。思い惑うべからず」
と記し、アカルヒメは住吉郡の赤留比売命神社に祀る神であって、当社のシタテルヒメとは異なる、とある。

 また大阪府全志(大正11年、1922刊)には、
 「当社は、延喜式に『比売許曽神社 亦下照比売と号す』とあるように、祭神がシタテルヒメであるのは明らかである。しかし摂津国風土記逸文にいうように、アメノワカヒコが出雲でシタテルヒメを娶り、アメノサグメ(=シタテルヒメ)を伴って舟に乗り高津の地に来て住まわせたことから、シタテルヒメを当地に祀って比売許曽神社と称したもので、比売許曽とは女神を祀れる社の称である。・・・延喜式に見える比売許曽神社と、古事記に見える比売許曽社とは、祭神によって区別するのが正しい」(大意)
とある。
 ここで“比売許曽とは女神を祀る社”というのは、ヒメコソの“コソ”が古代韓国語で“聖なる地”つまり“マツリゴトの場=社”を意味し、ヒメコソとは“ヒメ=女神を祀る社”と解されることからのもので、
 肥前国風土記にも
 「筑後川の西に、道行く人の半分を殺すという荒ぶる女神がいたが、宗像の人・アゼコが社を建ててこれを祀ったので治まった。この社を“姫社”(ヒメコソ)といい、郷の名となっている」(基肄郡姫社郷条、大意)
とあり、“姫社”と書いて“ヒメコソ”と読ませている(他にも○○許曽社を名乗る古社が何社かある)
 大阪府全志の意は、当社は女神・シタテルヒメを祀るが故にヒメコソ神社というのであって、シタテルヒメは応神記にいうアカルヒメとは別神、ということであろう。

 このように、管見するかぎりではシタテルヒメとアカルヒメは別神という説が多い。そのシタテルヒメが、当社の祭神とされた理由について、
 「平安時代、当地辺りに住む渡来人たちは、比売許曽社に祀られている女神の名を忘れていたため、女神ならシタテルヒメだということで、何時の頃かにアカルヒメがシタテルヒメに替わったのであろう」(滝川政次郎、大意)
との説がある。
 これに対して
 「わが国でよく知られた女神はトヨタマヒメやタマヨリヒメであってシタテルヒメはポピュラーではなく、シタテルヒメを祀る神社は少ない。女神ならシタテルヒメとするのは安易すぎる」
ともいう(大和岩雄)

 アカルヒメとシタテルヒメは渡来神と土着神という違いがあり、そこから別々の神とするのが妥当だろうが、その神格には類似性が強い。
 「アカルヒメもシタテルヒメもその別名とされるタカテルヒメも皆太陽光輝の形容」(松前健)
であり、太陽神を祀る巫女であった大日孁(オオヒルメ)が、祀られる側に移ってアマテラスとなったように、この両女神も、元々は巫女・日女(ヒルメ)であったものが、祀られる側に移ったものとも考えられ、そうした日妻的要素の共通性から比売許曽神社の祭神名が替わったのであろうともいう。
 また、シタテルヒメは高天原の日の女神・アマテラスに対抗して、出雲系神話における日の女神だったとする説、アカルヒメは“明る姫”の意で、それはシタテルヒメに通じることから、異名同神とする説もある。

※鎮座由緒
 当社の創建について神社略記など諸本を参照すれば、概略
 ◎垂仁朝の御代(3~4世紀か?)に愛久目山にシタテルヒメを祀ったのが始まりで、顕宗朝(5世紀末頃か?)に社殿が造営され、正遷宮に際して天皇が行幸された。
 ◎その後、推古朝(7世紀初)・天武朝(7世紀末)にも天皇・皇族などの行幸・奉幣をうけ、清和朝・貞観元年(859)に従四位上の神階を賜り、続いて醍醐朝・延長5年(927)には名神大社として延喜式神名帳に載せられた。
 ◎聖武朝頃(724~49)には境内“方八町”(約800m四方)といわれるほどの広さをもち、平城天皇(9世紀初)の行幸をうけるなど朝野の崇敬をうけたが、数度の兵乱による社殿焼失などで次第に縮小していった。
 室町時代に入って、将軍・足利義晴(1521~46)によって壮麗な社殿が再建されたが、織田信長の石山本願寺攻め(1576)の兵火によって社殿すべてが焼失してしまった。
 ◎この時、東西小橋村の氏子らが、ご神体を奉護して地域の産土社だった摂社・牛頭天王社に遷ったのが、今の鎮座地である。
なる。当社創建を垂仁朝というのは、垂仁紀2年条、都怒我阿羅斯等(ツヌガノアラシト)伝承の最後に、「この童女(アカルヒメ)は、難波に至って比売許曽社の神となった」と注記することからのもので、確証はない。

 これに関して、古書・浪華百事談(1860年頃、偽書説もある)には
 「天正年間石山合戦の時、兵火に罹りて灰燼と成り、後年村老小社を建て祀れりとぞ。又当社中ごろ旧神号を用いず。古宇豆(コウヅ)天王社と号し、又牛頭天皇社とも称したが、天明8年(1788、江戸中期)に旧号に復して、比売許曽社となすと云。之れ神社の樋代より旧記神器の出て、明白に知れしものとぞ」
とあり、古く牛頭天王社とも呼ばれていたとある。

 当社にスサノヲを併祀するのは、信長の本願寺攻めにより類焼した比売許曽神社を、現在地にあった牛頭天王社に遷したからで、その祭神・ゴズテンノウが明治の神仏分離により同体とされるスサノヲに変わったもの。
 牛頭天王社から見れば、“庇を貸して母屋を取られた”ともいえる。

 神と仏を一体とみていた江戸時代までは、女神・シタテルヒメというより、強力な防疫神・ゴズテンノウを祀る宮として善男善女を集めたのかもしれない。

比売許曽神社・南側鳥居
比売許曽神社・南側鳥居
比売許曽神社・拝殿
比売許曽神社・拝殿
比売許曽神社・本殿
比売許曽神社・本殿

 当社本来の鎮座地とされる愛久目山とは、今の天王寺区小橋町・味原町一帯の高台とされ、旧社地の比定地として“産屋稲荷神社”(天王寺区小橋町・“高津宮”(中央区高津1丁目)など数カ所が推定されているが、いずれも確たる証拠はない。しかし、略記にいうように、古く、方八町もの境内をもっていたとすると、小橋・味原あたりの広い範囲の何処かに旧社地があったと思われる。
 なお、現在の社殿は、昭和5年に改築したものという。

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