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摂津(東生郡)の式内社/比売許曾神社(改訂)
大阪市東成区東小橋3-8-14

                      祭神--本殿:下照比売命(シタテルヒメ)
                             相殿:速素戔鳴命・味鉏高彦根命・大小橋命・
                             大鷦鷯命
(仁徳天皇)・橘豊日命(用明天皇)

                                                     2008.08参詣、2019.08.13再訪

 延喜式神名帳に、『摂津国東生郡 比売許曾神社 名神大 月次相嘗新嘗』とある式内社。

 比売許曽神社(ヒメコソ)は、JR環状線・鶴橋駅の東約350m、駅北を東西にはしる千日前通りを東へ進み、玉津3丁目交差点を左(北)へ折れたすぐの左側、民家に挟まれて東の鳥居が立ち、民家に挟まれた参道を進んだ右に境内正面の鳥居が立ち境内に入る。周囲には商店・民家が密集していて、注意しないと鳥居を見過ごす恐れがある。

※由緒
 境内に案内なく社務所も無人のため、当社がいう由緒等は不明。

 当社の創建及び沿革について、大阪府全志(1922)には、概略次のようにある。
 *垂仁天皇2年、愛来目山(アクメヤク)に下照比売命(シタテルヒメ)及び味耜高彦根命(アジスキタカヒコネ)を祀りてて高津天皇と号したのが起源
 *顕宗天皇の御宇(5世紀末頃)に社殿造営、同2年の上遷宮には天皇が行幸された
 *推古天皇15年(607)の上遷宮には、天皇御幸、聖徳太子供奉され、仁徳天皇・用明天皇・大小橋命を合祀、楼門に難波惣社古宇津天皇宮との額を賜った
 *平城天皇・大同元年(806)に摂津国から一戸の封戸を賜り、清和天皇・貞観元年(927)従四位下の神階を賜り、醍醐天皇・延長5年(927)には延喜式神名帳に列した
 *聖武朝頃(724~49)には境内“方八町”(約800m四方)といわれるほどの広さをもち、平城天皇(9世紀初)の行幸をうけるなど朝野の崇敬をうけたが、数度の兵乱による社殿焼失などで次第に縮小していった
 *御柏原天皇御宇(1500--26)、将軍足利義晴に命じて再建させれたが、天正年間、織田信長の石山本願寺攻め(1576)の際に類焼したため、氏子等が御神体などを宝持して、摂社であった牛頭天王社の相殿に遷座したのが、今の鎮座地である

 当社創建を垂仁朝というのは、垂仁紀2年条、都怒我阿羅斯等(ツヌガノアラシト)渡来伝承の最後に、「この童女(アカルヒメ)は、難波に至って比売許曽社の神となった」と注記することからのもので、伝承でしかない。

 これに関連して、古書・浪華百事談(1860年頃、偽書説もある)には
 「天正年間石山合戦の時、兵火に罹りて灰燼と成り、後年村老小社を建て祀れりとぞ。
 又当社中ごろ旧神号(比売許曾神社か)を用いず。古宇豆(コウヅ)天王社と号し、又牛頭天皇社とも称したが、天明8年(1788、江戸中期)に旧号に復して、比売許曽社となすと云。之れ神社の樋代より旧記神器の出て明白に知れしものとぞ」
とあり、古く牛頭天王社とも呼ばれていたとある。

 今の当社にスサノヲを合祀するのは、信長の本願寺攻めにより類焼した比売許曽神社を、現在地にあった牛頭天王社に遷したからで、その祭神・ゴズテンノウが明治の神仏分離により同体とされるスサノヲに変わったもの。
 牛頭天王社から見れば、“庇を貸して母屋を取られた”ともいえる。

 神と仏を一体とみていた江戸時代までは、女神・シタテルヒメというより、霊験あらたかな防疫神・ゴズテンノウを祀る宮として善男善女を集めたのかもしれない。

 このように、当社は織田信長の石山本願寺攻めに際して被災し、旧社地・愛来目山から現在地へ遷ったというが、旧社地について、大阪府全志には
 ・法蔵山というのは、産湯清水の上にある丘状の所で、もとは愛来目山(当社鎮座地一帯の何処か)と称した。
 ・孝徳天皇の白雉2年に多くの僧尼を集めて一切経を読ませたとき、その教机仏具などをこの山に蔵したことから宝蔵山という
 ・この山は、かつて比売許曾神社が鎮座していた所だが、天正年間の織田信長石山攻めで、その兵火に罹り、神璽を奉じて今の東成区東小橋の摂社牛頭天王祠に遷座した
とあり、
 旧社地の比定地として“産屋稲荷神社”(天王寺区小橋町・“高津宮”(中央区高津1丁目)など数カ所が推定されているが、いずれも確たる証拠はない。
 しかし、略記にいうように、古く、方八町もの境内をもっていたとすると、小橋・味原あたりの広い範囲の何処かに旧社地があったと思われる。

 上記由緒は、当社祭神をシタテルヒメとしてのものだが、これに関連して、延喜式に
 ・四時祭条--下照比売一座 或は比売許曾社と号す
 ・臨時祭条--比売許曾神社一座 亦下照比売と号す
とあり、10世紀頃には、当社の祭神は下照比売命というのが定着していたと思われる。

 また、シタテルヒメが当地に祀られる由縁として、摂津国風土記(逸文)
 「難波の高津は、天稚彦(アメノワカヒコ)が天降ったとき、ついて降った神・天探女(アメノサグメ)が、磐船に乗ってここまで来た。天の磐船が泊まったというわけで、高津という」
とあり、アメノワカヒコと一緒に天降ったアメノサグメとはシタテルヒメのことという。

 これをうけて、大阪府全志は、
 ・即ち、アメノワカヒコが出雲に至りてシタテルヒメを娶り、天探女を具して舟に乗り、高津の地に来たりて住まわせ給ひしにより、後その地に祀りて比売許曾神社と称したるものならん
 ・比売許曾は女神を祀れるの称なり
 ・然るに、古事記応神天皇の段に、新羅の女人が密かに舟に乗って逃れ渡り来て、難波に留まったと記せる(下記)を以て、延喜式にみゆる此の比売許曾神社(当社)は、古事記にみゆる比売許曾神社なるべしとの疑いを生じ、諸説紛然たり
 ・然れども、延喜式にみゆる比売許曾神社と、古事記にみゆる比売許曾神社(下記)とは、祭神にて区別すること正しけれ
として(大略)、当社祭神はシタテルヒメであると強調している。

 ただ、記紀に記されたアメノワカヒコは、国譲り交渉の使者として出雲国に天降るも、オオクニヌシにおもねってその娘シタテルヒメを娶り、何の報告もしなかった云々、とある神で(下記)、そこには難波の高津に天降ったとは記されていない。
 また、そこにはアメノサグメとシタテルヒメは別神として出ている。


 これに対して、当社は 新羅国の王子・天之日矛(アメノヒホコ)の妻で、夫の横暴から逃れて渡来した女神・赤留比売(アカルヒメ)が留まった“難波の比売許曽神社”(古事記・応神記、日本書紀・垂仁紀)という説がある。

 その昔、わが国には朝鮮半島から多くの人々が渡ってきたが、彼らは、新しい知識や技術とともに祖国の地で祀っていた神々をも持ち来たっていた。
 それらの渡来神のなかに比売許曽(ヒメコソ)の神・赤留比売(アカルヒメ・阿加流比売とも書く)という女神があり、古事記・日本書紀などに次ぎの渡来伝承が記されている。

*比売許曽伝承-①--古事記・応神記
 『新羅国・阿倶沼(アグヌマ)の畔で昼寝をしていた一人の女の陰部に太陽の光が射し、女は赤い玉を生んだ。新羅の王子・天之日矛(アメノヒホコ)がこの赤玉を手に入れ、床のそばに置いていたら美しい乙女と化した。喜んだヒホコはこの乙女と結婚したが、次第におごり高ぶって妻を罵るようになったので、妻は「私は貴方のような人の妻となるような女ではない。私の祖先の国に行きます」と、小舟に乗って逃げてきて難波に留まった』(大意)とあり、
 『これは難波のヒメコソ神社に坐すアカルヒメという神である』との注記がある。

*比売許曽伝承-②
--日本書紀・垂仁紀2年条
 『大加羅国の王子・都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)が、村人にとられた黄牛の代価として白い石を貰いうけ、閨に置いていたら綺麗な娘と化した。アラシトは喜んで交わろうとしたが、ちょっと離れたすきに娘は居なくなった。家人に問うと「東の方へ行った」というので跡を追っていくと、娘は日本国にわたり、難波に至ってヒメコソ社の神となった。
 また豊国・国前郡のヒメコソ社の神となった。そしてふたつの処に祀られているという』(大意)

*比売許曽伝承-③--摂津国風土記逸文・比売島の松原
 『昔、応神天皇の御代に、新羅国の女神が夫から逃れて来て、しばらく筑紫の伊波比(イハヒ)の比売島に住んでいたが、「この島は新羅国から遠くない。ここにいたら夫が尋ねてくるだろう」といって、摂津国の比売島に移って来た。だから、元いた土地の名をとって、この島を比売島という』(大意)

 この伝承よれば、当社の祭神は新羅から渡来した難波の比売許曾の神・アカルヒメとするのが妥当と思われるが、社名・比売許曾が“女神を祀る社”の意であることから、強いて渡来女神・アカルヒメにこだわる要はなく、シタテルヒメを祭神としてもおかしくはないともいえる。

 なお、アカルヒメを祭神とする神社として、大阪市平野区に「赤留比売神社」がある(別稿・赤留比売神社参照)


※祭神
 シタテルヒメとは、古事記・神代段に
 『オオクニヌシ神が宗像の沖つ島に鎮まるタキリヒメ命を妻として生んだ子は、アジスキタカヒコネ神、次ぎに妹のタカヒメ命で、またの名をシタテルヒメ命という』
とある女神で、国譲り交渉のために天降ったアメノワカヒコの妻、下光比売あるいは下照比売と書く。
 日本書紀には、『下照比売・亦の名を高姫・稚国玉(ワククニタマ)という』とある。

 記紀にはほとんど登場しない女神だが、唯一、国譲りの段に次の話が載っている。
 タカミムスヒ・アマテラスの両神は、葦原中国を譲り受けるために天稚彦(アメノワカヒコ)をオオクニヌシの処へ遣わすが、ワカヒコはオオクニヌシの娘・シタテルヒメを娶って、8年間ものあいだ返事を持ち帰らなかった。それのみか、その催促に遣わされたナキメ(雉)を射殺してしまう。ナキメを射通した矢が高天原まで届き、鏃に血が付いていたのをいぶかったタカミムスヒが呪言を唱えて投げ返すと、寝ていたワカヒコの胸に刺さり、ワカヒコは死んでしまった。
 これを悲しんだシタテルヒメは泣き叫びながら葬儀をおこなうが、弔問に訪れたワカヒコの友・アジスキタカヒコネの容貌がワカヒコに似ていたため、シタテルヒメは「吾が夫(ツマ)は死んでいなかった」と喜んですがりついてきた。タカヒコネは「吾を死人と一緒にするとは」と怒って、剣を抜いて喪屋を切り伏せ蹴散らしてしまった。(大意)
とある。

 このシタテルヒメとヒメコソの神・アカルヒメとの関係については、別神とする説、異名同神とする説があるが、
 古く本居宣長は、その著・古事記伝(1798)の中で、
 『シタテルヒメとは、この社(比売許曽社)の神の号にして、即ち、かの新羅国より来たる娘子を祀れるなり。然るに、この神代巻なるシタテルヒメとひとつに心得たる説あるは、いみじき僻事(ヒガゴト-間違い)なり』
と記している。
 つまり、当社に祀られているシタテルヒメは新羅の女神・アカルヒメであって、神代巻にいうオオクニヌシの娘としてのシタテルヒメとは別の神、という。

 比売許曽社の祭神をシタテルヒメとすることについては古くから問題視されていたようで、大阪府神社史資料(昭和8年、1933刊)にも幾つかの古資料が載っている。該当部分のみを略記すれば、
 まず、摂津名所図会(寛政10年、1798刊)には、
 「社記に、日本紀垂仁巻に出ている“異国より難波に渡ってきた童女をヒメコソの神と為す”いうのをシタテルヒメとしているが、これは大きな誤りである。
 シタテルヒメは神代巻にアジスキタカヒコネの妹で、所謂東生郡比売許曽神は、応神記注にいう難波の比売許曽社に座すアカルヒメである。
 また赤留比売社というは神名帳に住吉郡赤留比売命神社とあり、これは平野三十歩神社という住吉の末社なり。然ればシタテルヒメとアカルヒメとは別にして、社も両所に存せり。思い惑うべからず」
と記し、アカルヒメは住吉郡の赤留比売命神社に祀る神であって、当社のシタテルヒメとは異なる、とある。

 また大阪府全志には、
 「当社は、延喜式に『比売許曽神社 亦下照比売と号す』とあるように、祭神がシタテルヒメであるのは明らかである。
 しかし摂津国風土記逸文にいうように、アメノワカヒコが出雲でシタテルヒメを娶り、アメノサグメ(=シタテルヒメ)を伴って舟に乗り高津の地に来て住まわせたことから、シタテルヒメを当地に祀って比売許曽神社と称したもので、比売許曽とは女神を祀れる社の称である。・・・
 延喜式に見える比売許曽神社と、古事記に見える比売許曽社とは、祭神によって区別するのが正しい」(大意)
とある。

 ここで“比売許曽とは女神を祀る社”というのは、ヒメコソの“コソ”が古代韓国語で“聖なる地”つまり“マツリゴトの場=社”を意味し、ヒメコソとは“ヒメ=女神を祀る社”と解されることからのもので、
 肥前国風土記にも
 「筑後川の西に、道行く人の半分を殺すという荒ぶる女神がいたが、宗像の人・アゼコが社を建ててこれを祀ったので治まった。この社を“姫社”(ヒメコソ)といい、郷の名となっている」(基肄郡姫社郷条、大意)
とあり、“姫社”と書いて“ヒメコソ”と読ませている(他にも○○許曽社を名乗る古社が何社かある)

 大阪府全志の意は、当社は女神・シタテルヒメを祀るが故にヒメコソ神社というのであって、シタテルヒメは応神記にいうアカルヒメとは別神、ということであろう。

 このように、管見するかぎりではシタテルヒメとアカルヒメは別神という説が多い。
 そのシタテルヒメが、当社の祭神とされた理由について、
 「平安時代、当地辺りに住む渡来人たちは、比売許曽社に祀られている女神の名を忘れていたため、女神ならシタテルヒメだということで、何時の頃かにアカルヒメがシタテルヒメに替わったのであろう」(滝川政次郎、大意)
ともいうが、これに対して
 「わが国でよく知られた女神はトヨタマヒメやタマヨリヒメであってシタテルヒメはポピュラーではなく、シタテルヒメを祀る神社は少ない。女神ならシタテルヒメとするのは安易すぎる」
として疑問視する説もある(大和岩雄)

 アカルヒメとシタテルヒメは渡来神と土着神という違いがあり、そこから別々の神とするのが妥当だろうが、その神格には類似性が強く、
 「アカルヒメもシタテルヒメもその別名とされるタカテルヒメも皆太陽光輝の形容」(松前健)
であり、太陽神を祀る巫女であった大日孁(オオヒルメ)が、祀られる側に移ってアマテラスとなったように、この両女神も、元々は巫女・日女(ヒルメ)であったものが、祀られる側に移ったものとも考えられ、そうした日妻的要素の共通性から比売許曽神社の祭神名が替わったのであろうともいう。
 また、シタテルヒメは高天原の日の女神・アマテラスに対抗して、出雲系神話における日の女神であり、アカルヒメは“明る姫”の意で、それはシタテルヒメに通じることから、異名同神ともいう。

※社殿等
 玉津3丁目交差点を北へ曲がってすぐの西側、民家に挟まれて立つ鳥居(下写真:東の鳥居)を入った右(北側)に境内へ入る鳥居(境内正面の鳥居)が立つ。
 なお、南側道路からも、境内正面の鳥居に向かう参道がある。


比売許曾神社・東の鳥居
 
 
同・境内正面の鳥居
 
南側道路からの参道
(突き当たり:境内正面の鳥居)

 正面鳥居の右脇に『式内 比売許曾神社』と刻した石柱が立つ。
 境内正面に、千鳥破風・唐破風向拝を有する拝殿(入母屋造・銅板葺き、間口三間半・奥行二間)が建ち、境内右手に社務所があるが無人。
 その背後、弊殿を介して本殿が、南面して鎮座する。

 資料によると、本殿は“間口一間半・奥行約五尺の流造銅板葺き”とあるが、側面から見るかぎりでは奥行き五尺の以上の大きな社殿であり、今、外から見るこの社殿はは大きな覆屋であって、その中に流造の本殿が鎮座しているとおもわれる。
 今の社殿は、昭和5年に増改築されたもので、大阪大空襲による被災は免れたという。

 
比売許曾神社・境内
 
同・拝殿
 
同・社標
 
同・本殿
 
同・本殿(側面) 

 境内には、末社として白玉稲荷社・大国主社の小祠2宇が鎮座するが、勧請由来等詳細は不明。

 
末社・白玉稲荷社
 
末社・大国主社


[付記]

 玉津3丁目交差点のすぐ西側(道路北側)に、『大小橋命』(オオオバセ)との扁額を掲げた小祠がある。

 命は、推古天皇の御宇に当社に合祀されたという神で(上記)、大阪府全志には
 「大小橋命館舎の地
 小橋里は大小橋命の館舎のありし所なり。
 旧志には、その旧址を小橋村の西なる字藤原殿といへる所なりとするも、今その字地を存せざるのみならず、藤原の姓は、その遠孫たる鎌足に至り初めて賜ひたるものなれば、後人の所作ならんといふ。
 史料叢書には、比売許曾神社の西南にあり、とせり。  

大小橋命の小祠

 命は天児屋根命12世の孫・雷大神の子にして、母は武内宿禰の女・木志清夫なり。成務天皇51年にこの地に誕生し、藤原・大中臣・卜部・齋部等の祖なり。
 神功皇后より、この味原郷を授けられ、同皇后の65年85才を以て神去り、猪甘津岡に葬らる」
とあるが、式内社調査報告には
 「胞衣塚(エナツカ)  式内比売許曾神社と縁のふかい大小橋命の胞衣を納めたところと伝えられる。・・・」
とある。
 ただ、この大小橋命と比売許曾神社との関係は、その合祀理由を含めて一切不明。

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