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比売古曾神社(高津宮摂社)(改訂)
大阪市中央区高津1-1-29
祭神−下照姫命(シタテルヒメ)

 大阪南の繁華街・千日前の東約700mの高台にある“高津宮”の境内摂社で、高津宮本殿の左奥に鎮座する。

 社頭の説明には、
 『比売古曽(ヒメコソ)神社 祭神−−下照姫命(子育ての神) 
 比売古曽社は延喜式式内の神にして、古くより高津宮(コウヅの宮)社地に奉斎していたが、高津宮が大阪城築造により現在地に遷座以来、高津宮の地主の大神として奉斎されている』
とある。

 和漢三才図会(1712)には、
 「高津社(宮)は生玉社の北にある。祭神は比売古曽神(別名・下照姫命・高比売命とも)。大国主命の女が始めて天磐船に乗って地上に降りられた摂洲東生郡高津がこれである。その船の祠を磐船大明神と号する。又、磐船社は東生郡にあるとするが今はない」
とあるという(原本未見)
 また摂津名所絵図(18世紀末刊)には
 「シタテルヒメを祀る磐船社と称する地は、高津宮の内に営み給ふ社の古蹟なり」
とある。
 当社は江戸時代には磐船社もと呼ばれ、古くから、祭神はシタテルヒメとされていたらしい。

 
比売古曾神社・鳥居
 
同・社殿(正面)
 
同・社殿(側面)

 比売古曽神社(比売許曽神社)とは、延喜式神名帳に「摂津国東生郡 比売許曽神社(名神大)」とある式内社を指し、今、東成区東小橋に鎮座する比売許曾神社とする説が強い。
 ただ、その比売許曾神社は織田信長の石山本願寺攻め以降の鎮座で、それまでは別地にあったといわれ、その旧社地の一つが当高津宮というが、その確証はない。

 大阪府全志(大正11刊1922)には、
 「延喜式に見える比売許曽神社は大阪市南区高津一番町の府社・高津宮で、同社の摂社に比売許曽社があり祭神はアカルヒメ。
 初め高津宮の主神(所謂地主神)だったが、後に併せ祀った仁徳天皇が主神となったといわれている。
 しかし高津宮は比売許曽社とは関係のない仁徳天皇を祭った特別の社で、それを比売許曽社に擬せるのは、天正の火災(織田信長の石山本願寺攻め)後、比売許曽社が摂社・牛頭天王祠の相殿(現比売許曽神社)に移り、その旧社地がはっきりしなくなったための謬説と見るほかない」(大意)
とあり、当社の原姿を比売許曽社とすることに疑義を呈している。

 ただ当地の東方、愛久目山(アクメヤマ、天王寺区小橋・味原付近)を中心とする一帯の何処かにあったと推定されている。
 高津宮の遷座に際して、この辺りに鎮座するとされる神を“地主神”として祀ったのは頷けるが、それがヒメコソの神としてのシタテルヒメかどうかは不明。
 著名な神の勧請遷座に際して、それまでの神が摂末社に陥められた事例は多く、当社も同じかもしれない。

 当社とシタテルヒメとの関係について、摂津国風土記逸文に、
 『難波の高津は、アメノワカヒコが天降ったとき、ワカヒコに従って降った神・天の探女(アメノサグメ)が磐船に乗ってここまで来た。天の磐船が泊まったというわけで、高津という』
との伝承があり、アメノワカヒコとはシタテルヒメの夫神で、アメノサグメはシタテルヒメを指すという。
 またヒメの兄神・アジスキタカヒコネも愛久目山付近に天降ったとの伝承もあるという。

 当地の地主神をシタテルヒメとするのは、この伝承によるものだろうが、これらの伝承には比売許曽の神・アカルヒメの影は見えず、また記紀では、アメノワカヒコが当地に天降ったとする記述はなく、またシタテルヒメはアメノサグメとは別神であり、シタテルヒメを当地の地主神とするにも疑問がある。

 とすれば、大阪府全志で摂社・比売許曽社の祭神はアカルヒメとするものの、このアカルヒメを地主神・シタテルヒメとするのには疑問がある。
 なお、当社の祭神・シタテルヒメについては、別稿“比売許曽神社(東成区)”参照のこと。


◎高津宮
 祭神−本座:仁徳天皇
      左座:仲哀天皇・応神天皇・神功皇后
      右座:葦姫皇后・履中天皇

 所謂“河内王朝”(応神王朝)の2代目・仁徳天皇を主祭神とする神社で、貞観8年(866、平安時代)、清和天皇の勅命による創建という。
 当初は難波宮旧跡付近(中央区法円坂1丁目)にあったと推定されるが、天正11年(1583)、豊臣秀吉の大阪城築城によって当地に遷座させられたという。

高津宮・拝殿

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