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摂津(住吉郡)の式内社/楯原神社
大阪市平野区喜連6-1-38
祭神−主祭神:武甕槌大神(タケミカヅチ)・大国主大神
        併祭神:孝元天皇・菅原道真・赤留比売命
(アカルヒメ)

 延喜式神名帳に「摂津国住吉郡 楯原神社」とある式内社で、地下鉄谷町線・喜連瓜破駅の北東約400m、静かな住宅地内に鎮座する。

※祭神
 当社本来の祭神はタケミカヅチとオオクニヌシの2座で、アカルヒメ(ヒメコソの神)は後から雨を司る水神として勧請された神。後の2柱も後世に近傍から勧請された社。

 「式内楯原神社の栞」によれば、
 『桓武天皇の頃(800年頃)風水害が続いたので、アカルヒメを祭神とする喜連村字十五にあった“竜王社”を境内別社として勧請し、これを“奥の宮”と称した』
とある。
 字十五にあった竜王社について、大阪府全志に転載されている喜連の古伝承“北村某家記”に
 『旧社三十歩神社の分霊を勧請して杭俣郷竜宮と称え、今奥宮と称す。明留女命(アカルヒメ)なり。旧地を竜宮といい、今十五といへるはその縁なり』
とあり、古く流町に鎮座していた女神・アカルヒメ(平野東にある現赤留比売命神社の前身)を水神として勧請したものという。

 ここで、水神・アカルヒメの当社への勧請を桓武朝(781--806)というが、別稿・赤留比売神社に記すように、アカルヒメを水神とするのは“室町期の雨乞いに霊験があったから”という伝承とは時期が合わない。ただ古代の水稲栽培を主とする農耕では、順当な水の確保が不可欠だったことからみて、古くから、アカルヒメにも水神的要素が付加されていたとも考えられる。

※鎮座由緒
 当社の創建は崇神朝にまで溯るというが、10世紀初頭以前何時まで遡れるかは不明。その創建以降の経緯はややこしく、数種ある由緒をとりまとめて時系列的に並べると、次のようになる。

*神代の頃、タケミカヅチはオオクニヌシの教えに従い国平(クニムケ)の矛を持って天下を巡行した後この地に留まったが、孫の大々杼命(オオドか)に「十握の剣を吾が身代わりとし、国平の矛をオオクニヌシの霊代として齋き祀れ」と遺言して身を隠した。
 なお日本書紀に、オオクニヌシが天下平定に用いた広矛をタケミカヅチに渡して「この矛を用いれば天下平定はなるであろう」と告げた。タケミカヅチは、オオクニヌシの霊をこの矛に依り付かせて天下を平定した、とある。
 また十握剣はスサノヲが八岐大蛇を切ったときに用いた剣を指す。
 これが、タケミカヅチ・オオクニヌシを主祭神とする由縁だろうが、詳細不明。

*子孫の大々杼彦仁が、神武東征のとき紀国で大熊に悩まされていた神武に、タケミカヅチのお告げをうけて十握の剣を献上し、それによって神武は大熊を切り伏せ無事倭国にはいることができた。
 なお書紀には、紀の国熊野で土地の神(大熊)に悩まされる神武に神剣を奉ったのは、熊野のタカクラジとある。

*崇神天皇のとき、天皇が子孫の大々杼名黒に「タケミカヅチとオオクニヌシを同じ家で祀るのは畏れおおいから、別々に祀れ」といったので、喜連村字楯原(現喜連西1丁目付近)に楯の御前社・矛の御前社を建てて別々に齋き祀った。これをもって当社の創建とする。
 なお崇神天皇が、宮中の外に移した神はアマテラスとオオクニタマの2神(古事記)

*社伝によれば、神功皇后の西征に当たって軍事に関する託宣があり、皇后帰還後、当社に親拝されたとき大々杼氏が奉祀して御感あり、皇后の勅により楯の御前社を楯原神社と改め、大々杼氏を息長氏とせられた、という。

 これらの諸伝は、記紀神話の内容を大々杼氏に仮託して記した後世の造作であろう。

*桓武朝の頃、風水害頻発のため、字十五にあった竜王社を勧請し、別殿を建てて奥の宮として祀る。−上記のとおり。

*文明13年(1481、室町期)、村民の移住に伴い(兵火によって、ともいう)、現在地付近に遷座。

*大阪夏の陣(1615)の兵火にかかって社殿焼失、現在地(字寺町)に遷座。(元和年間の暴風雨により社殿崩壊ともいう。時期的にはほぼ同時期)

*この頃、付近の天神社(アマツカミの社)を合祀して菅原道真を併祀したことから、天神社あるいは天満社と呼ばれるようになり、ために、本来の祭神名が忘れられ、そのなかでアカルヒメを祀る竜王社(奥の宮)に楯原神社の名が移り、アカルヒメが楯原神社の祭神であると誤認された。

*明治5年(1872)、本来の楯原神社である天神社は社格を得ず、奥の宮が楯原神社と誤認されたまま村社に列し、両社並立の形となった。

*明治40年(1907)の神社整理を機に、奥の宮と付近の八坂神社および春日神社を合祀して五座相殿社とし、社名を由緒ある楯原神社に復した。

*昭和26年、旧氏子の要請により八坂・春日の両社を分離して元の地に戻し、現在に至る。

 当社の創建者とされ大々杼命とは、記紀・風土記などにみられない名で出自などの詳細不明。
 大阪府全志にいう北村某家記によれば、当社が鎮座する喜連の地は、古くタケミカヅチの孫・大々杼命に因んで大々杼郷と称し、神武朝のとき彦仁に功あって大々杼の姓を賜い、大々杼の国造に任ぜられた、という(この後に、息長氏を通して継体天皇に繋がる系譜が記されているらしいが、未見)
 
 また住吉大社神代記・子神の条に、「住道神達八前 天平元年11月 託宣に依り遷りて河内国丹治比郡楯原の里に坐す」とあり、楯原里には楯原神社ありと注記している。上記“大々杼氏を息長氏とせられた”との社伝とあわせみると、住吉大社との関係も覗われるが、詳細不詳。

 とはいえ、当社が延喜式掲載の式内社であり、遅くとも10世紀初頭以前から当地付近に鎮座していたことは確かといえる。また大々杼の“杼”が機織りで横糸を通す“ヒ”の意をもつことからみて、大々杼氏とは機織り技術をもつ渡来系氏族とも推測できる。
 渡来系氏族でも、その祖先を天つ神・国つ神に求めた事例が多々あることからみて、渡来系氏族が祀った社がはじまりかもしれない。

楯原神社・正面
楯原神社・正面
楯原神社・拝殿
楯原神社・拝殿

◎神宝十種之宮
 本殿の左裏手に『日本国最初 神宝十種之宮』との石柱を立てた小祠がある。太古の昔に天降った物部氏の祖神・ニギハヤヒがもたらしたという、“十種の神宝”を祀る珍しい社である。

 十種神宝とは、先代旧事本紀(9世紀前半に記されたという物部氏系の歴史書)によれば、鏡2面・剣1振・玉4種・比礼(ヒレ、今のスカーフ)3種からなる呪具で、比礼を持って「一・ヒト 二・フタ 三・ミ 四・ヨ 五・イツ 六・ム 七・ナナ 八・ヤ 九・ココノ 十・タリ ふるへ ゆるゆると ふるへ」と唱えながらゆっくりと振り動かせば、死者さえも蘇るとされる。
 比礼(布・袖など)を振るのは、死者を蘇らせるとともに、魂を活性化し、飛び去ろうとする魂を呼び戻そうとする呪的行為である。

 この神宝・比礼を振り動かしておこなう鎮魂の呪法は、古代の宮中で新嘗祭の前日におこなわれた鎮魂祭の原点ともなるもので、遊離しようとする魂を鎮める“魂鎮めの儀”と、枯渇した魂を活性化する“魂振りの儀”からなり、ニギハヤヒの御子・ウマシマジが神武天皇の心身の安鎮を祈っておこなったのがはじまりという。
 かつて宮中でおこなわれた鎮魂祭では、神祇伯が、一から十まで数を数えながら矛で桶底を突き、それにあわせて木綿の糸を十回結び、女官が天皇の衣服をゆっくりと振り動かしたという。
 この十種神宝の霊威を神として祀ったのが石上神宮の“布留御魂大神”(フルノミタマノオオカミ)で、ここでいう“布留”(フル)とは地名であるとともに、比礼を振る呪法にも通じる(あるいは逆かもしれない)

 十種神宝が当社に祀られた由来について、社頭の案内には、
 「室町末期、将軍・足利義昭が織田信長と争ったとき、石上神社も信長の焼き討ちにあい十種神宝も持ち去られたが、これを知った豊臣秀吉が取り戻し生国魂の社に鎮めた。しかし幕末の混乱期に生国魂宮も暴徒に襲われ神宝も再び持ち去られ行方不明になった。その後、町の古道具屋の店頭で発見され、数人の人手を転々したのち心ある人によって当社に奉納されたので、社殿を建立して祀られた。昭和になって、石上神社から返還の願いがあったが断った」(大意)
とある。
 観念的な呪具である十種神宝が具体的な神具として2000年近くも伝世され、それが古道具屋の店頭に並んでいたなど、噴飯物としかいいようがない。
神宝十種之宮
神宝十種之宮

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