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産湯稲荷神社
大阪市天王寺区小橋町3-1
祭神−−ウカノミタマ(稲荷神)・シタテルヒメ・大小橋命(オオオバセ)

 大阪南を東西に貫通する“千日町通”上本町交差点の東約600m、千日前通から北へ一筋入った住宅地にある稲荷社で、東成区東小橋にある比売許曽神社の境外摂社となっている。

 本社である比売許曽神社の略記(昭和8年1933)などを参照すれば、
 『当稲荷社の創建年代は不詳だが、元、大小橋命“産湯の井戸”付近にあった比売許曽神社の境内にあったという。天正の兵火(1576、信長の石山寺攻め)にかかり悉く烏有に帰したため、比売許曽神社は東小橋の現在地に遷り、当稲荷社は旧地に再建された。寛政8年(1796、江戸後期)刊の摂津名所図会の挿絵に当稲荷社が記載されているから、寛政以前から鎮座していたことは明らか。
 明治維新で一時私有に帰したが、大正2年、篤志家により比売許曽神社に寄進され、境外摂社とされた』
という(御旅所ともいう)

 いま東成区東小橋にある比売許曽神社の旧地については諸説があってはっきりしない。当社辺りにあったという説もあり、そこから比売許曽社の境外摂社となりシタテルヒメを合祀するのだろうが、確証はない(別稿・比売許曽神社-東成区-参照)。ただ、産湯稲荷という社名の由来となっている当社境内の玉之井が、シタテルヒメの兄神・アジスキタカヒコネに関係することからかもしれない。
 道路脇の赤い鳥居をくぐり、樹木に覆われた参道奥の高所に、まだ新しい社殿が建っている。

産湯稲荷神社・社頭
産湯稲荷神社・社頭の鳥居
産湯稲荷神社・社殿
産湯稲荷神社・社殿

◎産湯玉之井
 境内右手の一段低くなったところに建つ簡単な覆屋のなかに、古い井戸がある。当社社名の由来となった“産湯の井戸”で、昔は渾々と湧きだす清水が庶民の飲料水として使用されていたが、近年の地下鉄工事やビル建設などで水位が下がり水質も悪くなったという。平成8年に手押ポンプ式に改造されたが、飲用には適しないという。
 由来書には、
 『古く神代の時代、オオクニヌシの御子アジスキタカヒコネがこの地に降臨されたときに湧きだした清泉にはじまり、“日高の清水”・“日高真名井の清水”ともいう。その後、中臣・藤原氏の祖神・アメノコヤネの13世の後裔・中臣烏賊津臣(ナカトミイカツオミ、雷大臣-イカツオミ-ともいう)の御子・大小橋命(オオ・オバセ)の誕生の折、この清水を汲んで産湯としたことから“産湯の清水”・“産湯の玉之井”とも呼ばれた。摂津国名所図会大成に「水気軽く、佳味にして清徹、外に溢れ、四時ともに涸れることなし。所謂、逢坂増井よりも抜群にすぐれたりかや」と記す』
とある。
 この地に降臨したというアジスキタカヒコネはオオクニヌシの御子で、シタテルヒメの兄神。本来は出雲の神だが、オオクニヌシが「この神を鴨の神奈備に祀れ」と告げた(出雲国造神賀詞)ことから、奈良・葛城でも祀られ、出雲−葛城系の祖神とされる。アジスキタカヒコネの降臨伝承から、比売許曽神社旧地説が出てきたとも思われる。
 また、この清水を産湯につかったというオオ・オバセとは、中臣・藤原氏の祖神の一人。比売許曽神社にも併祭神として祀られているが、その出自からいって、ヒメコソの神との直接的な関係はない。

産湯玉之井・覆屋
産湯玉之井・覆屋
産湯玉之井
産湯玉之井
 井戸の垂木の上に三間相殿の小祠が祀られ、
左にオオナムチ・スクナヒコナ(医療の神・温泉の神)
中央にミズハノメ神(水の神)・御井神(ミイ、井戸の神)
右に祓戸神(祓いの神)・アジスキタカヒコネ
の6座がひっそりと祀られている。
 いずれも水あるいは井戸に関係する神々である。

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