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産湯稲荷神社(改訂)
大阪市天王寺区小橋町3-1
祭神−−宇賀之御魂神・下照姫命・大小橋命
                                                2020.07.01再訪

 JR大阪環状線・鶴橋駅の西約450m、駅北の東西道路(千日前通)を西へ、鶴橋交差点から3本目の辻を北へ入った左(西)にある小橋公園の北側に接して鎮座する。
 東成区東小橋にある比売許曽神社(ヒメコソ)の境外摂社。

※由緒
 境内に案内等見えないが、本社である比売許曽神社の略記(昭和8年1933)などを参照すれば、
 『当稲荷社の創建年代は不詳だが、元、大小橋命“産湯の井戸”付近にあった比売許曽神社の境内にあったという。
 天正の兵火(1576、信長の石山寺攻め)にかかり悉く烏有に帰したため、比売許曽神社は東小橋の現在地に遷り、当稲荷社は旧地に再建された。寛政8年(1796、江戸後期)刊の摂津名所図会の挿絵に当稲荷社が記載されているから、寛政以前から鎮座していたことは明らか。
 明治維新で一時私有に帰したが、大正2年、篤志家により比売許曽神社に寄進され、境外摂社とされた』
とあり、当社境内にある産湯の井戸付近に比売許曽神社があったが、後に現鎮座地(東小橋)に遷座し、その跡に当社が再建されたいう(御旅所ともいう)

 東成区東小橋にある比売許曽神社の旧地については諸説があってはっきりしない。
 当社辺りにあったという説もあり、そこから比売許曽社の境外摂社となり下照姫を合祀するのだろうが、比売許曾神社が当地にあったという確証はない(別稿・比売許曽神社参照)
 ただ、産湯稲荷という社名の由来となっている当社境内の玉之井が、下照姫の兄神・味耜高彦根命(アジスキタカヒコネ)に関係することからかもしれない(下記)

※祭神
   宇賀之御魂神(ウカノミタマ)・下照姫命(シタテルヒメ)・大小橋命(オオオバセ)
 
*宇賀之御魂神
   古事記では素盞鳴の御子、書紀では伊弉諾・伊弉冉の御子とあり、食物の神、特に稲の神として稲荷神という。
 *下照姫命
   大国主命の娘で、国譲り交渉のために降ってきた天稚彦命と結ばれたが、命が死んだとき、それを歎く泣き声が高天原まで聞こえたという。 
   命の葬儀の場に弔問のために訪れた味耜高彦根命が天稚彦と間違えられたとき、歌によって味耜高彦根の名を顕かにしたという。
   下照姫が比売許曽神社に祀られてることから、当社にも祀られたのであろう。
 *大小橋命
   記紀等には見えない神だが、中臣氏系系譜では天児屋根命11世の孫・雷大臣(烏賊津使主)の御子。中臣氏直系の一人で中臣氏・藤原氏・卜部氏らの祖という。
   当地に生誕し居住したという伝承から祀られたのであろう。
 
※社殿等
 小橋公園から続く鬱蒼たる叢林の中に鎮座する。
 境内東側に朱塗りの鳥居が東面して立ち、樹木にはさまれた参道の先に社殿がみえる。

 
産湯稲荷神社・社頭

同・鳥居 

同・参道 

 参道の先、石段の上に春日造・銅板葺きの社殿が東面して鎮座する。

 
同・社殿前
 
同・社殿

 社殿の左、玉垣の前に小石碑がずらりと並ぶ。篤志者が奉納した稲荷神の碑であろう。

 正面鳥居を入った左に「式内 比売許曽神社・・・」・「桃山跡」と刻した石柱2基が立つ。
 ・比売許曽神社碑−−曾て当地に比売許曽神社があったという伝承によって立てられたものであろう。
 ・桃山跡−−側面に刻された説明には
   「この産湯稲荷のあたりの丘陵は、桃山と呼ばれた。
   明治の頃まで、広大な桃の林があり、大正8年(1919)に埋め立てられた味原池とともに景勝の地として知られていた」
とある。

 
小石碑群
 
桃山跡・比売許曽神社石柱

◎産湯玉之井
 社殿の右、社務所脇から下へ降りる石段があり、降りた左手に自然石に「大小橋命産湯玉之井」と刻し石碑が立ち、
 鳥居の奥、覆屋の中に玉之井と称する古びた井戸がある。

 当社社名の由来となった“産湯の井戸”で、昔は渾々と湧きだす清水が庶民の飲料水として使用されていたが、近年の地下鉄工事やビル建設などで水位が下がり水質も悪くなったという。
 平成8年に手押ポンプ式に改造されたが、飲用には適しないという。

 由来書には、
 「古く神代の時代、オオクニヌシの御子アジスキタカヒコネがこの地に降臨されたときに湧きだした清泉にはじまり、“日高の清水”・“日高真名井の清水”ともいう。
 その後、中臣・藤原氏の祖神・アメノコヤネの13世の後裔・中臣烏賊津臣(ナカトミイカツオミ、雷大臣-イカツオミ-ともいう)の御子・大小橋命(オオオバセ)の誕生の折、この清水を汲んで産湯としたことから“産湯の清水”・“産湯の玉之井”とも呼ばれた。
 摂津国名所図会大成に『水気軽く、佳味にして清徹、外に溢れ、四時ともに涸れることなし。所謂、逢坂増井よりも抜群にすぐれたりかや』と記す」

 覆屋軒下に掲げる案内には
 「大小橋命は天児屋根命12世後胤にし、人皇13代の御代に味原郷に誕生し給ふ。其の所を字掃部屋敷とも藤原殿とも云ふ。
 此時に玉ノ井を汲みて産湯に用たれば此処を産湯と云ふ。
 御父は中臣の臣・雷大臣御母は紀氏清夫と申す。三男子あり。長男は大小橋命なり、又御味宿禰とも小橋宿禰とも申す。
 二男は意穂命と申し三男は阿遅速雄命と申す。
 ~代の時に、大国主命の御子なる味耜高彦根命天降り給ひし霊地なれば、此処味原とも小橋とも云ふ」
とある。

 この井戸について、摂津名所図会(1798)には
 「産湯清水(ウブユノシミズ)  
   高津の東にあり。此辺りを味原郷といひしぞ。伝云、大小橋命降誕のとき産湯に用ひしより名づく。水気軽く佳味にして清徹外に溢れ四時ともに涸ることなし

 抑此霊水は~代の昔、味耜高彦根命(アジスキタカヒコネ)此地に降臨し給ふ時掘穿ち給ひし清泉なるを以て日高の清水と号し或は日高真名井の清水とも称す。
 雷大臣の御子・大小橋命降臨ましませし時、此清水を汲て産湯とし奉りしより産湯の清水と号け、仁徳天皇の御宇には高津の清水とも称するとなり。(以下略)
とある。

 この地に降臨したという味耜高彦根命は大国主命の御子で、下照姫の兄神。
 本来は出雲の神だが、大国主が『この神を鴨の神奈備に祀れ』と命じたことから(出雲国造神賀詞)、奈良・葛城でも祀られ、出雲−葛城系の祖神とされる。(元々は葛城の神とする説あり)
 ただ、当地に味耜高彦根命の降臨伝承がある所以は不明。

 
大小橋命産湯玉之井の碑
 
玉之井覆屋
 
玉之井覆屋(北側道路より)

 今、玉之井はトタンの蓋で覆われ、手押しポンプが設置されているが飲料は不可。

 覆屋中の鴨居に小祠(三連社)があげられていて、覆屋柱の案内には
  左:大己貴神・少彦名神(医療の神・温泉の神)
  中:彌キ波能売神(水の神)・御井神(井戸の神)
  右:祓戸神(祓いの神)・味耜高彦根神(日高真名井始めの神)
とある。

 なお、井戸の東にある小屋の中に不動明王の小像が祀られているが、鎮座由緒等は不明。


玉之井 
 
鴨居上の小祠
 
不動明王像

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