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日牟禮八幡宮
近江八幡市宮内
                                                             2008.04.23参詣

 祭神−−誉田別尊(ホムタワケ尊=応神天皇)
       息長足姫命(オキナガタラシヒメ命=神功皇后)
       比売神(ヒメガミ=タギツヒメ・オキツヒメ・イチキシマヒメ−−九州・宗像神社の祭神

 日牟礼(ヒムレ)八幡宮は、近江八幡市市街地の北に聳える八幡山の麓に鎮座する。
 八幡堀に沿った道端に立つ大鳥居をくぐり、堀に架かる石橋を渡って参道を進むと楼門前に至る。参道突き当たりに神奈備山・八幡山が見える。

日牟礼八幡・大鳥居
日牟礼八幡・大鳥居
日牟礼八幡・楼門
日牟礼八幡・楼門

※創建由緒
 日牟礼八幡宮略誌(以下「略誌」という)によれば、
  「第13代・成務天皇が、武内宿禰に命じて地主神・大嶋大神を祀らせたのが当社の始まり」
という。
 成務天皇は、皇統譜では応神天皇の祖父に当たる方で、紀元131〜190年の在位(記紀による想定年代)とするが、その実在について疑問視されている天皇で、よしんば実在したとしても4世紀中頃ではないかという。
 また、天皇の命をうけて大嶋大神を祀ったという武内宿禰(タケウチスクネ)も、初期大和朝廷の景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5代の天皇に仕え、国政を補佐したとされる伝説的人物。

 略誌は続けて、
  「応神天皇(記紀によればAD270〜310)6年に、天皇が奥津嶋神社に行幸されたとき、当社の辺りで休憩された。後年、その時の休憩所跡に日輪の形2つを見るという不思議があり、社を建てて『日群(ヒムレ)八幡宮』と名付けた」
と記しているが、これまでは伝承と受け取るべきであろう。
 八幡信仰の大元である宇佐八幡宮に応神天皇が奉祀されたのは6世紀後半という。当社を応神天皇にからんで八幡宮と呼んだとすれば、それ以降のことであろう。

 時代が降って
  「藤原不比等公(659〜720)が当社に参詣し、奉献した和歌に“ひむれの社”と詠み込んだことから『日牟礼之社八幡宮』とも呼ばれ、その後、正暦2年(991)に、一条天皇の勅願により宇佐八幡宮を勧請して“上の八幡宮”として祀り、寛弘2年(1005)に遙拝のための社として“下の八幡宮”を建てた。現在の社は麓の社に相当する」
と記している。この辺りからは実態を記しているといえよう。

 わが国最古態の神社は神奈備山に山の神を祀ったことに始まるという。山上あるいは山中にあってカミが降臨するとされる巨岩・高木などを祭祀場として、マツリの都度、仮の社を建ててカミ祭をしていたと思われる。これを山宮・奥宮などという。その後、村落の定着が進むにつれて山麓にも社(里宮)を建て、山上のカミを迎えて祀ることが始まり、それが常設化したのが今の神社だという。
 当社も又これに該当すると思われるが、由緒などに山宮・里宮創建を明記しているのは珍しい。

 通常、上記の寛弘2年をもって現日牟礼八幡宮の創建とされているようだが、別伝では、天平年間(729〜49)に朝廷が各国一社の八幡宮を定めたとき、神功皇后の誕生地と伝えるこの地に、応神天皇を主祭神として創建されたともいう。
 ただ、天平年間創建とすれば、応神天皇を祀る社であるにもかかわらず、延喜式神名帳(927撰上)に載っていないのは不思議である。

 その後、
「豊臣秀次が当地を領したとき、八幡宮に居城を築くために“上の八幡宮”を“麓の社”に合祀して日杉山に移すことを計画したが、秀次の死(1595)により立ち消えとなり、今のように一社のみになった」
とある。この時、上の八幡宮はなくなったらしい。

日牟礼八幡・拝殿
日牟礼八幡・拝殿
日牟礼八幡・本殿
日牟礼八幡・本殿

※境内社
 境内には、本殿の左右に境内社(摂・末社)8社が並び18柱の神が祀られている。本殿右に大島・稲荷・八坂・恵比須の4社、左に岩戸、すこし離れて天満宮・常磐・宮比の各社である。

◎大島神社−−祭神:大国主命(オオクニヌシノミコト)・大鷦鷯命(オオサザキのミコト=仁徳天皇)
 本殿右隣にある祠。
 社頭の説明によれば
  「八幡宮遷座以前の地主神と伝え、徳川時代までは大嶋大明神または両神と称した」
とあり、成務天皇が武内宿禰に祀らせたという大嶋大神がこれであろう。

 今の祭神はオオクニヌシとなっている。オオクニヌシは出雲神話の主神・オオナムチの別名で、国土創造の神。地主神と国土創造神が通底することから、明治なって祭神名が替わったものと思われる。 
日牟礼八幡末社・大島神社
末社・大島神社

   明治以降、それまでの祭神を記紀神話あるいは風土記などの著名な神に替え、本来の祭神を摂社・末社に貶めた事例は多い。当社本来の祭神である地主神・大嶋大神がオオクニヌシに替わったのもその一例であろうう。
 旧祭神・大嶋大神はまず主祭神の座を追われ、次ぎに神名を消されるなど二度にわたって冷遇されたことになる。

 平安時代の延喜式神名帳には、近江国蒲生郡内の式内社として『大嶋神社』が載っている。今、日牟礼八幡の北東・北津田町に鎮座する『大嶋奥津嶋神社』(オオシマオキツシマ神社)に比定され、「大嶋神社」と「奥津嶋神社」の2社が並び建っているという。本来は別々の社だったが、古く鎌倉時代以前から合祀されていたらしい。
 大嶋神社の祭神はオオクニヌシで(かつては大嶋大明神だったのかもしれない)、日牟礼八幡と同じく“成務天皇の命をうけた武内宿禰によって勧請された”との伝承をもっている。

 合祀されている奥津嶋神社は大島神社より社格は高い。
  (神名帳には、近江国蒲生郡 大島神社、同郡奥津島神社 名神大とある)
 祭神のオキツシマヒメは日牟礼八幡の祭神・比売神の中の一柱と同じだが、更に国民休暇村の目前にある琵琶湖最大の島・沖ノ島にも『奥津嶋神社』という式内社があり、その祭神もオキツシマヒメとなっている(以上ネット資料)
 この祭神・オキツシマヒメは、八幡宮比売神の一柱というより沖ノ島の地主神であろう。とすれば、日牟礼八幡に祀られている比売神も八幡信仰にいう比売神かどうか怪しくなる。
 日牟礼八幡宮・末社の大島神社・北津田町の大嶋奥津嶋神社・沖ノ島の奥津嶋神社、相互に何らかの関係をもっているようだが、資料がなくはっきりしない。

◎繁元稲荷神社−−祭神:宇加之御魂神(ウカノミタマ)
 社頭の説明には、
  「江戸・享保2年(1717)に稲荷山に勧請。天保13年(1842)、当地が尾張藩領になったとき山祇神(ヤマヅミ・山の神)を合祀し、以来、代官所の鎮守として祀られていた。明治22年(1889)に当境内に遷座し、大正2年(1916)に幾つかの稲荷社を合祀した」
とある。
 祭神をウカノミタマとすることからみて伏見稲荷系である。山の神であるヤマヅミを合祀する理由は不明。稲荷神の原姿が山の神であるからかもしれない。

左:稲荷社・右:八坂社
末社・左:稲荷社・右:八坂社

◎八坂神社−−祭神:建速須佐雄命(タケハヤスサノヲ)・少彦名神(スクナヒコナ)
 社頭の説明には、
  「祇園さんと称え、牛頭天王社(ゴズテンノウ)ともいった。大正5年に粟島神社を合祀した」
とある。
 今、京都・八坂神社(祇園社)の祭神はスサノヲだが、江戸時代まではゴズテンノウとされていた。明治の神仏分離令により、ゴズテンノウはスサノヲと同体とする古伝承(備後国風土記・蘇民将来伝承)によって替わったもので、当社も同じである。本来の牛頭天王は中国渡来の強烈な疫病神で、そこから諸々の疫病を鎮圧するとされる。
 合祀されているスクナヒコナは、オオクニヌシとともに国造りをしたという小さな神で、農耕・医療をはじめたともいう。国造りの途中で、熊野あるいは淡島で粟茎に登って弾かれて常世国に渡ったとされる。それが当社に祀られている理由は不明。いずれも出雲系の神ということからかもしれない。因みに、大阪・道修町のスクナヒコナは医療神として祀られたもの。

◎恵比須神社−−祭神:事代主命(コトシロヌシ)・金山彦命(カナヤマヒコ)
 社頭の説明には、
  「摂津西宮神社から分霊した社で、もと新町に鎮座していたのを移したもの。大正3年に“針の社”を合祀した」
とある。近江商人たちが祀ったのが始まりであろう。
 祭神のコトシロヌシは出雲のオオクニヌシの子で、記紀の国譲り神話で父・オオクニヌシに代わって国譲りを承諾し、海中に隠れたという神。これが何故かエビス神と一体化して各地の恵比須社の祭神になっている。
 一方のエビス神は海の神で豊漁を司っていたのが、次第に守備範囲が広まり商売繁昌などの福の神になったもの。コトシロヌシ・エビスいずれも海の関係することからかもしれないが、納得できる解釈はみていない。祠には、いろんな姿のエビス像が8体祀られている。
 「針の社」というのは不明。祭神・カナヤマヒコはイザナミがカグツチを産んで亡くなる直前に、嘔吐した吐瀉物から生まれた神で、鉱山・金属・冶金などの神とされる。金属製の針を使う裁縫の神かもしれない。

◎岩戸神社−−祭神:橦賢木之御魂命・天疎向津姫命
 本殿の左に鎮座する。社頭の説明では、
  「往年、近江の人は毎年伊勢神宮に参詣していたが、それができない年の代参の社」
とある。祭神は、その読み・神格ともに不明だが、説明には
  「真の御柱といって、神殿の柱を祭神とする伊勢信仰が生まれている」
とある。
 字は違うが、伊勢の内宮・外宮の正殿床下には“心(シン)の御柱”があり、これも20年毎の式年遷宮に合わせて新しくされる。柱の三尺は地中にあり、二尺が地上に出ている。地上部分には五色の布(白布ともいう)が巻かれ、根元には800枚ほどの平瓮(ヒラカ・皿状の土器)が積み重なっているという。
 心の御柱は、太古の昔、イザナミ・イザナギがオノコロ島に立てた始原の柱であり、天と地を結ぶ宇宙軸であり、神(祖霊)が依りくる聖なる忌柱である。
 古く、宇宙樹は神そのものともされ、心の御柱もまたご神体だったともいうから、当社祭神は、単なる神殿の柱というより、宇宙樹としての“心の御柱”を神格化したものと思われるが、定かではない。

末社・岩戸社
末社・岩戸神社


 本殿の左手、すこし離れた一画に天満宮との神額を掲げた鳥居が立ち、その奥に3祠が並んでいる。

末社天満宮・鳥居
天満宮・鳥居
末社・天満宮・常磐社・宮比社
左:常磐社・中央:天満宮・右:宮比社

◎天満宮−−祭神:菅原道真
 社頭の説明には、
  「もと宮内町で祀っていた、慶長6年(1601)勧請。大正5年に現慰霊殿敷地から移築。宮内天神・庄六天神とも伝え、大正5年慈元天満宮を合祀」
とある。
 今、天神さん(菅原道真)は学問の神とされている。当社も宮内町の商人たちが読み・書き・算盤上達のために祀ったものと思われるが、その原姿は怨霊であって、配下に雷神・水神を従える大自在天神として霊威を振るい、人々に畏れられたという。古くは、農耕に必要な水を司る雷神・水神(農耕神)として祀られたとも考えられる。

◎常磐神社−−祭神:天照大神・豊受大神・熱田大神・津嶋大神
 初頭の説明には、
  「天保13年(1842)八幡が尾張藩領になったのを機に、惣年寄りが建設祭礼することを誓い、嘉永元年(1848)に城山に創建、尾張地方に関係のある諸神を祀った。明治2年(1872)繁元稲荷とともに今の境内に移築」
とある。
 熱田大神は名古屋の熱田神宮の主祭神、津嶋大神は津島市の津嶋神社(祭神:スサノヲ=ゴズテンノウ)の祭神。

◎宮比神社−−祭神:天宇受売命(アメノウズメ)
 初頭の説明には、
  「安政5年(1858)より稲荷山に祀ってあったものを明治8年(1875)に移築。古くから百太夫社(モモタユウ)を合祀している。天河枝比売は当社に祀られ、本社とも関係をもっている」
とある。
 アメノウズメは、天岩戸神話で岩戸の中に隠れたアマテラスを呼び戻すために卑猥な踊りを踊った女神で、天孫降臨神話では道の途中に現れたサルタヒコの正体を、その強力な眼力で顕現せしめた女神でもある。
 アメノウズメを主祭神とする社はあまり見たことがなく、当社で、どういう神格で祀られているか不明。遊芸元祖の神として、諸芸上達を願ったのかもしれない。
 合祀されている百太夫は、人形操りや散楽などの芸能に従事する傀儡子(クグツシ)などが祀った神で、遊女が信仰する神でもあったという。西日本の神社に末社として祀られることが多い神で(西宮神社が本家ともいう)、道祖神・疫病除神的性格をもつともいう。遊芸元祖の神アメノウズメと並び合祀される理由はある。なお、百太夫と並び祀られる雑芸の神として白太夫がある。.
 同じく天河枝比売とは、応神の后でウジノワキイラツコ(仁徳の異母弟)の母である矢河枝比売(ヤカハエヒメ、古事記)の“矢”を“天”と誤読したものらしい。とすれば「本社と関係をもつ」との説明も納得できるが、それがアメノウズメと合祀される理由は不明。

 当社境内に祀られている諸祠は、地主神である大島神社を除き八幡宮との関係は薄く、他所から移されたものがほとんどである。明治39年(1906)に始まった神社の合併・整理によって、経済基盤の弱い小社などが整理され大きな神社に合祀されている。当境内社もその一連の動きの中で合祀されたものであろう。

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