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明 尾 寺
大阪府平賀地誌山田池南町 3-1
正式寺名--多慶山万法蔵院 大悲殿明尾寺
宗派--真言宗
                                                      2020.12.31参詣

 国道1号線・出屋敷交差点の東に位置する山田池公園の、略中央を東西に走る小道の西寄り南側に鎮座する。
 周囲には府立・山田池公園が広がる。
 寺名・明尾は“アキオ”と読むが、河内名所図会は“ミョウビ”と読んでいる。

※縁起
 境内に立つ「明尾寺畧縁起」によれば、
 「当山は人皇33代推古天皇即位20年(612)に高麗国光明寺僧・徳胤僧正来日し、聖徳太子に十一面観音菩薩像を奉献する。
 太子はこれを受けて弟君・麻魯古親王(マロコ・麻呂子皇子・当麻皇子とも)へ勧教になり、河内国交野郡山田郷へ七堂伽藍を創建なされて、多慶山万法蔵院禅林寺と号し、この観音像を本尊として安置なされて、我が国最古の三論宗の名刹として開創なされ、推古天皇は挙げて官寺に列し給うた。
 弘仁年間(810--24)に弘法大師がこの地を巡錫の砌、密教の奥旨を伝えて以来真言宗にあらたまりしと伝う。
 元の伽藍は山田池の東北に位置し、薬師谷・明尾・高野道の名を残す。
 元和(1615--24)の兵戦により伽藍は焼失されしが、講堂の弥勒仏、大悲殿本尊仏は現在においても保存され、おまつりされている。
 元和中興伽藍は昭和9年(1934)の台風雨により被害を受けて倒壊、現在の小伽藍を復興するに至りしものなり」

 河内名所図会(1801)には、
 「明尾寺(ミョウビジ) 藤坂村にあり。真言宗。寺説云 初は中将姫の開基とぞ。土人、元当麻と呼ぶ。護摩堂・不動明王を安す」

 また、ネット資料・大阪再発見(霊場参拝)には
 「当山は院号を万法蔵院といい、寺伝によると、本尊十一面観音は用明天皇のとき、高麗の沙門・徳胤が持ち帰り、聖徳太子に賜ったもので、太子の弟・麻呂子がこの観音像を本尊として当山を開創したと伝わるが、その後、弘法大師が留錫して真言宗になったという。

 河内名所図会には、「寺説云、藤坂村にあり。真言宗。寺説云 初は中将姫の開基とぞ。土人、元当麻と呼ぶ。本尊十一面観音、長2尺許」
とある。
 
 奈良県葛城市にある當麻寺の縁起には、元は河内の交野郡山田郷に建てた万宝蔵院に始まるとし、その後、天武10年(681)麻呂子の孫にあたる当麻国見が大和国當麻の地に移し、この地方の豪族・当麻氏の氏寺として整備したと伝えでいる。
 また、當麻寺には中将姫に関わる伝説も残されており、この明尾寺の縁起と相通ずる部分が多く、古代には、この2寺院は何らかの関わりがあったものと思われる。

 嘉吉元年(1441)の『興福寺官務牒疏』には『明尾寺在同郡 城州普験寺別院 慈訓僧正開基 坊舎九宇』とあり、開基は天平時代の奈良興福寺の僧・慈訓としており、興福寺の支配下にあったことが記されている。

 南北朝時代には、当地を支配していた中原氏が率いる津田党や獅子窟寺の宗徒・交野郷士らと共に津田城で楠木正儀を助けたと伝える。
 大坂夏の陣の兵火で緒堂宇は焼失、その後元和に復興された堂宇も昭和9年(1934)の室戸台風により倒壊。
 現在の堂宇は昭和37年(1962)に小伽藍が再建され、同57年(1982)に大悲殿・霊名殿・緒仏像などか落慶した」
とある。


 大阪再発見には、当寺は元当麻と呼ばれ、奈良の当麻寺は当寺を移したものとあるが、それに関連して
 当麻寺縁起に、
 「麻呂子王による草創は推古天皇20年のことで、救世観音を本尊とする万法蔵院として河内国に創建されたものであるという」
とあるといわれ(原文は行書体の筆書きのため判読不能で、当該部分は未確認)
 上宮太子拾遺記(1912)との資料には、当麻寺の開基に関して、
 「推古20年(611)用明天皇の皇子である聖徳太子の異母弟である麻呂子親王が、聖徳太子の勧めで河内国に万法蔵院を建てた。そして、天武天皇の朱雀6年(692)麻呂子親王の夢告により、この万法蔵院を現在地に移し、寺号を禅林寺としたのが始まり」
とある。
 また、当麻寺関連資料をみると、当麻寺は創建当時禅林寺と称したともあり、当寺も曾て万法蔵院禅林寺と称したことからみて、当麻寺が当寺を移したものというのは史実かもしれないが、当寺縁起には記述なく、また寡聞にして傍証となる資料は見あたらない。


※境内
 道路脇からの石段を上った右に朱塗りの山門があり、山門の右に「多慶山万法蔵院 真言宗 大悲殿 明尾寺」との標柱が立つ。

 
明尾寺・入口
 
同・山門
 
同・標柱

 山門から続く参道の奥に朱塗り・瓦葺きの本堂・大悲殿が南面(正確には南東面)して鎮座する。
 内陣須弥壇は黄金色に荘厳され煌びやかに赫いている。
 本尊・十一面観音は厨子の中に納まっているようで外からは見えず、その尊像は十一面観音像というだけで詳細不明。
 なお、本堂の右に霊明殿との堂宇があるが、如何なる堂宇かは不明。


本堂・大悲殿(正面) 
 
本堂(側面)
 
内 陣

 山門を入って最初に、参道左に聳える鐘楼が眼に入る。
 鐘楼は円錐形三重の屋根を持つ変わった形で、一見ホラ貝を連想させ、当寺を象徴する建造物といえる。
 鐘楼へは、周りを螺旋状に取り巻く坂路を上って上がる。


鐘楼(参道より) 
 
鐘 楼
 
梵 鐘

 鐘楼の周りに3躰の尊像が立つ。
*弘法大師像
  鐘楼の参道側に立つ立像で、巡錫姿の弘法大師を表す。
  境内の「弘法大師御入定1150年御遠忌大法要(昭和58年5月22日修行)」との案内に『空海修行大師像建立開眼法要』とあるから、昭和58年頃に建立されたのであろう。
*聖観音像
*子安地蔵像 
  この2躰は鐘楼の南側に並び立つ尊像で、その建立時期は不祥。


弘法大師像 
 
聖観音像
 
子安地蔵像
 
尊像と鐘楼

 参道の右側に「水子地蔵堂」があり、中央部に子供を抱いた水子地蔵が安座し、左右に地蔵像と位牌が並んでいる。


水子地蔵堂 

水子地蔵像 
 
左右に列ぶ地蔵像と位牌

 境内の南半分には墓地が広がり、綺麗に清められた墓石が並び、
 その一画に六地蔵像が並び立つ。
 また墓地の北のはずれに朱塗りの延命地蔵堂が建ち、中に地蔵尊像が安置されている。

 
墓 地
 
六地蔵像

延命地蔵堂 

 山門を入ってすぐの右に朱塗りの鳥居が立ち、その奥に一間社流造の小祠が鎮座する。
 台座の刻銘には『多慶山鎮守 稲荷明神』とある。

 
鎮守社・全景
 
同・社殿

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