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枚方の神社−1
交野天神社・二の宮神社・片埜神社(式内社、付:式内社・久須々美神社)
・朝原神社・瘡神社

大阪府枚方市内にある神社32社のうち、最北部に位置する上記5社についての概要

【交野天神社】(カタノ アマツカミノヤシロ)−−楠葉丘2丁目
  京阪・樟葉駅の東北約1.4q、市民の森公園・楠葉中学校に北接する叢林の中に鎮座する。周りは閑静な住宅地となっている。枚方市内で最も北に坐す神社。

  祭神−−光仁天皇・天児屋根命(アメノコヤネ)菅原道真

 由緒書きによれば、
 「桓武天皇(781〜806)が延暦6年(787)、この地に郊祀壇(コウシダン、祭祀のための土壇)を設けて父・光仁天皇(770〜81)を天神(アマツカミ)として祀った。これは中国の皇帝が、毎年の冬至に天壇を設けて天神を祀った例にならったもので、この郊祀壇が当社の起源」
とある。
 “天神”といえば“テンジン”と読んで菅原道真を指すのが普通で、当社も、中世の頃には天満宮と称していたという。これは、本来の当社が天神(天つ神・アマツカミ)を祀ることから、同じ天神と書くアマツカミとテンジンとの混同によるもので、創建由緒からいえば、当社は“アマツカミ”を祀る神社であって、社名は“カタノアマツカミノヤシロ”と読むべきであろう。

*郊祀壇祭祀
 中国では、古く、天空の星座が北極星を中心として回転することから、北極星を最高神・晃天上帝(コウテンジョウテイ)として、これに国家鎮護・除災招福を祈り、その運行を測って暦を作ることが皇帝の重大な責務とされていた。そのため古代の中国では、冬至にあわせて宮廷の南郊に天壇を設け、皇帝自ら晃天上帝ならびに天子の祖先を併せ祀った。
 桓武が行った郊祀壇祭祀は、中国・唐朝における天神祭祀を模したもので、続日本紀・延歴4年(785)11月10日条に「天つ神を交野の柏原に祀った」とあり、同6年11月5日条に、「天つ神と高紹天皇(タカツグ=光仁天皇)を交野に祀った」とある。
 光仁天皇とは、それまでの天武系皇統に代わって天智系皇統を復活させた天皇で、桓武は、中国で天帝に併せて王朝創始者を祀ったことを模して、父・光仁を新しい皇統の祖として祀ったのではないかともいう。

 いま枚方市内には、郊祀壇跡と称する神社が2社(当社と杉ノ本神社・在片鉾本町)あり、どちらとも言いがたいが、続日本紀の延暦4年の交野柏原に“枚方市片鉾本町”との注記があり、杉ノ本神社が有力かもしれない。

*祭神
 創建由緒にいうように、当社の主祭神は「光仁天皇」。

 他の2神(アメノコヤネ・菅原道真)は、明治5年の神社の整理統合に際して、他所にあった春日神社(祭神:アメノコヤネ・字対馬野)と天満宮(祭神:菅原道真・字岸の町)を合祀したものという。
交野天神社・拝殿
交野天神社・拝殿
交野天神社・本殿
同・本殿−−左:天神社、右:八幡社

 なお、菅原道真の合祀について、続日本紀の“道真の父・是善が桓武帝に従ってこの地を訪れた”ことに由来するという(旧枚方市史、但し続紀の桓武紀に是善の名は見えない)。春日社の合祀由来は不明

※末社−−八幡神社・貴船神社・大神社(オオカミノヤシロ)

◎八幡神社−−祭神:ホムタワケ尊(応神天皇)
 末社とはいえ、神域のなか、本社本殿の右に鎮座し、『若宮八幡宮』とも称する。
 楠葉の地は、石清水八幡宮関係の古文書に「八幡宮領河州楠葉郷」(長享元年-1487-文書)あるいは「神領楠葉」(明応3年-1494-文書)とあるように、古くから石清水との関係が深く、また当社の神宮寺が石清水神宮寺の末寺となっていた関係で、当社内に祀られたものという。

◎貴船神社−−祭神:タカオカミ神・継体天皇
 本殿右手、疎林のなかの小道を突き当たり、石段を登った上に鎮座する。

 石段下には「史跡 継体天皇樟葉宮跡伝承地」との石碑が立つ。
 貴船神社は、古くから楠葉の氏神として祀られていた神社で水神(竜神)・タカオカミを祀る
 昔は旱天時の雨乞い祈願が盛んで霊験あらたかだったという。因みにタカオカミのオカミとは、水を司る龍を意味する古語。

 創建年次は不明。大阪府指定史蹟(昭和34年)
末社への石段
石段の上に末社がある
末社・貴船神社
末社・貴船神社

 継体合祀について、由緒によれば、
 「人皇第26代継体天皇が越前高向より還御、ご即位の大典を挙げ給ひし処で、在処わずか5年にして都を山城筒城に遷された。その宮跡を永遠に記念せんがために、交野天神社創始以前からの氏神・貴船神社タカオカミをこの地に遷し、継体天皇をあわせ祀り奉る」
とある。

※樟葉宮址
 継体天皇(6世紀初頭)とは、25代・武烈天皇崩御後、後嗣がなかったため越前三国(福井県)から入って皇位についた天皇。応神天皇5代の孫というが真偽不明。
 当時の政治状況から直接大和に入れず“河内国交野郡葛葉の宮”(日本書紀)で即位、5年後に綴喜(京田辺市付近)から弟国(長岡京市付近)へと移り、20年後に大和へ入ったという。これらの経緯から、継体をもって新王朝創始とする説もある。
 その葛葉時代の宮が当地だというが、藁葺き掘立柱を主体とする当時の建物跡など発掘不能のため確証はない。ただ、その陵墓を今城塚古墳(高槻市)とする説が大勢であることからみて、この辺りを根拠としていたのは確実らしい。

◎大神社(オオカミノヤシロ)−−祭神:アマテラス・神武天皇
 本殿右にある小祠。旧北河内で神武天皇を祀る唯一の祠という。


【二の宮神社】−−船橋本町丁目
  京阪・樟葉駅の東南約900m、藤原バス停から西へ入った住宅地に残る疎林のなかに坐す。

  祭神−−タケハヤスサノヲ命・イナダヒメ命・オオナムチ命

 社伝によれば、
 「仁徳天皇29年(5世紀頃)春の勧請にして、用明天皇(585〜87)は当国を堅め給ひし矛を巨鎮となし、桓武天皇は延暦16年(797)大納言藤原継種を遣はして奉幣祭祀せしめ、文徳天皇は斉衛3年(856)また大納言藤原良由を遣はして奉幣祭祀せしめ給ひしといふ」
とある。仁徳天皇・用明天皇の事績は一つの伝承であろう。

 その後室町時代までの経緯は不詳。天正年中(1573〜92)には織田信長の崇拝をうけて興隆したが、豊臣秀吉の神領没収により衰微、続く豊臣秀頼が大阪城鬼門除けの社として再建(慶長8年1603、片桐且元記名の棟札あり)、以後、『二の宮』を称したという(一の宮は片埜神社)
 今の社殿について、「寛文6年(1666・江戸前期)に修復したが大破したので、文化2年(江戸後期・1805)再建した」(棟札)という。

二の宮神社・拝殿
二の宮神社・拝殿
二の宮神社・本殿
二の宮神社・本殿

※祭神
 今の祭神は、スサノヲとその后イナダヒメ(八岐大蛇の生贄になるところをスサノヲに助けられた姫)およびその後裔・オオナムチ(古事記)という出雲系の神で占められている。
 古くは“二宮牛頭天王社”と称し、秀頼による再建後“二宮神社”と改称したというが、社名はともかく、祭神は防疫神・ゴズテンノウおよびその眷属神であったものが、明治の神仏分離によりゴズテンノウのように由緒のはっきりしない神は邪神として排斥されたために、異名同神とされるスサノヲに替えたものであろう。

 ゴズテンノウとは、インドから中国を経てわが国に伝わった渡来神。いろんな説話・伝承をもつ複雑な神だが、わが国では一般に疫病神として知られ、その猛烈な疫神性から、逆に、これを祀ることで諸々の疫病を抑えてくれる防疫神として信仰された神で、10世紀にはじまる祇園御霊会の祭神として祀られ、その後、夏に流行する疫病を押さえる祭りの主役となった。
 またスサノヲと同体とする伝承(蘇民将来伝承備後国風土記)から、明治初年の神仏分離以降スサノヲを名乗るようになった。今、枚方でスサノヲを祀る神社のほとんどが、江戸期まではゴズテンノウを祀る疫病除けの神社だったといえる。

※末社−−愛宕神社・猿田彦神社・皇大神宮・稲荷神社

◎愛宕神社−−祭神:火結命(ホムスビ)
 本殿左にある古びた小祠がそれだろうが、木札の神名がかすれていてはっきりしない。承徳2年(1098、院政期始め)に当社の神主・源民部丞光時が勧請したものという(旧枚方市史)
 ホムスビとはイザナミが最後に生んだ火の神・カグツチの別名とされ、一般には“火伏せの神”(防火の神)として信仰を集めた。
 愛宕信仰の源流は、京都の西北方にある愛宕山(H=624m)を霊山と仰ぐ山岳信仰にはじまる。
 愛宕山縁起には、
 「大宝年間に役行者によって創始されたとされる神仏習合の修験道場で、平安時代には東の比叡山に対して西方を護る王城鎮護の神として朝廷から崇拝され、中世以降は山岳修験の行場として、また火災除けの神として信仰を集めた」
とある。
 役行者創始は別として、京の西北方に位置する愛宕山が雷雲の発生しやすい位置にあることから、この山には火の神・雷神が坐すとされ、そこらか火伏せの神としての信仰が生まれたという。なお愛宕山には、日本八大天狗の筆頭・太郎坊が住むとされた。 
二の宮・愛宕神社
愛宕神社?

 江戸時代になって、徳川家康が江戸城の西方・芝の小山(東京都港区)に愛宕大権現を勧請して江戸城西方の鎮護としたことから、各地に愛宕講が結成され、「お伊勢へ七度、熊野へ三度、愛宕山へは月参り」といわれるほどの人気を集めたという。
 当社は、二の宮神社(牛頭天王社)の火災除けとして勧請されたのであろう。

◎猿田彦神社−−祭神:サルタヒコ命・アメノウズメ命
 神社入口の大鳥居右にある覆屋の中に鎮座する古びた小祠。宝永7年(1710)、井上広仲という人が社殿を創建して勧請したという。
 戦後すぐまでは「謹奉勧請河内二宮末社 猿田彦命・本地大聖不動明王、天鈿女命・本地金剛愛染明王云々」との棟札があったというが・・・。
 記紀神話・天孫降臨の途中に道案内の神として現れたサルタヒコは複雑な神格をもつが、一般には彼我の境界にあって邪神の侵入を遮る“塞の神”として、道中安全の守護神いわゆる道祖神とされることが多い。当社でも、道祖神として鳥居横の道端に祀られたのであろう。 
二宮神社・社頭
右奥がサルタヒコ社
二宮・猿田彦神社
猿田彦神社

◎稲荷神社
 資料によれば、「当社北方の稲荷山にあった祠を遷したもので、その址から1000年以上前の珍しい瓦が出土している」とあり、かつて旧社があった北船橋町内に「稲荷神社址」の石碑があったというが、今はなくなっている。


【片埜神社】(カタノ・式内社)−−牧野阪2丁目
 京阪・牧野駅の東南約300m、牧野公園を右に入ると片埜神社に至る。
 古くカタノは、交野・肩野・片野など種々の字が当てられたが、、当社の神社名『片埜』は、久邇宮ご宸筆(明治30年)の鳥居神額に“片埜”とあることに起因する。因みに“埜”とは“林の中にある社”を意味し、“野”の古字。

  本祭神−−タケハヤスサノヲ大神・クシイナダヒメ命・ヤシマシヌミ命・菅原道真
  併祭神−−アマテラス大神・ホムタワケ尊(応神天皇)・アメノコヤネ命
         ・八幡大神・クナド神・クススミ大神・コトシロヌシ命
(エビス神)

 当社は、延喜式・神名帳(927撰上)に『河内国交野郡 片野神社 鍬靫』とある古社で、今に残る旧交野郡唯一の式内社。また当地が大阪の北東に当たることから鬼門除け・方除けの神としても知られ、古くから『河州一の宮』あるいは『牧郷一の宮』と呼ばれて広く信仰を集めたという。なお、明治42年に、式内社・『久須々美(クススミ)神社』が当社に合祀されている(後述)

 神社略記によれば、
 「垂仁天皇の御代に、出雲国の勇者・野見宿禰(ノミノスクネ)が力自慢の当麻蹴速(タイマノケハヤ)との御前相撲に勝ち、その恩賞として河内国(日本書紀には“大和国当麻の地”とある)を賜った。そのスクネが出雲の祖神・スサノヲをこの地に奉祀して、土師氏の鎮守としたのが草創」
で、その後、
 「欽明天皇(539〜71)の勅で『片野神社』と称し、村上天皇の天慶4年(960、平安中期)に勅願により野見宿禰の後裔・菅原道真を合祀した」(岡田家家譜)
とある。
 旧枚方市史には、
 「用明天皇の御宇(585--87)、聖徳太子の懇請により社殿造替のうえ、別に一宇を建て帝釈天・四天王を祀り、国家鎮護の社とされた」
とある。境内に神宮寺を建てたということであろうが、聖徳太子の頃に神仏混淆思想があったとは思えず、詳細不明。

 ノミノスクネはアマテラスの第2子・アメノホヒの14世の孫とされ、、大王などの葬送儀礼時の殉死の習俗に替えて陵墓に埴輪を立てることを進言し、喜んだ天皇から“土師”(ハジ)の姓を賜ったとされる伝説上の人物。
 土師氏は、大王の葬送儀礼・陵墓築造・祭祀用土器(土師器)の製作などにかかわる氏族で、平安初期に3氏に別れて大江・菅原・秋篠と改姓したが、菅原道真はそのひとつ菅原氏の後裔という。

 当社は、中世の頃には「牧州一の宮 牛頭天王社』として知られたという。ゴズテンノウとはスサノヲと同体とされる防疫神で、明治の神仏分離に際してゴズテンノウが排斥されたために、同じ神格をもつスサノヲに変更したもので、菅原道真もまた御霊の最たるものであり、そういう意味では同じ神格をもつ。
 江戸時代までの当社は、御霊・怨霊信仰を基盤に疫病除けという現世利益をもたらす神として信仰されていたと思われる。

※祭神
 今の祭神は出雲系の神でまとまっているが(クシイナダヒメ:スサノヲの后、ヤシマツヌミ:御子神)、他に、物部氏の祖神『ニギハヤヒ』あるいは同じ物部氏系(隷属氏族)の『交野忌寸の祖神』とする説もある。
 古く枚方・交野地方は物部氏が勢力を張っていたことから、物部氏の祖神・ニギハヤヒを祀る神社が多く、物部宗家の滅亡以後も物部肩野連(ムラジ)・肩野連・交野忌寸(イミキ)といった物部氏系の一族が多かったことによる説だろうが、伝説的な野見宿禰創建説より、事実に近いかもしれない。

◎併祭神
 当社には、主祭神の他にも合祀されている神々が多い。これらの神々は明治39年(1906)の“社寺合併に関する通達”によって、小規模な村社・無格社などの整理統合が強制されたことから、明治42年、当地一の宮である当社に統合・合祀された村々の氏神で、15座を数える(重複あり)。式内社1、村社8、無格社1を数えるが、今、そのうち3社は旧地に戻っている。 

※社殿
 ◎本殿−−桃山時代の建築様式を伝える逸品で豊臣秀頼修復時(慶長7年1602)のままと伝え(当時の棟札あり)、重要文化財。
 三間流造で屋根は檜皮葺き、木部は朱塗り・要所に飾り金具を施した桃山時代様式の豪華な社殿というが、遠目にはよくみえない。
 ◎門−−東と南に門があり、両門とも大阪府の指定文化財。東門(黒門ともいう)は鎌倉時代の武家屋敷に常用された「棟門」(ムネカド)の遺構で、南門(赤門ともいう)は桃山時代の建物で切妻造・丹塗りの四脚門。

片埜神社/東大鳥居
片埜神社・東大鳥居
片埜神社/南大鳥居
同・南大鳥居
片埜神社/拝殿
同・拝殿
片埜神社/本殿
同・本殿
 

※末社−−依姫社・稲荷社
  境外末社−−朝原神社・瘡神社

◎依姫社(ヨリヒメ)−−祭神:タマヨリヒメ命・オオクニヌシ命・イチキシマヒメ命
 タマヨリヒメとは、降臨する神に仕え聖婚によって神の御子を生む聖なる女性(巫女)を指す一般名称で、玉・タマとは“神霊”、依・ヨリとは“依り来る”で、神が憑依することを意味する。洋の東西をとわず、神の子を生む聖なる女性の伝承は各地に数多く残っている。
 オオクニヌシは出雲神話の国土創造神で多くの別名(神格)をもつ。当社にどのような神格で祀られているのかは不明。二人の女神と一緒のことから、艶福の神・ヤチホコとみたいが・・・。
 イチキシマヒメは、福岡・宗像神社の3女神の一柱で海の神・航行守護の神だが、宮島・厳島神社の祭神でもある。何故か福の神・弁才天(弁天さん)と習合しており、当社では弁才天として祀られていると思われる。
 神社史資料には、「境内に玉依姫神社・大国主神社・厳島神社などの末社あり」とあり、もとは別々に祀られていたのかもしれない。
片埜神社末社・依姫社
◎稲荷社−−祭神:ウケモチ神・タケミカヅチ神・フツヌシ神・アメノコヤネ神・ ヒメ神・クナド神

 主祭神は“穀物神”のウケモチ。稲荷社の祭神には穀物神・稲の神のウカノミタマが多いが、当社のように神格を同じくするウケモチを祀る社もある。当社への鎮座時期など不明だが、穀物神というより、商売繁昌の神として祀られたものであろう。
 タケミカヅチ以下の4神は藤原氏が氏神として祀る春日大社の祭神、クナド神は境界にあって邪霊の侵入を遮る塞の神でドウソシンと同じ。
 それが稲荷社に合祀される由縁はいずれも不明。
片埜神社末社・稲荷社


【式内社・久須々美神社】
 明治42年に合祀されたクススミ神社(祭神:クススミ大神)とは、他に見聞きしない神社・神名だが、当社の南東約500mの旧坂村字九頭神(クズガミ、現牧野本町1丁目7番地辺り)にあった延喜式内社。
 古く、牧野郷坂村にあったが、淀川改修のため社地が買収され(明治29年)字九頭神に遷ったが、火災に遭って焼失したという(大阪府全志)。この時、社殿・資料ともに焼失したため由緒・系譜など不明、推定跡地も宅地化していて遺構は残っていない。
 旧地辺りから発掘された九頭神廃寺は白鳳期以前からの寺というから、クススミ社もまた古い由緒をもつものだったと推定される。今は当社境内の片隅に『式内久須々美神社』との石碑が立つのみ。

追記(2009.7.6)
 神社名・久須々美について、江戸中期末の国学者・伴信友(1778--1846)は、“久須个美”(クスカミ)の“个”を“々”と誤写したもので、“葛葉上神社”が本来の神社名だろうという。
 また、旧地のすぐ南を流れる穂谷川沿線には弥生時代の遺跡が点在することから、この辺りで早くから農耕を始めた人達がその祖神を産土神として祀ったのが、当社の始まりではないかという(式内社調査報告1977)

【朝原神社】−−牧野本町1丁目
 片埜神社東門から真っ直ぐ北東へ約300m、消防署(坂出張所)左隣に鎮座する小祠。道路脇の狭い境内に建っているが、片埜神社の境外摂社というのみで資料なく、鎮座由緒など不明。

  祭神−−サルタヒコ命
 片埜神社社頭に掲げる祭神案内には“道祖神・子孫繁栄の神・交通安全の神”とある。 サルタヒコにはいろんな神格が付加されているが、その“道を拓く”ということから塞の神(ドウソシン)と習合して、境界(辻・峠・橋・道端など)にあって外からの邪神・悪霊を遮り、旅人の安全を護る神とされる。また、その大きな鼻から性神ともされ同伴するアメノウズメとともに穀物の豊かな稔り、ひいては子孫繁栄をもたらすとの神格をもつ。
 当社が面する道路は古くからの街道筋にあたり、ドウソシンとして祀られた祠がはじまりと思われる。
朝原神社・社頭

【瘡神社】(クサ)−−牧野本町1丁目
 消防出張所を挟んで朝原神社の反対側に鎮座する小祠。道端の樹木に囲まれた狭い境内に建つ。
 前記祭神案内には“皮膚病・病気治癒の神”とあり、神社略記には「瘡(クサ)や皮膚病一般に霊験あらたかなり」とある。
 枚方市史によれば、元来は馬を祀ったもので「菅原道真か筑紫に下向する途中、乗っていた馬が病んだため里人に預けたが死んでしまったので、それを埋めて祠を建てて祀り、草・切り藁などを供えていた。それがいつのまにか『クサ神』と呼ばれるようになり、馬の絵馬や藁の馬を供えて皮膚病の治癒を祈るようになった」とある。
 馬の飼料の草と皮膚病の瘡・クサとの語呂合わせによる民間信仰である。

  祭神−−ホスセリ命
 ホスセリとは、天孫ニニギと山の神・オオヤマツミの娘コノハナサクヤヒメとの間に生まれた3神のうちの第2子。この時、ニニギから“一夜の交わりで孕むとは、わが子ではなかろう”と疑われたヒメは“天神の子なら、火中にあっても無事に生まれるであろう”と産屋に火をかけて出産したとあり、火が燃えさかるように稲穂がどんどんと成長するさまを象徴した神という。
 この神話にいう燃えさかる火を表す神が、なぜ皮膚病の神とされるのか不明。ただ、古く、最も畏れられたクサといえば疱瘡(ホウソウ、天然痘)で、疱瘡除けには赤い色が多用されたことからみて、燃えさかる赤い炎の中から身を損なわずに生まれ出たホスセリを疱瘡除けの神としたのかもしれない。因みに赤色は、古くから邪悪なものを退ける力があるとされた。
瘡神社・祠

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