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枚方の神社-2(改訂)
日置天神社・杉ヶ本神社・山田神社(田口)・甲鉾八幡宮・栗倉神社・御殿山神社
                                                     2021.01.13再訪・改訂

大阪府枚方市内にある神社32社のうち、中央部北寄りにある上記6社の参詣記

【日置天神社】(ヒオキテンジンジャ)--招提南町 2-28-1
 枚方交野寝屋川線の東側、招提南バス停すこし北の角を東へ入った左側(北側)に鎮座する。
 招提地区にある唯一の神社で、招提中学校の西に当たる。

  祭神--天御中主尊(アメノミナカヌシ)・菅原道真

※由緒
 境内に立つ案内(枚方市教育委員会・1995)には、
 「日置天神社には、惟喬親王(844--97、文徳天皇第一皇子)が交野ヶ原で遊興したとき、愛鷹の姿が見えなくなったので、日没を惜しんで『日を止め置かせ給え』と天神に祈願したという伝承がある。
 中世におけるこの付近は、東高野街道筋に発達した集落(日置郷)として賑わい、社寺が甍を競っていたという。

 南北朝期の動乱に際してたびたび戦禍に見舞われ、14世紀中頃には民家・堂塔ともに灰燼に帰したと伝えられる。
 その後16世紀中頃、真宗8世蓮如の6男・蓮淳(1464--1550)を招いて当地を寺内村(招提寺内村)として再開発した折、当社を寺内鎮守として再建したと伝える」
とある。
 なお、招提寺内村は織田信長の石山本願寺抗争の際に廃されたという。

 北河内のお宮(2009)は、
 「日置天神社境内とその周辺は、『日置山遺跡』と呼ばれる古墳時代から中世までの複合遺跡で、昭和57年の発掘調査では、中世の貝層(貝塚)をはじめ溝・土坑などが、また日置郷の開発の為に破壊された古墳(方形憤)と考えられる遺構が確認された。
 周辺には『火置千軒』と伝えられる繁栄の跡が未だ眠っていると思われる。
 日置天神社には、惟喬親王が交野ヶ原で狩猟されたとき愛鷹の姿が見えなくなり、日没を惜しんで『日を止め置かせ給え』と天神様に祈願されたという伝承がある。

 中世におけるこの付近は、東高野街道筋に発達した集落(日置郷)として賑わい、社寺が甍を競っていたという。
 しかし、南北朝期の動乱に際してたびたび戦禍に見舞われ、14世紀中頃には民家・堂塔とも灰燼に帰したと伝える。
 その後、16世紀中頃、真宗八世蓮如の6男・蓮淳を招いて当地を寺内村(招提寺内村)として再開発した折、当社を寺内鎮守として再建したと伝える」
という。

 また、当地にあったという日置山遺跡について、上記案内には、
 「日置山遺跡は日置山神社境内とその周辺を指し、かつては“タニシの貝塚”として知られていたが、昭和57年の発掘調査により中世の貝塚をはじめ溝・土坑などが確認され、また、日置郷の開発のために破壊された古墳(方形墳)と考えられる遺構を検出した。
 このように、日置山遺蹟は古墳時代から中世までの複合遺跡で、周辺には日置千軒と伝えられる繁栄の跡が眠っているものと思われる」
とある。

 これらによれば、当社は日置千軒と呼ばれた集落の人々が産土神として奉祀したことに始まると思われるが(13--14世紀頃か)、当地附近に惟喬親王関連の伝承が多いことから、親王愛鷹云々との故事を以て創建由緒としたのかもしれない。

 ただ、大阪府全志(1922)・日置神社の項には
 「日置神社は招提村南方字字日置にあり、天御中主命及び菅原道真を祀れり。道真は元和元年(1615)の合祀なりといふ。
 創建の年月は詳ならざるも、天文17年(1548)佐々木義昌の古・綱久なる者、江州より此の地に移して社殿を建営せりと伝ふ」
とある。
 所在地及び祭神が同じことから、ここにいう日置神社は当社を指すと思われるが、その創建由緒を16世紀中頃江州(近江国)からの勧請としている。
 これは、上記由緒にいう本願寺蓮淳の招聘による招提寺内村の開発と、その鎮守としての当社の再建を記したもので、佐々木綱久とは蓮淳を招いた人物かもしれない。

※祭神
    天御中主命・菅原道真
 主祭神の天御中主尊は、天地開闢のとき、混沌の中から最初に成り出た造化三神の中心となる神だが(古事記)、冒頭に登場するだけで以後は何らの事績もなく身を隠し、古社の中でこの神を祀る事例もないという不思議な神。
 鎌倉時代以降になると世界を創造し支配する最高神という神格が与えられ、伊勢外宮の主神・豊受大神と同体とされたり、神仏習合の進展によって仏教の妙見菩薩や道教の鎮宅霊符神と同体とされるなど、いろんな神格が付加されている。

 その天御中主尊が当社に祀られた由縁は不明。
 惟喬親王が日没を留めようと祈った天神(アマツカミ)を天御中主尊に当てた、ということだろうか。

 併祭神の菅原道真は、慶長末年頃(1615頃)に合祀されたというが、その由緒は不明。
 今、拝殿前に道真に関係の深い牛の臥像があることからみると、天神(テンジン)はアマツカミではなく菅原道真という認識が強いらしい。

※社殿等 
 道路脇に日置天神社との石柱が立ち、少し入った処に鳥居が南面して立ち境内に入る。

 
日置天神社・社頭
 
同・鳥居
 
同・境内

 境内北側に唐破風向拝を有する入母屋造・亙葺きの拝殿が南面して鎮座する。

 
同・拝殿(正面)
 
同・拝殿(側面、右の社殿は本殿)
 
同・内陣

 拝殿の裏、弊殿を介して流造・亙葺きの本殿が鎮座するが、これは覆屋で、拝殿内陣から奥を望むと、一間社流造らしい本殿の社殿がみえる。


同・本殿(覆屋) 
 
同・本殿社殿(拝殿内陣より) 

◎境内社--三社神社・稲荷神社
*三社神社--祭神:天照大神・八幡大神・春日大神
 境内東側に鎮座する小祠で、社頭に「天照甲大神・八幡大神・春日大神」とあるのみで、他に案内なく創建由緒など不明。
 ただ、天照・八幡・春日の三神を一社に祀ることからみて、中世から近世にかけて流行した“三社託宣信仰”に関わるものかもしれない。

 三社託宣信仰とは、天照皇大神宮・八幡大菩薩・春日大明神三神の神像や託宣の文章を記した掛物を信仰の対象とする信仰で、室町中期頃からはじまったという。。
 三神の託宣とは、“正直”(天照)・“清浄”(八幡神)、“慈悲”(春日神)といった道徳的徳目で、これを記した掛軸や刷り物を礼拝することをもって庶民教化の手段としたという。

 掛け軸等に書かれている託宣は以下のようなものという(ネット資料)
 ・天照大神--謀計は眼前の利潤たりといえども、必ず神明の罰に当たる。正直は一旦の依怙(エコ)に非ずといえども、ついには日月の憐れみを蒙る
 ・八幡大神--鉄丸を食すといえども、心汚れたる人の物を受けず、銅焔(ドウエン)に座すといえども、心穢れたる人の処に至らず
 ・春日大神--千日の注連(シメ)を曳くといえども、邪見の家には到らず、重服深厚たりといえども、慈悲の室(イエ)におもむくべし

 
境内社・三社神社
 
三社託宣・掛け軸
*稲荷神社 
 拝殿の向かって右、亙葺きの覆屋の中に小祠が鎮座するが、勧請由緒など詳細は不明。






稲荷神社・鳥居
 
同・社殿


【杉ヶ本神社】--片鉾本町 15-30
 杉田口禁野線・須山町交差点から北西約900m、バス停・甲斐田を少し過ぎたKOMATSU・甲斐田門前の角を右折し先に鎮座する。

  祭神--八幡大神(品陀別尊・比売神・息長帯姫命)

※由緒
 境内に案内等なく、社務所も無人のため由縁等不明だが、社伝によれば、
 「江戸時代、男山八幡宮から八幡神を勧請して『八幡宮』として創建し、明治5年(1872)、甲斐田村の八幡宮(現甲鉾神社)に合祀されたが、同18年(1885)、もとの片鉾村に復社して『杉ヶ本』を名乗った」

 大阪府全志(1922)には、
 「杉ヶ本神社は山田村字アゲにあり、八幡大神を祀れり。
 由緒は詳ならず、八旛宮と呼び、明治5年5月甲斐田村の甲斐田神社に合祀せられしも、同13年3月復旧して村社に列し、杉ヶ本神社と改称せり。社名は郊祀壇址の一本杉に因みて附せしものなりといふ」
とある。


◎社名・地名の由来
 神社名・杉ヶ本とは、昔、桓武天皇が片鉾村で弁当を食され、使った杉の箸を地面に突き刺しておかれたら、これが根付いて大木になった。
 この杉は枯れても、必ず、その根元から新しい杉が一本だけ生えることから一本杉と呼ばれた、との伝承があり、その杉があったところに建つ神社だから杉ヶ本という、という(枚方風土記)。この手の伝承は各地に多い。

 また地名・片鉾とについては、昔から男山八幡宮の祭礼で御鉾一本の神役を当村が務めてきたから、といわれ(旧枚方市史)
 片鉾村八幡宮縁起には、「男山八旛宮より神霊を受けて産土神として奉祀した関係で、男山の祭礼の際、当村より御鉾一本の神役を勤めたるにより片鉾の名が生まれた」とあるという(北河内のお宮)

◎郊祀壇祭祀跡
 正面鳥居左に立つ『片鉾郊祀壇伝承地』との案内には(2013・枚方市教育委員会)
 「桓武天皇は、長岡京遷都の翌年、延暦4年(785)11月10日に都の南郊・交野柏原の野に郊祀壇(コウシデン)を設け、遷都の大事業を成し得たことを天神の恩恵によるものとして感謝の祈祷を行いました。
 これは、中国の皇帝が冬至の日に、天壇で天帝を祀る例にならったものです。

 享保20年(1735)に刊行された“河内志”には、祭天郊祀が行われたのは片鉾の地で、郊祀壇上に交野原の一本杉といわれる老杉があると記されています。
 しかし確証はなく、杉ヶ本神社の南にあった老杉も明治15年頃に枯れてしまい、また、柏原という地名も何処を指すのか不明です」
とある。
 *河内志(1733)には、『廃郊祀壇  片鉾村に在り 延暦4年11月壬寅 交野柏原に天神を祀る・・・社檀上に老杉有り交野原一本杉と云』とある。

 また大阪府全志には、杉ヶ本神社の前に『郊祀壇の址』として、
 「南方道路の西側にあり、東西貳間・南北壹間半・広さ四坪許りの小塚にして、官有一番地なり。
 もと杉の老木ありて交野の一本杉と呼ばれ、広く世に知られたりしが、明治15年頃に枯れて朽株となり、今は40年位を経過したる高さ貳丈位の痩杉一本あり。是なん桓武・文徳両天皇の昊天を祀り給ひし所なり。
 郊祀は唐書に『凡歳之常祀二十有二、冬至上辛祈穀、孟夏雩(雨乞い)祀昊天上帝干岡丘』と見ゆるもの即ち是れにして、両天皇の郊祀は彼の土の郊祀に擬せさせ給ひしものなり。
 此の地に郊祀あらせられしことは、続日本紀及び文徳実録に載せてあれば、左に揚記すべし(別記あり)
 里俗に此の地を惟喬親王の墳墓なりと伝ふるは、親王の来遊し給ひしことのあるより附会したる謬説ならん」
と記している。

 なお郊祀壇祭祀は、桓武天皇延暦4年及び6年(続日本紀)、文徳天皇斉衡3年(文徳実録)に行われたとある。

 なお、楠葉の交野天神社も郊祀壇跡に造営されたという伝承があり(別稿・枚方の神社1-交野天神社参照)、交野柏原の地がどちらなのかは不祥だが、
 続日本紀・延暦4年条に「交野の柏原-枚方市片鉾本町」との注記があり(講談社学術文庫判)、河内志にも「在片鉾村」とあり、府全志では杉ヶ本神社の直前に記されていることから、当社附近というのが有力かと思われる。

 なお当社は、その由緒・祭神名からみて郊祀壇とは無関係であろう。

※社殿等
 バス通りから入った最初の辻を左に曲がった所に一対の石灯籠が立ち、その間を入った処に立つ鳥居をくぐり、右に折れた広場が境内。


杉ヶ本神社・社頭 
 
同・鳥居
 
同・境内(鳥居横より)

 境内北側に入母屋造・亙葺きの拝殿が南面して建つ。
 普通、拝殿には社名あるいは神名が掲げられているが、当社拝殿には『神拝略祠』と称する扁額が掲げられ、そこには
 「此の杉賀本の御社に鎮座(シズマリ)まします かけまくも畏伎(カシコキ)産土八幡大神の御前に祈りもうさく 己が家にも身にも 諸々の禍事(マガゴト)なく 守り恵みたまへと 畏(カシコ)み畏みもうす」
とある(原漢文)
 拝殿から本殿を拝するとき、この祝詞を奏上せよということであろう。


同・拝殿 

同・拝殿(側面)
 
拝殿扁額

 拝殿裏、筑地塀に囲まれた中に本殿が鎮座するが、外からは屋根の一部が見えるだけで、
 拝殿内陣から奥を望むと三間社流造らしい本殿社殿がみえる。

 
同・本殿
 
同・本殿社殿(拝殿内陣より望む)

◎境内社--阿皆神社・稲荷神社
*阿皆神社(アカ)

 境内の一隅に亙葺きの小祠があり(右写真)、金網で囲われた覆屋の中に古い壊れかけた小祠が納められている。
 傍らの説明には、
 「病の神さま。この社は他の何処にもない珍しい神さまで、昔、この村に流行病(ハヤリヤマヒ)が広がったとき、通りかかった偉い坊さんから『阿弥陀さんが散らばっていなさるから、一ヶ所に集めて祀れば病の治る』といわれ、そのとおり集めてお祀りすると、病がなくなった。
 この社は、病の神さま・阿皆神である」
とある。

 阿皆神の正体は不明。
 病気直しという現世利益があるとして信仰された世俗神だろうが、阿弥陀仏を集めて云々というから、神仏習合時代の阿弥陀仏を本地とする垂迹神とも考えられ.る。
 

*稲荷神社
 拝殿の左奥に鎮座する小社で、赤い鳥居列の奥に一間社流造の小祠が南面して鎮座する。
 ただ、稲荷社につきものの白狐像はなく、金網が邪魔して内部の様子は見えない。


稲荷神社・鳥居列 
 


【山田神社(田口)】
--田口 1-66-18
 枚方交野寝屋川線・出屋敷交差点から西北西約500m、交差点のすぐ北にある交北公園南角を西へ、次の信号の西南角に鎮座するが、神社へは表通りから南→西と回り込んだ境内南側から入る。

  祭神--菅原道真

※由緒
 境内に案内なく創建由緒・年代は不明。

 大阪府全志には、
 「山田村大字田口字北代にあり、菅原道真を祀れり。創建年月は詳ならず。
 天明6年(1786)の社殿再建に際し、奈良春日社家より春日社の旧伝殿を寄附せり、今の社殿是なり。
 明治5年村社に列し、同年、字南山にありし春日神社(天児屋根命)を合祀す」

 大阪府神社庁第三支部HPには、
 「当社の創建年月は詳かでない。
 天明6年の社殿再建に際し、奈良春日社の社家・中原正四位下野介時春より春日社旧殿の寄附があった。
 現在は、菅原道真を奉ずる本社と春日社とが並んで建っている。
 明治5年に村社に列し、同年字南山にあった春日社(天児屋根命)を合祀した」
とある。

 上記にいうように当社の創建年月は不明だが、延宝9年(1681)の社寺改には『多口村氏神 天神社』とあることから江戸初期頃にあったのは確かで、江戸時代は天神社と称し、明治5年に今の社名に改称したという。


※社殿等
 南側道路脇に立つ鳥居を入り、参道を進んだ途中に大きな注連縄を張っ〆鳥居が、その後に二の鳥居が立つ。

 この注連縄について、頂いた「交野ヶ原物語」(令和2年刊)との冊子には
 「毎年12月になると、勧請縄と呼ばれる巨大注連縄が作られ、正月に境内に飾られます。
 この注連縄は,氏地を十組に分け、毎年輪番で作成されます。重さは約十貫あり、かつては村の若者たちで御輿のように担いで伊勢音頭を唄いながら町内を練り歩きました。
 集落の魔除けや豊作を祝う勧請縄は現在も作られており、昔よりはだいぶ小振りになったそうですが、枚方市内に残る珍しい風習で有り、一見の価値ありです」
とある。


山田神社(田口)・鳥居 
 
同・参道
 
同・〆鳥居

 広い境内の北側に社殿2棟が南面して建つ。
 左が山田神社の本殿で、社頭に「山田神社本社 天満宮」との立札が立つ。
 拝殿は、唐破風向拝を有する切妻造妻入・銅板葺きの堂々たるもので、内陣には天満宮の神紋である梅鉢紋がみえ、当社が菅原道真を祭神とする天満宮であることを示している。

 
拝殿(左:山田神社、右:春日神社)
 
山田神社・拝殿

同・内陣 

 拝殿背後、透塀に囲まれた中に、二間社流造・銅板葺きの本殿が鎮座するが、塀越しのため詳細はみえない。
 なお、当社社殿は、「天明6年の再建に際し、奈良春日社の社家・中東正四位下上野介大中臣時春より、春日社旧殿の寄附をうけたものという(河内のお宮)

 
同・本殿(側面)
 
同・本殿(背面)

◎境内社
*春日神社(摂社)
   祭神--天児屋根命

 府全志に、「明治5年 字南山にあった春日社を合祀」とあるもの。
 摂社とはいえ、本社の右に千鳥破風付き大屋根を有する入母屋造・銅板葺きの堂々たる拝殿が南面して建ち、
 その背後、透塀に囲まれた中に朱塗り流造の本殿が鎮座するが、外から見えるのは屋根部分のみ。

 当春日神社の旧社地は、現山田池公園(山田池南町)内の春日山(字南山)にあるといわれ、今、公園内の池を望む南斜面に『春日神社旧跡』と刻んだ石碑が立っている。
 ただ、この地に祀られていた春日神社の創建由緒・年代等は不明。


摂社・春日神社・拝殿 

同・本殿 
 
同・旧跡(山田池公園内)

*琴平神社
   祭神--高龗神(タカオカミ)・大物主命

 境内東側、三方を塀に囲まれた中に一間社流造・銅板葺きの小祠が西面して鎮座する。
 春日神社と同じく、明治5年に合祀された末社。

 古くは「高龗社(タカオカミ)」と称したという。祭神・高龗神は水神(竜神)で、“オカミ”とは龍を意味する古語。

 琴平社の総本社・讃岐の金比羅社の祭神・金比羅大権現は、インド・ガンジス川の竜神(ワニともいう)が仏教に取り込まれ護法神となったもので水神。
 そこから農業では豊饒神として、海運・漁業では航海安全・豊漁神として広く信仰されている。
 また、何故か大国主命の和魂(ニギタマ)である奈良・三輪山の神・大物主命と習合していることからの配祀であろう。
 (讃岐には、「昔、海が琴平の地まで湾入していた頃、大物主の行宮があった」との伝承があり、そこから金比羅社に祀られたのであろう)

 
末社・琴平神社・全景
 
同・正面
 
同・社殿


【栗倉神社】--小倉町1
 小倉町の南端、小倉公民館前の小路を突き当たった先に鎮座する小さな神社。
 当社に至る道筋は輻輳しており、且つ住宅地の中に奥まっていて見つけにくい。

  祭神--品陀別尊(ホムタワケ・応神天皇)

※由緒
 境内に案内等はないが、大阪府全志(1922)には
 「粟倉神社址  字渚の岡にあり、由緒不明なれども、元和2年(1618)新に八幡大神を勧請して社殿を造営し八幡宮と称して、本地及び渚村の産土神と仰ぎ、文政年間(1818--25)に至りて更に拡張改築しけるに、其の後渚村と紛擾(フンジョウ・争い)を生じて分離し、渚村が村内の観音寺の傍らにあった当社の御旅所に八幡宮を勧請せしを以て、当社は本地のみの氏神となり、明治5年に村社に列せり。
 明治42年(1909)3月5日大字坂の片野神社に合祀せらる」

 枚方市史には
 「大字小倉字渚ノ岡、旧粟倉郷、後の小倉村の氏神として古くからあったが、延宝9年(1681)4月の社寺改に『小倉村氏神 除地 八幡宮 宮座七人之内一人一年ずつ神主役相勤・・・』とあって、もと当社には七人の宮座があったことがわかる。(中略)
 文政年間に之を拡張改築したが、其後小倉と渚の両村間に紛擾を起し、遂に渚村は当時当社の御旅所であった同地の観音寺(旧渚院址)の傍に八幡宮を勧請して独立した(現御殿山神社の前身)
 爾來、当社は小倉のみの氏神となり、明治5年(1872)村社に列したが、同42年(1909)片埜神社に合併された」
とあり、その後、昭和34年(1959)、小倉町有志等の熱意により現在地に再興したという。

 これらによれば、当社は渚村・小倉村の氏神社として江戸時代初頭に創建されたが、後期になって渚村が分離して西粟倉神社を創建、当社は小倉村のみの氏神社となり今に至るとなる。

※社殿等
 小倉公民館横の小路を入った先に「粟倉神社」との神額を掲げた鳥居が立ち、その先に入母屋造の社殿が建つ。
 この社殿は覆屋で、社殿の中に本殿が鎮座するのみで、他には何もない。


粟倉神社・鳥居 

同・社殿 
 
同・本殿

 なお、小倉公民館の横庭に「八幡宮」と刻した石灯籠残欠が置かれており、かつての当社が八幡宮と称したことを示している。


【甲鉾八幡宮】--甲斐田町1
 杉田口禁野線・須山交差点の西約400m、須山交差点の西二つ目の信号を北へ入った先、左側に神社への石段があり、
 山田小学校の北に隣接する小丘の上に鎮座する。周りは住宅地で、当小丘のみが樹木に覆われている。
 社名・甲鉾は“カホコ”と読む。地元の町名をとって『甲斐田八旛宮』ともいう。

  祭神--八幡大神(品陀和気命=応神天皇)

※由緒
 社頭に掲げる案内には、
 「創建年月は不祥ですが、古くから八幡宮と称される甲斐田村の氏神で、
 延宝9年(1681)の寺社改に『甲斐田村氏神 無年貢地 八旛宮 宮座二座 ・・・』とあり、さらに文化12年(1815)の文書に『・・・右支配は村方二組座中間より宮守仕候』とあります。
 右の如く神主は本職ではなく、宮座の年番で神主役を奉仕していました。
 文政6年(1823)の神祇官認可状にも、認可を得て威儀を正して奉仕したことが記されており、現在もこの宮守制度を維持して、氏子総代が交互に奉仕しています。
 又、元禄4年(1691)の文書には、境内地について『・・・八幡宮 東西58間・南北49間』と記され、元の境内が二千余坪の広大なものであったことがわかります。

 神社名・甲鉾の由来、
 明治初期片鉾村の氏神・八幡宮を合祀し、両氏地の頭文字をとって社名とし、明治5年村社に列せられましたが、片鉾八村の幡宮は同13年3月に返祀されています」
とある。

 大阪府全志には、
 「片鉾村大字甲斐田字宮ノ下にあり。
 甲斐田仏を氏神として仰ぎ奉りしも、同仏は長泉寺に移され、且つ神仏分離令ありし為、新たに氏神として八幡大神を勧請したるもの即ち当神社にして、片鉾村の八幡宮を合祀し、本地と片鉾の両村名の一字をとりて此の社名を附し、明治5年村社に列せられしが、片鉾村の八幡宮は同13年3月23日分離独立せり」
とある。
 その後の経緯は不明だが、境内には「昭和53年に甲斐田池を売却し、その浄財を以て八幡宮の拝殿・参道・社務所を新築した、云々」との記念碑が建っている(昭和56年)

 かつての当社にあったという甲斐田仏について、大阪府全志には
 ・甲斐田  本地は古来交野郡に属し、もと山田郷の内にして甲斐田村と称す。甲斐田長者の居りし所なりといふ。
  甲斐田長者の址は明ならざれども、里伝によれば、部落の中央なる竹藪のある所其れならんといふ。
  其の地に残りしは所謂甲斐田仏にして、小堂内に安置せられ、本地の氏神と仰がれしが、明治維新後に至りて長泉寺に移せり。蓋し其の小堂の荒廃せしに依れるならん。
  往時より宮座ありて祭祀を為し、長泉寺に転置後も同座より毎年米二斗を納付して今に至る。
  本地に深き因みを有せるの古仏なるを知るべし。(以下略)

 ・長泉寺  
  長泉寺は同字にあり(長泉寺は、当社の北100m強に実在する)、清涼山と号し、融通念仏宗大念仏寺末にして阿弥陀仏を本尊とす。元享3年(1323)の創建なり。 
  本堂の一隅に甲斐田長者の崇信せしと伝ふる甲斐田仏を安置す。
とある。

 甲斐田長者とは、大阪長柄の残る長柄人柱伝承の後日談に出てくる長者で、人柱になった人の娘が長者に嫁いだが物をいわなかったため離別されかかり、長者に送られて里に帰る途中、長者が飛び立った雉子を射落したのをみて、『ものいわじ 父は長柄の人柱 雉子も鳴かずは 射られまじもの』と詠ったので、長者は連れ戻して偕老の契りを全うしたという。

※祭神
   八幡大神

 かつての当社は、神仏習合期のことから甲斐田仏をご神体としていたというが、これに対して、
 「甲斐田仏は当社境内にあった小堂に祀られていたものが、明治初年長泉寺に移された際、当社の宮座より毎年米二斗を渡していたため、これが氏神のご神体であったかのように誤解されたもの」
との反論がある。
 ただ、八幡大神は別名を八幡大菩薩と呼ばれたように神仏習合の最たる神であり、甲斐田仏をご神体とするのはありうるともいえる。

※社殿等
 道路左側の当社社務所と小丘に挟まれて神社への石段があり、片鉾神社との案内表示がある。

 石段を上った上に鳥居が立ち、石畳の参道を入り右に曲がった先が境内。


片鉾神社・社頭 
 
同・鳥居 
 
同・境内(中央:本社、右:稲荷社)

 境内北側に唐破風向拝を有する入母屋造・銅板葺きの拝殿が南面して建ち、その奥、白壁に囲まれた名に流造・銅板葺きの本殿が鎮座する。
 ただ、白塀・樹木に遮られて外からは側面がみえるのみ。

 
同・拝殿
 
同左(側面)

同・本殿 

◎境内社
   末社--八王子神社・琴平神社・稲荷神社
*八王子社
   祭神--八王子神(素盞鳴尊の五男三女神)
 境内右手(東側)にある小祠で、扁額には「八王神」とある。
 社頭の案内には、「元は現在地甲斐田町13番付近の小山にありましたが、明治初年当社の境内に移転」とある。

 八王子とは、当社がそうであるように、素盞鳴の御子神8柱とするのが普通だが、江戸時代までは、素盞鳴と同体とされる牛頭天王の御子神とされていた。
 牛頭天王は神とも仏ともつかない複雑な尊格(通常、疫病除けの神とされる)で、明治新政府から邪神として排斥され、為に同じ神格をもつ素盞鳴尊の八王子と変更したのであろう。

 
八王子神社
 
同・社殿 

*稲荷神社
   祭神--保食神(ウケモチ)
  拝殿の右にあり,中に朱塗りの小祠が鎮座する。
*金比羅神社
   祭神--大物主大神
  稲荷神社の右にある小祠で、中に石祠が鎮座する。
 社頭の案内には、「元は両社共甲斐田長泉寺の境内にありましたが、明治初年の神仏分離により当社境内に移転」とある。

 
末社・稲荷神社
 
同・社殿
 
金比羅神社

同・石祠 


【御殿山神社】--渚本町12-55
 京阪・御殿山駅の東約300m、駅から西へ坂を登りきった附近の北側(左側)にある低丘・御殿山の頂に位置する。
 神社へ入る角に「御殿山神社」との旗が立っている。

  祭神--八幡大神(品陀和氣命=応神天皇)

※由緒
 頂いた「御殿山神社由緒」によれば、
 「御殿山神社は、枚方市渚本町(旧大字渚)の通称御殿山の丘上に鎮座している。丘は氏地を瞰下(カンカ)し、淀川を隔てて山城・摂津の翆黛に対し、風光絶佳である。
 御本社には、品陀和氣命(応神天皇)を斎き祀り、境内に稲荷神社・貴船神社の二末社あり。

 御殿山の名称は、惟喬親王(844--97)が渚院を別墅(ベッショ・別荘)とされた時、この山上に亭榭(テイシャ・四阿)を設けられたので、こう名づけられたと言われ、また、永井伊賀守がこの山に治所(屋形)を設けてから御殿山とよんだとも言われている。

 その昔、惟喬親王が交野原に遊猟される際には渚院の別墅に御行せられたが、親王が小野の里に幽棲されてから渚院も荒れたので、それを精舎に造り改め、後世にこれを観音寺と称した。 
 その渚院の址が氏地の渚本町(旧大字北之町)にあって、今は鐘樓と寛永元年(1624)永井伊賀守の家隷杉井吉通の建設した『河州交野渚院碑』が残っている。
 惟喬親王が駒を繋がれたと伝えられる駒留松や親王遺愛の『ちもとの桜』といった桜樹があって,松籟人の心を揺さぶり、桜樹は春天に花を開いて親王御在世当時の昔を偲ばせるといわれたが、惜しいことに今は名のみが残りその面影は見られない。

 昔、この渚院の邸内址に、観音寺と隣り合わせの北側に粟倉神社の御旅所があった。
 粟倉神社と称するお社は、元和2年(1616)に小倉村に社殿を造営し新たに八幡大神即ち品陀和氣命(応神天皇)を勧請し、八旛宮と称して小倉村・渚村二村の産土神と仰ぎ奉り、文政年間に更に拡張改築された。
 その頃より渚村に独立した産土神を勧請しようという議が起こり、前記の渚村にある粟倉神社の御旅所に品陀和氣命を勧請して、渚の産土神と斎き祀り西粟倉神社と称した。

 明治2年(1869)に当御殿山に社殿を造営し、明治3年9月19日に西粟倉神社のお社から御殿山に御遷宮せられて御殿山神社と改称し,現在に至っている」
という。

 大阪府全志には、
 「御殿山にあり、品陀和氣命を祀る。
 もと小倉村粟倉神社の御旅所なるもの観音寺の境内にありしが、文政年間小倉村と争論を生じたる結果、其の御旅所に八幡大神を勧請して本地の氏神と仰ぎ、西粟倉神社と称し来りしも、明治維新後の神仏分離に依りて、同2年当所に社殿を造営し、翌3年9月鎮座ありて今の社名に改められ、同5年村社に列せらる」
とある。

 当社は、もと御殿山北麓にあった“渚院址”に建立された“観音寺”の隣にあった「粟倉神社御旅所」が前身で、文政年間(1818~30)御旅所に八幡大神を勧請して「西粟倉神社」と称し、明治初年の頃、御殿山頂きに造営された新社殿に遷り『御殿山神社』と称したとなる。

*渚院
(ナギサのイン)--平安時代・文徳天皇の第一皇子・惟喬親王が交野・牧の郷に建てた別邸で、伊勢物語・土佐日記にも登場する。(別稿・渚院址参照)
  親王は皇位につけなかった失意の皇子で、その憂さを晴らすためしばしば当渚院や対岸の水無瀬別邸に来て遊猟されたという。


※社殿等
 当社は、表通りから北へはいる路が突きあたった叢林の中に鎮座し、参道の途中に鳥居が立つ。


御殿山神社・参道入口

同・鳥居 

同・参道 

 境内正面に入母屋造・瓦葺きの拝殿が南面して建つ。

 
同・拝殿(正面)
 
同・拝殿(側面)

同・内陣 

 拝殿内に大きな絵画3点が掲げられている。
 正面右のそれは、当社が旧渚院址から現在地への遷宮の状況で、延々と続く行列の様が描かれているが、
 その右のそれは画題不明、踊っているように見えることから芸能を奉納している場を描いたものか、
 正面左のそれも画題不明、馬上の女性像・武内宿禰とおぼしき白鬚の老人が描かれているから神功皇后に関係するものと思われる。

 
遷宮行列の絵

画題不明・芸能奉納の場か 
 
画題不明・神功皇后関係の絵か

 拝殿の後、弊殿を介して切妻造平入り・瓦葺きの本殿が鎮座するが、これは覆屋で、拝殿から奥をみると一間社流造らしい社殿が鎮座している。


同・本殿(覆屋) 
 
同・本殿社殿(拝殿より) 

◎境内社
*貴船神社--祭神:貴船大神(高龗神-タカオカミ)
   境内右手に鎮座する小祠
*稲荷神社--祭事:稲荷大神(宇迦之御魂神=豊宇気比売神)
   拝殿左に鎮座する小社
 いずれも、その鎮座由緒・時期等は不明。

 
境内社・貴船神社
 
同・稲荷神社

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