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枚方の神社-2
日置天神社・栗倉神社・杉ケ本神社・山田神社(田口)・甲鉾八幡宮・御殿山神社

大阪府枚方市内にある神社32社のうち、中央部北寄りにある上記6社の参詣記

【日置天神社】(ヒオキテンジンジャ)--招提南町2丁目
 枚方交野寝屋川線の東側、招提南バス停すこし北から東へ入った叢林の中に鎮座する。招提地区にある唯一の神社で、招提中学校の西南に当たる。

  祭神--天御中主尊(アメノミナカヌシ)・菅原道真

 神社名・日置とは、文徳天皇の皇子・惟喬親王(844~97)が交野が原で鷹狩りをされたとき、愛鷹が見えなくなったので「日を留め置かせ給へ」(日没をしばらく止めてほしい)と天神に祈ったという伝承による。平安時代から集落があったらしいが、詳細不明。
 由緒によれば、「南北朝動乱期(14世紀中頃)の戦火により集落のほとんどが焼失したが、その後、真宗8世蓮如の子・蓮淳が真宗寺院を建て“寺内町招提”として再興(1532~55頃)、その鎮守社として建立したのがはじまり(1543)」という。蓮淳を招いたのは、近江の住民片岡正久と川端綱久ともいう。
 なお寺内町招提は、織田信長と本願寺との抗争によって廃されている。

 社殿は元禄年間(1688~1704)に再建されというが、今のそれは平成11年に再建されたもので、まだ新しい。
日置天神社・拝殿

※祭神
 主祭神のアメノミナカヌシは、古事記冒頭の天地開闢のとき、混沌の中から最初に成り出た造化三神の中心神だが、冒頭に登場するだけで以後は何らの事績もなく身を隠し、古社の中でこの神を祀る事例もないという不思議な神。
 鎌倉時代以降になると世界を創造し支配する最高神という神格が与えられ、伊勢外宮の主神・トヨウケ大神と同体とされたり、神仏習合の進展によって仏教の妙見菩薩や道教の鎮宅霊符神と同体とされるなど、いろんな神格が付加されている。
 そのアメノミナカヌシが当社に祀られた由緒など不明。惟喬親王が日没を留めようと祈った天神(アマツカミ)にアメノミナカヌシを当てた、ということであろう。
 併祭神の菅原道真は、慶長末年頃(1615頃)に合祀されたというが、その由緒は不明。今、社殿前に道真に関係の深い牛の臥像があることからみると、天神(テンジン)=道真を祀るとの認識が強いらしい。

※末社--三社神社・稲荷神社

◎三社神社--祭神:天照大神・八幡大神・春日大神
 三社神社の創建由緒など不明だが、アマテラス・ハチマン・カスガの三神を祀ることからみて、中世から近世にかけて流行した“三社託宣信仰”に関わるものかもしれない。
 三社託宣とは、天照皇大神宮・八幡大菩薩・春日大明神それぞれの“お告げ”(託宣)および三神の神像や託宣の文章を記した掛物を指し、これを信仰の対象とするのが託宣信仰で、室町中期頃からはじまったという。。
 三神の託宣とは、“正直”(アマテラス)・“清浄”(八幡神)、“慈悲”(春日神)といった道徳的徳目で、これを記した掛軸や刷り物をもって庶民教化の手段としたという。代表的な託宣として次のようなものがある(ネット資料)
 ・アマテラス-謀計は眼前の利潤たりといえども、必ず神明の罰に当たる。正直は一旦の依怙(エコ)に非ずといえども、ついには日月の憐れみを蒙る。
 ・ハチマン-鉄丸を食すといえども、心汚れたる人の物を受けず、銅焔(ドウエン)に座すといえども、心穢れたる人の処に至らず。
 ・カスガ-千日の注連(シメ)を曳くといえども、邪見の家には到らず、重服深厚たりといえども、慈悲の室(イエ)におもむくべし。
日置天神社末社・三社神社

【栗倉神社】--小倉町
 小倉町の南端、小倉公民館前を突き当たった先に鎮座する小さな神社。住宅地の中に奥まっていて見つけにくい。

  祭神--ホムタワケ尊(応神天皇)

 旧粟倉郷のちの小倉村の古くからの氏神で、元和2年(1577、織田時代)に八幡大神を勧請して社殿を造営したという(旧枚方市史)。この辺りには八幡大神を祀る社がけっこう多い。
 明治42年に片埜神社に合祀されたというが、何時の頃にか旧地に帰っている。
 覆屋のなかに小祠があり、社前の鳥居には“平成三年五月吉日建之”とある。
粟倉神社・社殿


【杉ヶ本神社】--片鉾本町
 杉田口禁野線・須山町交差点から北西約900m、道路右側の叢林のなかに鎮座する。民家に囲まれた境内・拝殿前は簡単な遊具を供えた公園となっている。

  祭神--八幡大神(ホムタワケ尊・ヒメ神・オキナガタラシヒメ命)

 社伝によれば、「江戸時代、男山八幡宮から八幡神を勧請して『八幡宮』として創建し、明治5年(1872)、甲斐田村の八幡宮(現甲鉾神社)に合祀されたが、同18年(1885)、もとの片鉾村に復社して『杉ヶ本』を名乗った」とある。

 枚方市内には、ホムタワケあるいは八幡神を祀る神社が多く、末社を含めて12社を数える。石清水八幡宮が近いからということか・・・。

 神社名・杉ヶ本とは、昔、桓武天皇が片鉾村で弁当を食され、使った杉の箸を地面に突き刺しておかれたら、これが根付いて大木になった。この杉は枯れても、必ず、その根元から新しい杉が一本だけ生えることから一本杉と呼ばれた、との伝承があり、その杉があったところに建つ神社だから杉ヶ本という、という(枚方風土記)。この手の伝承は各地に多い。
 また地名・片鉾とは、昔から男山八幡宮の祭礼で御鉾一本の神役を当村が務めてきたから、という(旧枚方市史)
杉ヶ本神社・拝殿
杉ヶ本神社・拝殿

 社殿前の公園入口に、『片鉾郊祀壇伝承地』との案内板が立っている。郊祀壇については、別稿・交野天神社参照

※末社--阿皆(アカ)神社・稲荷神社
◎阿皆神社
 境内の一隅に小さい祠がある。金網で囲われた覆屋の中に古い壊れかけた小祠が納められている。
 傍らの説明には、「病の神さま。この社は他の何処にもない珍しい神さまで、昔、この村に流行病(ハヤリヤマヒ)が広がったとき、通りかかった偉い坊さんから『阿弥陀さんが散らばっていなさるから、一ヶ所に集めて祀れば病の治る』といわれ、そのとおり集めてお祀りすると、病がなくなった。この社は、病の神さま・阿皆神である」とある(枚方風土記)

 阿皆神の正体など不明。病直しという現世利益を与える世俗神だろうが、阿弥陀仏を集めて云々というから、神仏習合時代の阿弥陀仏を本地とする垂迹神とも考えられる。
杉ヶ本神社末社・阿皆神社


【山田神社(田口)】--田口2丁目
 枚方交野寝屋川線・出屋敷交差点から北西、交北公園の左手に位置する。江戸時代までは『天神社』と称し、明治5年に今の社名に変更したという。
 建て込んだ民家に囲まれた神社で、石燈籠が建ち並ぶ参道奥の楼門を入った正面に山田神社の拝殿・本殿、その右に朱塗りの春日神社が並び建っている。

  祭神--菅原道真

 当社の創設時期は不明だが、延宝9年(1681、徳川綱吉時代)4月の社寺改に、『田口村氏神 天神社』とある古くからの氏神という。
 その後、天保5年(1785)に社殿を再建したとき、奈良・春日神社の旧社殿をもらい受けて新社殿を建立した。降って明治5年(1872)、字南山(現春日山)にあった春日神社および出屋敷近くにあった高龗(タカオカミ)神社を境内末社(現琴平社)として合祀したという。現社殿は、昭和50年改築したもの。
 建て込んだ民家に囲まれた神社だが、敷地は広い。石燈籠が立ち並ぶ参道奥の楼門を入った正面右寄りに、山田神社の拝殿・本殿が、その右に朱塗りの春日神社が並んでいる。

山田神社・拝殿
山田神社・拝殿
春日神社・拝殿
末社・春日神社・拝殿

※末社--春日神社・琴平神社

◎春日神社--祭神:アメノコヤネ命
 明治5年の神社整理統合によって、現山田池公園内の春日山(旧、字南山)から合祀された神社。公園内の池を望む南斜面に『春日神社旧跡』と刻んだ石碑が立っている。

 祭神のアメノコヤネは藤原氏(中臣氏)本来の祖神とされる神で、記紀の天岩屋神話では祝詞を称えて祈願し、天孫降臨のとき天孫ニニギに従った五部神の一つとされる。アマテラスから宮中祭祀を司るよう命じられたとされ、それを職掌とする中臣氏の祖神として枚岡神社(東大阪市)・春日大社(奈良市)に祀られている。旧・字南山に春日社が祀られた由緒は不明。

 末社とはいえ、本殿右に堂々たる社殿を擁し、本殿並みの処遇を受けているが、その理由など不明。 
春日神社旧跡の碑
春日神社旧跡の碑(在山田池公園内)

◎琴平神社
--祭神:タカオカミ神・オオモノヌシ命
 社殿の祠は小さいが、境内の一画、鳥居・瑞垣に囲まれたなかに鎮座する。

 春日神社と同じく、明治5年に合祀された末社。古くは「高龗社(タカオカミ)」と称したらしい。祭神タカオカミは水神(竜神)で、“オカミ”とは龍を意味する古語。
 琴平社の総本家・讃岐の金比羅社の祭神・金比羅大権現は、インド・ガンジス川の竜神(ワニともいう)が仏教に取り込まれ護法神となったもので、これもまた水神。そこから農業では豊饒神として、海運・漁業では航海安全・豊漁神として広く信仰された。
 また、何故かオオクニヌシの和魂(ニギタマ)であるオオモノヌシとする説もある(讃岐には、「昔、海が琴平の地まで湾入していた頃、オオモノヌシの行宮があった」との伝承があるという)
山田神社末社・琴平神社


【甲鉾八幡宮】--甲斐田町
 杉田口禁野線・須山交差点の北西、山田小学校北に位置する。民家密集地の中ここだけは静かな雰囲気をただよわせている。昔から『八幡宮』と呼ばれていた甲斐田村の氏神。
 神社名・甲鉾の由来は、明治5年に片鉾村の八幡宮を合祀したとき、甲斐田・片鉾両村の頭文字をとって甲鉾と名乗ったというが、片鉾八幡宮は明治13年に分離している。今、地元の町名をとって『甲斐田八幡宮』ともいう。

  祭神--八幡大神

 当社の創建由緒・時期は不明。
 社寺改文書(延宝9年・1681)に『甲斐田村氏神、無年貢地、八幡宮』とあり、また元禄5年(1692)にも『無年貢地、八幡宮、河内国交野郡甲斐田村』とあることからみて、古くからの氏神だったと知れる。
 また、「昔、この地にあった甲斐田長者の屋形に“甲斐田仏”(阿弥陀三尊像)を納める小堂があり氏神の本地仏と仰がれていたが、明治の神仏分離で廃寺となり、新たに氏神として八幡神を勧請したのがはじまり」(大阪府全志)との説もある。
 これに対して、甲斐田仏なるものは当社境内にあった小堂に祀られていたものが、明治初年長泉寺に移された際、当社の宮座より毎年米二斗を渡していたため、これが氏神のご神体であったかのように誤解されたもの、との反論もある。
甲鉾八幡宮・拝殿
甲鉾八幡宮・拝殿
 その後の経緯は不明だが、境内には「昭和53年に甲斐田池を売却し、その浄財を以て八幡宮の拝殿・参道・社務所を新築した、云々」との記念碑が建っている(昭和56年)

末社--八王子神社・琴平神社・稲荷神社

◎八王子神社
 小祠に掲げられた扁額には『八王神』とあり、旧枚方市史には『八王寺、元当地の辻半太郎邸裏にあったが、明治初年に当社境内に移転した」とある。

 八王子とは、今はスサノヲの8柱の御子神とするのが普通だが、江戸時代までは、スサノヲと同体とされるゴズテンノウの御子神とされていた。あるいは防疫神ゴズインノウそのものだったのかも知れない。
 ゴズテンノウは神とも仏ともつかない複雑な尊格で、為に、明治新政府から邪神として排斥されたため、スサノヲの八王子を祀る祠として遷座したのであろう。
甲鉾八幡宮末社・八王子神社

◎琴平神社
 社頭の神額には『金比羅大権現』とある。当地の長泉寺境内にあったが、明治初年の神仏分離によって当社境内に遷されたものという(旧枚方市史)。水神として祀られたものであろう。


【御殿山神社】--渚本町
 京阪・御殿山駅の東約300m、坂の左手にある低丘・御殿山の山頂に位置する。神社の手前に御殿山公園がある。

  祭神--八幡大神(ホムタワケ尊)

 当社は、もと御殿山北麓にあった“渚院”を改築した“観音寺”の隣にあった「粟倉神社御旅所」が前身で、江戸・文政年間(1818~30)に渚村の鎮守・八幡大神を勧請して「西粟倉神社」と称していたが、明治の神仏分離に際して御殿山頂上に新社殿を造営して遷宮、『御殿山神社』と称したというのみで詳細不詳。
 拝殿内には、遷宮時の有様を描いた絵馬が奉納されている。

 末社--稲荷神社--本殿左
       貴船神社--境内疎林の中にある小祠
御殿山神社・拝殿
御殿山神社・拝殿
*地名・御殿山--山頂に渚院の四阿があったからとも、江戸初期に永井伊賀守が領地支配のため陣屋を建てたからともいう。
*渚院
(ナギサのイン)--平安時代・文徳天皇の第一皇子・惟喬(コレタカ)親王が交野・牧の郷に建てた別邸。親王は皇位につけなかった失意の皇子で、その憂さを晴らすためしばしば当渚院や対岸の水無瀬別邸に来て遊猟されたという。渚院の名は、伊勢物語・土佐日記にも登場する。

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