トップページへ戻る

枚方の神社-3
御狩野神社・八幡神社・百済王神社・大垣内神社・山神社・意賀美神社(式内社)・京阪稲荷神社

 大阪府枚方市内にある神社32社のうち、京阪・枚方市駅周辺にある7社の概要

【御狩野神社】(ミカリノ)--禁野本町2丁目
 杉田口禁野線を禁野から市民病院方へ登った中ほど左手、道路脇からの急な石段の上にある。石段の下には祭神名を記した表示がある。左は和田寺。
【追記】
 平成に入っての歩道整備工事により社頭が整備され、社殿もやや後方に新築されて面目を一新している。

  祭神--オオサザキ命(仁徳天皇)・スサノヲ命・百済王

 万治寛文年間(1658~73)に、禁野在住の市辺朝右衛門の廷内に勧請した社を、和田寺の隣・雉子塚の傍らに移して旧禁野村の産土神として祀ったのが始まりで、明治までは『御狩神社』と称していたという。
 この辺りは、奈良末から平安にかけて天皇の遊猟地(狩場)だったことから、“御狩”あるいは“御狩場”と名付けたのであろうが、詳細不明。
 明治42年に片埜神社(牧野阪町)に合祀されたが、昭和26年に現在地に帰ったという。社殿・境内ともに荒れているが、氏子による祭祀は続いている。
 また本殿右に小祠があり、朱色の鳥居が建っているから稲荷社らしいが、半分壊れかかっている。
御狩野神社・鳥居および拝殿
御狩野神社・鳥居および拝殿

※祭神
 当社の創建由緒・時期などは不明だが、江戸時代の社寺改文書には『禁野村氏神 八幡宮』とあるから、古くは八幡大神(ホムタワケ尊=応神天皇)を祀っていたらしい。
 ホムタワケ・オオサザキが親子ということから、何時の頃かにオオサザキに替わったのだろうが、八幡大神を応神天皇とすれば関係なきにしもあらずだが、神格化された八幡大神とは無関係て、八幡宮に祀られる由緒はない。
 なお両者は同じ人物で、日本書紀記述のとき業績を二人の天皇に分けたとする説もある。
 そのオオサザキにスサノヲを合祀した理由も不可解だが、オオサザキとの関係というより、防疫神・ゴズテンノウとして祀っていたのを明治以降スサノヲに替えたのかもしれない。
 百済王は、明治5年の神社整理統合に際して、同じ禁野にあった百済王神社(禁野にあったという旧社地は不明)を合祀したものという。

*雉塚--祭神:雉大明神
 創建伝承にいう“雉子塚”関係の遺構として、隣接する和田寺境内に『三足白雉霊』との石碑がある。石碑裏面には「河内交野郡禁野村医王山鎮守雉大明神因由記 安永2年書 惟喬親王の時、白雉の霊を祀る雉大明神の神祠が建てられた」とあるそうだが、摩耗激しく判読不能。
 雉子塚には、
①「惟喬親王が当地で御遊あったとき、三本足の白雉が渚院に飛び来たって死んだので、和田寺上方の薬子山(医王山)に葬った」(神社由緒)
②「昔、枚方に三本足の白雉がいたが、ある日猟師に撃たれ傷を負ってこの地に逃れ来て死んだので、墳墓を築いて葬った」(枚方市史)
③「薬師堂に白雉が飛び込んできたので仰ぎ見たら、薬師如来が涙を流し身に汗を流しておられた。惟喬親王が帰依讃仰されたら、白雉が天女の姿で現れ、吾は富士のカグヤヒメまたタナバタツメと申す。弁才天の化身であるといって天に向かって去っていった。親王が雉大明神として当山に崇鎮した」(旧枚方市史)
といった伝承がある。
 薬子山(医王山)には、かつて“白雉古墳”という円墳(径30mほど、後期古墳)があったという。これが雉子塚だろうが、昭和40年代の宅地開発で消滅している。
 また、この近くに渚院があったことからか、当地付近には惟喬親王がからむ伝承が多い。


【八幡神社】--磯島元町
 京阪・御殿山駅の南約900m、京都守口線を川側に入ったところにある小さなお宮。

  祭神--ホムタワケ尊(応神天皇)

 旧枚方市史に
 「元和8年(1622江戸初期)、当地の領主・日野前大納言が社殿を造営して八幡大神を勧請し、正徳元年(1711)に拝殿を新築した旧八幡神社」
とあり、境内に保存されている古い鳥居の柱には「摂津国嶋上郡磯島村 寛保三歳(1743)九月吉日」とあるように江戸時代からの社だが、他に資料が見当たらず詳細不明。
 明治42年に片埜神社(牧野阪町)に合祀されたが、その後も当地には遙拝所があったという。
 社殿はまだ新しい。近年、隣接する集会所改築にともなって、社殿を縮小して改築したものという。道路に面した鳥居と社殿との向きが90度違っているのが面白い。

*末社--本殿の右に稲荷神社がある。
八幡神社(磯島)


【百済王神社】--中宮西之町
 京阪・枚方市駅から東へ約1㎞強、国道307号線の坂を登りつめた北側の台地上(H=30m)に位置する。隣接する百済寺址は公園になっている。
 百済王氏とは、推古天皇のころ仏像・経典を聖徳太子に献じた百済・阿佐王が始祖で、太子から交野郡を賜ったというが、真偽不明。
 史書によれば、百済滅亡時(633)にわが国にいた百済・義慈王の子・禅広(善光)が帰国を断念し、亡命してきた百済貴族とともに朝廷(天智朝)に仕えたのがはじまりで、持統朝に“百済王”(クダラノコキシ)の姓を賜り、死後に“正広参”の位が贈られたとある(続日本紀)。以後、一族は亡命王族として一流貴族並みの待遇を受けたという。

 最初は難波に居住したというが(書紀-天智3年条)、聖武天皇の東大寺大仏鋳造に当たって、当時、陸奥守だった敬福(禅広の孫)が鍍金用の黄金900両を献上して天皇を驚喜させ、その功により従三位宮内卿となり、同時に河内国司に任ぜられ、難波の地から交野郡中宮郷に居を移し、これが百済王氏と中宮との繋がりのはじまりという。

  祭神--百済王・スサノヲ(ゴズテンノウ)

 百済王神社の創建については、古文書・“百済王霊祠廟由来記”(中宮・西方寺所蔵)に、
 「天平9年(737)3月、王南典(敬福の叔父)に従三位を叙す。病にかかり同年9月薨ず。帝(聖武)これを憐れみ、勅して百済王祠廟ならびに百済仏刹(百済寺)を中宮に建立せしめ、百済各王の霊を安置せしむ」
とあり、最初は霊廟(百済寺か)だったらしい。社史もまたこれに準じている。

 今の社殿は、江戸時代に奈良・春日神宮の式年遷宮(文政10年1827)に際し、旧社殿を譲り受けた“春日移し”といわれるもの。拝殿に掲げられた『百済王神 牛頭天王』の神額は鎌倉様式で、鳥居・石燈籠・狛犬などは江戸中期以降のものが多い。 
百済王神社・拝殿
百済王神社・拝殿

※祭神
 主祭神は百済王で、百済王家の祖神を祀った神社。
 合祀されているスサノヲは、拝殿神額に「牛頭天王」とあるように祇園系の防疫神・ゴズテンノウを祀ったもので、社寺改文書(1681)に「中宮村氏神 無年貢 百済国王 牛頭天王相殿一社・・・」とあり、17世紀までに合祀されたものであろう。
 その後、平安時代に入ると、桓武天皇の生母・高野新笠が同じ百済系(百済王氏系とは異なる)だったことから「百済王等は朕の外戚なり」として厚遇され、桓武の后(夫人)を出すなど桓武・嵯峨・仁明の3代にわたって天皇家と深い関係を結び、また桓武の寵臣・藤原継縄もまた百済王氏から妻を娶るなど貴族改葬との繋がりも深かったという。
 なお継縄の別邸が中宮にあったことから、桓武は度々交野の地を訪れたという。
 しかし、この時期を絶頂として数代のうちに衰えをみせはじめ、壮麗を誇った百済寺も11~12世紀頃には焼失し、次第に衰微したという。

※末社--相殿社(6社合祀)・浮島神社・八幡神社・稲荷神社

◎相殿社--大神社(アマテラス大神)・春日神社(アメノコヤネ命)・厳島神社(イチキシマヒメ命)
          ・日吉神社(オオヤマクイ命)・瘡神社(クサ神)・竈神社(オキツヒコ命・オキツヒメ命・ホムスビ命)
 本殿裏に末社3社が並んでいる。そのひとつ、「相殿社」は6社8神を一つの祠に合祀するもので、案内には「各社は旧中宮村の各字から遷されたもので、大正2年に相殿社として一つにまとめられた」とある。

瘡神社--瘡(クサ・カサ)とは皮膚病・できものの総称。皮膚病一般に験のある神で、特に疱瘡(天然痘)を防いでくれる神として信仰されたのであろう。案内には「中宮字疫神ケ森より移転」とあり(後記・山神社参照)、旧枚方市史には「太長大明神・白玉大明神と刻せる標石を後にして小祠あり、馬の玩具を多く供えている。
 悪疫退散を祈願する神として遠近より参詣者多し」とある。クサ神と馬とは関係が深い(片埜神社境外末社・瘡神社参照)

竈神社--祭神オキツヒコ・オキツヒメはスサノヲの孫神とされる竈の神(古事記)。ホムスビは火の神。
 カマド神は竈や囲炉裏など火を扱う場所に祀られる神で、カマド=食べ物ということから農業神とも重なり、田植えや収穫祭などにも関わることが多い。
 古く、カマドが一家のシンポルとみなされたことから、子供の神・家族の守護神・牛馬の神など生活全般にわたる家の神的性格ももつという。
百済王神社末社・相殿社
相殿社







◎浮島神社--祭神:タカオカミ神
 資料によれば、「中宮村の字池之宮にあった竜王山から合祀した社」で、元は『八大竜王社』と称し、旱天時の雨乞いの社である。
 枚方市史には「雨乞いに際して、白衣姿の者が供物の入った唐櫃を担ぎ、氏子一同が提灯を持ってこれに従い、社前で神主が祈祷した」とある。

◎八幡神宮--祭神:ホムタワケ尊
 もと西方寺(中宮東之町)境内にあったもので、明治5年の神仏分離により百済王神社に遷されたという(旧枚方市史)


【大垣内神社】(オオカイト)--大垣内町1丁目
 枚方市役所の南、道を越えた反対側にある丘(宮山)の上に鎮座する。周りを商店・民家に囲まれ、神社周辺のみに緑が残る。
 参道の坂を登ったところに立つ鳥居には『百済王神社』とあるが、市販の地図には『大垣内神社』とある。由緒からいって、百済王神社が正式名称であろう。

  祭神--百済王神

 旧枚方市史によれば、
 「三松家は百済王の後裔で、代々中宮に居住して百済王神社に奉仕していたが、文禄年間(1592~96)に三松俊治がこの地に転居し、同俊元の代の慶安3年(1650)8月百済王神社の分霊を廷内に奉斎したのが当社の起源である。
 従って、同家の廷内私社の如く考えられていたが、古くより大垣内の氏神たりしことは、社寺改文書に『禁野村のうち大垣内村氏神 百済王社云々』とあることから明らかである」
という。
 三松家の私有地に創建されてはいるものの、古くから大垣内村の氏神として崇拝された神社で、明治になって社地・社殿が大垣内村に寄贈され、明治15年拝殿・社殿を再建、明治42年に片埜神社に合祀されたが、戦後になって旧社地に復社したという。

 片埜神社合祀後は放置されていたらしく、今、拝殿の壁も床も崩れ落ち、屋根と柱がかろうじて残っているだけ。戦後再建された本殿は、古びてはいるもののしっかりしている。
 本殿右に崩れかかった小祠があるが、祭神・由緒など不明。
大垣内神社・本殿
大垣内神社・本殿


【山神社】--堂山3丁目
 堂山公園の北、国道1号線から西へ入る狭い道沿いにある古びた社で、拝殿の扁額には『山神宮』とある。この辺りが、百済王神社の末社・瘡神社があったという“疫神ヶ森”で、古い古墳の跡ではないかという。
 小高くなった神社の左手一帯には樹木が密集し、社殿も茂みに覆われている。古墳の裾野に建てられた神社という雰囲気がある。

 祭神名は不明。
 拝殿の天井から吊された数個の奉納提灯には赤白の三角形・鱗(ウロコ)模様を組み合わせた紋所(三ッ鱗紋)が描かれている。三角形の鱗は蛇・龍を象徴し水を意味する。また三ッ鱗紋は中世・北条氏の紋所として知られる。

 社名・山神社とあわせ推測すれば、特定の神を祀るというより、蛇神から水神・竜神、ひいてはそれらを総合する山の神を祀る昔ながらの神社かもしれない。
山神社・社頭
山神社・社頭
山神社・拝殿内陣
拝殿・内陣
 神社全体は古びているが、拝殿内陣の奥にご神体の鏡が置かれ、その前に御神酒など奉納されている。何らかの祭祀・祈願はおこなわれているらしい。


【意賀美神社】(オカミ)--枚方上之町 (2018.02.17再訪・改訂)
 京阪・枚方市駅から線路沿いに南へ約500m、香里丘陵の北端部にあたる万年寺山(H=38m)上に鎮座する。
 京阪線路添いの道から、山腹に沿う緩やかな石段(石段下に「式内意賀美神社北?」との石標が立つ)の上に西向きに二の鳥居が立ち(一の鳥居は、二の鳥居から西へ降った処に立つ)、やや急な石段を上った処に立つ〆鳥居をくぐった先が境内。
 二の鳥居の左に、明治初年まで当地にあった万年寺(神仏分離により廃寺)ゆかりの石造九重塔が立つ。


意賀美神社・北参道入口 
 
同・二の鳥居
 
万年寺九重塔

 延喜式神名帳(927)に『河内国茨田郡 意賀美神社』とある式内社で、元はここから南約300mの伊加賀村宮山(現伊加賀北町付近)にあったが、明治42年(1909)、現在地(万年寺山)にあった『須賀神社』および大字岡(現岡東公園付近)にあった『日吉神社』の2社を合祀して現在地(須賀神社旧地)に遷座したという。

※由緒
 境内に案内なく意賀美神社の由緒は不詳だが、旧枚方市史によれば、
 「開化天皇の頃、当地の豪族・伊香我色雄命(イカガシコオ、物部氏系)が淀川の水害排除と舟の航行安全を祈願して、その廷内に創建したのがはじまりで、もと大字伊加賀字宮山に鎮座していたが、付近の住民や淀川を上下する舟人等が通航の安全・水害排除の祈願のため、当時、最も開発されていた伊香の地に社殿を創建したと伝える」
とある。
 開化天皇(9代)の存在そのものが否定されるなか、当社創建がいつまで遡れるかは不詳だが、式内社であることから10世紀初頭以前からの古社であることは確か。

祭神--高龗大神(タカオカミ)素盞鳴大神(スサノヲ)・大山咋大神(オオヤマクイ)・大国主大神

 この4神は、当社に合祀された3社の祭神を合祀したもの。
*高龗神--意賀美神社本来の祭神
 この神は、后・イザナミが火神・カグツチを生んだことで亡くなったことを怒ったイザナギが、土挙剣でカグツチを切ったときに成りでた神で、神名・龗(オカミ)は水を司る龍をを意味し、高龗は高山に坐す水神とされる。
 旧枚方市史がいうように、淀川の治水・利水の神として祀られたものであろう。

*素盞鳴神--旧須賀神社の祭神
 須賀神社は、清和天皇・貞観14年(872)の疫病流行に際し、万年寺(貞観2年・860開基)の開祖・聖寶上人が、勅命によって防疫神・牛頭天王(ゴズテンノウ)を勧請したことに始まり、古くは牛頭天王社と称していたが、明治初年の神仏分離によって万年寺が廃寺となるとともに、祭神も同じ神格をもつスサノオに変更されたもの。

*大山咋神--旧日吉神社の祭神
 オオヤマクイはスサノオの御子・大年神(オオトシ)と天知迦流美豆比売(アメノチカルミズヒメ)との御子で、咋(クイ・クヒ)が杭を意味することから、山に杭を打つ神すなわち山の地主神を指す。
 オオヤマクイは日吉神社の祭神で、日吉神社がこれを祀る由来として
 ・昔、ある人が流れ着いた日吉神社の御神体を家に持ち帰ったら、霊験あらたかだったのて氏神として祀ったとも
 ・伝教大師が、平安京の裏鬼門に当たるこの地に阿弥陀仏と日吉大神を祀り、皇城鎮護の社寺としたのが始まり
という。

*大国主神--伝旧日吉神社の祭神
 オオクニヌシの合祀由縁は不詳だが、この神も日吉大社(西本宮)の祭神であり、比叡山麓・坂本に鎮座する日吉大社が京都の鬼門を護る社であるように、京都の裏鬼門に当たる枚方の地に祀ったのかもしれない。

※社殿等
 境内正面、樹木に囲まれた中に入母屋造の拝殿が、その奥、瑞垣に囲まれた中に流造の本殿が西面して鎮座する。

 
意賀美神社・拝殿(正面)
 
同・拝殿(側面)
 
同・本殿

※末社--琴平神社・稲荷神社
◎琴平神社--祭神:大物主命(オオモノヌシ)
 石段を上がった境内左手、樹木に囲まれた中に南面して鎮座する。
 現社殿は旧須賀神社の本殿という。
 祭神・オオモノヌシはオオクニヌシの和魂で国土経営の神だが、本来の祭神はインド伝来の竜神で金比羅大権現と呼ばれていた。
 コトヒラ社の総本社・讃岐の金比羅神社に伝わる伝承では、太古の昔、琴平の地まで海が湾入していたころ、オオモノヌシがここに行宮を営んだとあり、中世以降の神仏習合により金比羅大権現と習合したという。
 讃岐の金比羅社が象頭山という高所にあって瀬戸内を航行する船からの目印であるように、万年寺山が淀川航行の船からの目印とされて当地に祀られたのかもしれない。

末社・琴平神社

◎稲荷神社
--豊受大神(トヨウケ)・宇迦之御魂神(ウカノミタマ)
  石段上の右手に鎮座し、真っ赤な鳥居が林立し“正一位・稲荷大明神”の幟がはためいている。

 トヨウケ(伊勢外宮の祭神)・ウカノミタマ(稲荷神)両神とも食物神・穀物神だが、一般に広まっている商売繁昌の神として勧請されたものであろう。

末社・稲荷神社

※算額
 当社には「算額」と呼ばれる額(絵馬の一種)が奉納されている。
 算額とは、社寺に奉納された和算(ワサン、江戸時代に発展したわが国独自の数学)関係の絵馬で、和算の問題が解けたとか、勉学成就などを祈願して奉納したものをいう。
 当社に奉納された算額は、摂州麻田の住人・嵓田(岡田)清庸なる人が、当地で病の治療をしていて完治したので、感謝の意を込めて文久元年(1861、幕末動乱期)に奉納したもので、幾何学の問題と解答が3題記されている。
 現代数学でも解いても間違いなく、大学入試程度の問題という。資料室に保管・展示してある。
算額
算 額
算額・復刻版
算額・復刻版


※万年寺山古墳
 当社の鎮座地・万年寺山には万年寺山古墳と呼ばれる中期古墳があったという。
 万年寺山古墳について、社頭の案内には
 「明治25年(1892)、枚方尋常小学校が万年寺跡に移転し、同38年、同校運動場拡張工事中に発見された。
 墳形は不明だが、主体部は粘土槨と推定されます。三角文神獣鏡等の青銅鏡が8面以上出土しており、淀川流域の水上交通を掌握した豪族が葬られた4世紀前半頃の古墳と考えられます。

 平成17年には万年寺山展望広場から、同時期の箱式石棺墓が見つかり、この一帯が一族の墓域であった可能性があります」
とある。
 因みに発見された石棺墓は、石板を立て並べたもので長:180cm・幅:38-40cm・高:20-30cm、床面には川原石が敷き詰められていたという(右写真・案内板より転写)
 

※御茶屋御殿跡
 北側参道を上った右手、淀川を望む高所に『御茶屋御殿跡展望広場』と称する小さな広場がある。
 小さな四阿と植え込みがあるだけの広場だが、傍らの案内板には、
 「京・大阪を結ぶ交通の大動脈、淀川と京街道を見下ろすこの地に豊臣秀吉が『御茶屋御殿』を建てたのは文禄4年(1595)のことです。三矢村に残る記録から、秀吉が御茶屋を建てたことが確認でき、伝承では、秀吉の家臣であった枚方城主・本多内膳正政康の娘・乙御前を此処に住まわせたともいわれています。(中略)
 江戸時代に入ると、御茶屋御殿は幕府公用に施設となりました。寛永3年(1626)三代将軍・家光が逗留したとき、秀吉が建てた御茶屋の脇に桁行5間・梁行3間の『御殿』が新築されましたが、その後は利用されることもなく、御茶屋は承応3年(1654)老朽化のために解体され、延宝7年(1679)7月1日に起こった枚方宿の火事によって新築御殿も全焼し、以後再建されることはありませんでした」
とある。


御茶屋御殿跡展望広場 
 
同左(右手から淀川が望める)
 
広場より淀川を望む
(家並みの間を旧京街道が通っている)

【京阪稲荷神社】--岡東町

  祭神--ウカノミタマ命

 京阪・枚方市駅の南西約250m、大通りから入った狭い道の中ほどにあり、鳥居・社殿はまだ新しい。当地付近は京阪電鉄の発祥地とかで、それを記念して勧請したものというが、由緒書きなどなく詳細不明。時にはお祭りが行われている。

トップページへ戻る