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枚方の神社-3(改訂)
御狩野神社・八幡神社・百済王神社(中宮西之町)・百済王神社(大垣内町・山神宮
・意賀美神社
(式内社)・京阪稲荷神社

 大阪府枚方市内にある神社32社のうち、京阪・枚方市駅周辺にある7社の概要

【御狩野神社】(ミカリノ)--禁野本町 2-7-41 (2021.01.04再訪)
 杉田口禁野線を禁野から市民病院方へ上った中ほど左手の高処に鎮座する。

 曾ては道路脇からの急な石段の上にあに、石段下には祭神名を記した表示があったが、平成に入っての歩道整備工事により社頭が整備され、社殿も後方に後退・新築されて面目を一新している。

  祭神--大鷦鷯命(オオササキ・仁徳天皇)・進雄命(スサノオ)・百済王(クダラオウ)

※由緒
 境内に由緒等の案内はないが、資料によれば、
 「万治寛文年間(1658~73)に、禁野在住の市辺朝右衛門の廷内に勧請した社を、和田寺の隣・雉子塚の傍らに移して旧禁野村の産土神として祀ったのが始まりで、明治までは『御狩神社』と称していたという」

 また、北河内のお宮(2009)によれば、
 「当社は万治寛文年間に禁野の市辺淺右衛門の邸内に勧請した社を、その後に(年代不詳)和田寺の上方の現在地に移して、旧大字禁野の産土神として斎き祀った。
 明治42年(1909)3月5日に現枚方市牧野阪に鎮座の片埜神社に合祀されたが、昭和26年(1951)3月15日付をもって現在地(元の神社跡)にご遷宮された。
 昭和31年12月27日付をもって神社設立した」
という。

 この辺りは、奈良末から平安にかけて天皇の遊猟地(狩場)だったことから、“御狩”あるいは“御狩野”と呼ばれたというが、詳細不明。

※祭神
 当社の創建由緒・時期などは不祥だが、江戸時代の社寺改文書には『禁野村氏神 八幡宮』とあるから、古くは八幡大神(ホムタワケ尊=応神天皇)を祀っていたらしい。
 ホムタワケ・オオサザキが親子ということから、何時の頃かにオオサザキに替わったのだろうが、八幡大神を応神天皇とすれば関係なきにしもあらずだが、神格化された八幡大神とは無関係て、八幡宮に祀られる由緒はない。
 なお両者は同じ人物で、日本書紀記述のとき業績を二人の天皇に分けたとする説もある。

 スサノヲの合祀理由は不祥だが、江戸時代に流行したゴズテンノウを疫病除けの神として祀っていたのを、明治初期の神仏分離に際して同じ神格をもつスサノヲに替えたのかもしれない。

 百済王は、明治5年の神社整理統合に際して、同じ禁野にあった百済王神社(旧社地不明)を合祀したものという。

※社殿等
 道路脇の高処に立地し、歩道の沿った階段を上がった上に新しい鳥居が立つ。

 
御狩野神社・正面
 
同・鳥居

 鳥居に近接して切妻造平入りの拝殿が南面して建ち、その背後に一間社流造の本殿が鎮座する。
 社殿は平成になっての改築で、まだ新しい。

 
同・拝殿(正面)
 
同・拝殿(側面)
 
同・本殿

[参考]
 改築以前の当社は、道路から直登する石段の上に鳥居・長屋門・拝殿と続く社殿構成で、社殿は古び、境内は樹木に覆われていたが、新築された今は面目を一新している。


旧鳥居と長屋門 

旧拝殿 
 
旧内陣

 なお、拝殿右前に稲荷社がある。

◎雉塚--祭神:雉大明神
 創建伝承にいう“雉子塚”の関連遺構として、隣接する和田寺境内の本堂右前に『三足白雉霊』と刻した塚(石碑)がある。
 石碑の表面には『三足白雉霊』と刻してあるが摩耗していてはっきりとは読めない。
 また、石碑裏面には「河内交野郡禁野村医王山鎮守雉大明神因由記 安永2年書 惟喬親王の時、白雉の霊を祀る雉大明神の神祠が建てられた」とあるというが、裏面へは回り込めない。

 雉子塚には、
①「惟喬親王が当地で御遊あったとき、三本足の白雉が渚院に飛び来たって死んだので、和田寺上方の薬子山(医王山)に葬った」(神社由緒)
②「昔、枚方に三本足の白雉がいたが、ある日猟師に撃たれ傷を負ってこの地に逃れ来て死んだので、墳墓を築いて葬った」(枚方市史)
③「薬師堂に白雉が飛び込んできたので仰ぎ見たら、薬師如来が涙を流し身に汗を流しておられた。
 惟喬親王が帰依讃仰されたら、白雉が天女の姿で現れ、「吾は富士のカグヤヒメまたタナバタツメと申す。弁才天の化身である」といって天に向かって去っていった。親王が雉大明神として当山に崇鎮した」(旧枚方市史)
との伝承があり、
 河内名所図会(1801)の和田寺の項には、 
 「貞観年中、文徳天皇第一皇子で清和天皇の御兄・惟喬親王、ここに遊猟の時、三足の雉、渚院に飛入って死す。即、これを塚に築きて小祠を建る。今の鎮守これなり」
とある。


雉塚・全景 
 
雉 塚

刻 銘 
 
和田寺境内
(正面:本堂)

 ただ、大阪府全志には、
 「雉子塚  和田寺の上部は御狩神社の旧址にして、其の上方に古墳あり。
 俗に雉子塚と称へ、惟喬親王の此に遊猟ありし時に飛び入った三足の雉子を葬りし所なりといひ、三足白雉霊と刻せる碑石ありしも、今其の碑は少し東方なる畑地に移さる。
 思ふに其の雉塚といへるは、惟喬親王の遊猟し給ひし地域内にあるを以て、好事者の付会に成れる謬説にして、塚は正しく一箇の古墳ならん。
 大正年間之を発掘したるに石棺現れしを以て、怖れて元の如く埋めしと云ふ」
とあり、死んだ雉を葬った塚というのは伝承であって、本来は古墳だという。

◎白雉塚古墳の天井石
 境内の左奥に、古墳石室に使われていたという天井石の一部が置かれており、傍らの枚方市教育委員会掲示の案内(2004建立)には、
 「この巨大な石は、かつて禁野の御狩野神社北側にあった白雉塚古墳の石室の天井石の一部です。
 白雉塚古墳は、古墳時代後期(今からおよそ1500年前)に築かれた円墳です。直径はおよそ30m、高さはおよそ4mで、淀川と天野川をのぞむ旧領の先端部に位置することから、当時の枚方周辺を治めた首長の墓と考えられます。

 主体部(遺体を葬る場所)は花崗岩の巨石を組みあげた横穴式石室で、全長は8.5m、高さ2.1mとなっています。
 大正2年(1913)に一度発掘され、石室内部から銀製の空玉(ウツロタマ)や馬具類などがまとまって出としており、現在は東京国立博物館が所蔵しています。
 なお、石室内部の壁や天井などには赤色顔料が塗られていたといいますが、現在は確認することができません。

 残念なことに、白雉塚古墳は昭和41年(1966)の造成工事によって石室が破壊されて露出し、応急的な調査が行われた後に消滅しましたが、その際、石室の石材が一部残され、御狩野神社と枚方市市民会館の一角で保存されています」
とある。

 当社境内にみる巨石は、この古墳石室に使用されていた石材の一部で、同じく石材の一部が枚方市市民会館の裏庭にも保存されている(略同意文の案内掲示あり)

*当社境内の天井石

     

*枚方市市民会館裏庭の天井石

     



【八幡神社】--磯島元町 5-7 (2021.01.04再訪)
 京阪電鉄・枚方市駅の北北西約750m、駅西を南北に走る府道13号線を北上、磯島歩道橋脇の角を左へ(淀川側)に入ったところにある小さなお神社。

  祭神--誉田別命(ホムタワケ・応神天皇)

※由緒
 当社関連の資料は皆無に近いが、
 北河内のお宮(2009)には
 「当社の創建年月は不詳であるが、伝記によれば、元和3年(1617)に当地の領主・前大納言日野氏が八旛宮を勧請して社殿を造営し、正徳元年(1711)には拝殿を新築、また本殿の雨樋を修理した。宝暦4年(1754)に社殿が大破した時も京都の領主日野家が修繕した。
 当時は村内の住人12軒より成る宮座があり、その座中から年番に神主役を奉仕していた。
 明治27年(1894)にも社殿の改築を行ったが、同41年に政府の命により近隣の片埜神社に合祀された。
 後、昭和33年(1958)5月2日に再び分離独立し、現在のかたちとなった」

 旧枚方市史には
 「元和8年(1622)、当地の領主・日野前大納言が社殿を造営して八幡大神を勧請し、正徳元年に拝殿を新築した旧八幡神社」
とある。

 境内に保存されている古い鳥居の柱に「摂津国嶋上郡磯島村 寛保三歳(1743)九月吉日」とあることから、江戸時代にあったのは確かといえる。
 明治42年、片埜神社(牧野阪町)に合祀された後も当地に遙拝所があったという。
 社殿はまだ新しい。近年、隣接する集会所改築にともなって、社殿を縮小して改築したものという。

※社殿等
 道路脇の石灯籠に挟まれて鳥居が東面して立ち、境内に入る。


八幡神社(磯島)・全景 
 
同・鳥居

 境内奥に切妻造平入りの社殿一棟が北面して鎮座し(鳥居の向きとは90度異なっている)、中に一間社流造の本殿が鎮座している。


同・社殿(正面) 

同・社殿(側面) 

同・本殿(社殿内陣より) 

 正面鳥居を入った左に旧鳥居残欠一対が立ち、柱面に「摂津国嶋上郡磯島村 寛保三歳(1743)九月吉日」との刻銘が読める。

 社殿の右に末社・稲荷神社がある。


旧鳥居残欠 
 
同・刻銘(部分)
 
末社・稲荷社鳥居
 
同・社殿

 なお、正面鳥居の左に小祠があり、赤い前垂れを掛けた石像2躰が納められている。
 左の石像は上部が欠けていて何かは不明だが、右のそれには2躰の像が並んで浮彫にされている。
 この形からみて、当石像は男女の神を併祀する双躰道祖神と思われ、この小祠は、かつて当地附近の街道筋にあったものを当社境内の一画に祀ったものと思われる。

     


【百済王神社】--中宮西之町 1-68
   別稿・百済王神社へ移行


【百済王神社】(大垣内)--大垣内町 1丁目 (2021.01.04再訪)
 京阪電鉄・枚方市駅の南東約350mの小高い丘(宮山)の上に鎮座する。
 駅南の府道139号線を少し東へ行ったところから小道を南に入った先に鎮座するが、道路が輻輳していて地図があっても判りにくい。

  祭神--百済王神
※由緒
 当社関連の資料少なく詳細不明だが、
 旧枚方市史によれば、
 「三松家は百済王の後裔で、代々中宮に居住して百済王神社に奉仕していたが、文禄年間(1592~96)に三松俊治がこの地に転居し、同俊元の代の慶安3年(1650)8月百済王神社の分霊を廷内に奉斎したのが当社の起源である。
 従って、同家の廷内私社の如く考えられていたが、古くより大垣内の氏神たりしことは、社寺改文書に『禁野村のうち大垣内村氏神 百済王社云々』とあることから明らかである」
という。

 三松家の私有地に創建されてはいるものの、古くから大垣内村の氏神として崇拝された神社で、明治になって社地・社殿が大垣内村に寄贈され、明治15年拝殿・社殿を再建、明治42年に片埜神社に合祀されたが、戦後になって旧社地に復社したという。

※社殿等
 ネット地図を頼りに曲がりくねった小道を進んでいった右手に鳥居が見え、民家と空地に挟まれた地道を入った先に鳥居が立ち、石段を登った先が境内。
 鳥居に「百済王神社」とあるだけで、境内には案内等一切ない。

 当社は、片埜神社合祀後は放置されていたらしく、今、
 拝殿の壁も床も崩れ落ち、屋根と柱がかろうじて残っているだけ。
 その背後に建つ一間社流造の本殿は、戦後復帰後の造営のようで、古びてはいるもののしっかりしている。
 ひっそりとした境内は清掃等はなされているようで、何らかの管理はされているらしい。


百済王神社への入口
(この先に鳥居が立つ) 
 
同・鳥居 

同・拝殿(屋根と柱があるだけ) 
 
同・本殿(正面)
 
同・本殿(側面)

 本殿の右に朱塗りの鳥居が立ち、一間社流造の小祠が鎮座している。
 社名等の表示なく詳細不明だが、幔幕の神紋からみると稲荷社らしい。


末社・鳥居 
 
末社・社殿 


【山神宮】--堂山 3-30 (2021.01.28再訪)
 堂山公園の北、国道1号線・中宮交差点の少し北(角に日本料理店・木曽路あり)を西へ入った小路の北側にある小社。
 周囲には民家密集している。

※由緒
 当社関連の資料なく由緒・祭神等の詳細等不明。
 ただ、この辺りが、百済王神社の末社・瘡神社があったという“疫神ヶ森”で、古墳の跡ではないかというが、今、その面影はない。

※祭神
 社殿の柱には『天照皇大神』とあり、これが祭神かと思われるが、
 内陣正面に吊された提灯には『太長』とあり、両側に立つ雪洞(ボンボリ)には『太長大神』とあるが、その出自・神格等は不明。
 ただ、提灯に太長の文字とともに赤い鱗紋が見え、これが当社の神紋かと思われる。
 鱗紋とは龍蛇神を指す紋章であることから、太長大神は竜神(水神)であり、五穀豊穣を祈って奉祀したのかもしれない。

※社殿等
 道路の北側に社殿が南面して鎮座し明るい雰囲気だが、10数年前訪れたときは、社頭に鳥居が立ち、神社全体が樹木に覆われていた。
 社殿は、一間向拝付き切妻造・平入りで、右隣りに社務所らしい建物があるが無人。 

 
山神社・社頭

同・社殿 
 
同・社殿(向拝部)

 社殿に掲げる扁額には『山神宮』とあるが、だいぶ摩耗していて読みづらい。
 内陣正面の“太長”と記された提灯の奥に、鏡が6面ほど(内2面は一部が欠けている)奉安されているだけ。
 正面の提灯には『太長』とあるが、吊された提灯に中には『白王』(又は白玉)と記したものも見える。
 いずれの提灯にも赤い鱗紋がみえる。
 なお、内陣左奥に小祠が東面して鎮座するが、神名など不明。

 
同・扁額
 
同・内陣

同・旧社殿
(前面に鳥居があり、
全体が樹木に覆われていた)
 

 社殿背後に注連縄を張った石碑がある。
 上部に『□話方』とあり、□部分は“世”で世話方と読むのかもしれないが、崩し字のためはっきりしない。
 碑文の判読は不能。

 境内の奥、一段低くなったところに古い釣瓶井戸があるが、これが何に使われていたかは不明。


社殿背後の石碑 
 
同 左

古井戸 


【意賀美神社】(オカミ)--枚方上之町 (2018.02.17再訪)
 京阪・枚方市駅から線路沿いに南へ約500m、香里丘陵の北端部にあたる万年寺山(H=38m)上に鎮座する。
 京阪線路添いの道から、山腹に沿う緩やかな石段(石段下に「式内意賀美神社北?」との石標が立つ)の上に西向きに二の鳥居が立ち(一の鳥居は、二の鳥居から西へ降った処に立つ)、やや急な石段を上った処に立つ〆鳥居をくぐった先が境内。
 二の鳥居の左に、明治初年まで当地にあった万年寺(神仏分離により廃寺)ゆかりの石造九重塔が立つ。


意賀美神社・北参道入口 
 
同・二の鳥居
 
万年寺九重塔

 延喜式神名帳(927)に『河内国茨田郡 意賀美神社』とある式内社で、元はここから南約300mの伊加賀村宮山(現伊加賀北町付近)にあったが、明治42年(1909)、現在地(万年寺山)にあった『須賀神社』および大字岡(現岡東公園付近)にあった『日吉神社』の2社を合祀して現在地(須賀神社旧地)に遷座したという。

※由緒
 境内に案内なく意賀美神社の由緒は不詳だが、旧枚方市史によれば、
 「開化天皇の頃、当地の豪族・伊香我色雄命(イカガシコオ、物部氏系)が淀川の水害排除と舟の航行安全を祈願して、その廷内に創建したのがはじまりで、もと大字伊加賀字宮山に鎮座していたが、付近の住民や淀川を上下する舟人等が通航の安全・水害排除の祈願のため、当時、最も開発されていた伊香の地に社殿を創建したと伝える」
とある。

 ただ、大阪府全志(1922)
 「意賀美神社は山上にあり、社はもと須賀神社と称し、祭神は素盞鳴命にして、貞観14年天下に疫厲大に流行せるに際し、清和天皇より万年寺聖寶師に神璽を授けられて、其の終熄を祈らしめ給ひしもの当社の起源にして、一に牛頭天王と呼び、又祇園社とも称し、万年寺の奉仕せる所なり。

 明治維新後の神仏分離に依りて寺は廃絶し、社は明治5年村社に列せられ、同42年大字岡字別子山の村社日吉神社(大山咋神・大国主命)及び大字伊加賀字宮山の同意賀美神社を合併す。

 合併せられたる意賀美神社は延喜式内の旧社にして、祭神は高龗神及び素盞鳴命なれども創建の年月は詳ならず。
 また日吉神社は伝教大師の初めて祀りし所にて、同寺の奉仕する所なりしが、明治後の神仏分離に依りて寺と離れ、意賀美神社と共に村社に列せられたりしものなり」
とあり、枚方市史にいう由緒とは異なっている。

 この二つの由緒から推測すれば、次のようにいえよう。
 ・当万年寺山には、かつて当山にあった万年寺の鎮守社として牛頭天王社(祇園社)があり、疫病除けの神として牛頭天王を祀っていた。
 ・その由緒が、府全志・前段の記述であり、府全志・万年寺の址の項にも
 「万年寺の址は御茶屋御殿址(下記)の北(東の誤記か)にあり、・・・
 清和天皇・貞観14年、天下に疫病流行して国民多く死亡せしかば、聖宝尊師は天皇より牛頭天王の神璽を賜りて、疫病退治の為に祈りしは、即ち後の祇園神社是なり」
とある。

 ・万年寺は明治初年の神仏分離に依って廃寺となり、須賀神社は独立し、牛頭天王が仏教色が強いとして排斥されたことから祭神を素盞鳴命に、社名も牛頭天王社(祇園社)から須賀神社に替えたと思われる。

 ・一方、意賀美神社は古くは旧伊加賀村宮山にあり、旧枚方市史がいうように、淀川舟行の安全と水害防止のために水神・高龗神を祀っていた。
 ・その創建時期を開化天皇(第9代)の御代というが、開化天皇の実在は疑問視されており(開化以前の天皇を欠史9代という)、当社創建時期を開化天皇期とみるのには疑問がある。(ただ、書紀・崇神7年条に伊香我色雄の名がみえる)
 ただ、意賀美神社し式内社であることから、10世紀以前からの古社であるのは確かといえる。

 ・明治末期の神社統合令施行により、意賀美神社と日吉神社を万年寺山の須賀神社に合祀し(但し、今の当社に須賀神社の痕跡はない)、意賀美神社が延喜式内社であることから社名を意賀美神社と称して現在に至る。

祭神--高龗大神(タカオカミ)素盞鳴大神(スサノヲ)・大山咋大神(オオヤマクイ)・大国主大神

 この4神は、当社に合祀されている4社の祭神を指す。
*高龗神--意賀美神社本来の祭神
 この神は、后・イザナミが火神・カグツチを生んだことで亡くなったことを怒ったイザナギが、土挙剣でカグツチを切ったときに成りでた神で、神名・龗(オカミ)は水を司る龍をを意味し、高龗は高山に坐す水神とされる。
 旧枚方市史がいうように、淀川の治水・利水の神として祀られたものであろう。

*素盞鳴神--旧須賀神社の祭神
 須賀神社は、清和天皇・貞観14年(872)の疫病流行に際し、万年寺(貞観2年・860開基)の開祖・聖寶上人が、勅命によって防疫神・牛頭天王(ゴズテンノウ)を勧請したことに始まり、古くは牛頭天王社と称していたが、明治初年の神仏分離によって万年寺が廃寺となるとともに、祭神も同じ神格をもつスサノオに変更されたもの。

*大山咋神--伝旧日吉神社の祭神
 オオヤマクイはスサノオの御子・大年神(オオトシ)と天知迦流美豆比売(アメノチカルミズヒメ)との御子で、咋(クイ・クヒ)が杭を意味することから、山に杭を打つ神すなわち山の地主神を指す。
 オオヤマクイは日吉神社の祭神で、日吉神社がこれを祀る由来として
 ・昔、ある人が流れ着いた日吉神社の御神体を家に持ち帰ったら、霊験あらたかだったのて氏神として祀ったとも
 ・伝教大師が、平安京の裏鬼門に当たるこの地に阿弥陀仏と日吉大神を祀り、皇城鎮護の社寺としたのが始まり
という。

*大国主神--伝旧日吉神社の祭神
 オオクニヌシの合祀由縁は不詳だが、この神も日吉大社(西本宮)の祭神であり、比叡山麓・坂本に鎮座する日吉大社が京都の鬼門を護る社であるように、京都の裏鬼門に当たる枚方の地に祀ったのかもしれない。

※社殿等
 境内正面、樹木に囲まれた中に入母屋造の拝殿が、その奥、瑞垣に囲まれた中に流造の本殿が西面して鎮座する。

 
意賀美神社・拝殿(正面)
 
同・拝殿(側面)
 
同・本殿

※末社--琴平神社・稲荷神社
◎琴平神社--祭神:大物主命(オオモノヌシ)
 石段を上がった境内左手、樹木に囲まれた中に南面して鎮座する。
 現社殿は旧須賀神社の本殿という。
 祭神・オオモノヌシはオオクニヌシの和魂で国土経営の神だが、本来の祭神はインド伝来の竜神で金比羅大権現と呼ばれていた。
 コトヒラ社の総本社・讃岐の金比羅神社に伝わる伝承では、太古の昔、琴平の地まで海が湾入していたころ、オオモノヌシがここに行宮を営んだとあり、中世以降の神仏習合により金比羅大権現と習合したという。
 讃岐の金比羅社が象頭山という高所にあって瀬戸内を航行する船からの目印であるように、万年寺山が淀川航行の船からの目印とされて当地に祀られたのかもしれない。

末社・琴平神社

◎稲荷神社
--豊受大神(トヨウケ)・宇迦之御魂神(ウカノミタマ)
  石段上の右手に鎮座し、真っ赤な鳥居が林立し“正一位・稲荷大明神”の幟がはためいている。

 トヨウケ(伊勢外宮の祭神)・ウカノミタマ(稲荷神)両神とも食物神・穀物神だが、一般に広まっている商売繁昌の神として勧請されたものであろう。

末社・稲荷神社

※算額
 当社には「算額」と呼ばれる額(絵馬の一種)が奉納されている。
 算額とは、社寺に奉納された和算(ワサン、江戸時代に発展したわが国独自の数学)関係の絵馬で、和算の問題が解けたとか、勉学成就などを祈願して奉納したものをいう。
 当社に奉納された算額は、摂州麻田の住人・嵓田(岩田)清庸なる人が、当地で病の治療をしていて完治したので、感謝の意を込めて文久元年(1861、幕末動乱期)に奉納したもので、幾何学の問題と解答が3題記されている。
 現代数学でも解いても間違いなく、大学入試程度の問題という。資料室に保管・展示してある。

算 額

算額・復刻

 当社算額について、「北河内のお宮」(2009)には、
 「神社仏閣の絵馬堂・拝殿等に奉掲されている絵馬にうち、数学の絵馬を算額といいます。
 大阪府に残る十数面のうち、北河内には国中神社(四條畷市)と当神社に貴重な二面が残されています。
 殊に算額は自身の研究を発表する手段として奉納され、神仏の加護により更に数学者としての上達を祈念する願望が込められています。
 当神社の算額は縦83㎝・横105.8㎜・枠幅10.3㎝と小型ではあるが四隅を飾金具でとめた重厚な額です。
 文久元年(1861)に災厄病難除けとして御神徳の篤い素盞鳴大神を奉祀する牛頭天王社(祇園社)、旧須賀神社に奉納されたもので、奉納者である岩田清康の“順天堂算譜”には『所掲干河州枚方 牛頭天王社有・・・』とあります」
とある。

※万年寺山古墳
 当社の鎮座地・万年寺山には万年寺山古墳と呼ばれる中期古墳があったという。
 万年寺山古墳について、社頭の案内には
 「明治25年(1892)、枚方尋常小学校が万年寺跡に移転し、同38年、同校運動場拡張工事中に発見された。
 墳形は不明だが、主体部は粘土槨と推定されます。三角文神獣鏡等の青銅鏡が8面以上出土しており、淀川流域の水上交通を掌握した豪族が葬られた4世紀前半頃の古墳と考えられます。

 平成17年には万年寺山展望広場から、同時期の箱式石棺墓が見つかり、この一帯が一族の墓域であった可能性があります」
とある。
 因みに発見された石棺墓は、石板を立て並べたもので長:180cm・幅:38-40cm・高:20-30cm、床面には川原石が敷き詰められていたという(右写真・案内板より転写)
 

※御茶屋御殿跡
 北側参道を上った右(神社西側)、淀川を望む高所に『御茶屋御殿跡展望広場』と称する小さな広場がある。
 小さな四阿と植え込みがあるだけの小公園だが、傍らの案内板には、
 「京・大阪を結ぶ交通の大動脈、淀川と京街道を見下ろすこの地に豊臣秀吉が『御茶屋御殿』を建てたのは文禄4年(1595)のことです。三矢村に残る記録から、秀吉が御茶屋を建てたことが確認でき、伝承では、秀吉の家臣であった枚方城主・本多内膳正政康の娘・乙御前を此処に住まわせたともいわれています。(中略)
 江戸時代に入ると、御茶屋御殿は幕府公用に施設となりました。寛永3年(1626)三代将軍・家光が逗留したとき、秀吉が建てた御茶屋の脇に桁行5間・梁行3間の『御殿』が新築されましたが、その後は利用されることもなく、御茶屋は承応3年(1654)老朽化のために解体され、延宝7年(1679)7月1日に起こった枚方宿の火事によって新築御殿も全焼し、以後再建されることはありませんでした」
とある。

 また、大阪府全志には、
 「万年寺山は枚方町東南にあり。其の名は万年寺のありしに依る。
 同山の南部は俗に御殿山と呼び、天正年間豊臣秀吉の御茶屋御殿を設けし所なりと伝ふ。
 大字岡一乗寺の記録に依れば、当時此の御茶屋御殿は其の愛妾乙御前の住せし所なり。
 乙御前は枚方城主本多内膳正政の女にして、芳紀正に二十、容色端麗にして礼式に精通しけるが、一乗寺の光誉上人を招請してしばしば茶の湯を供しければ、秀吉は上人の同女と醜行あるかを疑いしより、上人は其の無実に憤慨して自殺せしかば、乙御前は之を憐み、其の彼着せる禰襠を以て仏前の打敷を作りて、同上人の為に之を同寺に寄附し、豊公逝去のの後は剃髪して尼となり、薬師庵に終れりといふ」
とある。


御茶屋御殿跡展望広場 
 
同左(右手から淀川が望める)
 
広場より淀川を望む
(家並みの間を旧京街道が通っている)

【京阪稲荷神社】--岡東町 (2021.01.04再訪)

  祭神--宇迦之御魂命(ウカノミタマ)
 京阪・枚方市駅の南西約250m、大通りから入った狭い道の中ほどにあり、鳥居・社殿はまだ新しい。

 境内に由緒等を記した案内なく詳細不明だが、当地付近は京阪電鉄の発祥地とかで、それを記念して勧請したという。

 道路に面した植え込みの中央に入口があるが、常時は施錠されていて境内には入れず、境内右の植え込みの間から覗き見するだけ。

 
京阪稲荷神社・正面
 
同・社殿

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