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枚方の神社-4
菅原神社(長尾)・菅原神社(藤坂)・菅原天満宮・春日神社(津田)
・春日神社
(野村)・春日神社(春日)・治郎兵衛宮・土山神社

大阪府枚方市内にある神社32社のうち、国道1号線以東の北よりに位置する7社についての概要

 枚方市の東北部に位置する菅原・藤坂地区には菅原神社が3社、津田地区には春日神社が3社とまとまっている。

【菅原神社(長尾)--長尾宮町1丁目  (2020.12.24再訪)
 学研都市線(片町線)・長尾駅の南約200m、駅前の交野久御山線を南へ、長尾口交差点を左折(東へ)、JR線路を渡ってすぐの東側、鎮守の森の中に位置する。
 北は道路をはさんで正俊寺、西は鉄道線路、東・南には民家が迫っている。

  祭神--菅原道真

※由緒
 社頭の案内には、
 「寛永20年(1643)、領主の久貝因幡守正俊は、家臣の細谷善兵衛に命じて八田川の川筋で当時八田広と呼ばれていた荒れ地を開墾させ、新田開発を行った。
 新田は開墾の翌年に福岡村と名づけられたが、貞享3年(1686)に長尾村と改称された。
 菅原神社は、慶安3年(1650)に正俊の子・正世が長岡天神の分霊を勧請して社殿を造営したのが始まりとされている。
 祭神は菅原道真で、社殿は文化4年(1807)の再建である」
とある。

 北河内のお宮(2009刊・2020入手)には、
 「元和元年(1615)大阪落城の後、徳川家康の命により、その旗本の久貝因幡守正俊公が河州交野郡(四條畷・寝屋川の一部)を采地とされた。
 その頃長尾の丘陵地は荒野で河内・山城の国境で交通の要所であり、古来から戦略上の要地であったため、ここに陣屋を営まんとし、陣屋を建てるには村おこしが必要と、久貝氏の家来・細谷善兵衛は戸数13戸の村民や近隣村民を集め、彼らと共に長尾の荒野・山林を開拓し新田や畑を造った。
 開拓地は良い土壌で穀物の増収があり、この丘陵は『福をもたらす岡』とのことから『福岡村』と名づけたとのことてある。

 その後も開拓を奨励したため、近隣村落からの移入者も次第に多くなり、慶安3年(1650)には戸数33戸に増加、『鎮守を建てて村の団結を図るが良かろう』と京都長岡天神の分霊を受け、質素な氏神をこの地に建てたのが『菅原天神』の始まりであった。
 よって菅原道真公を祭祀する。
 その後年には陣屋も建ち、開拓地・戸数は増加の一途をたどり、やかて摂社として『峠天満宮』や『高野道天満宮』・『皇大神宮』が順次ご造営されたのです。

 当初の氏神天神は藁葺き屋根の粗末なものであったためか、この間天文4年(1739)には氏神再建、宝暦5年(1755)拝殿再建との記録もあり、その都度、村民・氏子の力によって修復や補修を繰り返してまいりました。
 近年になり神殿・拝殿・社務所建物は老朽化が著しく進み改築や修繕が困難となってしまいました。
 現在の社殿は平成3年起工、同6年に竣工したものです」
とある。

 また、大阪府全志(1922)には、
 「長尾村字宮の前にあり、菅原道真を祀れり。
 寛永20年久貝因幡守正俊が本地開拓の折、其の子因幡守正世の慶安3年斎地を卜して社殿を造営して勧請せしもの当社の起源にして、その後、大破しければ、鈴木代右衛門が久貝家の命を受けて再興せり」
とある。


 領主・久貝氏は大阪町奉行も務めたという徳川譜代の旗本(5780石)で、初代・正俊が大阪城落城後にこの地を拝領、各地から農民を集めて開発に努めたという。

 今、菅原道真は学問の神として知られているが、これが表に出たのは江戸中期頃からで、それまでは畏るべき御霊神であるとともに風雨水火を支配する天神として畏敬されていた。
 ここで祀られたのも、学問の神というより雷神・水神を自在に操って稲作に必要に水を必要なときに与えてくれる天神(雷神)として祀られたかと思われる(菅原神社・藤阪参照)

※社殿等
 JR踏切を渡ってすぐ右に入口があり、少し先に一の鳥居が北面して立つ。
 やや長めの参道の途中に、小振りな二の鳥居が立ち、境内に入る。
 境内左(北側)に三の鳥居が西面して立ち。その奥に拝殿が見える。


菅原神社(長尾)・社頭 
 
同・一の鳥居
 
同・参道
 
参道途中の二の鳥居
 
境内に立つ三の鳥居
(奥に拝殿が見える) 

 三の鳥居から入った境内正面に、千鳥破風を有する入母屋造の拝殿が西面して鎮座し、その奥、白塀に囲まれた中に本殿が鎮座する。
 ただ、本殿は周りの白壁が高く外からは実見不能。拝殿内陣の奥に本殿(正面)が見えるが社殿様式等ははっきりしない。


同・拝殿(正面) 
 
同・拝殿(側面)

同・内陣(奥に本殿が見える) 

◎境内社
 社殿向かって右(南側)に境内末社2社が西面して鎮座する。
 社殿側から
*天照皇大神遙拝所
  小振りの鳥居の奥、板塀の中に小祠が鎮座する。

*稲荷神社
    祭神--宇迦御魂命(ウカノミタマ)
 遙拝所の右、緩やかな坂に連なる朱塗りの鳥居列の先に朱塗りの小祠が鎮座する。 
 長尾史によれば、延宝6年(1678)、久貝陣屋の北西隅に勧請されたもので『お陣屋稲荷』と呼ばれ、毎年の初午の日には長尾以外からも多くの参詣者が集まり、氏神である神社本来の祭よりも賑やかだったという。

 
天照皇大神遙拝所
 
稲荷神社 

*水神宮(貴船神社)
    祭神--高龗神(タカオカミ)・闇龗神(クラオカミ)
 境内南東隅の叢林の中にある小祠で、鳥居奥に建つ社殿の中に一間社流造の小祠が鎮座する。
 鳥居の神額及び本殿扁額には『水神宮』とあり、所謂“水神さん”である。
 元は本殿裏にあった2つの池の畔に祀られていたようで、18世紀末頃に今の位置に移ったという。

 長尾史によれば、この祠は本社創建当時からあったといわれ、最初は「八大竜王」を祀る水天宮と呼ばれていたが、その後、山城の貴船神社から分霊を勧請し『貴船神社』と称するようになったとある。

 神名“オカミ”(雨の下に龍)は龍を意味する水神で、タカオカミは山上に降る天を司る水源の神、クラオカミは峰々から流れ降る渓流の水を司る神とされる。
 平安初期の太政官符に「河内の交野郡は土地が痩せていて、ややもすれば旱魃に悩まされ、その田は一年おきの耕作にしか耐えない云々』(枚方市史)とあるように、川はあるものの平素は水の少ない涸れ川ということで水利の便が悪く、水神さんへの雨乞いは恒例行事だったという。
 このような土地柄が雷神としての道真や水を司る水神を祀る由縁ともいえる。

 
水神宮(貴船神社)・鳥居

同・社殿 
 
社殿内の本殿
*道真と牛
 境内に大きな“牛の臥像”があるが、道真と牛との関係は深い。
 道真の誕生日・逝去日がともに丑の日との伝承、あるいは「道真左遷のとき、藤原時平の命をうけて途中で殺そうとした刺客が道成寺近くで追いつき斬りかかったとき、突如現れた暴れ牛が角にかけたこれを殺した。この牛は道真が可愛がっていた牛で、左遷決定後姿を消していた。
 道真は大変喜んで、この牛に乗って心やすく旅を続けられた」などの伝承がある。
 また牛は、古く、旱天時の雨乞いに際して供儀獣として献げられたりして、水神との関係が深いから、道真を雷神とみれば関係なくはない。
菅原神社(長尾)・牛の臥像


【菅原神社(藤坂)】--藤阪天神町  (2020.12.24再訪)
 JR学研都市線・藤阪駅から約200mほど長尾寄り(北)に鎮座する。
 JR線路により境内が分断されており、線路下をくぐって境内に入る。
 藤阪史(「消えたものも伝え継ぐ藤阪の今昔物語」1999)によれば、江戸・寛政時代(1789~1801)には「天神社」、明治5年以降「天満宮」と呼ばれたといい、鳥居の神額には『天満宮』、拝殿の扁額には『菅原神社』とある。 

  祭神--菅原道真

※由緒
 近傍の長尾・菅原神社と同じ菅原道真が祭神だが、その創建由緒は異なる。
 拝殿に掲げられる“藤坂天満宮由来”によれば、
 「後土御門天皇(1198~1210、鎌倉末期)の頃に津田城主・備後守正忠が津田郷から一座(12戸)を移して拓いたのが藤坂村で、永仁6年頃(1298)頃の当社は、津田郷の脇宮として三の宮座衆によって祀られていたと伝える。
 その後、天正年中(1573~93、豊織時代)になって津田城主・主水頭正時が社殿を造営した」(大意)
という。

 また北河内のお宮さんには
 「創祀年代は不詳であるが、藤坂村の始めは津田村から分かれたもので、古くはその名が永仁6年(1298)三ノ宮造営奉加の村々中に記されている。
 その頃当社は津田郷の脇宮として三ノ宮の座衆で祀られていたと伝えられている。

 後土御門天皇の頃(1264--1500)津田城主・備後守正忠は、この地を開き津田郷の一座を移植したもので、当時氏子は12軒であったが、天文元年(1532)明尾寺の辺りにあった津熊郷5軒が戦いに焼けて当郷に加わったので17軒となった。(以下略)
とある。

 これらの由緒からみると、鎌倉末期頃の藤坂村の氏神は穂谷の三の宮神社で、当地には三の宮の末社であった津田(春日神社)から分けられた祠みたいなもの(脇宮)だったが、豊織時代になって本格的な社殿が造営されたらしい。
 ただ、当社保存の古文書などは戦後すぐに盗難にあったそうで、詳しいことは残っていない。

※祭神
 今の祭神は菅原道真となっているが、上記由緒にいうように当社が三の宮→津田→藤坂と別れてきたものとすれば、三之宮神社および津田・春日神社のいずれにも菅原道真は祀られておらず平仄があわない。

 ただ、拝殿に掲げる“水神さまのいわれ”なる説明に、
 「北野天神縁起の道賢上人冥土記に、わが国には十六万八千の水火雷電・風伯・毒龍・鬼神などが満ち満ちしていて大水害を起こしているが、その総支配をされる神さまが太政威徳天(天神=道真)で、道真は風雨水火の支配神であったと伝えられている」
とある。
 当社に祀られる道真が、昨今にいう学問の神ではなく、雷神・水神を支配する天神としての道真とすれば、三の宮・津田ともに旱天時の雨乞いに霊験高い神とされているから、祭神名は異なるとはいえ平仄はあう。

 また江戸時代までの本殿内には、ご神体として神名を記した神札(三部経ともいう)が収められていたというが、今のそれは、明治4年8月に松村伊三郎が、東京の神祇省から分与されたご神体を竹籠行李に収めて往復26日かけて持ち帰ったものという(藤阪史)
 多分神名を記したお札と思われる。

※社殿等
 道路に沿った石垣の上に玉垣が連なり、その右端にJR線路をくぐる石段があり、線路をくぐって上がった右に鳥居が立ち境内に入る。境内はそう広くはない。

 
菅原神社(藤阪)・社頭
 
同・鳥居

同・境内 

 境内正面に、千鳥破風を有する横に長い入母屋造の拝殿が西面して鎮座する。


同・拝殿(正面) 
 
同・拝殿(側面)

 拝殿の奥、白塀に囲まれた中に春日造・朱塗りの本殿が西面して鎮座する。
 奈良・春日神社の式年造替に際して古くなった社殿を貰いうけた“春日移し”と呼ばれる社殿で(文久3年1862、幕末動乱の頃)、小振りながらも朱の玉垣に囲まれ、白壁に朱が映える綺麗な社殿である。昭和55年改修。


同・内陣(奥に本殿正面が見える) 
 
同・本殿 

 境内南東<、朱塗り鳥居3本の奥に切妻造・妻入りの小祠が北面して鎮座する。
 鳥居に「正一位 稲荷大明神」とあり、祠内に白狐小像が並んでいるから稲荷社だろうが、何故か祠の下方に納札所との木札が掛かっている。

 
稲荷神社・鳥居
 
同・社殿 


【菅原天満宮】--長尾峠町 (2008参詣)
 JR学研都市線・長尾駅の北西約2.5㎞、摂南大学行のバス停・峠から北に入った小高い丘の上に位置する。摂南大薬学部の東に当たる。
 当社に関する資料はほとんどなく、社務所もまた無人。長尾史には
 「峠の集落ができた年代は不明だが、称念寺過去帳に正徳2年(1712)ここに住民が住んでいたとあるから、当天満宮はその後に祀られたのであろう」
とある。

  祭神--菅原道真

◎末社--水神社・稲荷神社・不明社
 拝殿右手前に小祠2座あり、一座は『水神社』とあるがもう一座は不明。
 稲荷社は、鳥居をくぐってすぐ左にあり林立する朱色の鳥居が目立っている。

菅原天神社・拝殿
菅原天神社・拝殿
菅原天神社末社・水神社他
末社-左:水神社、右:不明社
菅原天神社末社・稲荷社
末社・稲荷社


【春日神社(津田)】--津田元町 1-10-1  (2020.12.25再訪・改訂)
 津田の町中を通る旧山根街道沿いにあり、津田地区では最も大きく社殿も壮麗である。
 今の社名は『春日神社』だが、大鳥居および拝殿には『春日大明神・若宮八幡宮』の扁額が掲げられ、本殿域には春日社社殿と若宮社社殿とが並んで鎮座している。

  祭神--春日大神:武甕槌命・経津主命・天児屋根命・比売大神
          若宮大神:八幡大神

※由緒
 境内に掲げる案内(2019 枚方市教育委員会)には、
 「創立年代は明らかではありませんが、津田の産土神として崇敬され、中世以来の祭祀組織である宮座が今に残っています。(以下、社殿関係の記事は下記)
とあるのみで、創建由緒等の記述はない。

 大阪府全志(1922)には、
 「春日神社は(津田村)中央字昌津にあり。武甕槌命・経津主命・天児屋根命・比咩大神を祀れり。
 創建の年月詳ならず。明治5年村社に列し、字堂山の八王子権現社及び同宮山の治郎兵衛宮を合祀し、同41年10月神饌幣帛料供進社に指定せらる。
 郷社三の宮に対して内の宮と呼び、本地の産土神にして、・・・(以下略)

 北河内のお宮(2009)によれば、
 「当社の創建は嘉吉2年(1442)。明治5年に村社に列し、字堂山の八王子権現社および同宮山の治郎兵衛宮を合祀した。
 本地の産土神として崇敬されている。(中略)
 春日大社に天明6年(1786)中臣延樹筆の『河内交野郡津田村春日遷宮記』が残されており、現在の本殿はその時奈良から遷されたものである。
 また、若宮の社殿は奈良の三十八神社の社でである」
とあるが、ここにも創建由緒は記されていない。

 ただ、「当社の創建年代は不明。津田の住民は古くから穂谷の三の宮神社を氏神としていたが、津田村が繁栄するにおよんで春日4神を勧請して(嘉吉2年1442)三の宮の内宮となした」との資料があり、これらを元に推測すれば、
 ・当地の人々は、古くは穂谷の三の宮神社を氏神としていた
 ・その後、村の発展とともに、嘉吉2年、村の氏神として奈良・春日大社から春日4神を勧請して春日神社と称した
 ・現在の社殿は、江戸中期頃に奈良・春日大社から譲り受けたもの
ということになろうか(ただ、「三の宮の内宮となした」との意味は不明)


 春日4神は藤原氏が祖神として奉祀する神々だが、枚方には13社(含末社)に祀られている。
 枚方市史によれば
 「鎌倉時代後期になり全国各処の交通の要衝に関所が設けられるようになると、摂関家の権威を背景とする春日社・興福寺は、淀川水系の各処に関を設けた」
とあり、また興福寺官務牒疎に、「尊延寺は交野郡芝村にある興福寺の末寺で云々」とあることなどからみると、奈良春日神社・興福寺の勢力が当地までおよんでいたと思われ、そういう事情から当地域に春日社が多いのかもしれない。

 境内の案内に、「宮座が今も残っています」とあるが、当社は古くから宮座12座で奉仕されていたという。
 宮座とは祭神と関係の深い特定の家々が独占的に神事をおこなうために結んだ閉鎖的・特権的な祭祀組織をいう。
 宮座について、大阪府全志には、
 「往時より神社固着の氏子に南座・津田座・兵衛座・四十人座があり、輪番交代して御酒御供を献じたりしも、今はこの4座にて御酒と一組の御供を献じ、他の侍座・久和也座・植元座・杉植座・新九郎座・宗祐座は、各座毎に御酒・御供を献じて祭儀を行へり」
とある。

(注)藤原氏の前身である中臣氏の本来の祖神はアメノコヤネで枚岡神社(東大阪市)の祭神、タケミカヅチ・フツヌシは鹿島神社(茨城県)および香取神社(千葉県)の祭神で、本来は物部氏が祖神として奉祀していたといわれ、物部氏本宗の没落と藤原氏の東国進出により藤原氏の氏神として取り込まれたという。

※祭神
  春日大神--武甕槌命(タケミカツチ)・経津主命(フツヌシ)・天児屋根命(アメノコヤネ)・比売大神(ヒメ)
  若宮大神--八幡大神

 春日大神は、当社が勧請した奈良・春日大社の祭神で、当社本来の祭神。

 若宮大神は、当社末社の祭神だが、社殿等での取扱いは春日大神と同格とみえる。勧請由縁・時期等は不明。
 “若宮”とは、一般に本宮祭神に関係する御子神を指すが、それ以外にも多様な性格の若宮があり(八幡系では仁徳天皇とするものが多い)、当社の場合、春日社に遅れて勧請された八幡宮ということで若宮と称するのかもしれない。


※社殿等
 一般民家が立ち並ぶ道路脇に小さな石橋が架かり、その奥に大鳥居が立つ。
 鳥居の神額には「春日大明神 若宮八幡宮」とある。

  当社は、近世以降“雨乞い”に霊験あらたとして信仰されていたそうで、しばしば雨乞い祈祷がおこなわれたという。大鳥井脇に立つ社名碑の裏には「昭和14年9月 祈雨御礼」とある。

 
春日神社(津田)・社頭

同・鳥居 
 
同・神額

 境内正面に、千鳥破風付き向拝を有する横長入母屋造・瓦葺きの拝殿か南面して建つ。

 
同・拝殿全景
 
同・拝殿中央部分
 
同・拝殿側面

 拝殿内には自由には入れ、内部には絵馬・奉納額などが数多く掲げられている。
 貴重なものもあるというが、ほとんどが落剥していて内容は読み取れない。

 
拝殿内陣
 
同 左

同・奉納絵馬 

 拝殿背後塀に囲まれた本殿域の中、向かって左に若宮八幡宮本殿が、左に本社本殿が左右に並んで鎮座する。

 当社本殿について、津田史(1955)
 「光格天皇・天明6年(1786、江戸中期)大和国南部春日社より古社殿寄進、造営竣成」
とあるように、春日神社の式年造替に際して旧社殿を譲り受けたもの」
とあり、

 社頭の案内には、
 「現在の本殿は奈良春日大社本殿に、末社若宮八幡宮は同末社三十八所神社本殿に、規模・形式共に一致しており、それぞれ春日大社の社殿を移したものです。
 『河州交野郡津田村春日遷宮記』(1786)には遷宮の式次第が詳細に記されています。
 春日大社の式年遷宮制度から、明和3年(1766)の造替に際して建立されたと考えられます。
 『春日移し』てある本社本殿は一間社春日造・檜皮葺で、保存状態のよい貴重な遺産です。

 末社若宮八幡宮は、三間社流造・桧皮葺で、桁行三間・梁間一間の全面の庇をつけた『三十八所移し』と呼ばれる遺構です。
 三十八所移しは、その実例が少なく、全国でも8棟を数えるに留まり、府内では唯一の遺構です。
 両社とも市指定有形文化財に指定されています」
とある。


同・若宮社本殿 
 
同・春日社本殿
 
左:若宮社・右:春日社

 なお、若宮八幡宮の元宮・奈良春日の三十八所神社とは、春日大社の摂社・若宮八幡宮近くに鎮座する末社群の一社で、伊弉諾尊・伊弉冉尊・神武天皇を祭神とする。

◎弾痕奉額

 拝殿正面の長押上に「弾痕奉額」なる扁額が掛かっている。(右写真)
 幕末の頃、在郷の人が鉄砲の射撃を訓練し、その成果を奉納したものとかで、上に、弾が当たった痕がある四角形の白い的が並び、その下に、その的を撃ち当てた人の名前が書かれている。ただし、墨色がかすれていて判読不明。
 世情不安だった当時の様子をうかがわせる遺物として、珍しいものである。
 


【春日神社(野村)】--野村南町 1-1  (2020.12.25再訪・改訂)
 JR学研都市線に沿ってはしる交野久御山線から西に入り、津田小学校を過ぎた左側にある。

  祭神--天児屋根命

※由緒
 境内に案内等なく詳細不明だが、津田史によれば、
 「元和3年(1617、江戸初期)に五社明神新造、寛永21年(1723)再興、社内も裏へ三間広く相成候。右の歴代棟札御座候に付写し置候もの成」
と記した古い棟札の写しが残っているという。
 江戸初期に社殿を建て中期に建て替えたという記録らしいが、“五社明神”と当社との関係は不祥。

※祭神
 今の祭神は天児屋根命(アメノコヤネ)一座となっているが、春日四座の内天児屋根命一座のみを祀る由縁は不明。

※社殿等
 津田南小学校前から西へ道なりに進んだ先を左折(レオハイム津田とのマンション前)、南へ入った右側(東側)に鳥居が立ち、境内に入る。
 境内は広いが、北側に社殿1棟が建つのみで、社務所は無人。

 
春日神社(野村)・社頭

同・鳥居 
 
同・境内

 境内北側に、白壁の入母屋造・瓦葺きの拝殿が南面して鎮座する。


同・拝殿(正面) 
 
同・拝殿(側面)

同・内陣 

 拝殿裏、高い塀に囲まれた中に入母屋造・瓦葺きらしい本殿が南面して鎮座するが、塀と樹木に阻まれて全貌を見ることはできない。

 
同・本殿(正面部)
 
同・本殿(見えるのは屋根のみ) 

 拝殿の向かって右前、小鳥居の奥に石積がある。
 前回訪れたとき、居あわせた古老に聞くいたところでは、「古い社の跡と聞いている」とのことで、社殿造営以前の神マツリの場・磐境(イワサカ)の跡かもしれない。

 
同・磐境・鳥居
 
同・磐境

 なお資料によれば、本殿左に末社・山田神社(豊受大神)があるというが、それらしき祠は見あたらなかった。


【春日神社(春日)】--春日元町 2-18-1  (2020.12.25再訪・改訂)
 JR学研都市線・津田駅の南西約800m、交野久御山線を駅前から西へ入り春日通りを西進、約600m程行った四辻を南へ、道なりに西へ折れた先の北側に鎮座する。
 境内ま西側に回り込んだ処に一の鳥居が立つ。

  祭神--春日大神

※由緒
 境内に掲げる案内には、
 「中世まで津田山の東南麓にあったとされる畠田村が洪水により衰微し、その住人が春日ろ津田へ移り、春日の集落が形成されたといわれています。
 村落の形態は、周囲に濠をめぐなした防御的機能を有する環濠集落で、大和や摂津・河内・和泉の中世村落に多く見られます。

 春日神社は、永禄年間(1558--70)に、畠田村の祭神を分霊したものといわれ、天児屋根命・比売大神・武甕槌命・経津主命を祀ってます」
とある。

 津田史によれば、
 「往古、札場(旧山根街道・札の辻、津田元町2・3丁目境界附近)の南に畠田村という大村があったが、その村が衰微して村民が津田村・春日村へ移住した。その辺りに宮跡があり、今の春日村の宮はその宮を移したもの」
という。

 また、北河内のお宮(2009)には、上記案内との同一文に続いて
 「神宮寺として薬師仏を本尊とする真言宗正楽寺があったが、明治初めの神仏分離令によって廃寺となり、薬師仏は融通念仏宗大聖寺(春日元町2丁目)に移された」
とある。

 尚、当社所蔵の棟札によれば、
 「江戸・元和3年(1617)社殿を新造し、江戸期を通して7回改修された。また拝殿は江戸・寛政元年(1789)再建、明治14年屋根葺き替え」
とあるという。
 今、大鳥居から参道にかけては昔ながらの雰囲気を保っているが、拝殿は、神鈴や両脇の狛犬がなければ神社とは見えない。

※祭神
   春日大神--天児屋根命・比売大神・武甕槌命・経津主命

※社殿等
 境内西側・入口に小さな池があり、石橋(天保12年-1741の銘あり)が架かっている。
 この辺りは環濠集落で、昭和30年代までその跡が残っていたというから、入口脇の池はその名残かもしれない。
 石橋の先に一の鳥居が西面して立ち、参道の突き当たりに南面して二の鳥居が立つ。

 
春日神社(春日)・社頭
 
同・一の鳥居
 
同・参道(奥に二の鳥居が見える)

 二の鳥居から左に入った処が境内で、その正面に、白壁・入母屋造・瓦葺きの拝殿が南面して鎮座する。

 
同・二の鳥居
 
同・境内
 
同・拝殿(正面)
 
同・拝殿(側面)
 
同・内陣

 拝殿奥の白塀の中に瓦葺きの切妻造・平入りらしき本殿が建つが、これは覆屋的な建物であって、
 拝殿内陣からみると、その奥に一間社流造の社殿が鎮座しているが、細かいところは判らない。

 
同・本殿
 
同・本殿社殿(内陣より) 

◎境内社
 社殿の向かって左に末社合祀殿が東面して、その奥に末社2社が南面して鎮座し、その後に御神木(クイノキ、枚方市保存樹)が聳えている。


左:末社合祀殿、右:末社 
 
御神木 

*末社合祀殿
 瓦葺きの横に長い建物の中に、向かって右(北)から皇大神社(祭神:豊受姫)・八幡神社・厳島神社・稲荷神社・龗神社(オガミ・水神)の末社5社が東面して鎮座している。
 社殿は、中央の厳島神社か一間社流造で大きく、それより小振りの皇大神社・八幡社・龗社は切妻造・妻入で、稲荷社のみは切妻造・平入り。
 ただ、これら5社の勧請由来・時期等は不明。 

 
末社合祀殿
 
稲荷社
 
厳島社
 
八幡社

 末社合祀殿の奥に切妻造・瓦葺きの末社2社が南面して鎮座するが、鎮座由緒等は不明。
 右の大きな小祠の前に「天神社」と記した灯籠2基が立つが、これを菅原道真社とする資料がある。
 左の小祠の中には注連縄を巡らした大石が鎮座しており、曾ての磐座信仰の流れをひくものかと思われるが
 、これを産土神とする資料もある。


左:不明社,右:天神社 
 
天神社・社殿
 
不明社・磐座?

 境内東側、玉垣の中に上面が平たな巨石が鎮座し、「遙拝所 皇居を遠くから拝礼する所です」との木札が下がっている。
 これも曾ての磐座信仰の聖地かと思われるが、皇居遙拝所とは珍しい。


遙拝所・全景 
 
遙拝所・正面


【治郎兵衛宮】--津田元町3丁目 (2020.12.25再訪)
 JR学研都市線・津田駅の北東約350m、地蔵池南の畠の中にあったが(2008年)、今回尋ねてみると、周囲に家が建て込んで畠は縮小され、祠はなくなっていた。
 地元の人の話では、「祠の世話をする人もいなくなったので2・3年前に撤去された」という。

旧記録
 地蔵池の南、畠のなかにある小さな祠で、社名等の表示なし。。
 津田史によれば、
 「昔、旧畠田村の氏神で春日大明神と八大竜王を祀る末社があった。
 明治5年の社寺整理統合のとき津田の春日神宮に合祀され、跡地は畠となっていたが、その後、神主の谷岡氏が以前の土地に宮を再興して奉祀した。
 この宮が現在の治郎兵衛宮である」
という。
 春日神社(津田)の由緒に「宮山の治郎兵衛宮を合祀」とあるのが是で、廃社後、祭神は春日神社へ戻ったとみるべきであろう

旧治郎兵衛宮

 八大竜王を祀っていたといえば、雨乞いの宮であろう。
 この辺りは、地蔵池沿いの道から一段高くなっていて昔の宮山の面影を残している。
 当祠は畠の奥にあって参道などもなく、祭祀がおこなわれている気配もない。知らない人は気がつかないであろう。


【土山神社】(ドヤマ)--津田東町3丁目  (2008年参詣)
 国道307号線・津田病院前バス停前の小高い丘の上、細い道が入り組んだ集落内の疎林のなかに鎮座している。
 社名「土山」はドヤマと読む。古く、当社辺りの地名が堂山であったことから、ドウヤマがドヤマと訛り、土山と記されたのではないかという(「ぶらり歳時記」2002)

  祭神--八王子

※由緒
 津田史によれば、
 「今は土山神社といっているが、江戸・元禄6年(1693)の古地図には『山の神』、文化2年(1805)の地図では『八王子』、慶応4年(1868)の寺社書上帳では『八王子大明神』と記され、明治35年(1902)から『土山神社』と替わっている。
 古い神社だが勧請由緒等は不明で神主・氏子ともいない」
という。
 また別資料には、
 「当社は春日神社(津田)の末社で、津田の人々から“ちんじんさん”(鎮神様か)と呼ばれていた。
 明治初年まで小さな祠で祀られていたが、社寺整理統合により若宮神社に合祀されたのちは忘れられ荒れはてていた。
 その後、村に凶事が多発したことから、この宮を祀らないための“神の祟り”だとして明治35年に再興した」(春日社宮司談1981)
とある。
 “祟り(タタリ)”が神の顕現で、神がその意志を人に伝える手段とすれば、当社の神は、村に災厄をもたらすことで“吾を丁重に祀れ”と意思表示し、村人がそれを的確に受け止めたということになる。

※祭神
   八王子

 祭神について、津田史によれば、
 「古く、この辺りには出雲系の人々が多く住んでいたことから、八王子は出雲系神話の始祖・スサノヲの王子とされていた。穂谷川の上流・三之宮に出雲で最も崇拝された素盞鳴を祀り、下流の当地に8人の王子を祀ったのであろう」
というが、寡聞にして当地に出雲系の人々が棲んでいたとの資料は確認できない。

 それよりも、古く、三之宮の祭神が牛頭天王であったことからみると(別稿・枚方の神社-6参照)、当社の八王子も牛頭天王の8人の王子で疫病除けの防疫神とみるのが妥当で、素盞鳴の王子とは明治以降の祭神名変更に伴うものであろう。
 なお防疫神との神格は素盞鳴も牛頭天王も同じで、疫病除けの神格を持つ。

※社殿
 疎林の中にある神社は簡単な造りで古ぼけていて、傍らの社名石碑と神鈴・石燈籠がなければ神社とは見えない。
 中に小さな祠があり、供物が献げられていたがよくわからない。
 鳥居横の社名石碑には「昭和58年建之」とあり、祠前の石燈籠には「紀元二千六百年祈念」(昭和15年)との銘がある。
 前記の宮司談では、「毎月朔日と15日に、春日神社からお詣りしている」とあり、折から通りかかった人がお詣りしていたから、地域の鎮守として崇拝されているらしい。
土山神社
土山神社

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