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枚方の神社−4
菅原神社(長尾)・菅原神社(藤坂)・菅原天満宮・春日神社(津田)
・春日神社
(野村)・春日神社(春日)・治郎兵衛宮・土山神社

大阪府枚方市内にある神社32社のうち、国道1号線以東の北よりに位置する7社についての概要

 枚方市の東北部に位置する菅原・藤坂地区には菅原神社が3社、津田地区には春日神社が3社とまとまっている。

【菅原神社(長尾)−−長尾宮町1丁目
 学研都市線(片町線)・長尾駅の南約200m、線路を渡った東側、鎮守の森の中に位置する。北は道路をはさんで正俊寺、西は鉄道線路、東・南には民家が迫っている。

  祭神−−菅原道真

 参道脇の由緒書きおよび長尾史(1953)によれば、
 「当社は、この辺りを拓いた領主・久貝因幡守正俊の子・正世が、慶安3年(1686)、新しく拓いた村の団結を図るべく山城の長岡天神の分霊を氏神として勧請した『天神社』がはじまりという。現社殿は文化4年(1807)の再建」
という。
 領主・久貝氏は大阪町奉行も務めたという徳川譜代の旗本(5780石の大身)で、初代・正俊が大阪城落城後にこの地を拝領、各地から農民を集めて開発に努めたという。

 今、菅原道真は学問の神として知られているが、これが表に出たのは江戸中期頃からで、それまでは畏るべき御霊神であるとともに風雨水火を支配する天神として畏敬されていた。ここで祀られたのも、学問の神というより雷神・水神を自在に操って稲作に必要に水を必要なときに与えてくれる天神として祀られたと思われる(菅原神社・藤阪参照)
菅原神社(長尾)・拝殿
菅原神社(長尾)・拝殿

※末社−−水神社(貴船神社)・稲荷神社

◎水神社(貴船神社)−−祭神:タカオカミ神・クラオカミ神
 本殿右手にある祠。神額には『水神宮』とあり、所謂“水神さん”である。元は本殿裏にあった2つの池の畔に祀られていたようで、18世紀末頃に今の位置に移ったという。
 長尾史によれば、この祠は本社創建当時からあったといわれ、最初は「八大竜王」を祀る水天宮と呼ばれていたが、その後、山城の貴船神社から分霊を勧請し『貴船神社』と称するようになったとある。
 神名“オカミ”は龍を意味する水神で、タカオカミは山上に降る天を司る水源の神、クラオカミは峰々から流れ降る渓流の水を司る神とされる。
 平安初期の太政官符に「河内の交野郡は土地が痩せていて、ややもすれば旱魃に悩まされ、その田は一年おきの耕作にしか耐えない云々』(枚方市史)とあるように、川はあるものの平素は水の少ない涸れ川ということで水利の便が悪く、水神さんへの雨乞いは恒例行事だったという。
 このような土地柄が天神を祀り水神を祀る由縁であろう。
菅原神社(長尾)末社・水神社
水神社・拝殿
菅原神社(長尾)末社・水神社本殿
水神社・本殿

◎稲荷神社
−−祭神:ウカノミタマ命
 長尾史によれば、延宝6年(1678)、久貝陣屋の北西隅に勧請されたもので『お陣屋稲荷』と呼ばれ、毎年の初午の日には長尾以外からも多くの参詣者が集まり、氏神である神社本来の祭よりも賑やかだったという。 

*道真と牛
 境内に大きな“牛の臥像”があるが、道真と牛との関係は深い。道真の誕生日・逝去日がともに丑の日との伝承、あるいは「道真左遷のとき、藤原時平の命をうけて途中で殺そうとした刺客が道成寺近くで追いつき斬りかかったとき、突如現れた暴れ牛が角にかけたこれを殺した。この牛は道真が可愛がっていた牛で、左遷決定後姿を消していた。道真は大変喜んで、この牛に乗って心やすく旅を続けられた」などがある。
 また牛は水神との関係が深く、古く、旱天時の雨乞いに際して供儀獣として献げられたりしているから、天神としての道真にも関係している。
菅原神社(長尾)・牛の臥像


【菅原神社(藤坂)】−−藤阪天神町
 JR学研都市線・藤阪駅から約200mほど長尾寄りに鎮座する。線路により境内が分断され、線路下をくぐって社殿に至る。
 拝殿の神額には『菅原神社』、鳥居のそれには『天満宮』とある。藤阪史(「消えたものも伝え継ぐ藤阪の今昔物語」1999)によれば、江戸・寛政時代(1789〜1801)には「天神社」、明治5年以降「天満宮」と呼ばれたという。 

  祭神−−菅原道真

 近傍の長尾・菅原神社と同じ菅原道真が祭神だが、その創建由緒は異なる。
 拝殿に掲げられる“藤坂天満宮由来”によれば、
 「後土御門天皇(1198〜1210、鎌倉末期)の頃に津田城主・備後守正忠が津田郷から一座(12戸)を移して拓いたのが藤坂村で、永仁6年頃(1298)頃の当社は、津田郷の脇宮として三の宮座衆によって祀られていたと伝える。その後、天正年中(1573〜93、豊織時代)になって津田城主・主水頭正時が社殿を造営した」(大意)
という。
 この由緒からみると、鎌倉末期頃の藤坂村の氏神は穂谷の三の宮神社で、当地には三の宮の末社であった津田(春日神社)から分けられた祠みたいなもの(脇宮)だったが、豊織時代になって本格的な社殿が造営されたということらしい。当社保存の古文書などは戦後すぐに盗難にあったそうで、詳しいことは残っていない。

菅原神社(藤阪)・拝殿
菅原神社(藤阪)・拝殿
菅原神社(藤阪)・本殿
菅原神社(藤阪)・本殿

 拝殿奥に春日造りの本殿がある。奈良・春日神社の式年造替に際して古くなった社殿を貰いうけた(文久3年1862、幕末動乱の頃)“春日移し”と呼ばれる社殿で、小振りながらも朱の瑞垣に囲まれ銅板葺きの白壁に朱が映える綺麗な社である。昭和55年改修。
 また江戸時代までは、ご神体として神名を記した神札(三部経ともいう)が収められていたというが、今のそれは、明治4年8月に松村伊三郎との人が、東京の神祇省から分与されたご神体を竹籠行李に収めて往復26日かけて持ち帰ったものという(藤阪史)。多分神名を記したお札と思われる。

※祭神
 今の祭神は菅原道真となっているが、上記由緒にいうように当社が三の宮→津田→藤坂と別れてきたものとすれば、三之宮神社および津田・春日神社のいずれにも菅原道真は祀られておらず平仄があわない。
 ただ、拝殿に掲げる“水神さまのいわれ”なる説明に、
 「北野天神縁起の道賢上人冥土記に、わが国には十六万八千の水火雷電・風伯・毒龍・鬼神などが満ち満ちしていて大水害を起こしているが、その総支配をされる神さまが太政威徳天(天神=道真)で、道真は風雨水火の支配神であったと伝えられている」
とある。当社に祀られる道真が、昨今にいう学問の神ではなく、雷神・水神を支配する天神としての道真とすれば、三の宮・津田ともに旱天時の雨乞いに霊験高い神とされているから、祭神名は異なるとはいえ平仄はあう。

※末社−−貴船神社(水天宮)・稲荷神社
◎貴船神社(水神社)
 神域内には、本殿左に『貴船神社』が、右に『守り牛』が祀られている。
 貴船神社は所謂「水神さん」で、上記“水神さんのいわれ”後半に『古老の伝えでは、当地の稲作は毎年の旱魃で稲が枯死する危機にひんすることが多かったが、氏子たちが集って雨乞いの祈祷をしたところ、不思議なことに突如雷雨とともに大粒の雨が降り、稲作全滅の危機を逃れることができたので、後日、水神社を建立して五穀豊穣の守護神として祀ったのが始まり』(大意)とある。
 雷神・水神の支配神としての菅原道真に加えて、実際に水を与えてくれる雷神・水神を祀ったものであろう。藤阪史には、昭和55年改築とある。

◎稲荷神社
 境内の拝殿右手にあり、朱色の鳥居が並び立っている。
菅原神社(藤阪)末社・貴船神社
末社・貴船神社

末社・稲荷神社


【菅原天満宮】−−長尾峠町
 JR学研都市線・長尾駅の北西約2.5q、摂南大学行のバス停・峠から北に入った小高い丘の上に位置する。摂南大薬学部の東に当たる。
 当社に関する資料はほとんどなく、社務所もまた無人。長尾史には「峠の集落ができた年代は不明だが、称念寺過去帳に正徳2年(1712)ここに住民が住んでいたとあるから、当天満宮はその後に祀られたのであろう」とある。

  祭神−−菅原道真

※末社−−水神社・稲荷神社・不明社
 拝殿右手前に小祠2座あり、一座は『水神社』とあるがもう一座は不明。稲荷社は、鳥居をくぐってすぐ左にあり林立する朱色の鳥居が目立っている。

菅原天神社・拝殿
菅原天神社・拝殿
菅原天神社末社・水神社他
末社−左:水神社、右:不明社
菅原天神社末社・稲荷社
末社・稲荷社


【春日神社(津田)】−−津田元町1丁目
 津田の町中を通る旧山根街道沿いにあり、津田地区では最も大きく社殿も壮麗である。今の社名は『春日神社』だが、大鳥居および拝殿には『春日大明神・若宮八幡宮』の神額が掲げられている。

  祭神−−春日大神:タケミカヅチ命・フツヌシ命・アメノコヤネ命・ヒメ大神
          若宮大神:八幡大神

 由緒などによれば、
 「当社の創建年代は不明。津田の住民は古くから穂谷の三の宮神社を氏神としていたが、津田村が繁栄するにおよんで春日4神を勧請して(嘉吉2年1442)三の宮の内宮となした」
とある。
 三之宮神社の末社・春日神社を勧請したのであろうが、“内宮”とは境外末社を意味するのか。
春日神社(津田)・拝殿
春日神社(津田)・拝殿
 春日4神は藤原氏が祖神として奉祀する神々だが、枚方には末社を含んで13社が祀られている。枚方市史によれば
 「鎌倉時代後期になり全国各処の交通の要衝に関所が設けられるようになると、摂関家の権威を背景とする春日社・興福寺は、淀川水系の各処に関を設けた」
とあり、また興福寺官務牒疎に、「尊延寺は交野郡芝村にある興福寺の末寺で云々」とあることなどからみると、奈良春日神社・興福寺の勢力が当地までおよんでいたと思われ、そういう事情から当地域に春日社が多いのかもしれない。

 当社は古くから宮座12座で奉仕されていたという。宮座とは祭神と関係の深い特定の家々が独占的に神事をおこなうために結んだ閉鎖的・特権的な祭祀組織をいう。今も形を替えて残っているというが詳細不明。

(注)藤原氏の前身である中臣氏の本来の祖神はアメノコヤネで枚岡神社(東大阪市)の祭神、タケミカヅチ・フツヌシは鹿島神社(茨城県)および香取神社(千葉県)の祭神で、本来は物部氏が奉祀していた祖神。物部氏本宗の没落と藤原氏の東国進出により藤原氏の氏神として取り込まれたという。

春日神社・若宮八幡宮・本殿
本殿−左:若宮八幡宮
   右:春日神社
若宮八幡宮・本殿
若宮八幡宮・本殿
春日神社・本殿
春日神社・本殿
 拝殿奥の神域には、右に春日神宮、左に若宮八幡宮が並んでいる。
 津田史(1955)に「光格天皇・天明6年(1786、江戸中期)大和国南部春日社より古社殿寄進、造営竣成」とあるように、春日神社の式年造替に際して旧社殿を譲り受けたもの。
 左に鎮座する若宮八幡宮の合祀由緒は不明。“若宮”とは、一般に本宮祭神に関係する御子神を指すが、それ以外にも多様な性格の若宮があり、当社の場合、春日社に遅れて勧請された八幡宮ということで若宮と称するのかもしれない。
 拝殿内部には絵馬・奉納額などが数多く掲げられている。貴重なものもあるというが、ほとんどが落剥していて内容は読み取れない。
 また当社は、近世以降“雨乞い”に霊験あらたかだったそうで、しばしば雨乞い祈祷がおこなわれたという。大鳥井脇に立つ社名碑の裏には「昭和14年9月 祈雨御礼」とある。
春日造・模式図
春日造・模式図

『弾痕奉額』
 拝殿正面に「弾痕奉額」なる扁額が掛かっている。幕末の頃、在郷の人が射撃を訓練し、その成果を奉納したものとかで、上に、弾が当たった痕がある四角形の白い的が並び、その下に、その的を撃ち当てた人の名前が書かれている。ただし、墨色がかすれていて判読不明。
 世情不安だった当時の様子をうかがわせる遺物として、珍しいものである。


【春日神社(野村)】−−野村南町
 JR学研都市線に沿ってはしる交野久御山線を西に入り、津田小学校を過ぎたところにある。路沿いには民家が建ち並んでいるが、一歩裏に入った神社の周りには田畑が残っている。

  祭神−−アメノコヤネ命

 由緒など何もなく詳細不明だが、津田史によれば
 「元和3年(1617、江戸初期)に五社明神新造、寛永21年(1723)再興、社内も裏へ三間広く相成候。右の歴代棟札御座候に付写し置候もの成」
と記した古い棟札の写しが残っているという。江戸初期に社殿を建て中期に建て替えたという記録らしいが、“五社明神”というのがわからない。

 今の祭神はアメノコヤネ一柱となっているが、春日社といえば4柱を祀るのが普通。浜松市にある五社神社ではフトタマ命・タケミカヅチ命・斎王命・アメノコヤネ命・ヒメ大神を祀っている。これらの神々と関係するのかもしれない。
春日神社(野村)・拝殿

 境内の一画に古い石積基壇があり、真ん中に樹木が茂っている。居あわせた古老に聞くと「古い社の跡と聞いている」とのこと。社殿造営以前の祭事場・磐境(イワサカ)の跡かもしれない。

※末社−−山田神社−−祭神:トヨウケヒメ命
 神域内・本殿左に鎮座しているが詳細不明。因みにトヨウケヒメとは伊勢外宮の祭神で穀神・食物神。


【春日神社(春日)】−−春日元町2丁目
 JR学研都市線・津田駅の南西約800m、交野久御山線を西へ入った住宅地の奥に鎮座する。参道入口脇に小さな池があり石橋(天保12年1741の銘あり)が架かっている。この辺りは環濠集落で、昭和30年代までその跡が残っていたというから、入口脇の池はその名残であろう。古びた石燈籠が並ぶ参道突き当たり左に社殿が建つ。

  祭神−−春日大神

 津田史によれば、
 「往古、札場(旧山根街道・札の辻、津田元町2・3丁目境界あ辺り)の南に畠田村という大村があったが、その村が衰微して村民が津田村・春日村へ移住した。その辺りに宮跡があり、今の春日村の宮はその宮を移したもの」
という。
 当社所蔵の棟札によれば、「江戸・元和3年(1617)社殿を新造し、江戸期を通して7回改修された。また拝殿は江戸・寛政元年(1789)再建、明治14年屋根葺き替え」とある。
 今、大鳥居から参道にかけては昔ながらの雰囲気を保っているが、白壁の拝殿は、神鈴や両脇の狛犬がなければ神社とは見えない。

春日神社(春日)・拝殿
春日神社(春日)・拝殿
春日神社(春日)・本殿
春日神社(春日)・本殿

※末社−−相 殿:厳島神社・八幡神社・皇大神社・稲荷神社・竈社
       単独社:菅原神社・産土社

◎相殿(5社)
 本殿左の相殿(アイドノ)には末社5社が祀られ、右から皇大神社・八幡神社・厳島神社・稲荷神社・カマド社と並んでいる。皇大神社の祭神はトヨウケヒメ。

 別棟として“菅原神社”・“産土社(ウブスナ)の2祠がある。産土神とはその土地の守護神を指すが、氏神・鎮守神と同一視されることが多い。
 当末社のご神体は大きめの“立石”で、神社創建以前からの磐座信仰の流れをひくものかもしれない。

 いずれの末社も、その鎮座由緒など不明。
春日神社(春日)・末社相殿
春日神社(春日)・末社相殿
春日神社(春日)末社・産土社ご神体
道末社・産土社ご神体

 当社にも旧磐境跡と思われる“石積基壇”が残され、基壇上には常緑樹が茂っている。
因みにイワサカとは、古く常設の社殿がなかった時代に、カミ祭をおこなうために臨時に設けられた祭場をいう。ただし、当社の石積基壇が磐境跡かどうかは不明。
春日神社(春日)・石積基壇
石積基壇


【治郎兵衛宮】−−津田元町3丁目

 地蔵池(津田元町3丁目)の西、畠のなかにある小さな祠。
 津田史によれば、
 「昔、旧畠田村の氏神で春日大明神と八大竜王を祀る末社があった。明治5年の社寺整理統合のとき津田・春日神宮に合祀され、跡地は畠となっていたが、その後、神主の谷岡氏が以前の土地に宮を再興して奉祀した。この宮が現在の治郎兵衛宮である」
とある。ここでは津田の春日社に合祀とあるが、春日の春日神社に合祀されていたとの資料もあり、はっきりしない。
 八大竜王を祀っていたといえば、雨乞いの宮である。
 この辺りは、地蔵池沿いの道から一段高くなっていて昔の宮山の面影を残している。当祠は畠の奥にあって参道などもなく、祭祀がおこなわれている気配もない。知らない人は気がつかないであろう。


【土山神社】(ドヤマ)−−津田東町3丁目
 国道307号線・病院前バス停前の小高い丘の上、細い道が入り組んだ集落内の疎林のなかに鎮座している。

  祭神−−八王子

 津田史によれば、
 「今は土山神社といっているが、江戸・元禄6年(1693)の古地図には『山の神』、文化2年(1805)の地図では『八王子』、慶応4年(1868)の寺社書上帳では『八王子大明神』と記され、明治35年(1902)から『土山神社』と替わっている。往古よりの宮だが勧請年暦は不明、神主・氏子ともいない」
という。
 また別資料では、
 「当社は春日神社の末社で、津田の人々から“ちんじんさん”(鎮神様か)と呼ばれていた。明治初年まで小さな祠で祀られていたが、社寺整理統合により若宮神社に合祀されたのちは忘れられ荒れはてていた。その後、村に凶事が多発したことから、この宮を祀らないための“神の祟り”だとして明治35年に再興した」(春日社宮司談1981)
とある。
 “祟り(タタリ)”が神の顕現で、神がその意志を人に伝える手段だとすれば、当社の神は、村に災厄をもたらすことで“吾を丁重に祀れ”と意思表示し、村人がそれを的確に受け止めたということになる。

 祭神について、津田史によれば、
 「古く、この辺りには出雲系の人々が多く住んでいたことから、八王子は出雲系神話の始祖・スサノヲの王子とされていた。穂谷川の上流・三之宮に出雲で最も崇拝されたスサノヲを祀り、下流の当地に8人の王子を祀ったのであろう」
というが、寡聞にして、当地に出雲系の人々が多かったという資料は確認できない。
 それよりも、古く、三之宮の祭神がゴズテンノウであったことからみると(別稿・枚方の神社−6参照)、当社の八王子もゴズテンノウの8人の王子で疫病除けの防疫神とみるのが妥当で、スサノヲの王子とは明治以降の祭神名変更に伴うものであろう。なお防疫神との神格はスサノヲもゴズテンノウも同じ。

 疎林の中にある神社は簡単な造りで古ぼけている。神鈴と石燈籠がなければ神社とは見えない。中に小さな祠があり、供物が献げられていたがよくわからない。
 鳥居横の社名石碑には「昭和58年建之」とあり、祠前の石燈籠には「紀元二千六百年祈念」(昭和15年)との銘がある。
 前記の宮司談では、「毎月朔日と15日に、春日神社からお詣りしている」とあり、折から通りかかった人がお詣りしていたから、地域の鎮守として崇拝されているらしい。

 社名「土山」はドヤマと読む。古く、当社辺りの地名が堂山であったことから、ドウヤマがドヤマと訛り、土山と記されたのではないかという(「ぶらり歳時記」2002岡沢氏)
土山神社

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