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枚方の神社-5
山田神社(山之上)・村野神社・春日神社(茄子作)・加茂神社・蹉跎(サダ)神社天満宮

大阪府枚方市内にある神社32社のうち、国道1号線以東・南寄りにある6社についての概要

【山田神社(山之上)--山之上4-15-36  (2021.01.18再訪・改訂)
 京阪交野線村野駅の南南西約1kmに鎮座し、京阪・枚方市駅から香里団地に至る道路の宮の前橋バス停から南西方に入った先の鎮守の森のなかに鎮座する。

   祭神--素盞鳴命・稲田姫命

※由緒
 社頭の案内には、
 「創立は弘安2年2月己卯春2月8日(1279)、神司修理亮(シンジシュウリノスケ)・藤原芳秀神地として新たに宮祠を造立し、河内国交野郡一ノ宮の神霊を移し奉つる。
 明治6年2月10日、河内国交野郡田宮村より素盞鳴尊合祭す。同5年村社に列せられ、同41年神饌幣帛料供進神社に指定せられたり」

 当社HPには
 「山之上の土地は北河内郡牧野郷の一ノ宮・片埜神社の氏地であったが、弘安元年(1278)の社務職でこの地に居住していた田中修理亮芳秀は、田中山(今の宮山)を神地として新たに神社を造営して、同2年9月、一ノ宮の御分霊を勧請して山之上神社と称した。

 明治5年(1872)村社に列せられ、同6年2月10日田宮の地に御鎮座の田宮神社を廃して御祭神・祇園牛頭天王(素盞鳴命)を山之上神社に合祀し、同時に両村の頭文字を取って神社名を山田神社と改称した」

 神社略記によれば、
 「山之上の地は牧郷一の宮(片埜神社)の氏地であったが、弘安元年(1278)に社務職間に諍いが起こり祭祀も怠りがちになったので、この地に住んでいた神職・田中修理亮芳秀が之を遺憾とし、田中山を神地として新たに神社を造営し、同2年9月、一の宮から分霊を勧請して『山之上神社』と称した。
 その後、田宮村に鎮座していた田宮神社を合祀し(明治6年・1873、祭神:ゴズテンノウ)、両村の頭二字をとって『山田神社』と改称した」
という。

※祭神
   素盞鳴命・稲田姫命

 今の祭神は素盞鳴とその后・稲田姫となっているが、
 枚方市史に「牛頭天王社を創建した」とあり、本来の祭神は牛頭天王だったと思われ、明治初年の神仏分離に際して牛頭天王が仏教色が強いとして排斥されたことから、同じ神格をもつとそれる素盞鳴に替えられたと思われる。

※社殿等
 枚方市駅からの道路の山田神社口交差点の西に『山田神社』と刻した標石が立ち、横の道を入った先にある鎮守の森に囲まれて鳥居が立つ。

 
山田神社への入口に立つ標石
(奥に鎮守の森がみえる)
 
山田神社・社頭
 
同・鳥居

 鳥居を入ってすぐ、長い石段を登った上が境内で、正面に入母屋造・亙葺きの拝殿が南面して建つ。

 
同・境内への石段
 
同・拝殿
 
同・拝殿(側面)

 拝殿背後、弊殿を介して入母屋造・亙葺きの本殿が建つが、外からみえるのは側面のみ。
 拝殿内陣には社殿3宇が並び鎮座し、その中央に鎮座するのが山田神社の本殿だが、御簾が邪魔して全体像はみえない。


同・本殿 
 
同・拝殿内陣
 
同・本殿社殿

◎末社 
 当社には末社3社(春日神社・石神社・稲荷神社)があり、うち春日・石の2社は本社本殿の左右に一間社流造・柿葺(コケラフキ)の小祠が鎮座する。

*春日神社
   本社本殿の向かって右に鎮座する。一間社流造・柿葺
   祭神--武甕槌命・経津主命・天児屋根命・比咩大神

 上記案内には
 「順徳天皇の御宇・建保年中(1212--19)に大和春日神社の御神霊を勧請して宮山の北麓に移し祀りしもらと伝えられ、今その地を春日前という」

 旧枚方市史には
 「昔、大和国三笠山より妖しげな鹿が夜々この郷に通ってきた。田中朝臣が、これは春日大神の影向であるとして新たに宮祠を造立し、春日大神の神霊を勧請して家の鎮守とし、居住地の名をとって田中社と称した。
 順徳天皇・建保年中(1213~18、鎌倉時代)に神地を改めて遷し奉った。今、天王社(山田神社)の北の麓なり」
とある
 とすれば本社より古いわけで、今は末社となっているが、当地本来の氏神かもしれない。


*石神社(シャクジンノヤシロ)
   本社本殿の向かって左に鎮座する。一間社流造・柿葺
   祭神は石神であって特定の神名はない。

 上記案内には
 「寛弘元年(1004)、安倍晴明が藤田の里に滞在して修行した時の加持石を、田中修理亮芳秀が本社に祀る」

 当社HPには
 「言い伝えによれば、その昔、藤田(トウタ)に蚊が大量に発生し困っていたので、祈願して土地を鎮めて頂いた。
 祈願者・安倍晴明への感謝の気持ちと、祈願の力への畏怖・畏敬の念を代々村人達が守り伝えてきた」
とある。

 また、平安・寛弘元年、安倍清明が畿内遊行の途中しばらく藤田里(トウタノサト、当地の東)に滞在して修行していたときの“加持石”を本社の傍らに祀り「石神」と称したのがはじまり、ともいう。

 安倍清明(921~1005)とは平安中期の陰陽道の大家で、その生涯は伝説化・神秘化されているが、特に占いに関して超能力を持った人物と伝えられている。
 今昔物語や宇治拾遺物語などにいろんな伝説が収められているが、その多くは清明に仮託された説話であり、清明が藤田里に滞在したというのも、そのひとつであろう。

 「石神」にはシャクジン・シャクシン・シャクジなど種々の呼び名があり一定しない。
 石に神霊が宿るとする古来からの信仰によるもので、磐座・磐境信仰はもとよりエビス・産神・塞の神・道祖神などと習合するなど、多彩な形態をとっている。

 
末社・石神社社殿
 
同・春日神社社殿 

*稲荷神社
 拝殿の右、樹木に囲まれて稲荷社が鎮座する。


末社・稲荷社鳥居 

同・覆屋 
 
同・社殿


【村野神社】--村野本町 29-1  (2021.01018再訪・改訂)
 京阪交野線・村野駅の北東約500m、小高い丘の上に鎮座し、周りは鎮守の森となっている。

  祭神--素盞鳴命・櫛稲田姫命

※由緒
 境内に案内等はないが、社務所で頂いた「令和3年神社暦」登載の由緒には
 「当社の創立は,弘安2年(1279)2月8日神司神地が定まり、新たに宮祠を造立し神霊を遷し奉った弘安2年8月勧請云々とある。
 明治5年(1872)に村社に列師し、同41年(1908)12月神饌幣帛料供進社に指定された。(中略)

 創立当時の社有地は詳かでないが、桜ヶ丘小学校の敷地を枚方市に売却し、昭和37年(1962)10月秋本殿を鉄筋コンクリート造、銅板葺きで竣工し、末社および遙拝所は昭和44年(1969)10月東海大学の敷地を売却し、改築および修葺くし、村野保育所を設立した」
とある。
 今、当社東側に桜ヶ丘小学校が、北側に東海大学附属大坂仰星高校・中学校があり、かつての広大な境内地の一部を売却して社殿等の整備が行われたのであろう。

 大阪府全志(1922)には
 「村野神社は河越村字東野にあり、素盞鳴・伊邪奈美命を祀れり。
  弘安2年2月一ノ宮の分霊を勧請せしものなりといふ。明治5年村社に列す」

 大阪府神社庁第三支部HPには、
 「当社の創立は、弘安2年2月8日神司神地が定まり、新たに宮祠を造立し、続いて神霊を遷し奉った。
 明治5年に村社に列す。
   (中略、祭礼次第が記されている)
 文徳天皇の御宇(850~58)、惟喬親王が御狩の時、群臣緒卿を誘い行幸あり、御安座を設け遊覧をなし給う。霊跡所領の荘園である。
 親王の尊敬が厚かったことは勿論のこと多くの人の崇敬が厚かった。

 社地および社殿の沿革、創立以来の沿革等は詳かてないが、松永弾正の兵乱の時(天正5年-1577、織田信長に反旗を揚げた時か)、社殿楼閣は悉く消失したが、御神体に異状のなかったことを尊び、村民が一致して社殿を再建した。
 現在の社殿は、昭和37年10月竣工落成、(鉄筋コンクリート造・銅板葺)
とある。

 府全志に「弘安2年一ノ宮より勧請」とあるが、これは山田神社(山之上)と同じく、一ノ宮・片埜神社で起こった社神職間の争いによる分離・独立によるものであろう。

※祭神
   素盞鳴命・櫛稲田姫命
   (府全志には素盞鳴命・伊邪奈美命とあるが、伊邪奈美命を祀る由縁はなく、誤記であろう)

 資料によれば、江戸時代には「牛頭天王社」と称し、牛頭天王を祀っていたという。
 近世の片埜神社は「一の宮・牛頭天王社」と称していたというから、創建に際して勧請したのは疫病除けの神・牛頭天王であって、明治初年の神仏分離に際して牛頭天王から素盞鳴命へ変更し、その后・櫛稲田姫を合祀したと思われる。

※社殿等
 駅前からの道路を道なりに進んだ左手(北側)に参道入口があり(両側は駐車場)、突き当たりの長い石段を登った上に鳥居が立ち、境内に入る。


村野神社・参道(奥に石段あり) 
 
同・鳥居
 
同・境内

 境内正面に唐破風向拝と千鳥破風を有する切妻造・平入り・銅板葺きの拝殿が南面して建つ。
 拝殿の左右に翼廊が突きだすという特異な建築様式で、横長の屋根の上に更に大屋根を被せたようにみえる。


同・拝殿 
 
同・拝殿
 
同・内陣

 拝殿背後、筑地塀に囲まれて入母屋造・銅板葺きの本殿が鎮座する。
 ただ、大屋根の下に裳階状の屋根があり二重屋根のようにみえる。
 この中に鎮座している本殿社殿が如何なる社殿様式のものかは不明。


同・本殿(側面) 
 
同・本殿(背面・中央:本殿、右:拝殿)

◎末社--住吉神社・4社合祀殿(西野神社・次野神社・火産霊神社・乾野神社)・金比羅神社・稲荷神社

*住吉神社(別名・東野神社)
   祭神:住吉大神(底筒男命・中筒男命・表筒男命・息長帯姫命)
 末社とはいえ本殿内に合祀されており、独自の社殿はない。
 住吉神社の別名・東野神社が当地の旧字名・東野を冠することからみると、東野神社が先の伝承にいう本来の氏神で、が故に本殿内に合祀されているのかもしれない。

 なお、今の祭神は住吉4神とするが、交野市史などを参照すれば、本来の祭神は、古く当地あたりを支配していた物部氏一族(交野物部氏)の祖神・饒速日命で、平安時代に入って都の大宮人が当地を訪れるようになって、饒速日が天磐樟船に乗って降臨したという伝承から、同じ海神・航海の守護神で和歌の神ともされる住吉大神と合体し、天野川流域には住吉大神を祀る神社が多いのもこの理由からという。
 惟喬親王らが崇拝したとの伝承も、和歌の神としての住吉大神への信仰からであろう。

*金比羅神社
 境内左手にある小社。社頭に「金比羅大権現」との標石が立つ。


金比羅神社 
 
同・社殿

*稲荷社
 金比羅社の右にある小社。


稲荷神社 
 
同・社殿

*末社合祀殿
 本殿の背後に鎮座する4社の合祀殿(右写真)
 堂内の社名表示には、左より
 ・西野神社(別名・皇大神宮)--祭神:天照皇大神
 ・次野神社--祭神:市杵島姫命(航海の神)
 ・火産霊神社(別名・北野神社)--祭神:火産霊太神命(火の神)
 ・乾野神社--祭神:天水分命命(水神)
とある。
 これら4社の勧請由緒等は不明。

 

*神宮遙拝所
 拝殿の右に「神宮遙拝所」との一画があり、傍らの案内には、
 「奉祝 天皇陛下御即位記念
   神宮遙拝所庭苑『やえのせせらぎ』
 令和天皇陛下御即位に際し、神宮遙拝所を修景しました。
 村野神社のご祭神・素盞鳴命・櫛稲田姫命が古事記の中でご活躍されるヤマタノオチ伝説が修景の趣旨です。
 出雲の山々を背景に、天照皇大神と見立てた景石を中心に据え、そこから肥川(ヒイカワ)のせせらぎが始まり、素盞鳴命と見立てた景石を通り、櫛稲田姫命と見立てた景石のもとへ流れていきます。 
 生命を表す美しい水が、素盞鳴命・櫛稲田姫命のご縁を結んだ様子です。
 村野神社にお参りの方々が、慶び多い良縁・和合が八雲のように幾重にも重なって広がる、大きな弥栄を紀念致しました。
                                                       村野神社 令和元年7月吉日
とある。

 素盞鳴命は高天原での命と出雲での命ではその神格に大きな違いがあり、素盞鳴・櫛稲田姫は出雲における出雲における素盞鳴伝説の始まりであって、そこに天照皇大神の影はない。
 ただ素盞鳴の八岐大蛇伝説が高天原・出雲を結ぶ伝承であることから、これを媒介として天照皇大神・素盞鳴命・櫛稲田姫命を一体として造営されたのが当遙拝所かと思われるがやや違和感を感じる。

 
神宮遙拝所・全景
 
同・中央部

【村野神社遙拝所】
  枚方市釈尊寺町 1-19  (2021.01.18再訪・改訂)
 京阪交野線・郡津駅の南約600m、村野神社の南約1.7km。
 府道18号線・釈尊寺口交差点(西側)の二つ北の角を西へ入った先の石段を上り、左に曲がったすぐに鳥居が立つ。

 当遙拝所の造営時期は不詳だが、上記当社由緒に「昭和44年土地を売却して末社および遙拝所等を改築・修復した」とあり、鳥居に「昭和44年建立 氏子」とあるから、その頃に造営(あるいは改築)されたかとも思われる。
 ただ、如何なる由縁があって本社から遠く離れた当地に遙拝所が設けられたかは不明。

 今、当地附近に案内標識等なく、石段下にある「釈尊寺」の標石が目印だが、これだけでは此処が遙拝所への入口とはわからない。(参詣時にもたまたま出会った地元の人に教わって入口がわかった)


村野遙拝所・入口の石段 
 
同・鳥居

 鳥居を入った狭い境内の正面の低い石段の上に簡単な拝所があり、その柱に「村野神社遙拝所」との木札(文字は薄れている)が掛かっているだけで、他に案内等はない。

 拝所の奥に注連縄を巡らした巨石一基が鎮座する。
 磐座(イワサカ)と呼びたいが自然のものではなく、人の手が加わっているから磐境(イワサカ)と呼ぶものであろう。
 磐座・磐境いずれにしろ、この巨石を神が降臨する聖地として奉祀したもので、神社の古態を示す。
 なお、巨石は「鏡石」とも呼ばれているというが由縁は不明。


遙拝所全景 

同・拝所 
 
同・磐境


【春日神社(茄子作)--茄子作 3-15-26  (2021.01.18再訪・改訂)
 京阪交野線・郡津駅の南約1.2㎞、郡津駅の東を南北に走る府道18号線の茄子作東交差点を西へ入った先の茄子作西交差点(金龍寺前)を南に入った丘陵地に広がる住宅地内にある鎮守の森の中に鎮座する。

   祭神--武甕槌命・経津主命・天児屋根命・比咩大神・地主神

※由緒
 境内に案内等なく、社務所無人。
 大阪府神社庁第三支部HPには、
 「当社は、嘉吉元年(1441)9月9日に奈良春日大社より御神霊を勧請して茄子作村の氏神とした。明治5年村社に列す。
 古来宮座の厳重であったこと、その座列は本殿に向かって、右側に端野・堀・奥野、左側に桜井・清水・岡市の順であった。
 以て、神前儀式の厳重が伺える上に、今も尚総代による奉仕が厳重になされている」
とあるだけで、詳細不詳。

※祭神
   武甕槌命・経津主命・天児屋根命・比咩大神・地主神

 当社が春日と名乗ることから武甕槌以下の春日4神を祀るのは当然で、
 残る地主神は、十数年前に訪れたときお逢いした宮司さんの話では、
 「江戸時代までは春日4神を祀っていたが、明治の神仏分離により、神社前の坂下にある金竜寺に祀られていた『地主神』を合祀して、今は5柱を祀っている。金竜寺には“元宮記念碑”が残っている」
という。

 また、旧枚方市史には
 「明治初年、金竜寺境内の荒神社を当社内に移築した。
 金竜寺は茄子作のうちの旧掃部町(現茄子作北町)にあったので、移築後は末社・『掃部神社』(カモン)と称した。
 春日大神勧請以前の氏神である」
とある。

 地主神の具体の神名は火産霊命(ホムスビ・火の神、火結とも書く)といわれ、元宮の祭神・荒神もまた台所などに祀られる火の神であることから、市史がいう掃部神社が宮司さんがいう“金龍寺にあった地主神”であろう。

 なお金龍寺(茄子作北町)とは、当社前の道路を北へ下った突き当たり(茄子作2交差点)北側にあるお寺で、石段上にある境内の一画に自然石に、『元宮記念碑』と刻した石碑が立っている。

 
金龍寺入口石段
 
元宮記念碑
 
同 左

※社殿等
 茄子作西交差点から南下、住宅地の中を道なりに進んだ(けっこう長い)右手にある鎮守の森の道路脇に鳥居が立ち、参道を進んで境内に入る。


春日神社(茄子作)・社頭 
 
同・鳥居

同・参道

 境内正面に入母屋造・亙葺きの拝殿が東面して建ち、その奥、築地塀に囲まれた中に本殿が鎮座する。
 ただ、外からみえる本殿は大屋根の部分のみで、その社殿様式は不明。(拝殿内陣からみても御簾が掛かっていてわからない)

 
同・拝殿

同・拝殿(側面) 

同・本殿 

◎末社--愛宕神社
   祭神--迦具土命(カグツチ)

 境内の一画に愛宕神社がある。
 宮司さんの話では、「この宮は、戦前まで香里にあった軍の弾薬製造工廠に火伏神として祀られていたもので、戦後放置されていたのを当地の氏子たちが持ってきて祀ったもので、今では、この辺りの火伏せの神として崇拝されている」
という。
 合祀されている地主神・ホムスビはカグツチの別名でもあり、そんな縁もあって、香里の弾薬製造工廠跡から遷されたのかもしれない。

     

 境内右手には大きな石を一基置いただけの遙拝所がある。
 
 なお資料によれば、境内に「願主・端野久兵衛内世津女 文政7甲申歳(1824)九月吉日」と刻した古い狛犬(吽形)があり、「北河内の神社で唯一女性による奉献で珍しく且つ貴重なもの」というが、狛犬にはあまり興味がないため調べるのを失念した。


【加茂神社】--走谷 1-17-2  (2021.02.04再訪・改訂)
 京阪電鉄と1号線交差部の東にあるが、1号線側からは入れず南東へ迂回する要がある。
 住宅地内にあって鎮守の森をなす小丘の上に鎮座する静かな神社で、『加茂建豆美命神社』(カモタケヅミノミコト)ともいう。

  祭神--賀茂大神(賀茂建角身命-カモタケツヌミ

※由緒
 社頭に掲げる案内には
 「当社は、人皇50代桓武天皇の御代、勅命により和氣清麻呂公この地を河内の一宮として『賀茂の大神』を斎き祀れるが始まりなり。
 古き史を繙けば、祭神・賀茂の大神は、神武天皇国を建つるにあたり、畿内の豪族として大功をたて山城の国を賜るや民生の安定に貢献、ために『賀茂御祖の大神』として奉斎さる。今の京都・下鴨神社是なり。
 御分霊を当地に迎えるに当たり、賀茂の社家の人々多く移り住み、堂山に三千坪の神域を開き、その中腹に宏壮な社殿を造営せり。丘の下を走井と言い、今の走谷これなり。近くに清冽な御手洗川あり。社参の人々この川にて禊ぎし、敬神の誠を捧げしという。
 しかるに約670年を経て応仁の乱起こり、惜しくも兵火にかかり一切の財宝焼失し、今に残れる物なしという。
 されども今日、走谷に宮の上・宮の下・門前・堂前等の地名残れるは、往時の隆盛を窺うに足るというべきか。

 わが加茂神社は、これより160年を経て寛永6年に産土神として再建され、氏子の年長者が“一老”と言いて神主となり、氏子が祭員となりて春秋の祭典を執行せり。
 明治5年蹉陀神社に合祀、同12年現在地に複社し今日に至る」
とある。(社頭の案内は墨色が薄れ判読困難、同文を記す北河内のお宮から転写)


※祭神
   賀茂大神

 賀茂大神とは山城の賀茂氏の祖神である賀茂建角身命(カモタケツヌミ)のことで、加茂建豆美命はその異表記。
 新撰姓氏録(815)
  「山城国(神別) 賀茂県主 神魂命孫武津之身命之後也 神武天皇中洲に向かわんと欲する時、山中嶮絶にして路を失ふ。是に於いて鴨武津之身命大烏に化して飛びきたり奉導。天皇其の功を嘉み特に厚く褒賞。天八咫烏の号此れより始まる」
とあるように、神魂命(カミムスヒ)の孫で、八咫烏と化して神武東征軍を先導したという神話の主人公。

 また山城国風土記(逸文)・賀茂の社項に、
 「加茂と称するわけは、日向の曾の峰に天降りなさった神・賀茂建角身命は、神武天皇の先導として御前に立ち、大倭の葛城山の峰に宿っておいでになり、そこらか次第に移動して山代国の岡田に至り、山代川に従ってお下りになり、葛野川と賀茂川との合流点においでになり、その川(石川の瀬見の小川)からお上がりなさって久我国の北の山の麓にお鎮まりになった」
とあり、京都・左京区にある賀茂御祖神社(下鴨神社)の祭神。

 上記案内は、「賀茂の大神は家内安全・夫婦和合・縁結びに霊験あらたかなれば・・・」というが、これらの神徳は後世の付加であって、その原姿は、京都北部の豪族・賀茂氏が奉仕した土着神で雷神ともいう。

 ただ、勅令とはいえ当社が遠く京都・下賀茂神社の祭神を奉斎する由縁は不祥。
 末社に御手洗社・琴平社と水に関係する小祠が祀られていることからみると、雷神的神格をもつ賀茂建角身命を祀って豊饒を祈願したのかとも思われる。

※社殿等
 鎮守の森の南側に参道入口があり、その奥、石段の上に鳥居が立つ。
 石段下に「加茂神社」との社標柱が立ち、境内左手に由緒を書いた案内板があるのみで、社務所は無人。

 
加茂神社・参道入口
 
同・社頭
 
同・鳥居

 境内正面に入母屋造亙葺きの拝殿が南面して建ち、その背後、弊殿を介して切妻造・平入りの本殿が建つ。
 この本殿は覆屋で、中に本殿の社殿が鎮座すると思われ、拝殿内陣の奥をみると流造らしき小祠がぼんやりと見えるが暗くて確認できない。


同・拝殿(正面) 

同・拝殿(側面) 

同・本殿(覆屋) 

◎末社--御手洗(ミタライ)神社・琴平神社

*御手洗神社--祭神不明
 境内左にある小祠。
 昔、近くを流れていたという御手洗川の名を冠し、参詣の人々はこの川で禊ぎをしたというから、所謂祓社てあって祭神は水神であろう。
*琴平神社--祭神不明(大物主命か)
 境内左奥にある小祠。これもまた水に関係する神社だろうが鎮座由緒等不明。
 なお、本殿の右奥にひっそりと「皇祖遙拝所」がある。


末社・御手洗社 
 
同・琴平社

皇祖遙拝所 


【蹉跎神社】(サダ)--南中振 1-7-18  (2021.02.04再訪・改訂)
 京阪本線・光善寺駅から大阪方へ約600mほど行った山手に位置する市内最南端の神社。
 京阪線路に沿った道路脇の参道入口に「郷社 蹉跎神社」の石柱が立ち、民家に挟まれた参道奥の鳥居をくぐった小高い丘(蹉跎山)の上に鎮座する。

  祭神--菅原道真

※由緒
 社頭にかかげる由緒略記には、
 「創立年代 天暦5年(951)
 当社は延喜元年(901)正月、菅公が太宰権帥(ダザイゴンノソツ)として九州は筑紫の太宰府へ御左遷の途中、此山にて暫時御休憩あり、遙かに京の都を望み名残を惜しみて西へ旅立たれり。この休憩ありし山を菅公塚と称ふ。
 然るに都に残られし御公達の中にも御寵愛深かりし狩屋姫の君、御別れを惜しまれ御跡を慕ひて此地にならせられしが、遂に及ばずして遙かに西天を望み蹉跎して悲嘆せらる。其旧跡を蹉陀山と名づく。
 菅公は御丈三尺二寸の御座像を配所にて御手づから作らせ給ひしを、村人らが当山に社殿を造営し、近郷二十有五個村の産土神『総社』として斎き祀りしが、慶長19年(1614)の兵乱に社殿は炎上したれども、御尊像のみは厳然と坐せまししかば再建せられ、中振・出口両村の産土神として奉祀せられる。
 創建より幾多の変遷を経て明治5年より郷社に列せられ、翌6年2月堺県より祠官を派遣し、爾後社職を欠かさず、明治22年3月社殿を改築して今日に至れり。
 御旅所 枚方市大字出口にあり」
とある。

 また、大阪府全志(1922)には、
 「蹉跎神社は中央丘陵の半腹にあり。菅原道真を祀れり。
 創建の年月は詳ならず。もと道真の息女狩屋姫の孝心深きに感じ、其の旧跡なる蹉陀山に社殿を造りて道真を祀り、近郷24・5村の産土神たりしも、曾て社前の座順を争ひ、各村分離して小祠を営みしかば、本地及び出口のみの氏神となりて、今の所に遷座せり。
 御神体は道真自作の等身像にして、紀念の為め狩屋姫に贈られしものなりといふ。
 慶長の兵燹に社殿其の地悉く焼失せしも、神像のみは独り恙なきを得て、爾來世人の崇敬頗る厚く、明治5年郷社に列す」

 大阪府神社庁第三支部HPには
 「ご祭神菅原道真公は平安時代の学者で文章博士となられ、宇多天皇の信任が厚く右大臣に昇られましたが、左大臣藤原時平の策略によりて延喜元年(901)正月、太宰権師として京の都より九州の筑紫にあった太宰府(朝廷の出先機関)に左遷の途中、此の山にて休息せられ、遙かに京の都を望み名残を惜しまれたのち旅立たれました。この休息せられた山を菅公塚と云います。

 都に残られた中でも菅公が特に可愛がっておられました狩屋姫が、別れを惜しまれて御跡をしたって此の地まで来られましたが、菅公はすでにご出発されました後でお逢いになれなかった。
 此の地で遙かに西を望み蹉陀(あしづりすること)して悲しまれましたので、その旧跡を蹉跎山と名づけられました。

 菅公が、身の丈三尺二寸のご自身のご座像をお手づらから作られましたものを村人が当山に社殿を造営し、近郷20有5個村の産土神(総社)としてお祀りしました。
 その後、慶長19年(1614)の兵乱(大坂冬の陣)に社殿は炎焼しましたが、ご神体のみ儼然ときしましたので再興され、中振・出口両村の産土神として奉祀されました」
とある。

 これらによれば、当社は
 ・菅原道真が太宰府左遷の途中当地にて休憩した
 ・愛娘狩屋姫が、跡を慕って当地まで追ってきたが、出立の後だったので足踏み(蹉跎)して悲しがった
 ・それを聞いた道真は太宰府の地で自身の座像をつくり送ってきたので、村人はこれを御神体として社殿を造営して斎き祀った
というのが創建由緒という。

 当社創立年・天暦5年は、道真没後(903)約50年経過後にあたるから、御神体は道真自作ではなく、後年のものかもしれない。

 社名・蹉跎について、狩屋姫が“足摺り”したからサダというが、蹉跎とは“つまずいて進めないさま”の意で“足摺り”の意はない(広辞苑)。一方足摺には“つまずく”の意があり、そこから蹉跎=足摺になったのであろう。
 また蹉跎神とは神々を先導するミサキ神(御先・先鋒)のことで、御先=御崎=岬に通じるともいう。
 当地の地形からいって、淀川に突出する丘陵地の先端=岬に坐すミサキ神としての蹉跎神が本来の祭神との説もある。

※祭神
   菅原道真公

※社殿等
 京阪本線・光善寺駅から、線路沿いの道路(府道21号線)を南下した東側に参道入口があり、傍らに「郷社 蹉跎神社」との社標柱が立つが、文字が草書体のため通常は読めない。
 民家に挟まれた参道(蹉跎参道と称する)の途中に一の鳥居が西面して建ち、掲げる神額には「蹉跎神社」とある。

蹉陀神社・参道入口 
 
同・社標柱
 
同・一の鳥居

 参道を突き当たったところが社頭で、二の鳥居が立ち、低い石段の上に絵馬堂が建つ。
 堂前の扁額には「蹉跎天満宮」とあるが、堂内の扁額には「絵馬堂」とあり古い絵馬数葉が掲げてある。
 ただ、落剥烈しくいかなる場面が描かれているのかはわからない。


同・社頭 
 
同・二の鳥居
 
同・絵馬堂

 絵馬堂の先から長い石段が続き、その上に神門が建ち境内に入る。 

 
同・石段
 
同・神門 

 境内正面中央に、入母屋造・亙葺きの拝殿が西面して建つ。


同・拝殿(正面) 

同・拝殿(向拝部) 

同・内陣 

 拝殿背後、弊殿を介して入母屋造・亙葺きの本殿が建つ。
 ただ、これは覆い屋であって、中に本殿社殿が鎮座し、拝殿内陣から覗くと奥に一間社流造らしい小祠が鎮座している。
 本殿の前面に金色の御幣3本が立っているから、あるいは、主祭神・菅原道真の外に2柱の神が祀らているのかもしれないが、資料なく詳細不明。


左:拝殿、右:本殿 

同・本殿(側背面) 

同・本殿社殿 

◎末社
 境内右側(北側)に末社4社、右から皇大神宮・金比羅神社・春彦神社・稲荷神社の4社が東面して並ぶ。
*皇大神宮--祭神:天照皇大神
 天照皇大神が当社に祀られる由縁は不明。中世以降流行した伊勢信仰によるものか。

 
境内末社
(右から皇大神宮・金比羅神社・春彦神社、
 その左、赤い鳥居の奥が稲荷神社)
 
皇大神宮・社殿

 
同・内陣

*金比羅神社--祭神:大物主命
 旧枚方市史には「もと大字中振村の氏神で光明寺にあったものを明治の神仏分離により当社内に遷したもの」とある。
 千鳥破風を有する亙葺きの社殿に中に、千鳥破風向拝を有する小祠が鎮座するが、正面格子の狭間が狭くてよまみえない。


金比羅神社・社殿 
 
同・内陣 

*春彦神社
 金比羅神社とほぼ同形の社殿の中に、切妻造・平入りの小祠が鎮座する。
 小祠正面に扉3枚があることから、祭神は3座と思われるが、社頭の扁額には「祭神 市杵島比売尊」とある。
 資料によれば、当社祭神は春彦命・市杵島比売命・木花咲耶比売命3座とするものがあるが、当社に市杵島比売命・木花咲耶比売命が祀られる由縁は不明で、社名からみて、当社の主祭神は春彦命と思われる。


春彦神社・社殿 
 
同・内陣

 春彦命とは、平安中期頃伊勢外宮(豊受神宮)の禰宜であった度会春彦のことで、北野天満宮には末社・白大夫社(シラタユウ)に祀られている。
 春彦を白大夫と呼ぶ所以は、若い頃から頭髪が真っ白だったことによるという。

 春彦と菅原道真との関係について、Wikioediaには次のようにある。
 ・道真の父・菅原是善が、長男・次男を相次いで失ったことから伊勢豊受大神宮にいた春彦に子授け安産を祈願させた。
 ・その結果、道真が生まれたことから、喜んだ是善は春彦を道真の傅役として京都に招き、以来春彦は、数十年にわたって上洛して道真に仕えた。
 ・道真が太宰府に左遷されたとき、朝廷を憚って誰も道真の許に行かなかったなか、老齢ながら太宰府まで付添い奉仕続けた
という。
 また、高知市の潮江天満宮の伝承では、
 ・道真が延喜3年(903)筑紫で亡くなった後、春彦は、父に連座して土佐に流されていた道長の長男・高視のもとに、道真が持っていた剣と鏡を届け、これを御霊代として祀ったのが潮江天満宮の創建由緒という。

 なお、春彦は道真の死後すぐ筑紫を出て9カ国を遊行し、観音への結縁と道真の功徳を伝えてまわり、最後は道真の長男がいた土佐の地で亡くなった(東向観音縁起)との伝承もあり、歌舞伎・菅原伝授手習鑑にも白太夫の名で登場する。
 春彦の没年については、延喜5年説(905)・天慶9年説(946)がありはっきりしない。

 春彦は白大夫の名で全国各地の天満宮で祀られていることが多く、当社もその一つであろう。

 なお白太夫と似たものに“百太夫”がある。
 百太夫とは人形操りや散楽などの芸能に従事した傀儡子(クグツシ)が祀る神で、遊女が信仰する神でもあった(エビス社に祀られることが多い)
 百大夫は白太夫(ハクタユウ)とも呼ばれ、ヒャクとハクとの音が似ていることから両者はしばしば混同されるが、本来は別神。
 ただ、古くは各地を廻る持経者・念仏者・巡礼・山伏なども広義には芸能者に含まれていたというから、天神信仰を説いて廻った白太夫・春彦も同じ神格をもつともいえる。

*稲荷神社
 春彦神社の左に朱塗りの鳥居が並び、奥の社殿内に一間社流造の小祠が鎮座する。


稲生神社・鳥居列 
 
同・社殿

同・内陣 


*神楽堂
 境内左手にある。神楽が舞われる処だろうが、中には白い垂れ幕が下がっているだけ。
*神牛舎
 神楽堂の東少し離れてあり、木札に「神牛」とあり、中にちょっとユーモラスな顔をした牛の臥像が置かれている。

 
神楽堂
 
神牛舎
 
神牛臥像

 神牛舎前に、「天神様と牛」との案内があり、
 「(前略)他国で死去した高官の遺骨は京に送る習わしとなっていましたが、菅公の『自分は骨を故郷に帰すことを願わぬ』との遺言に従い、近臣たちは遺体を牛車におさめて葬場に移そうとし、四堂という所にさしかかった時、牛が歩みを止めて動かなくなりました。
 『菅公の霊告であろう』とその地で埋葬され、やがて祠堂がつくられました。これが今日の太宰府天満宮の起源と伝わります。
 当社の神牛には、天神さんの牛を撫でてからクサ(湿疹)を撫でると治る、手足の痛いところを撫でてこの牛の手足を撫でると治る、歯宍の腐ったときにも拝むといった庶民の信仰があったことが、枚方市史に紹介されています」
とある(コロナ禍の今は撫でられない)


※天満宮--出口 5-13-20  (2021.02.04再訪・改訂)
 京阪本線・光善寺駅の東約550m、駅西から国道1号線へ出て、右手にある中振交差点を西へ入った住宅地内にあり、鳥居は立つが社殿はない。(左隣りに出口自治会館がある)
 
 上記蹉跎神社の案内に「御旅所 枚方市大字出口にあり」とあるのが当所で、
 鳥居の神額には『天満宮』とあり、傍らに『郷社蹉跎神社御旅所』との社標柱が立つ。
 境内の案内には、
 「蹉陀神社御旅所(境内地)
 この地は蹉跎天満宮の御神輿が例大祭でお渡りのある御旅所と呼ばれる処で、本宮を遙拝する神社の神域であります」
とあるが、当地を御旅所とする由縁等は不明。

 
天満宮・全景

同・鳥居(左の建物は出口自治会館) 
 
同・社標柱

 社殿はなく、縦長の境内奥の基壇上に『遙拝所』と刻した石柱が立つのみ。


遙拝所・全景 
 
同・遙拝所石柱

 参道の右にRC造の小祠があり、中に板石に陽刻された石仏2基がみえる(下写真)
 一基には仏像一躰が、一基には二躰が陽刻されているが、赤い前垂れを付けていて見えるのは頭部のみ。
 一基に二躰が並んでいることからみて、昔、此の辺りの街道筋にあった道祖神(双躰道祖神)を移したものかと思われるが、詳細不明。

   

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