トップページへ戻る

枚方の神社-5
山田神社(山之上)・村野神社・春日神社(茄子作)・加茂神社・蹉跎(サダ)神社・枚方宮神社

大阪府枚方市内にある神社32社のうち、国道1号線以東・南寄りにある6社についての概要

【山田神社(山之上)--山之上4丁目
 京阪・枚方市駅から香里団地に至る道路の、宮の前橋バス停から南西に入った杜のなかに鎮座する。

  祭神--スサノヲ命・イナダヒメ命

 神社略記によれば、
 「山之上の地は牧郷一の宮(片埜神社)の氏地であったが、弘安元年(1278)に社務職間に諍いが起こり祭祀も怠りがちになったので、この地に住んでいた神職・田中修理亮芳秀が之を遺憾とし、田中山を神地として新たに神社を造営し、同2年9月、一の宮から分霊を勧請して『山之上神社』と称した。
 その後、田宮村に鎮座していた田宮神社を合祀し(明治6年・1873、祭神:ゴズテンノウ)、両村の頭二字をとって『山田神社』と改称した」
という。
 なお、枚方市史には「牛頭天王社」を創建した」とある。旧田宮神社と同じく防疫神としてのゴズインノウを祀っていたのを、明治6年の社名変更にあわせて、スサノヲに改めたのであろう。

 本殿には、中央に主祭神・スサノヲとイナダヒメ、右に末社・春日神社、左に末社・石神社を祀っている。
山田神社(山之上)・拝殿
山田神社(山之上)・拝殿

※末社--春日神社・石神社・稲荷神社

◎春日神社
 春日大明神縁起によれば、「昔、大和国三笠山より妖しげな鹿が夜々この郷に通ってきた。田中朝臣が、これは春日大神の影向であるとして新たに宮祠を造立し、春日大神の神霊を勧請して家の鎮守とし、居住地の名をとって田中社と称した。順徳天皇・建保年中(1213~18、鎌倉時代)に神地を改めて遷し奉った。今、天王社(山田神社)の北の麓なり」とある(旧枚方市史)
 とすれば本社より古いわけで、今は末社となっているが、当社が本来の氏神なのかもしれない。

◎石神社(シャクジンのヤシロ)
 平安・寛弘元年(1004)、安倍清明が畿内遊行の途中しばらく藤田里(トウダノサト、当地の東)に滞在して修行していたときの“加持石”を本社の傍らに祀り「石神」と称したのがはじまり、という。今も加持石かと思われる巨石が釈尊寺町に残っている(後述・村野神社遙拝所参照)
 安倍清明(921~1005)とは平安中期の陰陽道の大家で、その生涯は伝説化・神秘化されているが、特に占いに関して超能力を持った人物と伝えられている。今昔物語や宇治拾遺物語などにいろんな伝説が収められているが、その多くは清明に仮託された説話であり、清明が藤田里に滞在したというのも、そのひとつかもしれない。
 「石神」とはシャクジン・シャクシン・シャクジなどと読まれ一定しない。石に神霊が宿るとする古来からの信仰で、磐座・磐境信仰はもとよりエビス・産神・塞の神・道祖神信仰などと習合するなど、多彩な形態をとっている。


【村野神社】--村野本町
 京阪交野線・村野駅の北東約500m、小高い丘の上に鎮座し、周りは深い杜となっている。

  祭神--スサノヲ命・クシイナダヒメ命

 由緒には、
 「当社の創立は弘安2年(1279)2月、神司・神地が定まり新たに宮祠を造立し神霊を遷し奉った」
とあり、神社史資料には
 「字東野にあり、弘安2年8月一の宮(片埜神社)の分霊を勧請せしものという」
とある。山之上の山田神社と同じく片埜神社における神職間の諍いにより別れた神社であろう。
 なお江戸時代までは『牛頭天王・住吉大明神』を祀っていたというから、当社の原姿は防疫神・ゴズテンノウであろう。

 当社には、文徳天の御代(850~58)、惟喬親王が狩猟にお出でになったとき遊覧された荘園にあった社で、親王以下多くの人々の崇拝が篤かった、との伝承が残っているという。当社創建以前から何らかの宮祠があったことを示唆する。
村野神社・拝殿
村野神社・拝殿

※末社--住吉神社・西野神社・次野神社・乾野神社・火産霊神社・稲荷神社・金比羅神社

◎住吉神社(別名・東野神社)--祭神:住吉大神(ソコツツノオ命・ナカツツノオ命・ウワツツノオ命・オキナガタラシヒメ命)
 末社とはいえ本殿内に合祀されている。住吉神社の別名・東野神社が当地の字名・東野を冠することからみると、東野神社が先の伝承にいう本来の氏神で、が故に本殿内に合祀されているのであろう。
 なお、今の祭神は住吉4神とするが、交野市史などを参照すれば、本来の祭神は、古く当地あたりを支配していた物部氏一族の祖神・ニギハヤヒ命で、平安時代に入って都の大宮人が当地を訪れるようになって、ニギハヤヒが天磐樟船に乗って降臨したという伝承から、同じ海神・航海の守護神で和歌の神ともされる住吉大神へと替わり(別稿・交野の神社参照)、天野川沿岸には住吉大神を祀る神社が多いのもこの理由からという。惟喬親王らが崇拝したとの伝承も和歌の神としての住吉大神への信仰であろう。

◎相殿(アイドノ、末社合祀殿)
 本殿裏にある祠には次の4社が合祀されているが、その由緒など不明。
 ・西野神社(別名・皇大神宮)--祭神:アマテラス
 ・次野神社--祭神:イチキシマヒメ(航海の神)
 ・乾野神社--祭神:アメノミクマリ命(水神)
 ・ホムスビ神社(別名・北野神社)--祭神:ホムスビ命(火の神)

 末社・稲荷神社金比羅神社は境内左手にある。
村野神社・末社相殿
相殿--末社合祀殿
村野神社末社・金比羅社
末社・金比羅社

※村野神社遙拝所--釈尊寺町
 京阪交野線・郡津駅の南約600mにある釈尊寺の東に隣接する。釈尊寺境内に沿った人一人通れるほどの狭い道に面して鳥居が建ち、狭い境内奥に注連縄を掛けた磐座(イワクラ、H=2mほど)が鎮座し、その先は崖になっている。磐座(巨石)は“鏡石”とも呼ばれているらしい。
 神社の名前はなく、磐座前の祭壇らしき処に『村野神社遙拝所』とある。古くからの磐座信仰・巨石信仰の名残だろうが、鳥居に「昭和44年建立 氏子」とあり、祭祀はおこなわれているらしい。
 山田神社の東に当たり、これが末社の石神社にいう“安倍清明が祈念した加持石”かもしれない。
村野神社遙拝所
村野神社遙拝所
磐座
同・磐座(巨石)


【春日神社(茄子作)--茄子作3丁目
 京阪交野線・郡津駅の南約1.2㎞の丘陵地に広がる住宅地内にある。

  祭神--春日大神(タケミカヅチ・フツヌシ・アメノコヤネ・ヒメガミ)・地主神

 由緒によれば、「室町・嘉吉元年(1441)9月、奈良・春日大社より春日4神を勧請して茄子作村の氏神とした」とある。

 宮司さんの話では、
 「江戸時代までは春日4神を祀っていたが、明治の神仏分離により、神社前の坂下にある金竜寺に祀られていた『地主神』を合祀して、今は5柱を祀っている。金竜寺には“元宮記念碑”が残っている」
という。確かに、金竜寺本堂前に石碑が立っている。
 
春日神社(茄子作)・拝殿
春日神社(茄子作)・拝殿
元宮記念碑
元宮記念碑
 また旧枚方市にも
 「明治初年、金竜寺境内の荒神社を当社内に移築した。金竜寺は茄子作のうちの旧掃部町(現茄子作北町)にあったので、移築後は末社・『掃部神社』(カモン)と称した。春日大神勧請以前の氏神である」
とある。この掃部神社が宮司さんのいう“元宮”であろう。
 祭神はホムスビ命(火の神)というが、元宮の旧祭神・荒神(コウジン)もまた台所などに祀られる火の神、明治以降に替えたのだろう。

※末社--愛宕神社

◎愛宕神社--祭神:カグツチ命(火の神)
 境内の一画に愛宕神社がある。宮司さんの話では、「この宮は、戦前まで香里にあった軍の弾薬製造工廠に火伏神として祀られていたもので、戦後放置されていたのを当地の氏子たちが持ってきて祀ったもので、今では、この辺りの火伏せの神として崇拝されている」という。
 地主神・ホムスビは当社の祭神・カグツチの別名でもあり、そういうことから愛宕社も祀られたとみることもできる。

*狛犬
 拝殿前に真新しい狛犬一対が座っている。説明書によれば、「平成16年6月2日の未明、何者かによって阿形狛犬が粉々に壊されたので新造した」(大略)とある。古い吽形狛犬には「願主・端野久兵衛内世津女 文政7甲申歳(1824)九月吉日」との銘があり、北河内の神社で唯一女性による奉献で珍しいという。
春日神社(茄子作)末社・愛宕社
末社・愛宕神社


【加茂神社】--走谷1丁目
 京阪電鉄と1号線交差部のすぐ東にあるが、1号線側からは入れず南東へ迂回する要がある。住宅地内の小丘の上に鎮座する静かな神社で、『加茂建豆美命神社』ともいう。

  祭神--賀茂大神(賀茂建角身命-カモタケツヌミ命)

 由緒略記によれば、
 「桓武天皇の頃、和気清麻呂(733~99)が勅命によりこの地に河内の一の宮として『賀茂の大神』を齋き祀ったのが始まり。その時、賀茂の社家の人々が移り住んで宝山に神域を設け広大な社殿を造営したが、応仁の乱(1467~77)に巻きこまれて一切が消失、その後、寛永6年(1629)に地域の産土神として再建、明治5年にザダ神社に合祀されたが同12年現在地に復社した」
とある。

加茂神社・拝殿
加茂神社・拝殿
 祭神・カモタケツヌミ命について、略記には
 「賀茂御祖(カモミオヤ)の大神として奉斎さる。今の京都・下鴨神社(賀茂御祖神社)これなり。神武天皇建国の時、畿内の豪族として大功をたてて山城国を賜り、民生の安定に貢献したので賀茂御祖の大神として祀られた」
とある。
 山城国風土記には「もと日向の高千穂に天降りした神で、神武東征を先導して大和に入り、葛城から山城に遷り石河の瀬見の小川を溯った地(賀茂)に鎮座した」とあるが、その原姿は京都北部の豪族・賀茂氏(渡来系ともいう)が奉祀した土着神・雷神(農耕神)という。

※末社--御手洗(ミタライ)神社・琴平神社

◎御手洗神社--祭神不明
 本殿左にある小祠。昔、近くを流れていたという御手洗川の名を冠することからみて、祭神は“水神”で当地本来の地主神かともおもわれる。
◎琴平神社
 境内左奥にある小祠。これもまた水に関係する神社。鎮座由緒不明。


【蹉跎神社】(サダ)--南中振1丁目
 京阪・光善寺駅から大阪方へ約600mの山手に位置する市内最南端の神社。道路脇の参道入口に「郷社 蹉跎神社」の石柱が立ち、民家に挟まれた参道奥の鳥居をくぐった小高い丘(蹉跎山)の上に鎮座する。

  祭神--菅原道真

 参詣案内書によれば、
 「菅原道真か太宰府に左遷された折、近くの菅相塚(香里団地内)で休憩され遠く京を望んで名残を惜しまれた。一方、道真の娘・狩屋姫が跡を慕ってここまで来られたが、父・道真は既に出立されていたので、遙かに西方を望み蹉跎(足摺り)して悲しまれた。故に、この地をサダという。
 太宰府の地でこれを聞かれた道真は、自らの座像を彫って送ってこられたので、村人が当山に社を造営して近郊25村の産土神としてお祀りした。その後大阪冬の陣(1614)で社殿焼失したが、神像は無事だったので人々が再建した」
とある。前半は地名伝承、後半が鎮座由緒。

 狩屋姫が“足摺り”したからサダだというが、サダとは“つまずいて進めない”の意で“足摺り”の意はない。一方足摺には“つまずく”の意がある。同じ“つまずく”の意からサダ=足摺になったのであろう。
 またサダとは神々を先導するミサキ(御先・先鋒)の意で、御先=御崎=岬に通じるともいう。当地の地形からいって、淀川に突出する丘陵地の先端=岬に坐すミサキ神としてのサダ神が本来の地主神との説もある。

 旧枚方市史には、祭神:菅原道真・別雷神(ワケイカズチ)とある。ワケイカズチとは雷神で上賀茂神社の祭神。天神(御霊)としての道真も雷神的性格を強くもつから同体といえ、当社もまた水神・雷神としての道真を祀ったのであろう。

サダ神社・拝殿
サダ神社・拝殿
サダ神社・末社
サダ神社・末社
左から、稲荷・春彦・金比羅・皇大神宮

※末社--皇大神宮・春彦神社・金比羅神社・稲荷神社

◎春彦神社--祭神:春彦命・イチキシマヒメ命・コノハナサクヤヒメ命
 管見するかぎりではハルヒコなる神はいない。ただ、道真を祀る北野神社第一の末社・白太夫社に、道真の従者だった外宮祠官・“度会春彦”(862~944)が祀られ、各地(特に西日本)の天満宮で祀られることが多いという。当社も又そのひとつであろう。
 伝承によれば、ハルヒコは道真の死後すぐ筑紫を出て9カ国を遊行し、観音への結縁と道真の功徳を伝えてまわり、最後は道真の長男がいた土佐の地で亡くなった(東向観音縁起)といわれ、歌舞伎・菅原伝授手習鑑にも白太夫の名で登場する。
 このハルヒコに海の神であるイチキシマヒメと山の神・コノハナサクヤヒメを合祀する由緒は不明。

 なお白太夫(シラタユウ)と似たものに“百太夫”なる神がある。百太夫とは人形操りや散楽などの芸能に従事した傀儡子(クグツシ)が祀る神で、遊女が信仰する神でもあった(エビス社に祀られることが多い)。シラタユウはハクタユウとも呼ばれ、ハクとヒャクとの音が似ていることから両者はしばしば混同されるというが、本来は別神。
 ただ、古くは各地を廻る持経者・念仏者・巡礼・山伏なども広義には芸能者に含まれていたというから、天神信仰を説いて廻ったシラタユウ・ハルヒコも同じ神格をもつともいえる。
サダ神社末社・春彦神社
末社・春彦神社

◎金比羅神社--祭神:オオモノヌシ命・崇徳院天皇
 旧枚方市史には、もと大字中振村の氏神で光明寺にあったものを明治の神仏分離により当社内に遷したもの、とある。
 合祀されている崇徳天皇(在位1123~41)とは、保元の乱に破れて讃岐に流され同地で亡くなられた上皇。その後起こった天変地異が上皇の祟りとして畏怖され、それを宥めるために讃岐の地で神として祀られていたが、明治元年に京都・白髭神社に遷座している。

※天満宮--出口5丁目

 淀川と1号線に挟まれた住宅地の中にあるが、社殿がなく見つけにくい。

 説明には、「この地はサダ天満宮の例大祭で御神輿がお渡りになる処で、本宮を遙拝する神域」とある。

 鳥居に掲げる神額には『天満宮』とあるが、脇の石柱には『サダ神社御旅所』とある。社殿はなく、参道奥に“遙拝所”と刻した石碑を建てた石積み祭壇があるのみ。当地を御旅所とする由緒など不明。
天満宮:サダ神社お旅所
天満宮:サダ神社・御旅所


【枚方宮神社】--菊丘南町
 京阪・枚方公園駅から香里団地に至る道路が1号線高架橋をくぐった先の右側、ビルのなかに鎮座する神社。神社本庁などの組織に属しない独立の宮で、一般に知られることが少ない。神社の方に聞いたところでは、先代が奉斎した宮で、亡くなられたあと管理が大変なのでビルに収めたという。
 ビルの横に『枚方宮』の社名とともに「命名」「地鎮祭」と記された額を掲げた赤い鳥居が建ち、本殿は朱色の階段を上ったビルの2階に祀られている。鳥居が建ち赤い階段がなければ、ビルの避難階段と見間違う。

  祭神--恵宝稲荷大神・恵美須大神・天満宮大神・弁財天大神

 由緒略記によれば、
 「仁徳天皇が、京都にあった渡来人集団・秦氏を枚方に分かち、養蚕紡績の発展を図られたが、その秦氏が氏神を藤田稲荷山に祀ったのが始まり。弘法大師も行脚の途中に藤田稲荷山に参詣され、一夜をこの地で過ごされている。その後、鎌倉時代の大火による焼失や、戦後の公団住宅建設などで昔の面影はなくなったが、昭和40年、菊丘南町に稲荷社を再建し、『枚方宮』と定めた」
とある。一人の篤志者による再建である。
 本来は稲荷社だろうが、今は家運隆盛・商売繁昌から学問成就・子供の名付け・先祖供養まで何でも叶えてくれる神と称している。

枚方宮・鳥居
枚方宮神社・鳥居
枚方宮神社・本殿・内陣
枚方宮神社・本殿内陣

トップページへ戻る