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枚方の神社−6
三之宮神社・厳島神社・若宮神社

大阪府枚方市内にある神社32社のうち、市東部に位置する3社についての概要

【三之宮神社】−−穂谷2丁目
 枚方市東部の丘陵地・穂谷に坐す東部地区最古の神社で、昭和30年に合併した穂谷・津田・芝・尊延寺・杉・藤阪郷の総鎮守として崇拝されたという。

  祭神−−スサノヲ大神・ミケツ大神・オオクニヌシ大神・アマツカミ・住吉大神・仁徳天皇

 当社略史には、
 「神功皇后が朝鮮出兵のため当地を行幸されたとき、山谷が険しく難路であったので天神地祇に祈願されたところ、神が顕れ『難路故各処に物を置き導き奉らん』と託宣し、行く先々に白弊を竹筒にはさんで道標とした。これを嘉とした皇后は凱旋後、幣帛を寄進された。
 その後、仁徳天皇29年春、額田大中彦皇子に命じて社殿が創建された。その後、孝謙天皇・天平勝宝2年(750)、『息筒大明神』の神号を拝受、文徳天皇・仁壽2年(852)、正三位勲六等の宣下あり」
との伝承を伝え、社頭の由緒でも「仁徳天皇29年の創建」と記す。
 また津田史には「仁徳29年神異により勧請、元明天皇・和銅3年(710)に社殿成建」とある。

 記紀によれば、神功皇后は仁徳天皇の祖母にあたることから、仁徳帝の創建というのだろうが、神功皇后は神話伝説上の人物で、その朝鮮出兵は敦賀から筑紫という日本海ルートでなされているから、出兵時の行幸云々はおかしい。
 ただ、当社の東南方・京都府下に入った山中に皇后の祖父とされる加爾米雷王(カジメイカヅチ)を祀る“朱智神社”があり、この辺りから交野市にかけて皇后に関する伝承が幾つか残っている。皇后の出身氏族とされる息長氏がこの辺りにからんでいるのかもしれない。

 また社務所の方の言では、
 「古く、穂谷の神奈備山(神が降臨する聖なる山)にあった祠を麓の当地に遷した」
との伝承があるという。
 集落近くの山にある“山宮”と、その遙拝所として麓に設けられた“里宮”という古い神社の形を伝えるもので、当社が地元住民の産土神として崇拝をうけていた古社であることを意味し、神功皇后伝承などは後世の付会といえる。

三之宮神社・拝殿
三之宮神社・拝殿
三之宮神社・本殿
三之宮神社・本殿

 当社は、古くから『息筒大明神』あるいは『三之宮屋形大明神』などとも呼ばれるが、豊臣秀頼が大阪城の鬼門除けとして一の宮(片埜神社)・二の宮とともに三の宮として修復させた以降、『三の宮』と呼ばれるようになったという(慶長年間1599〜1615)。ただ、この秀頼改修を記す棟札などがないこと、豊臣家滅亡の2年後・元和3年(1617)の屋根葺き替え、その19年後の寛永11年(1634)の総建替などから、秀頼による改修を疑問視する説もある。今の社殿は寛永11年総改修のものという。

※祭神
 スサノヲ以下6柱を祀るが、どの神が主祭神なのか不明。山宮・里宮という古い形態からみると“山の神”が推定されるが、山の神は田の神・農耕神でもあるから、食物の神である“ミケツ大神”が古くからの祭神とみることもできる。
 今の主祭神とみられるスサノヲについては、枚方市史に「古く屋形石(後述)をご神体とし『三之宮屋形大明神』と呼ばれていたが、のち“牛頭天王社”を勧請し、云々」とあることからみて、本来の祭神はゴズテンノウで、スサノヲは明治以降のものであろう。
 オオクニヌシは国土造成の神または福の神(ダイコクさん)、アマツカミは高天原系の神々の総称、住吉大神は物部氏の祖神・ニギハヤヒが平安以降に替わったもの、仁徳天皇は創建伝承からのものであろう。

※末社−−春日神社・稲荷神社・厳島神社・神明神社
 玉垣に囲まれた神域内、本殿を挟んで左右2棟ずつ4棟の祠が並んでいるが、末社というだけで、どの祠がどの神を祀るのかは不明という。

※屋形石
 本殿裏の玉垣で囲まれたなかに、大きな縦長の岩が2個鎮まっている。いわゆる“磐座”(イワクラ)と呼ばれるもので、断面が三角形をしていることから、これを屋根の形とみて『屋形石』と呼ばれ、そこから『三之宮屋形大明神』とも呼ばれたらしい。
 磐座とは神が降臨するとされる聖なる岩で、そこを聖地・聖域として祭祀が繰りかえされ、次第に、その岩自体を神として崇拝するようになったものを指す。降臨石・腰掛石・影向石(ヨウゴウイシ)などとも呼ばれ、大きさや形など多種多様な形態をもつ。常設の社殿がなかった昔、このイワクラを臨時の祭場として神を迎えて祭祀をおこなったという。
 同様なものに、複数の石を人工的に組み合わせた“磐境”(イワサカ)がある。
三之宮神社・屋形石

※立石(伝竜王祠)
 拝殿左の巨木の下に、注連縄を掛けた高1mほどの『立石』がある。枚方市史に
 「当社の縁起に水神がからむとは伝えていないが、当郷旧跡名勝誌(天和2年1682)に、『三之宮に善女竜神の小祠あり』とあるように、古くから竜王の祠があり雨の神とされていた。
 この竜神は、今昔物語にいう、弘法大師が守敏と雨乞いの法力争いをしたとき京都・神泉苑に勧請して雨を降らせた竜神」
とあるのがこの立石だと思われる。今は雨ざらしだが、昔き祠に収められていたらしい。

 また「当社は雨乞いの神社として崇敬が篤く、境内に千燈を掲げて大般若経を転読して祈願するのが常であった」(由緒書)ともいうように、当社での雨乞いは、近郷5カ村の各氏神に祈っても雨が降らないとき、最後の手段としておこなわれた5カ村あげての雨乞いで、太鼓や鐘を急調子で叩きながら神社に繰り込み、まず竜王の祠を叩き壊し、ご神体の石を西側の崖から穂谷川へ突き落として降雨を祈願、雨が降れば引き上げたともいう。
三之宮神社・立石(伝竜王祠)
 広く雨乞いに際して、川の源流や泉・井戸などに牛馬の首を投げ入れる習俗があった。俗信では、水の神が坐す処に不浄なものを投げ入れると、神が怒って雨が降らせるという。当社でご神体を川に投げ入れるのも同じ趣意である。
 これに対して、あの世とこの世とは逆さになっており、この世で不浄なるものはあの世では聖なるものへと逆転する。故に、この世の不浄なるもの、すなわちあの世での聖なるものを供物として送ることで、神を活性化させて、水神本来の働きすなわち降雨を促すのだ、ともいう。

 この竜王祠の立石と上記の屋形石との関係は不明。牽強付会すれば、古く、三角形は女性を表し立石は男性とされることからみて、両者合わさって子孫繁栄・五穀豊穣を祈ったのかもしれない。

【厳島神社】−−尊延寺5丁目
 国道307号線・尊延寺バス停から南へ入った集落のなかにある。

  祭神−−イチキシマヒメ命

 尊延寺の鎮守として祀られたというが、資料がなく由緒など不明。三之宮神社の末社を勧請したのかもしれない。

 現本殿は、奈良・春日神社式年造替時の旧社殿を譲り受けた“春日移し”(文久3年1863)

 祭神・イチキシマヒメは宗像三神の一柱で安芸宮島の厳島神社の祭神。海の神・航海安全の神が穂谷の山中に祀られるのも不可解だが、イチキシマヒメは何故か弁財天と習合しているから、福をもたらす弁財天として祀られたのかもしれない。
厳島神社ろ拝殿
厳島神社・拝殿

※末社−−春日神社・稲荷神社

◎春日神社

 本殿の右に並んで鎮座する。春日社を名乗るが社殿は春日造とは異なる流造。

 社頭の由緒によれば、「春日社の本殿は、幕末の頃、奈良春日大社の宮殿を厳島神社本殿として譲り受けた際、厳島神社の旧本殿を移築したもので、室町中期から後期にかけての建造と推定される」とあり、国の重要文化財。平成6年に解体修理されている。
厳島神社末社・春日神社
末社・春日神社

【若宮神社】−−杉1丁目
 国道307号線・杉バス停の南、狭い入り組んだ坂の多い丘陵地にある神社で、細い道路から急な石段を登った先にある。隣は西方寺、背後に堂ノ背公園がある。

  祭神−−住吉3神(ウワツツノオ命・ナカツツノオ命・ソコツツノオ命)

 ネット資料に、
 「江戸時代、八幡大神を祀ることから『若宮八幡宮』と呼ばれ、津田城主が守護神として崇拝していた。明治5年の神社整理統合で厳島神社に合祀されたが、同12年に現在地に復社した」
とある。

 津田城主の守護神としては八幡大神が似つかわしいが、現祭神とは異なる。
若宮神社・拝殿
若宮神社・拝殿
若宮神社・本殿
若宮神社・本殿覆屋
 古くから住吉3神を祀るのであれば、当地区に多いニギハヤヒを祀っていたのが、平安の頃に住吉神に替わったのがもしれない。
 社殿など、一見してだいぶ荒れている。

※末社−−天満宮・稲荷神社・石祠2基

 本殿の裏に天満宮・稲荷社がならび、その右に小さな石祠が2基並んでいる。
 社名などほとんど摩耗して判読困難だが、かろうじて左の祠は“八幡”、右のそれは“琴ヒラ”と読める。

 左の八幡祠が津田城主が崇拝したという若宮八幡で、神社整理により住吉大神が勧請されたため、末社とされたのかもしれない。
 
若宮神社・石祠
左:八幡祠・右:琴ヒラ祠

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