トップページへ戻る

枚方の神社-6(改訂)
三之宮神社・厳島神社・若宮神社(杉)
                                                               2021.01.25再訪

大阪府枚方市内にある神社32社のうち、市東部に位置する3社についての概要

【三之宮神社】--穂谷 2-7-1
 京阪・枚方市駅前及びJR学研都市線・津田駅前から京阪バス・穂谷行きで三の宮神社で下車、少し進んだ西側に鳥居が立つ。

  祭神--素盞鳴大神・御饌津大神・大国主大神・天神・住吉大神・仁徳天皇

※由緒
 枚方市東部の丘陵地・穂谷に坐す東部地区最古の神社で、古くは穂谷・津田・芝・尊延寺・杉・藤阪郷の総鎮守として崇拝されたという。

 拝殿前に置かれていた『三之宮神社 由緒書』(以下、由緒書という)には次のようにある。
 「起源と歴史
 当社の社記によれば、神宮皇后が西暦209年(神功皇后9年)秋、朝鮮出兵の時、当地を通られたが、山が深く谷も険しくて難路であったため、天神地祇にご祈願されたところ、神様が現れ『難路故各所に物を置き導き奉らんと告げ給う』とのお告げがあり、行軍の先々に白幣を竹筒に挟んだものを所々に置き道案内をした。
 そして『皇后に軍謀秘策を告げ給う」とし、その後皇后は無事に凱旋できたことを喜ばれて幣帛を寄進された。
 その後、仁徳天皇29年(西暦341)春、額田大中彦皇子に社殿の創建を命じられた。

 孝謙天皇天平勝寶2年(750)、『息筒大明神』の神鄕号を授け、文徳天皇仁壽2年(852)、惟喬親王を遣わして正三位勲六等を与えられた。
 後冷泉天皇治暦元年(1065)正月29日、山火事によって灰となったが、8年後に再建された。 
 後堀河天皇貞応元年(1222)9月、盗賊によってまたもや焼失したが、嘉禄2年(1226)3月、中原宗兼外当郷の30余人によって再興された。
  その後数回の改造修復が加えられたが、慶長年間に大阪城の鬼門除けとして豊臣秀頼によって再興され、牧野阪の一之宮神社(片埜神社)、船橋本町の二之宮とともに交野三之宮と称した。

 創建当時は息筒大明神と称され、屋形大明神・住吉大明神と呼ばれていた。
 今の社殿の元になっているのは寛永11年(1634)に再建されたもので、現在の社殿は平成4年に津田郷の氏子衆により完全再建したものである」


 両資料ともに当社は仁徳朝の創建というが、5世紀中頃とされる仁徳朝での神マツリが、恒常的な社殿等を要してのものだっとは思えず(祭祀の都度・神籬などを設けてのものはあったであろう)、当社創建を仁徳朝というのには疑問がある。
 (由緒書は、仁徳29年を西暦341年としているが、これは神武即位年を紀元前660年として、推古天皇までを書紀の記述に従って振り当てた架空の年次であって、紀元341年とは崇神天皇の頃にあたる)

 加えて、仁徳29年創建に先立つ話として、神功皇后が朝鮮出兵に際して当地を通られ云々というが、
 ・書紀によれば、皇后は朝鮮出兵に先立って、夫・仲哀天皇の命により越前・敦賀から日本海ルートで筑紫へ行かれたとあり、内陸部(当地を含む)を通られたとの記述はない。
 ・由緒書は、この出来事を皇后9年秋のこととしているが、書紀によれば、皇后は当該年には既に筑紫の香椎宮に居られて出兵準備中だったとある。
 ・神功皇后は神話伝説上の人物であって、その実在を疑問視するのが通説で、皇后の朝鮮出兵についても、後世になって作られた伝承であるとして史実とはされていない。

 上記伝承は、仁徳朝創建という由緒を加飾せんがために、天皇の祖母にあたる神功皇后を持ちこんだものと思われるが、
 当地附近を含めて大阪周辺には、神功皇后の朝鮮出兵に関連する伝承が多々残っており、当社の伝承もその一つであろう。

 また社務所の方の言では、
 「古く、穂谷の神奈備山(比定地不明)にあった祠を麓の当地に遷した」
との伝承があるという。
 これは、集落近くの山にある“山宮”と、その遙拝所として麓に設けられた“里宮”という古い神社の形を伝えるもので、この伝承は、当社が地元住民の産土神として崇拝をうけていた古社であることを意味する。
 当社に、このような伝承が残っていることは、由緒書にいう神功皇后云々や仁徳朝創建というのは架空のものであることを証するともいえる。

 当社は、古くから『息筒大明神』或は『三之宮屋形大明神』などと呼ばれるが、屋形大明神は境内にある屋形石に因むものだが、息筒大明神と称する由縁は不明。
 その後、豊臣秀頼が大阪城の鬼門除けとして一の宮(片埜神社)・二の宮とともに三の宮として修復させた以降、『三の宮』と呼ばれるようになったという(慶長年間1599~1615)
 ただ、この秀頼改修を記す棟札などがないこと、豊臣家滅亡の2年後・元和3年(1617)の屋根葺き替え、その19年後の寛永11年(1634)の総建替などから、秀頼による改修を疑問視する説もある。

※祭神

   素盞鳴大神・御饌津大神・大国主大神・天神・住吉大神・仁徳天皇

 素盞鳴以下6柱を祀るが、どの神が主祭神なのか不祥。
*素盞鳴大神
 今の主祭神とみられる素盞鳴については、枚方市史に
 「古く屋形石(下記)をご神体とし『三之宮屋形大明神』と呼ばれていたが、のち“牛頭天王”を勧請し、云々』
とあることからみて、元々の祭神は疫病除けの神・牛頭天王であって、素盞鳴は明治以降のものであろう。

*御饌津大神
 山宮・里宮という古い形態からみると“山の神”が推定されるが、山の神は田の神・農耕神でもあるから、食物の神である“御饌津大神”が古くからの祭神とみることもできる。

*大国主大神・天神・住吉大神・仁徳天皇
 大国主は国土造成の神または福の神(大黒さん)、天神は高天原系の神々の総称(天つ神)、住吉大神は物部氏の祖神・饒速日命が平安以降に替わったものだが(別稿・交野の神社-2参照)、いずれも、その勧請由来・時期等は不明。、
 また仁徳天皇は仁徳29年創建との伝承によるものであろう。

※社殿等
 京阪バス・三之宮停留所から少し進んだ右に神社への入口があり、一の鳥居が立つ。


三之宮神社・社頭 
 
同・一の鳥居
 
同・参道(右:拝殿、奥:稲荷社)

 石畳の参道を入って右に折れたところに二の鳥居が立ち境内に入る。
 境内中央に唐破風向拝を有する横に長い入母屋造・銅板葺きの拝殿が南面して建つ。


同・二の鳥居 
 
同・拝殿
 
同・拝殿(中央部)

同・拝殿 
 
同・内陣

 拝殿から少し離れた玉垣の中に、一間社流造・銅板葺きの本殿が南面して鎮座する。


同・本殿 
 
同・本殿

 当社社殿等の造営後の経緯については上記由緒書参照。

◎境内社
 由緒記には
   摂社--春日社・厳島社
   末社--神明社・龗社(オカミ)・稲荷社
とあり、春日・厳島・神明・龗の4社は玉垣内にあって、本殿を挟んで左右2社ずつが並ぶ。

 各社殿は、本殿川のものが一間社流造で大きく、これが摂社で、その横のものは一間社切妻造で小さく末社かと思われるが、案内等なくどの社殿がどの神社にあたるかは不明。

 
本殿左の境内社
 
本殿右の境内社

*稲荷神社
 参道の突き当たり、境内西北隅に末社・稲荷神社が東面して鎮座する。
 朱塗り鳥居の奥、岩積基壇の上に切妻造の小祠が鎮座するが、稲荷社に付き物の白狐像はみえない。


稲荷社・鳥居 
 
同・社殿 


◎屋形石
 本殿裏を少し下った処(社殿域の下)に玉垣で囲まれた区画があり、大きな縦長の岩が2個鎮まっており、由緒書には
 「本殿の裏に回ると、玉垣で囲まれた中に大きな石が2個鎮座している。
 これは本殿の外に位置するが、三之宮神社の御神体である。
 神様が降臨され、聖なる岩として祭祀が行われたとされる磐座(イワクラ)と呼ばれるものであり、断面が三角形の柱を寝かした形を屋根に見立て、『屋形石』と呼ばれ、『三之宮屋形大明神』の名称の元になっている。 
 過去にの屋形石を成分分析した結果、穂谷付近の岩石ではないと判明している」
とある。

 磐座とは神が降臨するという聖なる岩で、そこを聖地・聖域として祭祀が繰りかえされ、次第に、その岩自体を神として崇拝するようになり、降臨石・腰掛石・影向石(ヨウゴウイシ)などとも呼ばれ、大きさや形など多種多様な形態をもつ。
 常設の社殿がなかった昔、この磐座を神が降臨する聖地として祭祀をおこなったといわれ、この屋形石は当社古代の祭祀形態を偲ばせる遺構といえる。
 なお同様なものに、複数の石を人工的に組み合わせた“磐境”(イワサカ)がある。

 
磐 座
 
磐座・左
 
磐座・右

◎立石(伝竜王祇)
 拝殿左の巨木の下に、注連縄を掛けた『立石』があり(下写真)、由緒書には
 「拝殿の左に注連縄がかけられた高さ1m程の『立石』がある。
 三之宮神社は雨乞いの神様としても崇敬が篤く、境内に千燈を掲げ大般若経を転読して祈願した、所謂神仏習合であったと言われる。
 雨乞いの際、近郷五ヶ村の氏神に祈っても効果が無い時、最後の手段として村民が揃って太鼓や鐘を鳴らしながら神社に入り、御神体であるこの石を西側に流れる穂谷川に投げ落として祈願したとされ、願い叶って雨が降れば引き上げたと言われている。
 神社内にある多くの石灯籠はその御礼に奉納されたもので、胴の部分に『請雨御返禮』と刻まれており、現在でもその文字がかろうじて読み取れる」
とある。

 また枚方市史によれば、
 当社の縁起に水神がからむとは伝えていないが、当郷旧跡名勝誌(1682)に、『三之宮に善女竜神の小祠あり』とあるように、古くから竜王の祠があり雨乞いの神とされていた。
 この龍王は、今昔物語にいう『弘法大師が守敏と雨乞いの法力争いをしたとき京都・神泉苑に勧請して雨を降らせた竜神』だという伝承があるという。
 今は露天にあって雨ざらしだが、昔き祠に収められていたらしい。
 なお、当立石の背後は崖になっていて、下には穂谷川が流れている。

       
穂谷川

 広く雨乞いに際して、川の源流や泉・井戸などに牛馬の首などの汚物を投げ入れる習俗は古くからのもので、水の神が坐す処に不浄なものを投げ入れると、神が怒って雨が降らせるという俗信があり、当社でご神体を川に投げ入れるのも、ご神体を穢して神を怒らせ降雨を祈願したのであろう。
 これに対して、あの世とこの世とは逆さになっており、この世で不浄なるものはあの世では聖なるものへと逆転する。
 故に、この世の不浄なるもの、すなわちあの世での聖なるものを供物として送ることで神を活性化させて、水神本来の働きすなわち降雨を促す、ともいう。

 この竜王祠の立石と上記の屋形石との関係は不明。
 牽強付会すれば、古く、三角形は女性を表し立石は男性とされることからみて(この立石は男根ともみえる)、場所は離れているものの、両者あわさって子孫繁栄・五穀豊穣を祈ったのかもしれない。

◎兜塚
 拝殿の左前に塚らしきものがあり、中に自然石に兜塚の刻し注連縄を張った立石が立っている(下写真)
 由緒書にも「兜塚」とあり写真が載っているが説明無く、いかなる由来のものかは不明。


全 景 
 
兜 塚 


【厳島神社】
--尊延寺 5-9-1
 国道307号線・尊延寺バス停から南へ、次の信号(郵便局あり)を西へ入り、穂谷川を渡り(不動橋)集落内の小路を進んだ先に鎮座する。
 途中に『重要文化財 厳島神社末社 春日神社本殿』との案内標識があり(下記)、矢印の方向へ進むと当社の前に至る。

  祭神--市杵島姫命

※由緒
 境内に由緒等を記した案内はないが、大阪府神社庁第三支部HPには
 「尊延寺村の鎮守として平安時代末乃至鎌倉時代の創立。
 市杵島姫命は天照大御神と須佐之男命との誓約(ウケヒ)において須佐之男の剣からお生まれになった三女神(宗像三女神)の第2子で、“市杵”(イチキ)は“斎き”(イツキ・身を清浄にして神にお仕えする事)の音便。別名『狭依毘売命』(サヨリヒメ・神霊の依り憑く女性)
 神功皇后の新羅遠征の際、霊験を顕したとされる。
 古来厳島信仰とされ、海上守護の神又皇室守護と航海安全及び漁民の豊漁などの信仰をもつ。
 江戸時代の末期に奈良の春日大社より旧社殿を譲り受けた」
とある。(幕末の頃とは文久3年-1863ともいう)

 神功皇后の新羅遠征の時云々というが、記紀当該部分に宗像三女神の名はみえない。(住吉三神はみえる)

※祭神
 祭神・市杵島姫は宗像三神の一柱で、宗像大社・辺津宮や安芸宮島の厳島神社の祭神。
 海の神・航海安全の神が穂谷の山中に祀られるのも不可解だが、市杵島姫は弁財天と習合しているから、福をもたらす弁財天として祀られたのかもしれない。

※社殿等
 案内標識の矢印にそって小路を進んだ先に、当社への石段があり、その上に鳥居が立つ。


厳島神社・社頭 
 
同・鳥居

 境内正面に切妻造・亙葺き・横長の拝殿(割拝殿)が東面して建ち、その右に末社・春日神社が鎮座する。
 拝殿背後、弊殿を介して朱塗り・銅板葺きの本殿が東面して鎮座する。
 上記案内に、江戸末期に奈良・春日大社より譲り受けたとあるから春日造の社殿と思われるが、前面の構造物及び傍らの樹木に遮られて社殿全貌は見えにくい。


同・拝殿(右は春日社) 

同・弊殿を通して本殿正面 
 
同・本殿

◎末社--春日神社・稲荷神社
*春日神社
  厳島神社拝殿の右に鳥居が立ち、石段の上に一間社流造・朱塗り・柿葺きの社殿が鎮座する。国重要文化財。
  旧厳島神社の本殿を移築したものという。

 創建由緒・年代についての資料はないが、社頭に立つ案内には、
 「重要文化財の春日神社本殿は、幕末の頃に奈良春日大社の旧殿を厳島神社本殿として譲り受けた際、元の厳島神社本殿を移築したものである。
 建立年代については資料がなく明らかにしえないが、建築様式から概ね室町時代中期から後期と推定される。
 構造は、桁行1.91mの一間社流造で、屋根は檜皮葺きである。庇まわりや造作などは後世に改修されているが、主体はよく残っており、細部の意匠も優れた貴重な遺構である。
 この本殿は京都府との境に位置するため、大阪府下でも南部のものとは少し異なった手法をとっており、地域的特色を示していると思われる。
 なお、平成6年に解体修理が実施された。彩色については痕跡をもとに復元され、建立当時の姿を取り戻した」
とある。

 これによれば、春日神社は幕末の頃に旧厳島神社の社殿を移築して本殿としたのは確かだが、それ以前の当社が如何なる形態だったかは不明。


末社・春日神社・鳥居 
 
同・社殿(正面)
 
同・社殿(側面)

*稲荷神社
 境内右手に稲荷神社があり、朱塗り鳥居奥の覆屋の中に一間社流造の小祠が鎮座する。

     

◎奉三社・石灯籠跡
 当社への小道の途中(案内矢印の下)に掲げる「奉三社・石灯籠跡」との案内に、
 「この場所には、正面に『奉三社」』、側面に『文政十三年寅三月 村中』と刻まれた石灯籠がありました。
 三社とは伊勢神宮・春日大社・石清水八幡宮を指し、この三社に祈りを捧げ、平安無事を願う意味が込められています。

 1830年(文政13)の創建当時は天候不順、飢餓、一揆が各地に起こり世情不安の中、各地で『おかげ参り』が流行した時代でありました。村人たちが、この街道を往来するおかげ参りの人たちの無事安泰を祈って建立したものであろうと推定されます。

 しかし190年の風雪に耐えた灯籠も、石材のひび割れなどにより危険な状態になったため、2020年(令和2年)に撤去しました。
*この撤去材を再利用した石燈籠が、聖法寺入口付近に設置され、往時の姿を残しています。2020年6月 尊延寺区
とあり、今、尊延寺バス停近くの道路北側に石燈籠が復元されている。

 
厳島神社への案内標識
(下に奉三社案内あり
左奥が厳島神社)

 
復元された奉三社・石燈籠


同 左


【若宮神社】--杉 1-31-15
 国道307号線・杉バス停から南へ、次の信号手前を西へ、本通り添いの坂道(石畳)を上り最初の辻を左に入った先に鎮座する。
 坂の多い丘陵地にある神社で、小路から民家脇の急な石段を登った上にある。細かい路地が輻輳し案内表示等なく地図必携。
 隣に西方寺、背後に堂ノ背公園がある。

  祭神--住吉三神(表筒男命・中筒男命・底筒男命)

※由緒
 境内に案内等はないが、大阪府神社庁第三支部HPには、
  「江戸時代、八幡大神を祀ることから『若宮八幡宮』と呼ばれ、津田城主が守護神として崇拝していた。
  明治5年の神社整理統合で厳島神社に合祀されたが、同12年に現在地に復社して村社に列せられた。
  境内は90坪、本殿・拝殿・土蔵を存す。
  末社には天満宮・稲荷・八幡・琴平・龗・庚申あり」
とある。

※祭神
   住吉大神
 江戸時代には若宮八幡と称して津田城主が守護神としていたというから、本来の祭神は八幡神だったと思われるが、当地一帯には住吉信仰が盛んであることから(平安以降、饒速日信仰が住吉信仰に変わったという)、何時の時期かに住吉大神が持ちこまれたと思われる。

※社殿等
 小路の突き当たり、民家石垣脇の石段の上に鳥居が立ち、境内正面に切妻造・亙葺きの割拝殿が東面して建つ。
 今の祭神は住吉大神だが、拝殿の扁額には『若宮八幡宮』とあり、社名と祭神名が一致しない。

 
若宮神社・社頭

若宮神社・鳥居 
 
同・拝殿

 社殿背後、弊殿を介して建つ本殿(覆屋)の中に、一間社流造の本殿が鎮座している。


同・本殿(覆屋) 
 
同・弊殿を介して本殿を望む
 
同・本殿

◎末社--天満宮・稲荷神社・石祠2基(八幡社・琴平社)・龗社
 本殿の左奥に、左から天満宮・稲荷社・石祠2宇・龗社の末社4社が並んでいる。
 いずれも鎮座由緒等の表示なく詳細不明。
*天満宮
   祭神--菅原道真
 鳥居の奥に社殿があり、中に一間社流造らしい本殿が鎮座しているが、正面扉の格子幅が狭くて全容は見づらい。


天満宮・鳥居 

同・社殿(右小祠:稲荷社) 
 
同・本殿

*稲荷社
 天満宮の右にある小祠で、朱塗りの簡単な覆屋の中に小祠が鎮座する。


末社4社(左より稲荷・八幡・琴平・龗社) 
 
稲荷社 

*石祠
 稲荷社の右に石祠2宇が並ぶ。
 石祠の扉には文字(社名)が陰刻されており、左はかろうじて“八・・・”と、右は“琴ヒラ・・・”と読め、左の石祠が八幡社、右のそれが琴平社と知れる。
 
 臆測すれば、左の石祠が江戸時代に津田城主が崇敬していた若宮八幡宮で、住吉大神勧請により末社に貶められたのかもしれないが、資料は何もない。


左:八幡社、右:琴平社 
 
社名陰刻八と読める)

社名陰刻(琴ヒラと読める) 

*龗社(オカミ)

 琴平社の右にあり、石造覆屋の中に小祠が鎮座するだけで、社名表示等ないが、神社庁第三支部HPの記載からみると、これが龗社であろう。(右写真)
 なお、龗(雨の下に龍)とは龍を意味する古字で、雨を呼ぶ龍神をいう。


 なお、神社庁第三支部HPには、上記4社に加えて「庚申」とあるが、これに該当する祠はない。
 庚申とは江戸時代に流行した庚申信仰にかかわるもので、この信仰では、石塚をもって信仰対象とする場合が多く、当社に庚申が祀られていることは、かつて当地一帯に庚申信仰が盛んだったことを示唆する。
 当社の場合、龗社の右に高30~40cm程の石があり、これがHPがいう庚申(庚申塚)かと思われるが、参詣時気づかず写真なし。  

トップページへ戻る