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片 埜 神 社
付--式内・久須々美神神社
大阪府枚方市牧野坂2-21-15
祭神--建速須佐之男大神・菅原道真他
                                               2019.09.5参詣

 延喜式神名帳に、『河内国交野郡 片埜神社 鍬靫』とある式内社で、交野郡内に現存する唯一の式内社。
  (他に久須々美神社-クススミ-があったが当社に合祀されている--下記)

 京阪本線・牧野駅の東南約300m、駅東の広場左寄りから牧野商店街を通り抜けた右側にある牧野公園の南側に鎮座する。

 古くカタノは、交野・肩野・片野などの字があてられているが、当社の社名『片埜』(カタノ)は、久邇宮御宸筆(明治30年)の鳥居神額に“片埜”とあることに起因するという。
 因みに、“埜”とは“林の中にある社”を意味し、“野”の古字という。

※由緒
 頂いた片埜神社略記によれば、
 「交野台地の一角、牧野阪に鎮座する当社は、延喜式内社の古社であり、素盞鳴尊・菅原道真公を主神として11柱の神々を奉祀している。
 第11代垂仁天皇の御代に、出雲の国の豪族・野見宿禰(ノミノスクネ)が当麻蹴速(タイマノケハヤ)との相撲に勝ち、その恩賞にこの辺り一帯を拝領し、出雲の祖神・素盞鳴尊をこの地に奉祀して、土師氏(ハジ)の鎮守としたのが草創である。

 その後、欽明天皇(539--71)の勅願をもって『片野神社』と称し、平安中期の村上天皇・天徳4年(960)に野見宿禰の後裔・菅原道真を併祀した。

 平安時代は広大なる神域・神領と宏壮な社殿を有し、官幣の社として社運隆盛を極めたが、戦国の争乱で幾度かの兵火にあい荒廃していたのを、豊臣秀吉が修築した。
 大阪築城の際には、艮(ウシトラ・東北)の方位に当たる此の社を、錦城の鬼門鎮護の社に定めて尊崇し、今も天守閣と当社が互いに艮の方位上で一線に結ばれ相対している。(以下略)
という。


 略記にいう野見宿禰と当麻蹴速との相撲とは、書紀・垂仁7年7月7日条に
 ・当麻邑に当麻蹴速(書紀では蹶速-クエハヤ)という力自慢の人がいて、四方に自分の力に並ぶ者はないだろうと豪語していた
 ・それを聞いた天皇は、出雲国から野見宿禰を呼びよせ蹴速と相撲をとらせた
 ・すると、宿禰は蹴速のあばら骨を踏み砕き、腰の骨を踏みくじいて、これを殺してしまった
 ・そこで、天皇は当麻蹴速の土地(当麻邑)を没収して野見宿禰に与えられ、野見宿禰はそのまま天皇に仕えた
とあるのを指す(大意)

 野見宿禰とは、アマテラスとスサノオのウケヒによって生まれた5男神の第2子・天穂日命(出雲国造の祖)の14世の孫とされる伝説上の人物で、垂仁紀32年条に
 ・皇后・日葉酢媛命が亡くなられたとき、天皇に、殉死した人の代わりに土で造った人形を立てることを提言し
 ・許しを得て、出雲より土部百人を呼んで土製の人形(人物埴輪)などを造り媛の陵墓に立て
 ・その功によって、天皇から土師の職に任ぜられ、土師の職が与えられ、ここから土師臣を名乗り
 ・土師氏は天皇の喪葬(葬送儀礼・陵墓築造など)を司ったとあり(大略)
 ここから、野見宿禰は埴輪の提案者で、その製作等に携わった土師氏の祖という。

 しかし、考古学上からみると、埴輪は弥生時代末期頃(3世紀末)に吉備地方の墳丘墓に並べられた特殊器台・特殊壺形土器を起源とし、これらが古墳時代に入ると前方後円墳の墳上に並べられるようになるが、その形は時代ゑを経るにつれて多種多様化し、野見宿禰の提案という人物埴輪は古墳時代中期(5世記)の中頃からはじまったといわれ、野見宿禰を以て埴輪(特に人物埴輪)の創始者というのは伝承にしか過ぎない。

 略記が、当社の創祀者を野見宿禰とするのは、野見宿禰が当麻蹴速との相撲で勝ったとき、天皇から報償として当地の辺りを賜ったということからだろうが、垂仁紀には、その土地は大和の当麻邑(現橿原市当麻町付近)とあり、当地とは遠く隔たっている。
 略記が当地とするのは何らかの伝承によるだろうが、それが如何なるものかは不明。

 また、略記によれば、当社は垂仁天皇の頃の創建となるが、同天皇は4世記前半~中頃の天皇とされ、その当時、何らかの神マツリがおこなわれていたとしても、それが神社を建ててのそれとは思われず、当社創建時期を垂仁朝とするのには疑問がある。

 これらによれば、略記にいう創建由緒は後世に作られたものであって、当社本来の創建由緒・時期等は不明というしかない。
 ただ、略記に
 「欽明天皇の勅願によって片野神社と称し・・・」
 旧枚方市史に
 「用明天皇の御宇(585--87)、聖徳太子の懇請により本殿造替のうえ、別に一宇を建て、帝釈天・四天王を祀り、国家鎮護の社とされた」
とあり(神宮寺の建立か)、これが史実ならば、当社は6世記にはあったことになるが傍証となる資料はなく、またこの時期での神宮寺建立というのにも疑問がある(神宮寺は神仏習合思想によるもので、その始まりは奈良時代という)
 (当社に対する神階綬叙記録等はみえず、公的記録からの推測はできない)


※祭神
 境内に掲げる祭神案内には次のようにある。
 本殿御祭神
  ・主神 建速須佐之男大神(タケハヤスサノオ) 祇園八坂の大神・厄除方除の神
  ・主神 櫛稲田姫大神(クシイナダヒメ) 須佐之男大神お后・縁結の神
  ・主神 八島士奴美命(ヤシマシヌミ) 八将軍・方位の守護神 [スサノオとクシナダヒメの御子]
  ・主神 菅原道真公(スガハラミチザネ) 天満天神・学問の神
  ・    天照皇大神(アマテラススメ) 伊勢の大神・日本の祖神
  ・    品陀和気命(ホンダワケ) 八幡の大神・厄災除の神
  ・    天児屋根命(アメノコヤネ) 春日大社の大神
  ・    八幡大神
  ・    久那戸神(クナト) 塞の神・天地境界の守護神
  ・    久須々美大神(クススミ) 字「九頭神」の地主神 [久須々美神社の祭神]
  ・    事代主命(コトシロヌシ) 枚方えびす大神

 当社創建にかかわったという野見宿禰は、アマテラスの御子・天穂日命(アメノホヒ)14世の孫とされるが、
 ・天穂日命の出生について、アマテラスとスサノオのウケヒの場で、スサノオがアマテラスのもつ珠を物実として、これを噛み砕き吹きだした霧の中から成りでたとあり(古事記)、アマテラスの御子とはいうものの、スサノオと無関係ではない
 ・また、スサノオが出雲の神々の大親とされること(出雲の大神・大国主もスサノオの御子)
から、野見宿禰が祖神としてスサノオを祀ったというのは頷けることではある。
 ただ、クシナダヒメ・ヤシマシヌミは後世の合祀かと思われる。

 菅原道真は、野見宿禰を祖とする土師氏の流れを汲む人物で、続日本紀・光仁天皇・天平元年(781)6月条に、
 ・遠江介・従五位下の土師宿禰古人らが、「居住地の地名にちなんで、土師を改めて菅原の姓にしたい」と願い出
 ・天皇は、願いどおりにこれを許した
とあり(大略)、土師氏は8世紀末頃に姓を菅原と改めており、当社が菅原道真を祀るのは、道真が野見宿禰の後裔であることによるためであろう。
 なお延暦15年(796)には、同じ土師氏の流れを汲む大江氏(大枝とも)・秋篠氏も、それぞれ許可を得て大江・秋篠と改名している。

 ただ略記は、菅原道真の当社への合祀時期を“平安中期の村上天皇・天徳4年(960)”というが、この頃の道真は世の中に天災・疫病等をもたらす怨霊神として畏れられ、それを鎮めるために、道真を神として北野天満宮(京都市上京区)に祀っていることからみて(天暦元年・947)、その13年後に当社に合祀された道真は、野見宿禰の後裔というよりも、怨霊神・道真の鎮魂、即ち疫病除けの神という神格が強かったかと思われる。

 天照大神以下8柱の神々は、明治末期の神社統廃合令によって、近傍の諸社を合祀したものと思われるが、詳細は不明。

※社殿等
 牧野公園南側の道を西へ入った処に鳥居があり、傍らに「延喜式内 一の宮 片埜神社」との社標柱が立つ。

 鳥居の奥、短い参道の先に切妻造・瓦葺きの“南門”と称する門が建ち、これが当社の表門となっている。
 南門について、略記には
 「俗称赤門。表門。 切妻造本瓦葺の四脚門で、総丹塗り、細部の様式手法や絵様等によく桃山時代の特色をあらわし、本割太く堂々とした慶長時代の遺構である。大阪府文化財 桃山時代
とある。
 しかし、現在の南門は、案内にいうような丹塗りではなく、素木造りの四脚門で、装飾等も少ない簡素な門となっている。
 また、南門とはいうものの、実際は東を向いている。


片埜神社・南鳥居 
 
同・南門
 

同・社標柱

 当社には、公園南西側にも入口があり、玉垣に挟まれて立つ鳥居の奥、少し入った処に“東門”と称する門が建ち(実際は北に向かっている)、鳥居の傍らに「郷社 片埜神社」と刻した社標柱が立つ。
 東門について、略記には
 「俗称黒門。鎌倉時代に武家や僧侶の屋敷に常用された“棟門”(ムネカド・ムナモン)の貴重な遺構で、本柱が板蟹股を鋏み、唐居敷(カライシキ、門柱を受け、扉の軸を支える矩形の敷石)を備えているところに特徴がある。
 安定の立場から前後に控柱(角柱)を設け、いまは四脚門(切妻造・本瓦葺)となっている。
 簡素ながらも何処となく気品があって、剛健さの中に一種の風格を備えている」
とあるが、見たところでは鄙びた裏門という感じが強い。


同・東門付近全景 
 
同・東鳥居
 
同・東門

 正門である南門を入った前方に、左に拝殿、右に本殿と横に並び、左に回り込んだところが境内正面。

 
左:拝殿、右:大樹の奥が本殿
 
境内正面全景

 境内正面に、入母屋造・瓦葺きの拝殿が南面して建つ。

 
片埜神社・拝殿
 
同・拝殿側面 

 拝殿の奥、瓦葺き。朱塗りの瑞籬に囲まれた中に、三間社流造・檜皮葺・朱塗りの本殿が鎮座する。
 本殿について、略記には
 「三間社流造・檜皮葺、慶長7年(1602)豊臣秀頼が再建した朱漆塗、極彩色と飾金具の美しい社殿である。
 一間社流造二棟を合いの間で連結した大型社殿の好例で、虹梁(コウリョウ)や木鼻(キバナ)、勾欄(コウラン)、妻飾(ツマカザリ)等細部は桃山時代の様式手法を示し、殊に四面を飾る刳抜蟹股(クリヌキカエルマタ)は輪郭や内部彫刻によく時代の特色を現しており、中でも東妻の大蟹股・太閤桐と正面の竹に虎は秀逸である」
とあるが、細部を近くからみることはできない。

 
同・本殿
   
同・本殿正面

◎境内社
 *依姫社
  境内の北側、東門を入ったすぐの右にある小社で、傍らの案内には
  「御祭神  玉依姫命 神武天皇様の御母君・下賀茂神社の神様
         大国主命 大己貴命・出雲の大黒様・国土守護神
         市寸嶋姫命 安芸宮島の大神・弁天様・芸能上達の神様
   明治初年、境内の玉依姫神社・大国主神社・市寸嶋姫神社 それぞれのお社を依姫社に合祀申しあげて今日に至る」
とある。

 *稲荷社
  境内の東南隅、色あせた朱塗鳥居の奥に鎮座する。 勧請時期等詳細不明。
  祭神--保食神(ウケモチ)・武甕槌神(タケミカツチ)・経津主神(フツヌシ)・天児屋根命・比咩大神・品陀和氣命・久那戸神  


依姫社 
 
同・祠
 
稲荷社・鳥居

同・社殿 

◎その他
 *皇大神宮遙拝所
  境内の北側、拝殿の右手に「皇大神宮遙拝所」との石標が立つ一画があり、樹木に囲まれた石積みの上に小さな石塔が立つ。
  ただ、石塔は下部が土に埋もれていて、「一宮牛」までは読めるがその下は読めない。

 略記には、
 「本社は平安期以降に専ら『一ノ宮(河州一ノ宮・河内一ノ宮・牧一ノ宮)』又は『一宮牛頭天王(江戸後期)』と称し、正式社名としていた。
 延喜式にある『片埜神社』の社名を復活したのは明治以降である」
との註記があり、
 また、河内国名所図会(1801)には
 「交野神社  渚の北、坂村にあり、近邑八ヶ村の生土神なり。式に片野神社と記す。祭神、牛頭天王。今土人一ノ宮と称す」
とあることから、
 江戸時代の当社は、疫病除けの神・牛頭天王(ゴズテンノウ)を祀る神社として知られていたようで、この石塔の刻銘は「一宮牛頭天王」であろう。
 ただ、皇大神宮遙拝所と一宮牛頭天王とは結びつかず、当区画を遙拝所という理由は不明。

 なお、河州一ノ宮とは河内国一ノ宮を指す呼称で、通常、東大阪市出雲井町に鎮座する枚岡神社を以て河内国一ノ宮としている。
 当社が称する一ノ宮は河内国のそれではなく(流布している一ノ宮一覧にも当社の名はない)、当地一帯の古称・牧野に因んで「牧野一ノ宮」(牧一ノ宮)とみるのが妥当であろう。

   


【久須々美神社】
 延喜式神名帳によれば、交野郡には当社以外に『久須々美神社』(クススミ)と称する式内社が見えるが、今は現存せず、当社稲荷社の右前に『式内久須々美神社』との石標が立ち(気をつけないと見落とす)、本殿に祀られている神々の中に久須々美大神の名がみえるだけ。

 延喜式に久須々美神社とあることから、10世記頃にあったのは確かだろうが、由緒・創建時期等は一切不明。
 また沿革等も不明だが、明治末期の神社統廃合によって片埜神社に合祀されたのは確からしい。

 
久須々美神社・石標
   
左:稲荷社 右:石標

◎久須々美神社旧跡
 旧久須々美神社は当社の東南東約300mの現牧野本町1丁目にあった九頭神廃寺の近くにあったといわれ、今廃寺跡に設けられた九頭神廃寺史跡公園(小道を挟んで東西2ヶ所にわかれている)の案内板には、
 「延喜式内久須々美神社(氏神)が寺院地の南西部に隣接して造営されていたことも判明しています」
とあり、絵図には、廃寺史跡公園(寺院地北西域)の南(やや西寄り)に鳥居の形が描かれ久須々美神社と記されている。

 現地は住宅密集地で、絵図がいう神社跡付近の小径沿いにも住宅が建ち並んでいて(一部に狭いミカン畑がある)、神社跡らしき痕跡はなく、付近の方に尋ねても神社があったとは聞かないとのことであった。

 なお、旧社地を牧野本町1丁目7番地とする資料がほとんどだが、上記絵図に示す処は牧野本町1丁目35・36番地の辺りにあたり、訂正を要する。

 
九頭神廃寺跡・調査区画
 
同・久須々美神社付近拡大図
(中央上部の宝幡遺構・寺院地北西部辺りに公園がある) 

 九頭神廃寺について、史跡公園の案内板に、
 「九頭龍廃寺は飛鳥時代後期から奈良時代にかけて建立された古代寺院で、平安時代中期に廃絶したと考えられています」
とあるだけで、詳細は不明。
 ただ、明治20年代に、この辺りから銅造の釈迦誕生仏が発見され、昭和58年以降の発掘調査で塔跡(瓦積基壇)が発見されたほか、東地区での建物跡が発掘され、寺院が約140m四方を占めていたなどがわかったなどの成果があがっているという。

 今、寺院地北西域を中心に史跡公園として整備され、西地区(上右の図に宝幢遺構とある地区)に築地塀が復元され、東地区(寺院地北西域)には建物跡(柱穴跡を含む)が色違いの歩版で表示されている。

 
九頭神廃寺史跡公園・西地区
 
同・築地塀復元
 
同・東地区・建物跡(柱穴跡が並ぶ)

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