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百済王神社
大阪府枚方市中宮西之町 1-68
祭神--百済王・進雄命(牛頭天王)
                                                      2021.01.05再訪

 京阪・枚方市駅から東へ約1㎞強、駅南から府道139号線の坂を登りつめた北側の台地上に位置する。
 隣接して百済寺があったが、今、その跡は史跡公園として整備されている。

 百済王氏とは、推古天皇のころ仏像・経典を聖徳太子に献じた百済・阿佐王が始祖で、太子から交野郡を賜ったというが、真偽不明。
 史書によれば、百済滅亡時(633)にわが国にいた百済・義慈王の子・禅広(善光とも)が帰国を断念し、亡命してきた百済貴族とともに朝廷(天智朝)に仕えたのがはじまりで、持統朝に“百済王”(クダラノコキシ)の姓を賜り、死後に“正広参”の位が贈られたとある(続日本紀)。以後、一族は百済からの亡命王族として一流貴族並みの待遇を受けたという。

 最初は難波に居住したというが(書紀-天智3年条)、聖武天皇の東大寺大仏鋳造に当たって、当時、陸奥守だった敬福(禅広の孫)が鍍金用の黄金900両を献上して天皇を驚喜させ、その功により従三位宮内卿となり、同時に河内国司に任ぜられ、難波の地から交野郡中宮郷に居を移し、これが百済王氏と中宮との繋がりのはじまりという。

※由緒
 頂いた参詣の栞によれば、
 「天の川を一望する高台に鎮座する当社は、奈良時代(8世紀後半)百済王の祖霊を祀る祠廟として、東隣りにその跡を残す百済寺とともに創祀されたと思われるが、現在は枚方市中宮・堂山・池之内他の産土神として広く篤く崇敬されている。
 百済国王義慈王の子・善光(禅広)は、天智天皇2年(663)、百済本国が我が国の救援むなしく、唐・新羅の連合軍に滅ぼされたため日本国に帰化し、持統天皇7年(693)、『百済王』(クダラノコニキシ)なる氏族名を賜り、百済を逃れて来朝した亡命貴族等を率いて朝廷に仕えた。

 聖武天皇の御代、東大寺大仏建立に際し、陸奥守であった百済王敬福(キョウフク・善光の曾孫)は大仏鍍金のための黄金900両を献上した。
 天皇は大いに喜ばれ、天平21年(749)、敬福は渡来貴族としては最高位の従三位に叙せられ、宮内卿・河地守に任ぜられた。
 これを機に、百済王氏一族は難波の居住地を離れ、以前より関わりの深かったここ河内国交野郡中の地に住まいを移し、祖霊を祀る祠廟と寺を建立したのである。

 百済王第25代武寧王の子孫・高野新笠を母に持つ桓武天皇は、『百済王等は朕の外戚なり』との詔を発せられ、度々交野に行幸された。敬福の子孫は百済楽を奏でて叙位にあずかるなど、平安時代初期の天皇家と密接な結びつきが国史に散見される。
 その後、天皇の遊猟も絶え、百済寺も焼失してしまう。爾來当社は幾多の戦乱を乗り越えて、中宮の産土神として村人により守られことになった。(以下略)
とある。

 これによれば、当社の創建は天平21年(749)百済王敬福が河地守に任ぜられたのを契機として建立したというが、
 古文書・“百済王霊祠廟由来記”(中宮・西方寺所蔵・時期不明)に、
 「天平9年(737)3月、王南典(敬福の叔父)に従三位を叙す。病にかかり同年9月薨ず。
 帝(聖武)これを憐れみ、勅して百済王祠廟ならびに百済仏刹(百済寺)を中宮に建立せしめ、百済各王の霊を安置せしむ」

 大阪府全志(1922)には
 「百済王神社は百済国帰化の阿佐太子及び其の子孫並に須雄命を合祀せり、須雄命は後の配祀ならん。
 社伝に依れば、推古天皇の御宇百済国阿佐王来朝して仏像並に経典3600巻を厩戸皇子に献す。
 皇子之を嘉して廷を交野原に賜ひしが、聖武天皇は王仁及び阿佐王の文教及び仏道に貢献せしことの少なからざるを追想あらせられ、其の子孫を殊遇し、特に天平9年3月阿佐王の裔南典を従三位に叙し、同年9月其の病没するや之を愍み、勅して百済王の祠廟並に百済寺を建て給へり、是れ即ち当社及び百済寺の権輿にして・・・。(中略)
とあり、
 両資料ともに、当社創建を天平9年としており、天平9年・21年の何れが真なのかは不祥だが、いずれにしろ当社の創建は奈良時代中頃(8世紀中頃)の百済王氏最盛期頃となる。

 参詣の栞記載以降について、北河内のお宮(2009)に、
 「百済王の子孫である三松氏(ミマツ)は、代々河内検断職(大庄屋か)を兼ね祠廟に奉仕したが、文禄年間(1152--95)、豊臣秀吉により中宮の地を追われ、所領であった大垣内に居を移した。(大垣内の百済王神社は、その廷内社であったと思われる)
 その後も三松氏は祠廟の祭祀を続けたが、江戸時代中頃、天の川の洪水が続き大垣内からの参詣がかなわなくなった。
 以来当社は中宮の産土神として村人により守られることになった」
とある。


※祭神
   百済王・進雄命(スサノオ)

 百済王は、当社祭祀氏族・百済王氏がその祖神を祀ったもので、当社の主祭神。
 新撰姓氏録(815)によれば、百済王氏の一族として、
  ・左京(諸蕃) 百済朝臣 百済国都慕王卅世孫恵王の後也
  ・左京(諸蕃) 百済公   百済国都慕王廿四世孫汶淵王の後也
  ・右京(諸蕃) 百済王   百済国義慈王の後也
  ・和泉国(諸蕃) 百済公  百済国酒王の後也
等がみえ、河内国には見えないが、由緒の義慈王の名があることからみて右京諸蕃の百済王が関係するかと思われる。

 合祀されているスサノオ命について、参詣の栞には
 「進雄命(牛頭天王)が合祀された由来はあきらかではない。
 当初から守り神として祀られていたのか、江戸時代に神社を整備した際に合祀されたかは定かでない」
とあるが、
 延宝9年(1681)の寺社改帳に、「中宮村氏神無年貢地、百済国王、牛頭天王相殿一社・・・」
 本殿高欄の擬宝珠銘に、「文政十丁亥年(1827) 百済国王・牛頭天王 河州交野郡中村村」
とあることから、江戸時代には牛頭天王を疫病除けの神として相殿に祀っていたようで、それが明治初年の神仏分離によって牛頭天王が仏教色が強いとして排斥されたことから、同じ神格をもつスサノオ命に変わったと思われる。


※社殿等
 府道139号線・宮之阪3交差点を過ぎた左(北側)に神社への石段があり、石段下に「百済王神社」・「史跡・百済寺址」との標石2基が立ち、石段上の鳥居をくぐって境内に入る。


百済神社・石段 

同・鳥居 
 
境内掲示より(左が北)

 境内正面に唐破風付向拝と千鳥破風付大屋根を有する入母屋造・瓦葺きの拝殿が南面して建ち、その奥、朱塗玉垣の中に春日造・銅板葺きの本殿が鎮座する。
 当社社殿について、参詣の栞には
 「本殿 高欄擬宝珠銘に文政十丁亥年・・・とあること、正統な春日造であること等によつて、文政5年(1822)の春日大社の造替に際し、その一棟を下賜されたものと考えられる」
 「昭和30年再興された社殿は、更に平成14年に新しい拝殿が建て替えられ、境内も整備された」
とある。


同・拝殿 
 
同・拝殿(側面)
 
同・本殿

 正面向かって右側に横に長い入母屋造瓦葺きの社殿が西面して建ち、移築された旧拝殿という。
 社頭の案内には
 「江戸時代後期の天保7年(1836)に再建された旧拝殿で、現在の拝殿が新築されるにあたり、平成13年(2001)に移築されました」
とある。

 
同・境内(正面:拝殿、右:旧拝殿)
 
同・旧拝殿 

◎境内社
 当社には境内社4社、本殿背後に3社、境内東側に1社がある。

*八幡神社
 本殿背後の左(西側)、簡単な覆屋の中に小祠一宇が鎮座する。
 参詣の栞には、八幡神社・祭神品陀和気命とあるが、社頭の表示には若宮八幡宮とある。


境内社・八幡神社 
 
同・社殿

*祖霊社
 八幡神社の右に鎮座する一間社流造の小祠で、6社8神を合祀している。

 ・大神社    祭神:天照皇大神
 ・春日神社  祭神:天児屋根命  中宮村字天日森より移転
 ・日吉神社  祭神:大山咋命  中宮字天王森より移転
 ・厳島神社  祭神:市杵島姫命  中宮村字須山より移転
 ・瘡神社    祭神:瘡神  中宮村字厄神ヶ森より移転
 ・竃神社    祭神:奥津比古命・奥津比売命・火産霊命  

 社頭の案内には
 「これらのお社は、明治5年に中宮村の各地から当社境内の東北から東にかけての処に移転されて、並び祀られていたが、大正2年12月大神社に改築合祀され、社号も相殿社と改められ今日に至っています。
 現社殿は平成3年に造営されたものです」
とある。 

 瘡神社ーー瘡(クサ・カサ)とは皮膚病・できものの総称。
  瘡神とは皮膚病一般に験のある神で、特に疱瘡(天然痘)を防いでくれる神として信仰されたという。
  旧枚方市史には、旧地での当社について
  「太長大明神・白玉大明神と刻せる標石を後にして小祠あり、馬の玩具を多く供えている。
   悪疫退散を祈願する神として遠近より参詣者多し」
  とあり、瘡神は何故か馬と関係が深い(片埜神社境外末社・瘡神社参照)

 竈神社--祭神奥津比古命・興津比売命は素盞鳴尊の孫神とされる竈の神(古事記)。火産霊尊は火の神。
  カマド神は竈や囲炉裏など火を扱う場所に祀られる神で、カマド=食べ物ということから農業神とも重なり、田植えや収穫祭などにも関わることが多い。
  古く、カマドが一家のシンポルとみなされたことから、子供の神・家族の守護神・牛馬の神など生活全般にわたる家の神的性格ももつという。

*稲荷神社
 本殿背後の末社3社の右側、朱塗り鳥居列の奥に一間社流造の小祠が鎮座する。
 参詣の栞には、祭神:白鷹稲荷大神・高倉稲荷大神とあるが、社頭の案内には
  「祭神:保食神(ウケモチ)
   明治5年、中宮村字古□より移転、現社殿は平成元年造営」
とある。

 
稲荷神社・鳥居列
 
同・社殿

*浮島神社
 境内東側に鎮座する小社だが、境内側に植え込みがあり見えにくい。
 参詣の栞には、祭神:高龗神(タカオカミ)とあり、龗とは龍を指す古字で水を司る水神という。

 中宮村の字池之宮にあった竜王山から合祀した社で、元は『八大竜王社』と称し、旱天時の雨乞いの社で、
 枚方市史には「雨乞いに際して、白衣姿の者が供物の入った唐櫃を担ぎ、氏子一同が提灯を持ってこれに従い、社前で神主が祈祷した」とある。

 
浮島神社(正面)
 
同 左(側面) 

【百済寺跡史跡公園】
 境内東に隣接する史跡公園で、公園の中に旧百済寺の金堂跡・東西塔跡・中門跡などが点在しているが、広すぎて全体を一望できる場所はない。
 参詣の栞には
 「隣接する百済寺跡は百済王神社境内にあり、昭和27年に国の特別史跡に指定され、昭和41年、日本初の史跡公園に整備された。
 平成17年より、枚方市教育委員会による再整備計画が進められ、それに伴った再発掘調査が行われている。平成28年
とあるが、再整備・再調査は略終わっているように見える。

 
参詣の栞より
   
百済寺跡史跡公園
(部分、中央に見えるのは西塔跡で
右に東塔跡が見える)

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