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渚 院 址
大阪府枚方市渚元町 9-23
付--渚院観音寺跡
                                                     2021.01.14訪問  

 京阪本線・御殿山駅の北約450mに「渚院址」(ナギサインアト)との古蹟がある。
 枚方市立渚保育院の東に隣接し(運動場に接している)、渚院址へは東側道路から入る。
 常時は扉に鍵がかかっているが、渚保育所正門横のインターホンでお願いすると錠を貸してもらえる。

 古蹟内に入った処に建つ案内(枚方市教育委員会・1993)には
 「渚の院は惟喬親王(844--97)の別荘であったとされています。 
 惟喬親王は文徳天皇(在位850-58)の第一皇子でしたが、立太子争いにやぶれ、憂さをはらすためしはしば渚の院にきたようです。
 伊勢物語には親王一行が交野ヶ原に遊猟にきたものの、渚の院で観桜や酒宴に興じ歌を詠むばかりであったと記しています。
  世の中に たえて桜のなかりせば 春の心は のどけからまし 業平
 この歌は、この時同行した在原業平が『院の桜ことにおもしろし』として詠んだものですが、失意のうちにあって、“のどか”でない惟喬親王の心境が詠みこまれていると解釈されています」

 地誌・河内名所図会(1801)には、
 「波瀲院古蹟(ナギサインノコセキ)
 渚村にあり。むかし、惟喬親王(コレタカシンノウ)遊猟の時、ここに頓宮を営み給ふ古蹟なり、今、寺となして本尊に十一面観音を配し、真言宗これを守る」
とあり、下の絵図が載せられている。

 
絵図・渚院
 
絵図・惟喬親王遊猟

 また、大阪府全志(1922)には
 「渚院の址は字北の町にあり、今は村役場の所在地となる。
 院は惟喬親王の交野遊猟の際に御し給ひし別墅(ベッショ・別荘)也。
 親王は文徳天皇の皇子にして、和歌を能くし又詩を作り給ひしが、在原業平(825--80・平城天皇の孫)及び紀有常(815--77)等を召されて、交野原・水無瀬野の間にしばしば遊猟を試み給て、其の水無瀬野に遊猟の時は水無瀬野の別墅に御し、交野原に遊猟の時は此の渚院に入りて休憩し給ひ、以て其の好ませ給へる遊猟に日を暮らし、折にふれ興に乗じて詠歌以て襟懷をのべ給ひし高風は、伊勢物語の記せる所によりて推想せらる。
 然るに其の東宮の望み絶えて落飾し、小野里に隠棲し給ふに及びて、院は水無瀬野の別墅と共に荒れしかば、改めて精舎となせしもの即ち後の観音堂是れなり。(観音院については下記)
とある。

 惟喬親王(844--97)とは55代・文徳天皇の第一皇子(母:紀静子)で本来は皇位を継ぐべきであったが、藤原良房の娘・明子を母とする惟仁親王(コレヒト・後の56代清和天皇・9歳で即位)の誕生によって皇位継承の見込みが絶たれ、為に政権の中枢から遠ざかり貞観14年(872)出家し洛北小野里に隠棲、それまでの間、鬱々たるなか在原業平等と共に和歌・狩猟など遊興三昧の世を送ったという。

 当渚院での遊猟に関して、伊勢物語には
 「昔 惟喬の親王(ミコ)おはしましけり、山崎のあなた水無瀬といふ所に宮ありけり。年ごとの桜の花盛りには、その宮へなんおはしましける。
 その時、右の馬頭(ウマノカミ)なりける人(在原業平)を常に率いておはしましけり。時世へて久しくなりにければ、其人の名忘れにけり。
 狩はねむごろにもせで、酒を飲みつつ大和歌にかかれりけり。今狩りする交野の渚の家、その院の桜ことにおもしろし、その木のもとにおりいて、枝を折りてかざしに挿して上中下みな歌詠みけり。
 馬頭なりける人の詠める、
   世の中に 絶えて桜のなかりせば 春の心は のどけからまし
となむ詠みたりける。又人(不明だが紀有常ともいう)の歌
   散ればこそ いとど桜はめでかけれ 憂世(ウキヨ)に何かひさしかるべき
とて、其の木のもとは立ちて帰るに、日暮れになりぬ」
とあり、伊勢物語絵図第82段・渚院項には、桜花の下での惟喬親王一行の遊興の有様を下のように描いている。

 

 また、紀貫之(866--945)の「男もすなる日記といふものを 女もしてみむとてするなり」に始まることで有名な土佐日記(934頃)にも、
 「2月9日 心許なさに、明けぬから船を曳きつつ上れども 川の水なければ ゐざりにのみぞゐざる。
 かくて 船曳き上がるに 渚の院といふ所を見つつ行く。その院 昔を思ひやりてみれば おもしろかりし所なり。後方(シリヘ)なる岡には 松の木どもあり 中の庭には 梅の花咲けり。
 ここに 人々のいはく
 『これ昔 名高く聞えたる所なり 故惟喬の親王の御供に 故在原業平の中将の
   世の中に 絶へて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし
 といふ歌詠る所なりけり』・・・」
とある。

 因みに伊勢物語とは、平安時代に成立した歌物語で(年代については諸説あり)、主人公は「むかし男ありけり」として特定していないが、実在した貴族・在原業平(825--80)の恋物語を中心とする歌物語集で、現存する歌物語中最古の作品という。

 惟喬親王が愛したという交野の桜は、在原業平の歌と共に交野・渚院・桜花一体のものとして平安貴族の脳裏に焼き付けられていたようで、新古今和歌集にも藤原俊成の
 「またや見む 交野のみ野の桜狩り 花の雪散る 春の曙」
  (もう一度、雪のように花びらを散らす交野の桜を見たいものだが、できるだろうか)
との和歌が収録されており、市教育委員会編の冊子・渚院(2005)には
 「交野の桜は多くの人々に広まり詠まれてきました。業平による渚院の桜から始まり、俊成の幽玄の桜に受けつがれた交野の桜の出発は、ここ交野渚院の桜なのです」
とある。


※史跡内
 東側道路の民家と小公園(単なる小広場に見える)に挟まれた入口(渚院址との矢印あり)を入った先に、史跡への扉(金網製)があり、
 その右に『渚院址』と刻した標柱が立つ。


渚院址・入口 
 
同・扉(奥の建物は渚保育所)
 
同・標柱

 入口を入った左に鐘楼が建ち、その左、横長の区画に石碑4基が立っている。


渚院址・石碑(斜め左より) 
   
同左(正面)

 現地にこれらの石碑についての案内はないが、保育所で頂いた『渚院』との資料(枚方市教育委員会編・2005、以下・資料という)によれば、
 中心となるのは、左から二つ目の乳白色の石碑・『渚院の碑』(破損烈しく両脇に鉄板補強あり)と、右端の『歌碑』及び入口を入った正面に立つ『渚院銘の翻刻碑』との3基で、残りの2基は渚院とは無関係ではないかともいう。


渚院の碑 
 
在原業平の歌碑

渚院碑銘の翻刻碑

◎渚院の碑
 資料によれば、
 「渚院跡の一角に、風化が激しく読み取りできない石碑が建っています。
 曾てとられていた拓本などによると、寛文元年(1661)11月に建てられた大切な碑であることがわかります。

 碑には、渚の地がすばらしい土地であること、渚院を含む交野ヶ原が平安・鎌倉貴族の歌心を刺激して、多くの文学作品に結実したこと、
 寛文年間(1661--73)当地渚村を支配した永井伊賀守尚庸(ナオツネ)が、その荒廃した渚院跡に桜を植えるなど復興に尽くしたこと、
 その功績を残すため、江戸初期に儒者・林羅山の三男・鵞峰(1618--80)に碑銘の撰を託したこと
 末尾に『寛文元年辛丑十一月吉辰日  永井伊賀守 家隷杉井吉通建之』とあること
 などが格調高い寛文で書かれています」
とある。

◎渚院碑銘の翻刻碑
 上記渚院の碑を復元したのが「渚院碑銘の翻刻碑」との石碑で、石碑側面には
 「寛文元年建立の碑 いま摩耗折損するを惜しみて翻刻す 枚方市教育委員会・渚院を考える会」
とある。
 また資料によれば、
 「2002年、旧枚方市史・大阪府全志・殿山第一小学校100年史・交野郡奈疑狭院碑銘・御殿山神社板書など複数の資料から推定を行い、平成の石碑として碑文が翻刻されました」
とあり、資料には復元された寛文元年の碑文が載せられているが、漢文のため浅学の身では判読不能。

◎歌碑
 在原業平が渚院で読んだという「世の中に・・・」との歌を刻した石碑で、裏面に平成11年1月建立とある(市教育委員会)

 残り2碑・
◎牧野村紀徳碑
 石碑4基の左端に立つ最も大きい石碑で、ネット資料によれば、
 ・明治28年、旧牧野村で功績のあった人たちを称える碑
とあるが、摩耗烈しく碑文の判読は不能。

◎宝篋印塔
 渚院の碑と歌碑に挟まれて立つ石塔で、摩耗烈しく、かろうじて塔身下部(軸部)に刻された「寶暦十四・・・ 阿闍梨興善」が読めるのみ。
 阿闍梨興善とは、資料によれば、旧観音寺梵鐘に
 『寛政八丙辰四月 願主 渚院先住 法印権大僧都興善・・・』
との陽刻があり、観音寺の住職かと思われ、死後、その供養塔として観音寺境内に建立されたものであろう。


牧野村紀徳碑 
 
宝篋印塔 


【渚院観音寺跡】
 渚院は何時の頃からか荒廃し、その跡に観音寺が建立されたといわれ(縁起・年代等不明)
 門横の案内には
 「渚の院跡には観音寺が建立され、十一面観音を本尊としていましたが、明治初年の神仏分離により廃寺となり、本尊は渚の西雲寺(渚院址北東に現存)に移されました。
 今に残る梵鐘は寛政8年(1796)の鋳造で、河内鋳物師として著名であった枚方村金屋田中家信の作です」

 大阪府全志には、上記渚院址の案内に続けて、
 「観音寺は真言宗にして十一面観世音を本尊と為し、寛永元年領主永井伊賀守尚庸によりて修葺くを加へられたりしが、
 明治維新後の神仏分離によりて、同3年境内にありし西粟倉神社を御殿山に移し、寺は廃止せられて堂宇を存せしも、
 同23年に至りて本堂は大字禁野の和田寺に移り、本尊は字北の町の西雲寺に転じ、
 翌24年村役場を其の址に新築せられて、今は鐘楼と寛永元年永井伊賀守の家隷杉井吉通の建設せる渚院の碑、及び同28年6月建設の小山彦三郎・岡田喜八郎兄弟の功労祈念碑を存す」
とあり、今、観音寺の遺構として鐘楼のみが残っている。

 なお、観音寺境内にあった西粟倉神社は、明治の神仏分離に際して南方の御殿山山頂(渚本町)に遷り、御殿山神社と改称したという(別項、枚方の神社2-御殿山神社参照)

 今、史跡内に鐘楼と梵鐘が残されており、資料によれば、
 「いま残されている鐘楼と梵鐘は、この観音寺のもので、梵鐘は河内惣官鋳物師をつとめた枚方市上之町の田中家が寛政8年(1796)に鋳造したもので、『冶工枚方住 田中河内大目藤原家信』との陽刻がある」
という。(鐘楼・梵鐘共に枚方市指定文化財、平成8年指定)
 (今、田中家関連施設として、藤阪天神町に「田中家鋳物民俗資料館があり、タタラ製鉄に関する模型・資料が展示されている)

 
旧観音寺・鐘楼
 
同・梵鐘

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