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日吉大社/奥宮・参詣記
祭神−−牛尾宮(八王子宮):大山咋神荒魂
 
三宮宮:鴨玉依姫神荒魂

 日吉大社・東本宮の西、八王子山(H=378m、牛尾山ともいう)山頂近くの奥宮には、金大巌(コガネノオオイワ)との磐座を両側から挟む形で、牛尾宮(旧称:八王子宮)・三宮宮との二社が鎮座する。
 この八王子山は、日吉大社・東本宮の祭神・大山咋神(オオヤマクヒ)が坐す聖地で(古事記には日枝山とある)、神は当山の磐座・金大磐に降臨したという。

 日吉大社・東本宮前から左(西)へ少し進むと、奥宮への石段があり、石段下の両側に牛尾宮・三宮宮両社の『遙拝殿』が、石段の両側に両社の『御輿倉』が建っている。

 石段を登り左へ、緩急相半する七曲がりの山道(八丁坂)をすすみ、石段約100段を登ると、『牛尾社(旧称:八王子社)』・『三宮宮』(旧称:三宮)の下へ出る。
 その奥、両社に挟まれた形で磐座・『金大巌』が鎮座する。ゆっくり登って30分弱。

 奥宮から、眼下に坂本の町・遠くに琵琶湖と湖東の山々が望める。

奥宮・社殿配置図

琵琶湖遠望
 

左:三宮・遙拝殿 
 
奥宮参道・登坂口
(左:三宮遙拝所、右:牛尾宮遙拝所)
 
右:牛尾宮遙拝所

※金大巌(コガネノオオイワ)
 古くから、坂本地区住民に神奈備山として崇拝されてきた八王子山(H=378m)の山頂近くに、『金大巌』と呼ぶ大岩がある。
 神が降臨する聖なる磐座(イワクラ)で、
 「歓喜天霊石八王子権現、此の大岩へ天降り玉ふ水徳の神にしてまします。故に相生の理を以て金の大岩と名く」(日吉神社秘密社参要録)
とあるように、日吉大社の根元となる聖地である。

 “水徳の神”とは、山の神は生命の維持に必要な水を司る水神であることを指し、“相生の理”とは陰陽五行説にいう“金生水”の理を指す。
 磐座に天降った神は山の神であると共に水神でもあり、陰陽五行説で“水は金から生まれる”(岩の割れ目などから水が噴き出すことを指す)から金大巌、ということか(五行説では、相生の理=木生火・火生土・土生金・金生水・水生土の原理によって、万物は循環するという。)
 琵琶湖を望んで東を向いていることから、「朝日輝く金大巌」とも呼ばれてきた。

 金大巌は、牛尾宮・三宮宮にはさまれた石段を登った上に鎮座する。高さ10m以上というが詳細不詳。


金大巌への石段
(左:三宮宮、右:牛尾宮) 
 
金大巌 
 
 金大巌を挟んで両側に、『牛尾宮』と『三宮宮』が並んでいる。

 いずれも、急斜面に柱を立てた“懸造り”(カケヅクリ)の社殿で、拝殿・本殿が一体となっている。



 
 
左:三宮宮 右:牛尾宮

※牛尾宮
 祭神:大山咋神荒魂
 旧称:八王子宮  摂社 上七社(の第4社)  本地仏:千手観音菩薩
 本殿:三間社流造・檜皮葺  拝殿:入母屋造・檜皮葺  文禄4年(1595)造営

 傍らの案内には、
 ・本殿は三間社流造・檜皮葺き・拝殿は桁行三間・梁間五間・入母屋造・檜皮葺・懸造(舞台造)となっています。
 ・拝殿が後部にある本殿正面縁を取り込むような形になっていて、崖上に建てられ、拝殿の入母屋造の妻を正面としていますが、入口は左側に設けられ、軒唐破風が付けられています。
 ・ともに、文禄4年(1595)に建てられたもので、桃山時代の特色をよくあらわしています。
 ・明治40年(1907)8月に国の重要文化財に指定されました。 大津市教育委員会
とある。

 案内によれば、社殿は東側が正面だというが、一見して正面とはみえず、大きな唐破風をもつ入口がある大巌側(東側)が正面と見える。
 拝殿の西側に流造の本殿屋根の一部が見えるが、全貌は見えない。
 なお、石段下右側に「山王八王子」と刻した石灯篭が立ち、当社が古く八王子宮(社)と呼ばれていたことを示している。


牛尾宮・拝殿(東側) 

同・入口部(南側) 
(左に見える社が本殿)
 
「山王八王子」名の
石灯篭

※三宮宮
 祭神:鴨玉依姫神荒魂
 旧称:三宮  摂社 上七社(の第7社)  本地仏:普賢菩薩(or大日如来)
 社殿:慶長4年(1599)造営

 傍らの案内によれば、社殿等は牛尾宮に比べて、拝殿桁行が一間多い四間、唐破風をもつ入口が北向き(大巌側を向くのは同じ)であり、建造年次が慶長4年(1599)というのが変わるだけ。


三宮宮・拝殿(東側) 
   
同・入口部(北側)
(後ろに本殿屋根がみえる)

 両社とも、急斜面の崖に長短の柱を立て、その上に社殿を建てた“懸造り”。
 敷地が狭いため、大巌を挟んで唐破風様式の拝殿入り口があるが、拝殿と本殿屋根の一部が見えるだけで、内部を観る事はできない。山王祭では拝殿の扉が開扉され、内部が見られるるという。

 社殿造営時期の文禄4年(牛尾宮)・慶長4年(三宮宮)は、織田信長の比叡山焼き打ち(元亀2年・1571)後の年次で、信長の焼き打ちは麓から遠く離れた山上の当社にまで至ったようで、日吉大社再建に尽力した祝部・行丸は、焼き打ち時の有様を
 「近来諸人悪行の間、神明仏陀、天上虚空に居坐すか、八王子社壇は焼けて大巌白くひかりて おそろしき哉」
と記している。
 祭神のオオヤマクヒとカモタマヨリヒメは夫婦神とされる。日吉社禰宜口伝抄に「其の妻鴨玉依姫を相殿す」とあるから元は一社だったのかもしれない。

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