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日吉大社/西本宮・参詣記

日吉大社/西本宮・境内図
西本宮・境内図
日吉大社/山王鳥居
山王鳥居

 日吉馬場(参道)の突き当たり、大宮川に架かる『大宮橋』を渡り、笠木の上に三角形を組み合わせた山王鳥居をくぐって西進すれば、右手に西本宮の楼門が見えてくる。(西本宮・宇佐宮・白山宮の鎮座由緒等については、別稿「日吉大社」参照)

※大宮橋・走井橋−−いずれも重要文化財(大正6年-1917-指定)
 大宮橋・走井橋2橋とも、天正年間(1573--92)に豊臣秀吉が木橋を寄進したとの伝承があり、寛文9年(1669)に現在の石橋に掛け替えられたという。

◎大宮橋
 西本宮へ向かう参道に架かる石造反橋(ソリバシ)−−幅:5m・長:14m
 両側の高欄に格座間(ゴウザマ)を彫り抜くなど、日吉三橋の中で最も手が込んだ造りの橋

◎走井橋
 大宮橋の下流に架かる石造反橋−−幅:4.6m・長:13.8m
 走井橋は聖俗を分ける結界(境界)で、古く、人々は神社参詣前、この橋上で罪穢れを祓う禊ぎ(ミソギ)おこなったといわれる。傍らに“走井の泉”があった(未確認)ことから橋名を“走井橋”という。
 橋そのものは、橋脚の繋ぎ材上に橋板(石板)を並べた簡素なもので、高欄などもない。今、参詣人のほとんどは大宮橋を渡り、この橋を渡る人もなく、その由来を記す案内などもないが、比叡山回峯行などでは必ずこの橋を渡るという。日吉三橋のなかで最も重要な橋ともいえる。

 古く、罪穢れは、黄泉国から帰ったイザナギがアワギの浜で海中に入って祓った(古事記)ように、罪穢れは水によって浄化されるとされていたことから、日吉大社参詣に先立って、走井橋下の大宮川あるいは走井の泉で禊祓いをおこなったのであろう。
 本来の禊ぎは、イザナギの例にみるように水中に入って為すものだが、後世、橋を渡ることでも罪穢れが祓われるとされ、社頭に水が流れ橋が架かっている神社は多い。今、参詣前に手水をつかうのは水中での禊ぎを簡略化したもの。

◎走井祓殿社
 祭神−−瀬織津比(セオリツヒメ)・速開都比(ハヤアキツヒメ)・気吹戸主(イブキドヌシ)・速佐須良比(ハヤサスラヒメ)
 走井橋を渡った先、杉の大樹下にある小祠。
 祭神の4柱は、延喜式・「六月晦大祓」(ミナツキノツゴモリノオオハラヘ)で奏上された
  「(この大祓をおこなうことで)天下四方の罪穢れは、山から渓流となって流れ落ちる速川の瀬においでになるセオリツヒメが大海原に持ち出し、それを、遠い海で潮流が合して渦巻くあたりにおいでになるハヤアキツヒメがガブガブと呑み込み、呑み込まれた罪穢れは気吹戸においでになるイブキドヌシの神が根の国底の国に吹き払い、根の国底の国においでになるハヤサスラヒメがこれを持ち誘って無くしてしまうでしょう。そうすれば、人々をはじめ天下四方から総ての罪穢れは無くなってしまうでしょう」(大意)
との祝詞に出てくる神々で、罪穢れを祓い清めて消滅させてくれる女神。

 この大祓の儀式を執りおこなうことで、世の中でそれまでに犯した罪穢れは全て無くなるとされ、毎年2回、6月と12月の晦日に執りおこなわれたという。
 この大祓の儀礼は、今、各地の神社で6月30日におこなわれている“夏越の祓い”(ナゴシノハライ)にひきつがれている。


大宮橋

走井橋

走井祓殿

※大宮橋〜楼門前

◎山王鳥居
 
旧称:綜合神門
 大宮橋を渡り、緩やかな参道(綜合坂-ソウゴ坂)を進むと朱色に塗られた『山王鳥居』(綜合神門)が立つ。上段笠木の上に三角形の合掌造を重ねた独特の形をしている。山王神道における神と仏の習合・調和を表すものという。
 秘密記には、「吽字門也、神道金胎の合躰、之に拠り綜合と号す」とある。神仏習合思想からの記述で意味不明。

◎子安・子立社
 祭神:イザナギ尊・イザナミ尊
 山王鳥居をくぐってすぐ右にある小祠。
 秘密記に、「子々孫々の長久を祈る。男女出征祈願祈念する社也。諸国に之有り」とあるのみで詳細不明。

◎惣社
 案内に、「山王二十一社をまとめて祀る」とあるだけで、詳細不明。
日吉大社/子安・子立社・惣社
左:子安・子立社  右:惣社

◎橋殿橋(ハシドノ)
 西本宮前を左に少し入った疎林の中に『橋殿橋』が架かっている。この辺りは“波止土濃”(ハシドノ)とも書く聖地で、“波止まりて土こまやかなり”と読む。

 「琵琶湖上に顕れた大神・オオナムチが、宇志麿の導きで鎮座すべき神地を求めたとき、湖上から大宮川を溯った五色の波がこの辺りで消えたので、神が鎮座するに相応しい聖地として、はじめて祠を建てて大神を祀った」
との伝承があり、西本宮創建の原点とされている。

 今、清流というより岩場を走る瀬の上に架かる石橋で、橋の手前半分が落橋したままになっている。また、橋名板や説明書きなどもなく、大宮(オオナムチ)遷座の原点ともいえる聖地なのに、無視されているようにみえる。
日吉大社/橋殿橋

◎石造宝塔
 西本宮楼門左手、やや小高い疎林中に残る石塔。注意しないと見過ごす。

 神仏習合時代のもので、明治初年の神仏分離による破却を免れて現存する唯一の仏教遺物。
 古絵図によれば、西本宮を見下ろす地形のこの辺りには、かつての神宮寺の中心堂宇である金堂・七重塔・多宝塔などが集まり、最も仏教色の濃い地帯だったという。今でも、この一画だけは比叡山(山門)の所有地という。
 宝塔の造立時期は不明。古書・坂本神社記(元禄16年・1703)
 「石塔 旧蹟 中に仏舎利(釈迦の遺骨)を置く 桓武天皇御願」
とあるというが、桓武天皇(781--806)御願とは疑問で、後白河上皇の御願との伝承もある。
 “天正3年(1575)石塔損壊”との記録があり(秘密記)、その形状からみて鎌倉時代(13世紀)と推定される。なお、最上部の双輪は後世のものという。

 楼門前で出合った若い神職に宝塔の在処を聞いたが、「古いこと・仏教関係のことは知らない」と一蹴された。いかに仏教色を排除した神社とはいえ、少し淋しい。
日吉大社/石造宝塔
石造宝塔

◎霊石
 西本宮楼門の少し前に、赤い木柵に囲まれて霊石2基が鎮座している。いずれも、神仏混淆時代の庶民信仰の一端を示す遺物といえる。

大威徳石(ダイイトク)
 説明には、
 「仏法守護の五大明王である大威徳明王が宿る霊石と伝う」
とある。
 大威徳明王とは、六面六臂六足・憤怒形の尊格で、水牛に乗ることから“六足尊”とも呼ばれる。怨敵調伏を目的として礼拝されることが多く、平安以降、この尊の前で戦勝祈願の修法がおこなわれたという。




祇園石(ギオン)
 説明には、
 「古来より祇園の神である牛頭天王が宿る磐座として崇められている。この石にたまる水で眼を洗うと良いとされ、別名・眼洗石ともいわれる」
とある。
 ゴズテンノウが宿るということは、古く、当社にも防疫神としての牛頭天王信仰(祇園信仰)が入っていたことを示唆する。

  
日吉大社・大威徳石
大威徳石
日吉大社・祇園石
祇園石


※楼門(重要文化財−大正6年指定)
 2階建・朱塗りの楼門(三間一戸形式)で、入母屋造・檜皮葺。確実な資料はないが天正14年(1586)頃の造営という。東本宮楼門に比べて、規模も大きく壮麗。

※西本宮
 祭神:大己貴神(オオナムチ)
 旧称:大宮(大比叡)  本地仏:釈迦如来
 本殿:桁行五間・梁間三間・檜皮葺の日吉造。
     織田信長の比叡山焼き打ち(1571)で焼失後、天正14年(1586)再建、慶長2年(1597)改造。国宝(昭和36年-1961指定)

日吉大社/西本宮・楼門
西本宮・楼門
日吉大社/西本宮・本殿
西本宮・本殿
日吉大社/西本宮・拝殿
西本宮・拝殿

◎竹台
 本殿の左右・低い石柵に囲まれて、一群の笹竹が生えている。伝承では、最澄が中国天台山から持ち帰ったものといわれ、「丸く真っ直ぐに筋目正しく生きよ」との意という。

◎大宮竈殿社
 祭神−−奥津彦神・奥津姫神
 西本宮の右手にある小祠。本宮祭神・オオナムチへの神饌を司る神を祀る。新築間もないようでまだ新しい。
*包丁塚
 竈殿の右奥に“包丁塚”があり、傍らの石碑には、
 「竈神は、一家を構える家庭の命の源を守護する家神として崇拝された。このことから現在では台所の神として、また飲食を整える包丁の守護神として調理の上達を願い、多くの信仰を集めている」
とある。
 竈神は、古く、台所に祀られた俗神だが、その起源譚の一つに、次のようなものがある。
 「ある処の旦那さんが、一人のもらい人(乞食)を泊めた。男は何も働かず、食べては所かまわずカマドの側にも排便したので、旦那さんは困ってしまった。しかし、もらい人が去った後、旦那さんがカマドの側をみると、大便が黄金に変わっていた。旦那さんはもらい人を神として祀ったところ、その家は繁盛した。このもらい人を祀ったのがカマドカミでお家繁盛の守り神である」(宮城県)
 古く、竈神は水神・火の神などと一緒にカマドのある土間に祀られていた。
 土間の神は精霊に近い存在で、土間のカマドを祭壇として、火の神と一体となって食物の調理を通して家族の生活全般を支配し、幸福や豊穣を司る家の神とされた。この神を味方にすれば強力な守護神となるが、敵に回すと激しく祟るという両義性をもつ、という。関西では“荒神”と習合している場合が多い。

日吉大社/西本宮・西竹台
西竹台
日吉大社/大宮竈殿社
大宮竈殿社
日吉大社/包丁塚
包丁塚
 

※宇佐宮
 祭神:田心姫神(タゴリヒメ)
 旧称:聖真子  本地仏:阿弥陀如来  摂社 上
 本殿:桁行五間・梁行三間・檜皮葺・日吉造。 重要文化財
 拝殿:桁行三間・梁行三間・檜皮葺・妻入りの入母屋造  重要文化財

 西本宮の東隣に鎮座する。八幡大神を勧請したというが、八幡信仰の色彩はみえない。
日吉大社/摂社:宇佐宮・本殿
本殿
 宇佐宮右奥に末社・宇佐若宮社が、境内右手に同・竈殿社・気比社が鎮座する。いずれも大分古ぼけた小祠で、屋根など壊れかかっている。

宇佐若宮社
 祭神:下照姫(シタテルヒメ) 旧称:聖女宮 末社 中七社 本地仏:如意輪観音
 秘密記には、「女形 本地如意輪 神功皇后是也 稲荷大明神是也 神功皇后御本地
 神代下照姫是也 大己貴尊之娘也」とある。
 祭神・シタテルヒメとは、オオクニヌシ(オオナムチ)の娘で、国譲り交渉のため降臨したアメノワカヒコの妻となった女性。オオナムチの娘ということから若宮として祀られているらしいが、姫の事蹟がはっきりしないため、いろんな女神と同体とされるなど、複雑な女神でもある。
 神功皇后・稲荷大明神云々というのは不明。

宇佐竈殿社
 祭神:奥津彦神・奥津姫神 

気比社
 祭神:仲哀天皇 旧称:気比社 末社 下七社 本地仏:聖観音or如意輪観音
 秘密記には、「童形 本地聖観音 越州敦賀郡ヨリ勧請 伝教大師御時也 第14代仲哀天皇是也 第15代神功皇后御子八幡宮也」とある。
 越州敦賀郡より勧請とは、現敦賀市に坐す気比大神を勧請したということだろう。
 気比大神には太子の頃の応神天皇と名前を交換した(名前を譲り受けたともいう)との伝承があり、応神を祀る八幡宮との関係から勧請されたのだろう。
 ただ、祭神を応神の父・仲哀天皇とするのは解せない。
日吉大社/末社:宇佐若宮社
宇佐若宮社
日吉大社/末社:宇佐竈殿社・気比社
左:宇佐竈殿社 右:気比社

※白山宮
 祭神:白山姫神
 旧称:客人宮(マロウド)  本地仏:十一面観音  摂社 上七社
 本殿:三間社流造・檜皮葺 慶長3年(1598造営) 重要文化財(明治39年−1906指定)
 拝殿:方三間(桁行三間・梁間三間)の入母屋造・妻入り・檜皮葺、
     慶長3年造営   重要文化財(昭和39年指定)

 宇佐宮の東に隣接して鎮座。東西本宮・宇佐宮に次ぐ社格をもつ神社で、11世紀初頭頃に加賀の白山から勧請されたという。
 
日吉大社/白山宮・本殿
本殿

 白山宮本殿の左右に、『霊石』と『剣宮社』が並び、剱宮の右に『小白山社』・『八坂社』・『北野社』が並んでいる。古く、境内には小祠10数社が並んでいたというが、今残るのは剱宮社・小白山社のみで、八坂社(祇園社・素戔鳴尊)・北野社(天満社・菅原道真)は後世の勧請であろう。

◎霊石(本地仏:護法or聖天)
 本殿の左、石柵内に大小の礫石が積み上げられている。シラヤマヒメ神勧請時の奇瑞(降雪)に係わるものと思われるが、説明なく詳細不明。

◎剱宮社
 祭神:瓊々杵尊(ニニギ尊)  旧称:剣宮  末社 下七社  本地仏:不動明王  
 皇孫・ニニギを祀る由緒・鎮座時期など詳細不明

◎小白山社  
 祭神:オオナムチ  旧称:不詳  末社 本地仏:聖観音菩薩
 祭神はオオナムチとするが、加賀の白山姫神に係わる小祠と思われる。詳細不明。

日吉大社/白山宮・霊石
霊 石
日吉大社/末社・剣宮
剣宮社
日吉大社/白山宮末社・小白山宮
小白山社
日吉大社/白山宮境内・八坂社・北野社
左:八坂社  右:北野社

※その他の社祠

◎早尾神社
 祭神:素戔鳴尊(スサノヲ)
 旧称:早尾社  摂社 中七社  本地仏:不動明王

 日吉馬場突き当たりの朱色大鳥居から左へ回り込んだ先、石段を登った処に鎮座する。日吉大社境内の外にあり、案内表示はあるものの訪れる人は少ない様子。社殿は古く屋根など壊れかけている。

 すぐ横に比叡山へ登る入口があり、山へ入る入口にある社として道案内の神・塞の神であるサルタヒコを祀っていたというが、今はスサノヲとなっている。サルタヒコからスサノヲへ変更された由緒不明。
 中世の山王曼荼羅には、当社の祭神として“束帯姿の猿”が描かれているという。本来の祭神は神猿であって、そこからサルタヒコが祀られたのか、塞の神・サルタヒコから猿となったのかは不明。

 最澄が延暦寺中堂を建立していたとき、何者かが毎日影向してきたので、人をして跡をつけさせると早尾の林に入られたので社殿を建立して奉斎した、との伝承がある。

 大鳥居から当社への曲がり角の石垣の上に、六角形をした『早尾地蔵堂』があり、傍らの大樹の下に小さな地蔵尊が集まっている。地蔵堂は、神仏習合時代を偲ばせる名残だという。 
日吉大社/摂社・早尾神社
早尾神社・本殿
日吉大社/早尾地蔵堂
早尾地蔵堂
日吉大社/地蔵尊像
地蔵尊像

◎恵比須社
 祭神:事代主神(コトシロヌシ)
 旧称:夷三郎殿(エビスサブロウ)  末社

 東西本宮を結ぶ参道沿いの北側に鎮座する小祠。古く『夷三郎殿』と呼ばれた祠で、所謂“エビス神”を祀る。

 エビス神は通常“蛭子”(ヒルコ)とされる。ヒルコは、イザナギ・イザナミが天の御柱を廻って神々を生んだとき最初に生まれた神(古事記)、あるいはアマテラス・ツクヨミの次ぎに生まれた神(日本書紀)とされるが、子生みに際してイザナミが先に声を掛けたのが原因で不具の子が生まれた。その子は三歳になっても足が立たなかったので葦船に乗せて流された、とある。このように、始祖である男女2神が最初に生んだ子が生み損ないだったという神話は、世界各地に残っている。
 わが国沿岸部には、古く、海から流れ着く漂着物をエビス神として祀る風習があり(水死体をエビスとして祀る処もある)、ここからヒルコとエビスが習合したとされ、葦船が流れ着いた兵庫・西宮の浜に祀ったのが西宮神社の原姿という。
 ヒルコとは、“蛭のような子”という意味とする説、“日の子”=太陽神とする説などがある。

 本来のエビスは、海の彼方からやってくる“外来=夷の神”として漁民の崇拝を集める漁業の神だったが、次第に福神・商売の神へと変貌して各地に祀られ、大黒天と共に七福神として親しまれている(因みに、七福神の中でわが国出自はエビスのみ)
 同じ海に係わる神ということからだろうが、オオクニヌシの御子・コトシロヌシ(本来は神託を伝える託宣神)と習合し、コトシロヌシを祭神とする恵比須社は多い。
 なお、夷三郎殿の“三郎”とは、アマテラス・ツクヨミに続いて3番目に生まれた(日本書紀)からという。
日吉大社/末社・恵比須社
恵比須社

◎七社神輿収蔵庫
 東西両本宮を結ぶ参道の南側にある収蔵庫で、『山王神輿』(重要文化財)七基を収蔵する。
 収蔵庫前の説明では、
 「全国神輿のルーツが山王神輿であることは有名で、平安の昔桓武天皇が日吉大社に寄進されたことにはじまる」
とあるが、その神輿は織田信長の比叡山焼き打ち(1571)で焼失し、今収納されている神輿は、桃山時代のもの。ガラス越しに見る神輿は大分古ぼけているが、桃山らしい華麗な面影を伺うことができる。

 平安の昔、時の権力者・白川法皇が、
 「朕の意のままにならないものは三つしかない。賀茂川の水、双六の賽の目、山法師」
と嘆いたように、比叡山の山法師(僧兵)は何かにつけて、これらの神輿(重量約2ton)を担いでの上洛強訴を繰りかえし、これを“神輿振り”といった。院政がはじまって間もない寛治6年(1092)、日吉社の神人(ジニン)が院の近臣に乱暴されたとして、その処分を求めて都に担ぎ込まれたのが神輿振りのはじまりで、この時、法皇は問題を起こした近臣二人を流罪にせざるを得なかったという。

 上記説明には、「平安から室町にわたる370余年の間に40数回の上洛強訴がおこなわれた」とあり、神霊が宿る神輿は神そのものでもあることから、朝廷でも実力でこれを阻むことは神罰を被るとして、その対応に苦慮したという(平家が滅亡したのは、平重盛が神輿に向かって矢を射かけたため、との俗説がある)
 因みに“僧兵”とは、延暦寺(山門)と三井寺(園城寺・寺門)の対立抗争から生まれた武装集団で、天台教義とは無関係だが、延暦寺の権威を笠に着た彼らの横暴が、織田信長の比叡山焼き打ちの遠因ともいう。

 いま日吉大社には、桃山期の山王神輿の他に上七社各社の神輿7基を有する。

日吉大社/山王神輿・白山宮・宇佐宮
左:白山宮  右:宇佐宮
日吉大社/山王神輿・東本宮
東本宮
日吉大社/山王神輿・三宮
三 宮
日吉大社/山王神輿・樹下宮(現在)
今の神輿・樹下宮
日吉大社/山王神輿・白山宮(現在)
今の神輿・白山宮

※境外末社 

 日吉大社前から琵琶湖に至る間に、日吉東照宮以下十数社の神社が点在する。かつての境外百八社の名残だと思うが、詳細不明。

◎日吉東照宮
 祭神:徳川家康(中央)・日吉大神(右)・豊臣秀吉(左)
 社殿:権現造  寛永11年(1634)造営  重要文化財(昭和25年指定)

 日吉社参道突き当たりから左(西)へ行った山側、石段を登った先に鎮座する神社。
 当社の説明によれば、
 「全国の東照宮造営の経過としては、元和2年(1616)徳川家康公の没後その遺命により静岡久能山に祀られ、1年後日光に祀られた。(中略)、日吉東照宮は、元和9年(1623)に造営され、その後僅かの歳月にもかかわらず、寛永年間に再建着工し、同11年(1634)7月に勅使を迎えて正遷座が齋行された」
とある。
 家康は、死後“東照大権現”と呼ばれるが、家康に贈られる神号を“権現”とするか“明神”とするかについて、側近の僧侶・天海と崇伝との間で論争があり、天海が勝って山王実一神道に則った権現号に決まったという。山王実一神道とは山王神道から派生したもので、ここから日吉大社に隣接して創建されたのであろう。

 江戸期までは延暦寺の管轄下にあったが、明治の神仏分離令によって日吉大社の末社へと変わっている。そのためか、装飾には仏教色が強い。

 東照宮の社殿様式を“権現造”と呼ぶ。本殿と拝殿の間に“石の間”との繋ぎ殿を設けた構造で、八幡造に発するという。
 別称・“八棟造”といわれるように屋根の棟数が多い構造(実際は7棟)で、横からみると本殿・拝殿の間を石の間の大屋根が貫いているように見える。
 その権現造のはじまりが当社社殿(寛永11年-1634-改築の社殿)で、これを受けて日光東照宮が権現造に改築された(寛永13年1636)という。
日吉東照宮/権現造・平面図
権現造・平面(日光東照宮)
日吉東照宮/権現造・側面図
権現造・側面(日吉東照宮)
日吉東照宮/唐門
唐 門
日吉東照宮/社殿
社 殿
日吉東照宮/内陣
内 陣
日吉東照宮/拝殿装飾
拝殿内・装飾
(仏教法具の五鈷杵あり)
日吉東照宮/拝殿装飾
社殿外部の框装飾
(鳳凰が飛んでいる)
日吉東照宮/社殿外壁装飾
社殿外壁の装飾

 日光東照宮に比べるとやや簡素だが、それでも唐門・社殿ともに装飾過多。拝殿内部の框などに描かれている装飾は、神社とはいえ仏教法具をモチーフとするなど仏教色が強い。かつて延暦寺の末寺的存在だったことからという。

◎大将軍神社
 祭神:大将軍神

 京阪・坂本駅から参道を北へ、1ブロック先の東側に鎮座する神社。
 秘密記に、「山祇 女躰 本地刀八毘沙門」とあるだけで、他に資料見当たらず詳細不明。

 大将軍とは、陰陽道でいう八将軍の一柱で西方の星・太白の精。東西南北を3年ずつ12年で一巡するとされ、この神のいる方角は塞がれるとして忌まれた。しかし、之を鄭重に祀ることで逆に四方を守る善神へと変貌するとされ、各地に祀られることが多く、桓武天皇は平安遷都後、京の四方に大将軍社を建てたという。
 また祇園信仰では、牛頭天王の第二王子・悪王天が大将軍とされ、これも四方位を司る神とされる。ゴズテンノウの御子神は本来は疫病神だが、田畑に悪虫がはびこるとき、吾が名を百遍唱えれば、これを除き五穀豊作になる、ともいう。
日吉大社/末社・大将軍社

◎大神門神社
(ダイジンモン)
 祭神:天石門別神(アメノイワトワケ、別名:豊石窓神・櫛石窓神)  本地仏:地蔵菩薩

 
京阪・坂本駅の南、参道の西側に鎮座する小祠。
 
天孫降臨の時、三種の神器に添えて天降らせた三柱の神(オモヒカネ・タヂカラヲ・イワトワケ)の一柱で(古事記)、社頭の案内には、
 「創立不明。明治初年に大鳥居社を大神門社と改名。この神は、日吉大社の門を守る神」
とある。 
日吉大社/末社・大神門社

◎石占井神社
(イシライ)
 祭神:奥津嶋姫神(オキツシマヒメ−田心姫の別名)

 大神門神社の南に鎮座する小祠。
 西本宮の神・オオナムチの顕現伝承のひとつに、
 「大神が唐崎から比叡辻に着かれたとき、石の上に座す女人が居た。尊神が女人に『吾が鎮座する勝地が有るか否か』と問うたところ、女人が占って『この山麓に勝地あり』として、井水で尊神の足を洗って西本宮の聖地に案内した」
との伝承がある(秘密記)
 社頭の案内には、「この伝承に基づいて祀られたのが当社で、“石占いの井”と称し、女神を“石占井大明神”として祀る」とある。
 在地の巫女・卜者であるイシライヒメが、記紀神話のオキツシマヒメとされた由縁は不明。明治初年の神仏分離に際して、それまでの祭神を記紀神話などに登場する著名な神へと変更した事例は多い。当社もその一例かもしれない。
日吉大社/末社・石占井社

 上記以外に、「市殿神社」(最澄の母を祀った社)・「日吉御田神社」・「福太夫神社」・「倉園神社」・「郡園(コウソノ)神社」(以上参道の東)、「大富騎鈴神社」・「杉生神社」・「和泉神社」(以上参道の西)などが鎮座するが、いずれも詳細不明。

日吉大社/末社・市殿社
市殿神社
日吉大社/末社・日吉御田神社
日吉御田神社
日吉大社/末社・和泉神社
郡園神社

和泉神社
日吉大社/末社・福太夫神社
福太夫神社
日吉大社/末社・倉園神社
倉園神社
日吉大社/末社・杉生神社
杉生神社

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