トップページへ戻る

日吉大社
滋賀県大津市坂本
祭神−−東本宮:大山咋神
        西本宮:大己貴神
                                                             2009.2.28参詣

 比叡山の東麓、琵琶湖畔に鎮座する『日吉神社』は、全国3800余社ともいう日吉神社・日枝神社の総本社である。古く、“日吉・比叡・日枝・裨衣”と表記して“ヒエ”と呼んだが、のち好字の“日吉”が充てられたことから“ヒヨシ”とも呼ばれるようになったという。
 延喜式神名帳には、『近江国滋賀郡・日吉大社 名神大』とある。社格・名神大とあるから、東西2本宮のうちで神階の高い西本宮を指すのかもしれない。
 JR湖西線・比叡山坂本駅から西へ約1.2q京阪電車石坂線・坂本駅からだと約500m)、両側に延暦寺里坊(比叡山僧侶の隠居寺)と穴太積(アノウヅミ)の石垣が続く日吉馬場(参道)を進むと朱色の大鳥居に着く。

日吉大社・全体平面図
日吉大社・全体図
日吉大社/八王子山
日吉大社の原点・八王子山(奥宮)
(日吉馬場−参道−より)

 今、日吉大社境内外には東・西本宮を中心に数多くの社殿が鎮座し、摂末社あわせて40数社を数えるが、中世の頃は境内108社・境外108社があったという。その主たるものが、“上七社・中七社・下七社”と呼ばれる21社(山王二十一社)で、その鎮座由緒から、オオヤマクヒ神を主神とする“東本宮系”(八王子山の奥宮は東本宮系)と、オオナムチ神を主神とする“西本宮系”二つのグループに分かれる。
 各グループに属する主な神社名(21社)とその祭神などは以下の通り。

◎東本宮系
現在社名 祭 神 旧 称 社 格 所在地 本 地 仏
東本宮 大山咋神(山末之大主神) 二宮(小比叡) 本宮・上七社 東本宮境内 薬師如来
樹下神社 鴨玉依姫神 十禅師 摂社・上七社 同 上 地蔵菩薩
大物忌神社 大年神 大行事 摂社・中七社 東本宮境内 多聞天(毘沙門天)
新物忌神社 天知迦流水姫神 新行事 同 上   同 上 持国天or吉祥天
八柱社 五男三女神 下八王子 同 上 東本宮参道 虚空蔵菩薩
産屋神社 鴨別雷神 王子 同 上 境外(二宮橋の東方) 不動明王
氏神神社 鴨建角身命・琴御館宇志麿  山末 摂社・下七社 東本宮参道 大日如来or摩利支天
樹下若宮 鴨玉依彦神 小禅師 末社・下七社 東本宮境内 弥勒菩薩or龍樹
竈殿社 奥津彦神・奥津姫神 二宮竈殿(悪王子) 同 上 同 上 日光菩薩・月光菩薩
巌滝社 市杵島比売神・湍津島姫神 岩滝 同 上 東本宮参道 弁才天
◎奥宮
牛尾宮 大山咋神荒魂 八王子 摂社・上七社 八王子山 千手観音菩薩
三宮宮 鴨玉依姫神荒魂 三宮 同 上 同 上 普賢菩薩or大日如来
牛御子社 山末之大主神荒魂 牛御子 摂社・中七社 同 上 大威徳天

◎西本宮系
西本宮 大己貴神 大宮(大比叡) 本宮・上七社 西本宮境内 釈迦如来
宇佐宮 田心姫神 聖真子 摂社・上七社 西本宮東 阿弥陀如来
白山宮 白山姫神 客人 同 上 宇佐宮東 十一面観音
早尾神社 素盞鳴尊 早尾  摂社・中七社 境外(境内入口の西) 不動明王
宇佐若宮 下照姫神 聖女 末社・中七社 宇佐宮境内 如意輪観音or大日如来
竈殿社 奥津彦神・奥津姫神 大宮竈殿 末社・下七社 西本宮境内 大日如来
気比社 仲哀天皇 気比 同 上 宇佐宮境内 聖観音or如意輪観音or阿弥陀
剣宮社 瓊々杵尊 剣宮 同 上 白山宮境内 不動明王

 これら21社のうち、“上七社”と呼ばれる東本宮・西本宮・樹下宮(ジュゲ)・宇佐宮・白山宮(シラヤマ)・牛尾宮・三宮宮の7社は、いずれも“本殿と拝殿”とで構成されていること、“山王御輿”を有すること、本殿の床下に“下殿”(ゲデン)と呼ばれる祭祀空間があることなどから、特に重要度の高い社群とされている。

T、鎮座由緒
 上七社に係わる鎮座由緒は以下の通り。

※東本宮−−旧称:二宮(又は小比叡)
 祭神−−大山咋神(オオヤマクヒ、別名:山末之大主−ヤマスエノオオヌシ)

 東西ふたつの本宮のうち、より古いといわれる東本宮の創祀時期ははっきりしない。ただ当社境内外一帯に後期古墳70基ほどが存在することからみて、6世紀代には何らかの祭祀がおこなわれていたのでは、と推定される(社殿の有無は不明)

 東本宮の祭神・オオヤマクヒとは、古事記(神代巻)に、大年神(オオトシガミ・スサノヲ命の御子神)が天知迦流美豆比売(アマチカルミヅヒメ)を娶って生んだ御子で、
 「大山咋神(オオヤマクヒ)、亦の名は山末之大主神(ヤマスエノオオヌシ)。この神は、近つ淡海国(アフミ)の日枝山(ヒエ山)に坐(イマ)す。また葛野(カヅノ)の松尾(マツヲ)に坐す、鳴鏑(ナリカブラ)を用(モ)つ神なり」
とあり、スサノヲの系譜に連なる国つ神に属する(出雲系)
 なお、“鳴鏑を用つ神”とは“鳴鏑に化身して神妻(巫女)に御子を生ませる神”を意味する。いわゆる賀茂の丹塗矢型神話を念頭においた伝承である。

 大山咋の“咋”とは“杭”あるいは“柱”のことで、杭を打つ、あるいは杭を立てることはその土地を領有・支配することを意味する。そこからオオヤマクヒとは日枝の山(八王子山-H=378m)に坐す神、則ち“山の神”を指す。

 古事記が編纂された8世紀初頭には、東本宮の西に聳える日枝の山に“オオヤマクヒ”・別名“山末の大主神”と呼ばれる山の神が鎮座していて、山城国葛野郡(現京都市西京区)の松尾大社の祭神も同じ、と認識されていたことを示す。

 わが国古来の神祇信仰は、里近くにある姿の美しい山を神が降臨する山・神奈備山として崇拝することにはじまり、時代が降るにつれて、山頂の山宮(社があったとは限らない)を里に設けた神籬(ヒモロギ、仮設の祭場)などに下ろして祭祀をおこない、やがて常設の社が創建されたという。山頂の山宮に対して里宮と呼ばれる。
 坂本を中心とする湖西の人々とっての神奈備山が八王子山であり、神が降臨する聖なる場が山頂近くの磐座・金大巌(コガネノオオイワ)であり、そこに坐す神を、山麓から遙拝するために設けられた里宮が現在の東本宮の前身である(樹下宮も同じ)

※西本宮−−旧称:大宮(又は大比叡)
 祭神−−大己貴神(オオナムチ)−別名:大国主神・大物主神etc

 東本宮のオオヤマクヒが、古来からの神奈備信仰・磐座信仰を引き継いた自然発生的なものだったのに対して、西本宮のオオナムチは人為的に勧請された神である。

 古文書・日吉社禰宜口伝抄(1047写本)
 「天智天皇七年(668)戊辰三月三日、鴨賀島八世孫宇志麿が勅して、大和国三輪に坐す大己貴神を比叡の山口において祀る。大比叡宮と曰ふ」
との一文がある。
 天智天皇が近江大津宮遷都(667)の翌年、古くから大和国の守護神として崇められていた三輪山の神・オオナムチを大津京の守護神として勧請したというもので、これが西本宮の創祀である。
 因みにオオナムチとは、崇神朝に三輪山に顕現した神・オオモノヌシの別名で、古代大和王朝の守護神として、アマテラス奉斎以前から齋き祀られていた。
 
 この伝承に対して、神仏習合が進んだ鎌倉中期に成立した耀天記(ヨウテンキ・1223頃、天台僧が記した日吉者間系伝承)には、
 「欽明天皇の御世、大三輪明神が大和の三輪山に降臨された。その後、比叡山を開かれた伝教大師を助けるためにこの地に来ることにした。まず、大津与多崎の八柳の下に貴人の姿で現れ、舟人の田中恒世に船で唐崎に送られた。唐崎の住人・琴御館宇志丸が恒世とともに粟の食べ物を差し上げた。
 明神は、『日本に仏法を弘めるために、最初金剛山の蔵王権現のところへ行ったが断られたので三輪に留まっていたが、伝教大師の仏法を守るためにここに来た』といった。
 その時、湖に仏法が広まる吉瑞を示す五色の波があらわれ、湖に注ぐ大宮川を溯り、その波が止まった処に明神が鎮座された。宇志丸は明神がもっていた桂の枝をその土地に立て、楡に結びつけて簡単な神殿を造って祀った。
 明神は宇志丸に、以後代々祝部(ハフリベ=祭祀者・神職)となって奉仕するように、といわれた」
とある。

 祭神・大三輪明神とは古事記にいう三輪の神・オオナムチを仏教側から呼んだ呼称である。その三輪明神が仏教伝来と同じく欽明朝に降臨したとか、仏法興隆の吉兆を示す五色の波とが起こったとか、仏教的色彩をもって記されており、大津京の守護神というより、伝教大師の仏法すなわち比叡山天台宗の守護神・鎮守神としての神格を強くしている。

 また耀天記には、上記伝承に続いて、
 「松尾明神の娘が松尾社の前の川で洗いものをしていると、鏑矢(カブラヤ)が流れてきた。それをとって寝所の床に挿して眠ったら妊った。鏑矢は丑寅の比叡山の方向に鳴音を残して飛び去った。生まれた子供が三歳になったとき、松尾明神は在地の人々を招いて、子供に酒器をもたせて父と思う人に注ぐようにいった。すると子供は竜となって飛び去り、上賀茂の別雷神(ワケイカズチ)になった。一方、丑寅の方向へ飛び去った鏑矢は比叡の麓に達して大宮権現となり、鳴鏑明神と呼ばれた」
との伝承を記している。
 この伝承は、山城国風土記逸文にいう“丹塗矢型神話”−−カモタケツヌミ神の娘・タマヨリヒメ(下鴨社の祭神)が、流れきた丹塗矢を持ち帰り妊ってワケイカズチ神(上賀茂社の祭神)を生んだ−−をアレンジしたもので、賀茂の神が松尾の神に、流れきた丹塗矢(火雷神・ホノイカズチ)が鏑矢へ変えられているが、いずれも水辺で神の降臨をうけた巫女がその御子を生むという神話類型に属する。

 西本宮の神・大宮については、禰宜口伝抄にいう大三輪の神と耀天記にいう松尾の神の二つが伝わっているが、前者は比叡山東塔派の円珍の流れを曳くもので、松尾の神は西塔派の円仁の流れだという。
 また、この伝承では、鏑矢が飛び去った処が比叡山の麓であり、鏑矢に化身した神は大宮権現=西本宮の神・オオナムチとされているが、古事記での鳴鏑の神とは東本宮の神・オオヤマクヒを指し、両神が混合している。これが、単なる伝承の混乱なのか、恣意的なものかは分からない。

 上記のように、日吉大社の祭神はオオヤマクヒとオオナムチという系統を異にする神を別々に祀っているが、伝教大師による比叡山開山以降天台宗との関係を深め、その鎮守社としての性格を強めるにしたがって、後発の西大宮が“大宮”と呼ばれて中心神社となり(神階も大宮の正一位に対して二宮は従五位下と差がある)、本来の祭神であり地主神・産土神でもある東本宮の神が“二宮”へと貶められたともいえる。

※宇佐宮−−旧称:聖真子宮(ショウシンシ)
 祭神−−田心姫神(タゴリヒメ)

 宇佐八幡神を勧請したというが、所謂応神八幡神の色彩は少ない。その勧請時期についてもはっきりしないが、聖真子の祠はかつては西本宮の垣根内にあったが、相応(831--918)が各神殿を改築したとき(仁和3−886)西本宮の東側に移したともいうから、9世紀中頃には現在地にあったと思われる。
 なお日吉社では、大宮(西本宮)・二宮(東本宮)・聖真子(宇佐宮)を“日吉三聖”あるいは“山王三所”と総称して重要視している。
 祭神・タゴリヒメとは、宇佐八幡宮に祀られる比売大神三柱の中の一柱。アマテラスとスサノヲの誓約(ウケヒ)によって生まれた三女神で、一般には宗像三女神の一柱として知られるが、宇佐八幡宮では神社の南に聳える御許山に天降ったと伝え、宇佐神宮第2殿に祀られる比売大神の原姿という。

 日吉社に八幡神が勧請された由緒は不明。平安前期の八幡神信仰の流行から勧請されたともいわれるが、八幡神がもつ国家鎮護神としての神格が期待されたのであろう。

 扶桑明月集(11世紀末〜12世紀初頭)によれば、
 「聖真子は応神天皇の時に天降って、欽明天皇32年(571)に豊前国に宇佐八幡大明神として顕れ、天武天皇元年(672)に淡海国滋賀郡に八幡一御前・八幡菩薩として垂迹した」
とあり八幡神との関係を記している。
 また聖真子とは、その名からみて“御子神”だろうが、八幡信仰には、これに相当する御子神はいない。母子神信仰からいうと、八幡大神そのものが御子神ともいえるが、それと比売大神(タゴリヒメ)との接点は少ない。

 耀天記には
 「聖人の精気で大宮を父(陽)・二宮を母(陰)として生まれた。大宮が万民が成仏できるようにその浅根を調べ、二宮が悪業や煩悩の病を治すのに対して、この両神に導かれた人を浄土に迎える神で、本地は阿弥陀如来」
と、完全に仏教面からの由緒を説いている。御子神であり且つ本地仏を阿弥陀如来とする由縁を記すのだろうが、釈迦如来(大宮)と薬師如来(二宮)の御子が阿弥陀如来とする縁起は不明。ただ本地仏の設定に確たる理論はなく、時代の流行などに左右されることが多いから、疑問を呈する方が野暮か。

※白山宮−−旧称:客人宮(マロウド)
 祭神−−白山姫神(シラヤマヒメ・別名:菊理媛神−ククリヒメ)  

 当社は、三聖に次ぐ社格をもつ神社だが、旧称を客人宮というように他所からやってきた神である。
 耀天記によれば、
 「日吉社の僧・広秀法師は数十年にわたって白山に参籠していたが、歳をとって参籠できなくなった。その時、白山権現から『聖真子宮の東に自分を祀って参詣すれば、白山の参詣とみなす』との夢告があったので、そこに白山権現の祠を建立した。
 ところが、比叡山の塔頭・無動寺座主の慶命(在職1028--38、平安末期)がこれを咎めて、今夜一夜の祈念は許すが明日は撤去するようにと命じた。すると翌朝、夏の七月だったのに屋根に雪が一尺ばかり積もった。奇特の念にかられた座主が門弟にこれを客人権現として崇めるようにさせた」
とあり、加賀の白山から勧請されたという。
 白山信仰は平安時代末期に天台宗と本末関係を結び勢力を広め、白山神社も天台寺院の鎮守として各地に勧請されたというから、当社も、天台宗との関係から勧請されたものと思われる。

 祭神・シラヤマヒメとは、加賀(石川県)の白山比売神社の祭神で、神体山として崇められている霊峰・白山に坐す山の神。
 その別名・ククリヒメとは、亡くなったイザナミを追って黄泉国に行ったイザナギが、見るなの禁を犯して逃げ帰る際、追ってきたイザナミと黄泉比良坂(ヨモツヒラサカ)で争論になったとき、イザナミの代弁をしたという女神で、男女の中をとりもつ女神ともいう。中世以降、シラヤマヒメと同体とされるが、その由縁について諸説があるもののはっきりしない。

※樹下宮(ジュゲ宮、コノシタ宮ともいう)−−旧称:十禅師宮(ジュウゼンジ)
 祭神−−鴨玉依姫(カモタマヨリヒメ)

 東本宮境内に、南面する東本宮(二宮)社殿と直交する形で東面して鎮座する。当社の軸線を西へ延ばすと八王子山に至ることから、山頂にある三宮(または磐座)を遙拝する里宮が当社の前身である。

 旧称の十禅師とは変わった社名だが、耀天記には、日吉社総禰宜成仲の説として、
 「平安の頃、比叡山・横川の香積寺にいた10人の供僧の中に智行兼備の高徳の人(香積寺を創建した明達809--955だろうという)がいて、内供奉十禅師の一人に選ばれた。彼は生身のままで山王と直接話すことができたことから荒人神(現人神)として十禅師宮に祀られた」
とある。
 山王と直接話ができるような験力をもち、十禅師に選ばれるような高徳の人を祀るから十禅師宮という説だが、当社前身の里宮としての由来は無視されている。
 因みに十禅師とは、天皇の内道場(宮中に設けられた仏教の道場)に侍して、その安泰を祈る10人の高僧で、光仁天皇・宝亀3年(772)にはじまるという。高徳有験の禅師を神として祀ったということか。

 祭神・鴨玉依姫のタマヨリヒメとは、神の降臨を待ってその御子を生む神妻(巫女)を指す一般名称で、当社祭神も、そのはじまりはオオヤマクヒの神妻としてのタマヨリヒメだったものが、賀茂社あるいは松尾社との関係が進むにつれて“鴨”という地名が付加されたと思われる。
 また、祭神を皇孫・ニニギ尊とする説もあるようで、“ニニギ尊が国常立尊から10代目に当たることから十禅師”ともいう。

※牛尾宮−−旧称:八王子宮
 祭神−−大山咋神荒魂(アラミタマ)

 東本宮の西に聳える八王子山(H=378m、牛尾山ともいう)は、背後の比叡山を“大比叡”というのに対して“小比叡”ともよばれる神奈備山で、その頂上近くに『金大巌』(コガネノオオイワ)と呼ばれる磐座があり、当社は磐座の右に鎮座する。磐座の左には三宮が鎮座している。
 日吉社禰宜口伝抄に、
 「上代の日吉神社と申すは、今の八王子社なり。この峰は比叡山の東尾に在り、また牛尾といひ、または並天塚(アマナミノツカ)といふ。その五百津石村(イホツイハムラ)は山末之大主神なり[世人牛尊といふ]。山末之大主神またの名は大山咋神、また鳴鏑大神といふ。其の妻鴨玉依姫を相殿す云々」
とあるように、日吉大社の原点というべき古社である。

 その鎮座由緒として、日吉社神道秘密記(祝部行丸著・1582)に、
 「御影向に初中後あり。初、二宮小比叡大明神、日本以前より波母山(ハモヤマ=八王子山)に来至し玉へり。次、八王子は八十万神を引率して金の大巌(コガネノオオイワ)に天降る。時代は第十代崇神天皇の御宇也。是まで社頭建立之無し」
とあるが、
 耀天記には、
 「大宮が天降られた時、角髪(ビンズラ)を結った八人の童子が八王子の峰から現れて、田楽を演じて饗応した」
と大宮(西本宮の神)と結びつけた説を載せ、
 扶桑明月集には、
 「八王子は天神の国狭槌尊(クニノサツチ)など八人の王子(イザナギ・イザナミによる神生みで最後に生まれた神々)が、崇神天皇元年に小比叡山の東側の金大巌に俗形で顕れたので八王子と呼ばれた」
とある。
 いずれも、古くから八王子山に坐した山の神であり、金大巌の前で仮の祭場・神籬を設けて祀っていたと思われる。

◎八王子
 八王子を名乗る神社あるいは摂末社は各地にあり、その祭神・八王子とはスサノヲの8人の御子とするところが多い。しかし、その由緒などをみると、江戸時代までは防疫神・ゴズテンノウの8人の御子神を祀っていたが、明治初年の神仏分離によって、神・仏・道教などが混合したゴズテンノウを祀ることが禁止されたため、祭神をスサノヲに変更したというのがほとんどである(ゴズテンノウを祀るとして知られていた京都・祇園社も、明治以降、社名を八坂神社に、祭神をスサノヲに変更している)
 ただ、当社とスサノヲあるいはゴズテンノウとの接点は見当たらない(西本宮前には、ゴズテンノウの霊が宿るという祇園石がある)

 これに対して、八王子とは“初王子”が訛ったものとする説がある(ハツオウジ→ハチオウジ)。初王子とは“初めての王子”のことで、誕生したばかりの神・若々しい神を意味し、同じ意味で“一王子”・“若一王子”とも呼ばれる。
 八王子山に降臨した山の神・オオヤマクヒの初現の姿すなわち荒魂(アラミタマ)を、“初王子”として祀ったのが当社のはじまりかもしれない。

◎荒魂(アラミタマ・アラタマ)・和魂(ニギミタマ・ニギタマ)
 霊魂の顕れ方や働き・機能による呼び方で、アラミタマとは、神霊が荒ぶるような猛々しい働きをもって顕れる場合を指し(初王子=八王子は、この状態にある神霊といえる)、ニギミタマとは神霊の穏やかな働きを指す。
 神霊は、まずアラミタマとして顕れ、祭祀をうけることで次第にニギミタマへ変化するという。

 牛尾宮の祭神を荒魂とするのは、オオヤマクヒ神が最初に顕現した状態であることを意味し、東本宮のオオヤマクヒ和魂とは、祭祀をうけることで穏やかになり、恵みを与える神霊となったことを意味する。
 なお、隣接する三宮とその里宮である樹下宮の祭神・鴨玉依姫も荒魂・和魂の関係にある。

※三宮宮−−旧称:三宮
 祭神−−鴨玉依姫荒魂

 八王子山頂上の金大巌の左脇、牛尾宮に対面して鎮座する古社。
 当社に関する伝承は少く、扶桑明月集に、
 「延暦6年(787)、本地を普賢菩薩とするこの神が、手に法華経を持って金大巌の傍らに天降った」
とあるだけという。
 上記牛尾社についての禰宜口伝抄に“其の妻鴨玉依姫と相殿”とあるから、古くはオオヤマクヒの后神として牛尾宮のなかに合祀されていたのかもしれない。
 耀天記に「三宮御神輿の始め、永久3年(1115)」とあるから、12世紀初頭には社殿があったらしい。

U、山王信仰
 古く、日吉大社は『日吉山王』と呼ばれていた。山王とは、日吉大社に祀られている神々を仏教側から呼んだ総称で『山王権現』ともいう。
 山王の初見は梁塵秘抄(後白河法皇撰・平安末期)に見える
 「東の山王恐ろしや。二宮客人の行事の高の王子。十禅師山長(ヤマオサ)石動(ユツルギ)の三宮。峯には八王子恐ろしや」
との今様(イマヨウ、当時の流行歌)という。
 ここでいう“東の山王”とは現東本宮(二宮)を指し、“恐ろしや”とは恐怖感ではなく、威力がある・霊験があるという意味か。
 この他に、日吉社関係の今様として
 「仏法弘むとて、天台麓に跡を垂れおはします。光を和らげて塵となし、東の宮とぞ齋はれおはします」
 「王城東は近江(チカオウミ) 天台山王峯の前 五所のお前は聖真子 衆生願を一とうに」
などがあり、いずれも神仏習合思想・山王信仰に準拠して詠われている。

 日吉大社を“山王社”・日吉の神々を“山王”あるいは“山王権現”と呼ぶのは、当社と比叡山延暦寺との密接な関係からくるという。
 神仏習合・本地垂迹思想を基盤として比叡山延暦寺を中心として形成された神祇信仰で、わが国天台宗の開祖・最澄(伝教大師、767--822)が入山した天台宗の本山・中国(唐)の天台山国清寺が、その立地する天台山の地主神である『山王元弼真君』(サンノウ ゲンヒツシンクン)を護法神として祀っていたことから、日吉社の神々を比叡山の地主神・天台宗の護法神として祀り『山王』と呼んだことにはじまる。
 最澄が勧請し、その弟子・円仁(慈覚大師、794--864)の頃に定着したという。なお仏教では、一般に山の神を山王と呼ぶ。

 鎌倉後期以降、山王神道については、輝天記以下多くの教義書が残されているが、体系的に説いたものは少ない。
 主な教説として
・日吉大社の本地仏は天台の根本経典である法華経の教主釈迦如来であり、それ故、わが国の神々のなかで最も貴い神であるという説
・山王の“山”は縦三横一 、“王”は縦一横三の字画で、これは三権一実(サンゴンイチジツ)・三諦即一(サンダイソクイツ)・一心三観の天台の奥義を示すという説。
・天台密教(台密)の顕密一致論から、釈迦如来を本地仏とする日吉大宮(西本宮)と大日如来を本地仏とする伊勢神宮が同体であるという説。
・北斗七星が本命星として人間の運命を支配するという信仰に基づく山王七社・北斗七星同体説。比叡山では、「山王は、天にあっては北斗七星、地にあっては山王七社で、七仏薬師の影現」ともいう。
などがある。

 この山王信仰によって比叡山と一体化した日吉大社は、天台宗の教勢拡大に伴って山王権現として各地に広まり、特に天台宗寺院にはその鎮守社として勧請されたという。

 近世に入って、山王神道を継承発展させたのが「山王一実神道」で、徳川家康の葬儀に際して、唯一神道が唱える“明神”に対して“権現”を主張する教義的裏付けとなったのが、山王一実神道の教義だったという。この縁からか、西本宮の南に『日吉東照宮』が鎮座し、東照大権現としての家康が祀られている(「西本宮参詣記」参照)

 神は仏が衆生救済のために権(仮)に姿を替えて現れたもの(権現)で、神は仏の垂迹、仏は神の本地であるとする“本地垂迹思想”を基盤とする山王神道では、日吉の神々には、その本地仏としての如来・菩薩・諸天などが充てられ、その総称が“日吉山王”・“山王権現”である(冒頭の本地仏参照)

 その神と仏の習合・調和を表すのが、西本宮参道に立つ「山王鳥居」で、最上段の笠木の上に三角形の合掌造を重ねた独特の形をしている。

 また、日吉大社の神々や境内の有様を描いた「山王宮曼荼羅(ミヤマンダラ)」では、画面上段に山王二十一社の本地仏を表す梵字を、中段に本地仏の姿を、下段に神々の姿を描いて、神々と本地仏の関係を示し、その下部に八王子山から麓にかけての社殿風景が描かれている。
日吉大社/山王鳥居
山王鳥居
日吉大社/山王宮曼荼羅
山王宮曼荼羅

◎神仏分離
 今の日吉大社では、かつての山王神道にみられた仏教色はほとんど見ることはできない。
 山王神道の名のもと、比叡山の発展とともに天台宗の護法神として全国展開した日吉信仰は、明治初年(慶応4年1868)の神仏分離令によって、神社に奉仕する別当・社僧が強制的に還俗させられ、仏像・仏具を社頭におくことが禁止されたため、それまでの仏教色が徹底的に排除されている。
 日吉大社では、それまで別当・社僧といった僧侶らによって押さえ込まれていた神職らは、比叡山側に神殿の鍵の引き渡しを要求し、それが円滑に進まないとみるや、坂本の農民らを引き連れて社殿に乱入し、社殿に安置されていた仏像・仏具・経典などのほとんどを焼却・破壊・破棄するなど、廃仏毀釈の嵐が吹き荒れたという。この暴挙によって、今の日吉大社での仏教色は石製常夜燈以外にほとんどみられない。 

 今、大社の参道・両側に並ぶ44基の石造常夜燈は、かつて山王二十一社の社頭に建てられていたもので、この廃仏毀釈運動によって運び出されたもので、写真にみるように、常夜燈・塔部にかつて奉献されていた宮名が彫りこまれている。
 左写真−−「山王聖真子権現」(宇佐宮)
 右写真−−「山王客人」(白山宮)
 ただ、戦後の宗教政策の変更により徐々に仏教色が戻ったようで、
*今、4月14日の“山王祭”において、西本宮で日吉大社宮司が祝詞を奏上したあと、比叡山の天台座主が正式に参拝して、本殿に五色の弊を奉納し般若心経を読経する法会が行われ、
*また5月26日の“山王礼拝講”では、西本宮での大社宮司の祝詞奏上のあと、比叡山僧侶による法華八講(8人の僧侶による法華経読経法会)が、そののち僧全員による拝殿内を巡りながらシキミの葉を散らす散華行道の法会がおこなわれるという(右写真、資料転写)

山王礼拝講での僧侶による散華行道

V、日吉造−−社殿構造
 日吉大社を構成する各社殿のうち、東本宮・西本宮・宇佐宮3社の社殿様式を『日吉造』(「聖帝造」−ショウタイツクリ−ともいう)と呼び、寛平2年(890、平安初期)の相応和尚による造営にはじまるという。相応和尚(831--918)とは比叡山・無道寺の開基で、千日回峰行は相応にはじまるという。
 日吉造とは、外観は桁行(正面)5間・梁間(側面)3間の入母屋造にみえるが、中心となるのは、桁行3間・梁間2間の身舎(モヤ)と呼ばれる内陣部分で、その正面と左右側面の3方にコ字型に庇(ヒサシ)を張り出して下陣とし、その周囲に回廊が巡らした構造となっている。社殿背後には庇と下陣がないので、横から見ると屋根が切り取られたように見える。

 日吉大社の各社殿は、戦乱・争乱による放火や類焼などで何度も焼失し、その都度再建されている。現在の社殿は、織田信長の比叡山焼き打ち(元亀2年-1571)によって焼失したものを、信長自刃(本能寺の変、天正10年-1582)後、勅許により再建されたもので、西本宮(1586)・樹下宮・東本宮(1595)・宇佐宮(1598)続いて三宮・白山宮・牛尾宮の順で再建されたという。

◎下殿(ゲデン)
 日吉大社・上七社の床下には、『下殿』と称する特殊な祭祀空間がある。通常“ゲデン”と読むが、鎌倉期には“シモデン”とも呼ばれていたらしい。
 簡単にいえば、本殿の床下を利用した祭祀施設で、神仏習合が常態だった江戸期までは、この空間で仏教儀礼がおこなわれていたという。
 いいかえれば、日吉社の社殿は、上部の本殿で神祇祭祀がおこなわれ、その床下の下殿で仏教法会がおこなうという2層構造となっていたらしい。
 普通の神社社殿では、本殿の床下は土間か石張りで吹き抜けとなっているのが普通だが、上七社の床下(下殿)は、内陣の真下にあたる部分は土間だが、それ以外(下陣の下)は板張りとなっている。また外壁は、一部が格子や板戸となっている以外は板張り(江戸期までは畳敷きだったらしい)で、内部を窺い知ることはできない密室となっていて、その高さは、人が直立して歩けるほど高い。

 上七社の下殿構造は各社少しずつ異なっているが、基本構造は共通している。一例として西本宮の下殿を示す。

 平面図で、空白部が本殿真下の土間部分で、斜線部が板張り部分。その板張り部中央の奥が一段と高くなっており、ここを須弥壇として明治初年の神仏分離までは仏像(本地仏・西本宮の場合は釈迦如来絵図)が安置されていたという(斜線部の×印)

 ただ、明治初年の神仏分離に際して、日吉社から仏像をはじめとする仏教関係の総てが撤去・棄却されたため、下殿でおこなわれていた宗教儀礼の実態は分からない。
 下殿須弥壇の軸線上に内陣のご神体(空白部の×印)があることから、上・下の違いはあるものの、下殿の仏像を拝むことと本殿のご神体を拝むこととが対応する構造となっていたと推定されている。
 換言すれば、本殿内陣における祭祀が神職による神祇祭祀であるのに対して、下殿のそれは僧侶による仏教法会となる。 

西本宮・下殿の図
 今の日吉大社では、下殿祭祀は原則としておこなわれていないが、特別なものとして、山王祭の祭礼に際して、白山宮のみは、その儀式の総てが下殿においておこなわれ(本殿は閉まったままという)、また西本宮でも、その一部が下殿でおこなわれるという。

 下殿の入り口は、向殿(階段部)脇の回廊下にある。西本宮・下殿には、旧須弥壇部に神道の祭壇が設けられているらしい(右の写真)が、正面部に開口部がないため内部は見えない(他社も同じ)。側面の小さな格子窓から覗いたかぎりでは、真っ暗な物置然としている。下殿前面の中央部のみが祭祀場として使われているのかもしれない。

西本宮・下殿・祭殿
(資料転写)

西本宮・下殿・入り口
(階段脇に入り口の扉がある)

トップページへ戻る
別稿−−東本宮参詣記西本宮参詣記奥宮参詣記へリンク

[主な参考図書]
・日吉大社−湖国に鎮まる山王さん−−−週刊・神社紀行(特装版)
・日吉大社と山王権現−−−嵯峨井建 1992
・日本の神々5(山城・近江)−−−谷川健一編 2000
・神道と修験道−−−宮家準 2007
・異神(上)−−−山本ひろ子 2003