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摂津(嶋下郡)の式内社/阿為神社
付−−式内・幣久良神社
大阪府茨木市安威3丁目
祭神−−天児屋根命
                                                             2009.08.11参詣

 延喜式神名帳に『摂津国嶋下郡 阿為神社 鍬靫』とある式内社。

 阪急京都線・茨木市駅の北約4km強、国道171号線(西国街道)西河原西交差点から府道・茨城亀岡線を北上、茨城市駅からだと、阪急バス・車作行きに乗車、バス停・安威で下車、すぐ南から斜めに西行する細道路の突き当たった右手に、当社参道入口と隣接する大安寺山門が見える。

 国道171号線以北の一帯は、古代の耳原遺蹟・塚原遺蹟・大田遺蹟などが点在する三島原遺跡群の一画で、安威地区にはいった西北方のやや小高い花園山の中腹に鎮座する。
 古く、摂津国嶋下郡安威(阿井)郷に属した地区で、地名の安威・神社名の阿為ともに染料となる草・“藍”を意味し、雄略紀9年条に「三島郡藍原」と、継体紀25年条に「(亡くなった継体を)冬12月5日、藍野陵(摂津国三島郡藍野)に葬った」とある。

 安威郷は、古く、中臣(藤原)氏との関係が深かったようで、
 ・神祇伯任命を病と称して辞退した中臣鎌子連(藤原鎌足)が隠居した摂津国三島の別業(皇極紀3年)とは当地という。
 ・安威の北約1.5kmの阿武山頂上(H=212m)にある阿武山古墳は、鎌足(669年没)の墓の可能性が強いという。
 ・当社の東に隣接する大念寺の開基は、鎌足の長子・定恵という。
 ・安威の南西に鎌足を祀る大織冠神社がある。
 ・神社がある丘の頂上にある円墳(将軍塚古墳)を鎌足古廟と呼んでいる(ただ6世紀の古墳で、鎌足-5世紀中ごろ−とは年代が合わない
など中臣氏・特に鎌足関連の遺蹟が多い。

※祭神
 阿為神社本社には由緒などの掲示はないが、御旅所に掲げる由緒によれば、
 「阿為神社は延喜式神名帳に記されている式内社のひとつで、中臣藍連が初めてこの地に来て、祖神であるアメノコヤネを祀ったのが始まり」
とあり、
 大阪府全志(1922)には、
 「阿為神社は字苗森にあり、一に苗森明神と称す。社伝によれば、藤原鎌足の勧請に係り、今の御旅所のある所は昔の神域にて、その字を宮の後といへるは是より起り、苗森の称も田疇間(?)の森林より出て、後鹿島明神の社頭に奉遷せしもの即ち今の神域なりと。この地方は中臣藍連の居りし所なれば、同連の祖神を祀りしものならん」
とある。
 苗森は田疇間の森から出たというのは意味不明。苗森は(藍の)苗守の転という(大阪府史蹟名勝天然記念物、1931)のが妥当か。
 また、鹿島神社の社頭に奉遷というが、当社鎮座以前に同じ中臣系の鹿島神社があったかどうかは不明。それより安威川の氾濫を避けて現御旅所の辺りから現在地に遷った(日本の神々3)というのが実態に近いか。

 中臣藍連とは、新撰姓氏禄に
 「摂津国神別(天神) 中臣藍連 天児屋根神十二世孫大江臣之後也」
とある中臣氏系の氏族で、当地の辺で藍の栽培に係わったという。
 ただ大江臣について、中臣伊賀都臣が神功皇后の世に百済に使いし、彼の地の女性との間に生まれたという二子の兄ではないかという説があり、とすれば、渡来系の人々との関係が出てくる。
 また大江臣にからむかどうは不明ながら、古く渡来系の先住氏族がいて、中央から三島に進出した中臣氏がこれらを支配融合し、のちに中臣藍連や中臣大田連(式内・大田神社に係わる支族)と呼ばれる中臣支族が形成されたのではないかとの仮説もある(日本の神々3)

 今の祭神はアメノコヤネ1座となっているが、
 ・アメノコヤネの他に応神天皇・ウガノミタマ・菅原道真を合祀しているという説
 ・中臣雷大臣(アメノコヤネ11世の孫)とする説(神名帳考証)
 ・大江臣(アメノコヤネ12世の孫)とする説(神社覈録)
などがある。

 ウガノミタマとは、合祀されている式内・幣久良神社の祭神を祀るもので、応神天皇・菅原道真は八幡信仰・天神信仰が流行した折に祀られたのであろう。また雷大臣・大江臣はいずれる中臣氏の祖神で、アメノコヤネと同じとみていい。

※社殿等
 大安寺山門の左・参道入口に一の鳥居が立ち、少し奥の左手に『式内郷社 阿為神社』との石標が立っている。山腹を回り込むように登った先に二の鳥居があり、これををくぐって石段を登って境内へ入る。
 境内正面に拝殿・その後ろに本殿があり、社殿両側の低い石垣の上に末社が並び、また右手には稲荷社の赤い鳥居が林立している。
 参詣人も余りないような静かな神社で、特筆するものもない。

安為神社/鳥居
阿為神社・一の鳥居
(参道入口)
阿為神社/二の鳥居
同・二の鳥居
安為神社/拝殿
同・拝殿

◎末社
 社殿左の低い石垣の上に、出雲社、鹿島社、市杵島姫・稲那・金山合祀社が、その左奥の山中に秋葉社・八幡社が鎮座し、社殿右に大年社・菅原社が鎮座する。いずれも粗末な覆屋のなかに古い小祠(稲那社は石像)が収まっている。
 また菅原社の右に稲荷社の朱の鳥居が林立し、石段の上に社殿が見える。ここに幣久良神社が合祀されているともいうが、詳細不明。

阿為神社/末社・大年社
末社・大年社
阿為神社/末社・稲荷社
末社・稲荷社

【阿為神社御旅所】
  大阪府茨木市耳原3丁目

 府道・茨木亀岡線が、名神高速道路のガード下をくぐったすく先のバス停・耳原(ミノハラ)に近接した住宅地内に位置する。本社・阿為神社の南約1.5kmに当たる。
 府道から西方へ入る細道路の北側に鳥居が、その右に「式内 阿為神社御旅所」の標石が立ち、やや狭い境内奥に社殿が建っている。
 社頭に掲げる案内板には、阿為神社の創建由緒とともに、
 「毎年5月3・4日に行われる阿為神社の御例祭の際には、“神輿”と“布団太鼓”が安威・耳原地区をまわり、この御旅所で休息をとります」
とあるが、平素は忘れられたような静かな雰囲気に包まれている。

阿為神社御旅所/社標
阿為神社御旅所・社標
阿為神社御旅所/社殿
同・社殿

【幣久良神社】
 祭神−−倉稲魂命(宇賀御魂命ともいうが、異名同神)

 延喜式神名帳に『摂津国嶋下郡 幣久良神社』とある式内社だが、明治末期の神社統合で式内社・阿為神社に合祀されている(明治41年1908)。幣久良とはミテクラ(orヘクラorテクラ)と読み、御幣の略語ともいう。

 由緒・旧鎮座地など当社に関する資料が少なく、詳細不明だが、諸資料とも、旧鎮座地が嶋下郡大字耳原(現耳原町)にあったことでは共通し、
 ・耳原村にある。古く西成郡御幣村(現大阪市西淀川区御幣島か)にあった宮を、故あって此所に遷した(稿本・名葦探杖1776)
 ・三島郡大字耳原の北方、幣久良神社の境内に老松の大樹があり、之を幣久良社とす(大阪府誌1903)
 ・幣久良神社の址は西方・毛受野(毛須野、モズノ)にあり。明治41年安威村大字安威の阿為神社に合併されて今はないが、
  その社頭は幣久良の社と呼び、老松が天に聳えている(大阪府全志1922)
 ・往古より幣久良の森にあったが、元禄11年(1698)百舌鳥野(毛受野)小松原の中瑠璃光院の西に移した(式内社調査報告1977)
などの資料があるが、旧字名など不明のため場所の比定は難しい。

 当社には
 「昔、この辺りは“手くらの杜(モリ)”と呼ばれ、諸木が繁茂していた。ある時、当社の神輿を子細があって附近の池(御手洗池)に埋めた。池の際に一本の木があり、元禄の頃、社殿修復のためこの木を動かそうとしたが数間動いただけで、動かなくなったので、村人は神木に違いないとして、そこに植えた。
 その後、ある村人が畑を作るためにこの木を伐ったところ、忽ち病となって死んでしまった。
 その後、寛保2年(1742)ある村人が池を掘り、その後2年を経た延享元年(1744)神木のもとに小社を建てて祀った」
との伝承があったという(式内社調査報告1977・大意)
 この伝承からみて、当社本来の祭神は水に関係のある農業神で、それは今の祭神・ウカノミタマ(稲荷神=稲の神)に引き継がれているといえる。

 耳原町の西約800mほどに耳原公園がある。北東側に池・南西に小山があり、池の廻りが公園に、山中に遊歩道が巡っている。今、山の頂には明治天皇・大正天皇が此所にお立ちになったことを記念する石碑が立っている。

 この小山を“幣久良山”と称し、池があることからみると、神社の旧地はこの辺りだったのかもしれない。


耳原公園・幣久良山

 当社は明治41年(1908)に阿為神社に合祀されているが、本殿の中に祀られているのか、別殿で祀っているのか不明。阿為神社社殿の右手にある稲荷社がこれだともいうが、詳細不明。しかし祭神がウカノミタマ(稲荷神)で、合祀前の当社について「今稲荷大明神ともいう」との古資料(摂津名所図会1798)もあるから、合祀後も稲荷社とされているのかもしれない。

追記 2009.12.30
 竹林の愚人氏から、幣久良神社に関する資料の提供を受けたので、その概要を紹介する。
 明治の神仏分離に際して、明治2年、福井の新屋神社(新屋坐天照御魂神社)の宮司が大阪府に提出した嶋下郡神社一覧の中に、幣久良神社を描いた絵図がある。
 絵図の下部に西国街道が東西に走り、絵図の左に茨木川、その右に幣久良山と幣久良池。絵図中央の小さな丘に反正天皇陵、絵図右手の丘に履中天皇陵との書き込みがあり、その左に隣接して松林の中に鳥居が立ち、参道奥に社殿が描かれている。これが幣久良神社ではないかという(ただし、その旨の記入はない)
 これを現地形に合わせると、伝反正天皇陵が鼻摺古墳、伝履中天皇陵が耳原古墳に当たる(被葬者不明)ことから、幣久良神社は現安威南一号公園付近ではないかという(詳しくは、竹林の愚人氏の幣久良神社考をご覧ください)

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