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摂津(川辺郡)の式内社/伊居太神社
大阪府池田市綾羽2丁目
祭神−−穴織姫・応神天皇・仁徳天皇
論社−−伊居太神社(尼崎市)
兵庫県尼崎市下坂部4丁目
祭神−−春日4神
                                                              2009.08.19参詣

 延喜式神名帳に『摂津国川辺郡 伊居太神社』とある式内社だが、今、伊居太神社を名乗る神社が2社あり、論社となっている。

 今、伊居太神社と称する神社とは、大阪府池田市綾羽(以下「イケダ社」という)と、その南約10kmの兵庫県尼崎市下坂部(以下「アマガサキ社」という)の両社だが、両社ともに式内・伊居太神社の後継社であるとの確証はない。
 また、本来の式内・伊居太神社の鎮座地については諸説があり、はっきりはない。
 管見した諸説からみると、本来の伊居太神社は、延喜式撰上(927)当時の“川辺郡塚口村”の辺り(現JR東海道線・塚口駅付近)、あえて特定すれば、塚口村字山廻にあった池田山古墳附近(現尼崎市塚口本町6丁目)らしいが、これも確証はない。また、伊丹市の現大阪空港付近とする説もある(豊能郡に属し川辺郡するとして否定する説もある)
 
 今、イケダ社・アマガサキ社両者の由緒をみるとき、イケダ社の由緒には
 「延喜式神名帳その他の古文書に記されているとおり、由緒正しい神社である」
と、またアマガサキ社のそれには
 「延喜式神名帳に、摂津川辺郡に伊居太神社ありとあるのは、正に当神社のことである」
と記すように、いずれも式内・伊居太神社の後継社と主張している。
 ただ、同じ式内・伊居太神社を称するものの、社名・伊居太をイケダ社では“イケダ”、アマガサキ社では“イコタ”と読み、且つ祭神・鎮座由緒ともに異なっている。祭神・由緒が異なることからみて、本来は別々の神社とも思われ、これを論社として云々するには疑問もある。

【伊居太神社(池田市)】
 阪急宝塚線・池田駅の北約1km弱、国道176号線(能勢街道)から東へ少し入った北側に神社参道の石段があり、登りつめた山麓の微高地に鎮座する。五月山の西方山麓に当たり、背後(北側)に五月山(池田山ともいう)連山が東西に連なり、公園化されたなかに遊園地・動物園などがある。

※由緒
 イケダ社は
 『穴織宮(アヤハグウ) 伊居太神社』
というのが正式名称で、穴織姫(アヤハ)を主祭神とし、応神・仁徳2天皇を合祀している。

 その由緒について、当社由緒略記では、日本書紀・応神紀37年条にある
 「春2月1日、阿知使主(アチオミ)・津加使主(ツガオミ)を呉に遣わして織工女を求めさせた。阿知使主らは高麗国に渡って、呉に行こうと思ったが道がわからす、高麗に道案内者を求めた。高麗王は久礼波(クレハ)・久礼志(クレシ)の二人を付けて道案内させ、これによって呉に行くことができた。呉王は縫女の兄媛(エヒメ)・弟媛(オトヒメ)・呉織(クレハトリ)・穴織(アヤハトリ、漢織とも書く)の4人を与えた。
 41年春、アチオミらが呉から筑紫に着いた。そのとき宗像大神が織女らを欲しいといわれ、兄媛を大神に奉った。後の3人の女を連れて津国に至り、武庫に着いたとき天皇が崩御されたので、仁徳天皇に奉った。この女性たちの子孫が今の呉衣織(クレノキヌヌイ)・蚊屋衣織(カヤノキヌヌイ)である」
との一節を援用し、アチオミらが連れ帰った3人の織女のうち“アヤハ媛”を祀ったのが当社という(同じくクレハ媛を祀るのが呉服神社、オトヒメは不明)

 帰朝後、アチオミは3媛を擁して仁徳天皇に仕え、天皇の命により、この地に織殿・縫殿を設けて機織・裁縫の業を起こし、各地から集められた繭から糸を紡ぎ、染色加工して衣服とし全国に配布するとともに、各地から集められた婦女子にそれらの技術を教えたという。そこから、当地は“呉織の里”(クレハのサト)と呼ばれるようになっている。
 その後、仁徳76年に相前後してアヤハ・クレハの二人が亡くなったので、アヤハを梅室(ウメムロ)にクレハを姫室(ヒメムロ)に葬ったが、天皇は二人の功績が多大であるとして、翌77年、勅を降し神社を建てて二人を祀った。これが当社の創建で、その時、呉織の里と呼ばれていた当地を伊居太(イケダ)と改め、『秦上社(ハタカミのヤシロ) 伊居太神社』と改称した。

 また、反正天皇(仁徳の2代後)の勅により、3媛を連れ戻ったアチオミ・ツガオミを秦上社の北西90mの処に祀り、猪名津彦神社(イナツヒコ)と称した。(由緒・大意)
 因みにアチオミとは、応神紀20年条9月に
 「倭漢直(ヤマトのアヤのアタイ)の先祖、阿知使主がその子都加使主、並びに17県の自分のともがらを率いてやってきた」
とある渡来人で、朝鮮半島南部の出身ではないかという。

*その後の主要経緯(略記)
 ・桓武天皇・延暦4年(785)−−勅により社殿を改築し応神天皇・仁徳天皇を合祀。
 ・後醍醐天皇・正中2年(1325)−−天皇より穴織大明神の宸筆を賜り、社名を『穴織宮 伊居太神社』と改称。
 ・天正6〜7年(1580)、織田信長と荒木村重との兵乱で社殿焼失。
 ・慶長9年(1604)、豊臣秀頼による穴織・呉服両社社殿再建、
  この時、併せて猪名津彦社も再興する予定だったが、何故かそのままとなり、境内地に小祠として残さる(後述)
 ・現在の社殿は、昭和41年に大修繕されたもの。

 以上が由緒略記にいう当社創建由緒及びその後の経緯だが、これは織女・クレハ・アヤハを祀る神社(秦上社・秦下社)の由緒であって、式内・伊居太神社のそれではない。
 また当社創建時に“伊居太神社”と改称したとはいうものの、それが式内・伊居太神社とどう連なるのか不明。式内・伊居太神社を冒称したとの説(下記)があるように、本来は関係のない別社とみるのが順当であろう。

※諸説
 式内・伊居太神社について、大阪府全志(1922)には
 「川辺郡小坂田村(現大阪空港付近)に鎮座ありしを、後当所(綾羽)に遷座しまいらせたるものなりといふ。文和3年(1354)11月同村人民の請を依りて、穴織の本社を同村に移して御旅所となしたるは、此の縁あるに依れるならん。(当社は)もと秦上社と号せしが、その伊居太神社と称せしは何れの時代よりなるか詳かならず。当所に移りて穴織社と呼び、更に穴織大明神と称し、明治後に至り伊居太神社の旧称に新ためらる。俗に上の宮といへり」
とあり、
 大阪府史蹟名勝天然記念物(1931)には
 「当社はもと秦上社と称し、また穴織社或いは穴織大明神とも称せり。伊居太神社と称するに至りたるは、川辺郡小坂田村に鎮座せし延喜式内社伊居太神社を遷座して合祀せしに始まりしか」
とあり、いずれも川辺郡小坂田村にあった式内・伊居太神社を穴織社(秦上社)に合祀したことから、伊居太神社と称したという。
 ただ、別社を勧請した場合、その祭神を併せ祀るのが普通だが、今の当社に式内・伊居太神社の祭神と思われる神は見当たらない。また、式内・伊居太神社の祭神等の詳細が不明のため、何ともいえない。

 当地は、倭名類聚抄(平安中期成立の百科辞典的国字事典)に秦上郷・秦下郷とあるように、渡来氏族・秦氏が勢力を張っていた処で、その秦氏の一族が五月山西端の微高地に創建したのが当社・秦上社の原姿ではないかという。
 アチオミ・ハタ、氏族名や渡来伝承は異なるとはいえ、いずれも朝鮮半島からの渡来人であり、両氏族ともに当地に進出・混在していた可能性は強く、また秦氏も養蚕・機織りの技術に長けていたというから、機織りの始祖を祀るに疑問はない。(穴織社神主は永らく秦姓だったという)
 またアチオミ一族が有力な渡来氏族・秦氏に吸収され、秦氏関連の地名・神社名がついたともとれる。

 これに対して、平安中期に当地に進出してきた坂上氏(アチオミの後裔という)が、当地を“呉庭”(クレハ)と名づけて開発し、その総社として天王社を創建し、祖神・アチオミ・ツガオミ・クレハ・アヤハの他牛頭天王を祀った、という説がある。

 その後、南北朝争乱期になって、隣接する能勢の内藤氏が勢力拡張の手段として美濃から血縁池田氏を当地に移したことから地名を池田と改めた。
 池田氏は、既存の2社を産土神とし、坂上氏が奉斎していた織女2神を別けて、秦上社にアヤハ媛を秦下社にクレハ媛を祀ったのが現在の穴織社(現伊居太神社)・呉織社(現呉服神社)の成立ともいう。

 加えて、このような経緯のなかで、何時の時期かは不明ながら、河辺郡にあって衰微していた式内・伊居太神社の名を、2社のうちでより古い秦上社に遷し、その名を冒称したのが現伊居太神社だろうともいう(以上・日本の神々3)

 いずれにしろ、当社が伊居太神社を名のった経緯は不明というしかなく、勧請あるいは社名冒称のいずれにせよ、当社を式内・伊居太神社の後継社とするには疑問がある。

◎社殿等
 入口の石段の先に大鳥居が立ち、神額には“穴織大明神”とある。参道を進むと正門があり境内へはいる。案外と狭い境内中央に舞殿を兼ねた拝殿があり、その奥・透塀のなかに本殿が建つ。本殿は、千鳥破風が3棟並列する珍しい造りとなっている。

伊居太神社/大鳥居
伊居太神社・大鳥居
伊居太神社/正門
同・正門
伊居太神社/拝殿
同・拝殿
伊居太神社/本殿
同・本殿
伊居太神社/本殿社殿
同・本殿社殿

 境内の社殿右手に、末社・皇大社、松尾・国常立相殿社、住吉社があり、参道右手に稲荷社2社・厳島社(背後に涸池あり)が並び、正門近くの左手に猪名津彦社がある。なお、アヤハ姫の墳墓(姫室)が境内にあるというが、見逃した。

※猪名津彦社
 参道の突き当たり、正門直前の左手に末社・猪名津彦神社(イナツヒコ)が鎮座している。当末社は上記のようにアチオミ・ツガオミを祀る社だが、豊臣秀吉の社殿造営(1604)にさいして、翌年送りとなったまま(予算の都合ともいう)造営されなかったことから荒廃し、いつしか猪名津彦社の名も忘れられ、“宇保の稲荷”と呼ばれるようになった。
 その後、文化12年(1815)に社殿が大破したので普請しようとしたところ、社殿の下から朱にまみれた骨(神骨)が出たので、境内に祠を築いて収め、末社・猪名津彦神社と称したという(大阪府全志1922)

 イナツヒコとは固有人名というより、“猪名の地の男(首長)”という普通名詞の意味が強い。“地名+ツ+ヒコ”を名乗る神は、その土地の土着豪族の首長などを神格化・産土神化したものといわれ、各地に祀られている。
 当社由緒によれば、アチオミは仁徳天皇から猪名の港一帯を与えられているから、その首長・アチオミを神格化してイナツヒコとして祀ったものであろう。

  しかし、同じイナツヒコを名のる式内社に『為那都比古神社二座』(祭神:イナツヒコ・イナツヒメ、箕面市石丸、五月山連山の東端に当たる)があり、(別稿・為那都比古神社参照)、それを遷したとの説もある。
 猪名津と為那都、当てる漢字は異なるもののいずれもイナツヒコで、両社とも猪名地方(池田周辺の古称のひとつ)の首長の始祖を神格化したという意味では、同じともいえるが、今も箕面市内に為那都比古神社があることからみて、当末社を以て式内・為那都比古神社とする必然性はない。五月山連山南麓の東西に、その地の首長を祀るイナツヒコ社が2社あると解すべきであろう。

 参道脇に鳥居が立ち、その奥の銅板葺きの覆屋の中に古い祠が鎮座と、鳥居の左に「猪名津彦大明神社□」と刻した石標が立っている。

伊居太神社・末社/猪名津彦社・社頭
末社・猪名津彦社・社頭
伊居太神社・末社/猪名津彦社・社殿祠
同・社殿祠
伊居太神社・末社/猪名津彦社・石標
同・社標

※呉服神社−−イケダ社関連社
  大阪府池田市室町
  祭神−−呉織大神・仁徳天皇

 阪急宝塚線・池田駅北西約400m、線路南側を進むと商店街の道路をまたいで大鳥居が立ち、その先左手に神社が見える。

 伊居太神社と当社は、古くから“穴織社・呉織社”あるいは“秦上社・秦下社”と称して常に一対の神社として登場し、一般には“上の宮・下の宮”として親しまれたという。ただ、山麓に鎮座する伊居太神社の清楚感に比べて、駅前商店街のはずれにある当社は、境内には狭いながらも朱塗りの社殿からくる華やかさが漂っている。それは境内に併祭されている恵美須神社と林立する赤い幟からくるのかもしれない。

 当社の縁起には、伊居太神社のそれと同じ鎮座由緒が記され、呉服の神女(織工女)を祀るのは当社が本家と主張しているようにも見える。ただ、織工女を連れ帰ったのがアチオミではなくイナツヒコとなっているが、アチオミを神として祀ったのがイナツヒコという伊居太社由緒からみて同じ人物といえる。


商店街に立つ大鳥居

呉服神社・正門

同・拝殿
呉服神社/祭神不明の立石
同・祭神不明の立石

同・本殿(側面)

同・姫室の碑

 社殿左右に、大黒社・6座相殿社・恵比須社がある。古資料には皇大社他7社ほどが記されているが、不明。
 今、当社は織物・衣服に係わる織女を祀る神社というより福の神・恵比須社として繁昌いるようで、まだ新しい美麗な社殿が建っている。

 大黒社の裏手に、3基の古い立石が立っている。そのひとつは“姫室”と刻しているから、アヤハ媛を祀ったものらしいが、他の2基は不明。
 イケダ社由緒に、亡くなったクレハ・アヤハ2媛を梅室・姫室に葬ったとあり、その2室(塚)について、大阪府全志(1922)
 「クレハ姫を埋めし梅室、アヤハ姫を葬りし姫室と伝える2塚は、共に呉服神社の馬場先付近にありて、いずれも十四五間の周囲を有し、姫室は東に埋め室は西に並んで元禄10年の地図にも見えているが、民家建設の巻となり、且つ先年(明治42年、1909)阪神急行電鉄(現阪急)の軌道線路に当たったので、呉服神社の所管に属する梅室は、同社の北西40間ばかりの所に移し、伊居太神社の所管に属する姫室もその境内に移した。・・・」
とあいうが、今、当社境内にみるのは姫室で、伝承に混乱がある。

【伊居太神社(尼崎市)】
 JR宝塚線・塚口駅の南東約1km、府道41号線・バス停・伊居太神社前を東に入ったすぐに鎮座する。住宅地内にある神社で、鎮守の森に囲まれた境内には拝殿・本殿があるのみで、社務所も無人。当社に関する資料は、社頭に掲げる由緒案内のみ。
 なお、府道を挟んで当社北西約300mに式内・伊佐具神社(イサグ・尼崎市上坂部)があり、当社が式内・伊居太神社だとすれば、式内社2社が近接して鎮座するという珍しい事例となる(伊佐具社の由緒には、尼崎市内唯一の式内社とある)

 社頭の由緒によれば、
 「当地は、弥生時代以来の集落があった地で、当神社は、前方後円墳(伊居太古墳)・後円部のほぼ中央に鎮座する」
という。
 伊居太古墳は、後円部の左右および頂上部が削平され原型を失っているが、全長約92m(後円部径≒53m・同高≒3m、前方部幅≒46m、周濠幅≒20m)の中期古墳(5世紀頃)で、周辺には若王子遺跡・下川田遺跡・春日遺跡・伊佐具神社遺跡などがあり、当地辺りが古くから開けた地域だったことを覗わせる。

 由緒によれば、
 「尼崎市内に残存する古墳中最大のこの古墳こそ、氏族祖神の墳墓の地で、その後、頂上に神社を建立し、祖神を崇拝したものと思われるが、創祀年暦等は不詳」
とある。当地の辺りに居住していた古代氏族の首長陵墓であろう。

 実測図を見ると、後円部ほぼ中央に社殿が、前方部と後円部のくびれ部(接続部)に鳥居が立ち、古墳上での古代祭祀を継承しているようにみえる。
イコタ古墳/実測図
伊居太古墳・実測図
1983

 伊居太古墳の被葬者あるいは当社を創建した氏族として、新撰姓氏禄(815)
 「摂津国皇別  坂合部  大彦命之後也  允恭天皇御世、造立国境之標、因賜姓坂合部連」
とある“坂合部連氏”が想定されている。
 “坂合部連”とは、境界の策定などを職掌とした職能集団(部)といわれるが、実体は不明。正倉院文書に“川辺郡坂合郷戸主秦美止保利”なる人物名が記され、秦氏系の渡来人に“坂合部首”がある(新撰姓氏禄逸文)ことから、秦系の渡来人ではないかともいう。
 坂合部連が始祖とする“大彦命”とは孝元天皇の皇子で、四道将軍の一人として北陸に派遣されたとあり(応神紀9年条)、渡来人とは結びつかない。しかし渡来人であっても、記紀の神あるいは古代天皇の皇子などを始祖とする氏族が多い(後世の創作)ことから、当氏も境界・区画の策定にかかわる技術をもつ渡来人だった可能性はある。
 ただ摂津志(1734)に、“阪部を”“酒部”と書き、“坂は一に酒に作る”とあることから、酒に係わる氏族の居住地との説もある(Web版尼崎地域史事典)

 今、当社鎮座地の地名を“下坂部”というが、坂合部が阪部と変化し、それが上坂部・下坂部に別れたのであろう。

※祭神
 社頭の由緒案内には
  主祭神−−春日4神(タケミカヅチ・アメノコヤネ・フツヌシ・ヒメ大神)
  併祭神−−市杵島姫命(厳島神社)・大将軍(皇大神宮遙拝所)
とあり、春日4神を祀ることから明治期までは春日神社と称していたという。

 由緒によれば、
 「これは藤原氏がその全盛期に当地方を支配していた際、その祖神である春日大社を勧請したものといわれ、
  本来の祭神は、坂合部氏の始祖・大彦命およびその後裔を祀ったものであろう」
という。
 その傍証として、併祭神をイチキシマヒメと坂合部大彦命とする資料もある。著名な神の勧請によって、本来の祭神が脇に追いやられたり消えた事例は多く、当社もその一例かもしれない。
 なお江戸時代、青山氏が当地を支配するが、その青山氏も藤原氏の後裔だというから、江戸時代には春日社として奉斎されていたらしい。

 これらの由緒・祭神からみると、当社もまた式内・伊居太神社とするには疑問がある(当社は春日社であって、式内・伊居太社ではないと一蹴した資料もある)。なお、隣接する上坂部には、尼崎市唯一の式内社と称する“伊佐具神社”が鎮座している(別稿・伊佐具神社参照)

◎社殿等
 道路際に立つ大鳥居の奥に拝殿が見える。唐破風で飾られた拝殿の後ろに春日造の本殿が続く簡素な社殿で、末社などは見当たらない。

伊居太神社(尼崎)/鳥居
伊居太神社(尼崎)・鳥居
伊居太神社(尼崎)/拝殿
同・拝殿
伊居太神社(尼崎)/本殿
同・本殿

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