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摂津(豊島郡)の式内社/為那都比古神社
大阪府箕面市石丸2丁目
祭神−−為那都比古大神・為那都比売大神
                                                               2009.08.31参詣

 延喜式神名帳に『摂津国豊島郡 為那都比古(イナツヒコ)神社二座』とある式内社。

 阪急箕面線・箕面駅の東約3km弱。五月山連山東端の南麓に鎮座する式内社で、国道171号線(西国街道)・今宮交差点を北へ約600m行った東側(右側)に大鳥居が立つ。
 阪急・箕面駅および北大阪急行・千里中央駅からバス便があるが、いずれも時間1ないし2本と少ない。青松園前バス停下車、すぐ横の外院3丁目交差点を南へ約100m(そのまま進むと今宮交差点に出る)、左手に広がる鎮守の森(約1万坪)の中に鎮座する。
 神社略記によれば、
 「当社が鎮座する菅野地方の歴史は古く、当社付近からは縄文時代の土器・石器が、また西1kmの如意谷地区背後の山地からは3世紀後半の大型:袈裟襷文銅鐸(H≒858cm)が発見されるなど、古代から中世にかけての遺跡が各処に点在している」
という(箕面駅前の箕面市・郷土資料館に銅鐸展示あり)

※鎮座由緒
 当社は今、箕面市石丸2丁目(旧白島字中ノ山)にイナツヒコ・イナツヒメ二神を一緒に祀っているが、これは明治末年の神社統合によるもので、江戸時代までは二座が別々の地に祀られていたという。
 ・為那都比古神社−−祭神:イナツヒコ−−旧・白島村字中ノ山−−現箕面市石丸2丁目
 ・為那都比古神社−−祭神:イナツヒメ−−旧・白島村字中尾(土居ともいう)−−現箕面市白島3丁目

 神社略記によれば、
 「往古、当社は、此の鎮座地(現在地)にイナツヒコ・イナツヒメ二座が同殿にお祀りされていたが、寛平年間(889--98)に別れて別殿となり、白島字中尾(字土居ともいう、現白島3丁目)の地にイナツヒメをお祀りし為那都比古神社(俗称:大宮社)と称した。しかし、この神社を含む菅野地方の神社十数社とその境内社五社が、国の指導により明治40年(1907)に当社に合祀され現在に至っている」
とある。
 この略記によれば、かつては現在地に二座を合祀していたが、9世紀末に別殿を創建してイナツヒメを分社し、明治末年の国家神祇政策により現在地に再合祀したもので、現在地が本来の鎮座地となる。

 しかし、摂津名所図会(1798・江戸中期)
 「豊島郡白島村にあり。延喜式内社。今大宮二座と称するは、為那都夫婦の二神を祀るならん。・・・
  大宮寺 同所にあり。為那都比古の神宮寺なり。医王山持宝院と称す。・・・
  医王岩 寺の後ろに自然石あり。高さ十三丈許り。又名薬師石ともいふ。・・・」
とあることから、現在地が本来の鎮座地とすることには疑問がある。

 大宮寺が為那都比古神社の神宮寺であったということは、その当時、この地に為那都夫婦神を祀る神社があったことを意味し、神宮寺が寛平年中に創建されたとの伝承(大阪府誌、明治36年1903)と上記略記を合わせ考えると、神宮寺創建とほぼ同時に、何らかの理由により二座のうちの一座・イナツヒコが現在地に遷座したこと、いわば由緒とは逆のことが起こったことを示唆する。

 今、大宮社の旧社地という白島3丁目に、神宮寺の一宇だった薬師堂が“医王山 薬師寺”(後述)と称して残り(神社址なし)、その背後の山中に“医王岩”(「ヨーガ岩」ともいう・後述)があることも、本来の鎮座地が白島の旧大宮社(江戸期までの為那都比売神社)だったことを裏付けるといえる。

※祭神
 今の祭神はイナツヒコ・イナツヒメ2座となっている。古来のヒコ神・ヒメ神一対を祀るもので、地名を冠した夫婦神と目されるが、その出自不詳。
 通常、“地名+ツ+ヒコ”の神名は、その地を統治した豪族の首長を指すといわれ、当社も又、古く猪名地方(猪名県・イナのアガタ)を支配した豪族(イナツヒコ一族)の首長を祀ったものであろう。
 因みに猪名県の初見は日本書紀・仁徳38年の「猪名県の佐伯部が鹿を献上した」との記事で、猪名川の両岸に広がる豊島郡(現豊中市・池田市・箕面市)から川辺郡(現尼崎市・伊丹市・川西市)一帯を指すという。

 古く、猪名地方には小国家が櫛存していたといわれ、イナツヒコ一族もそのひとつとされ、大阪府全志(1922)には
 「社は、為那氏がその祖神を祀りしものならん」
と記すが、為那氏(猪名・偉那・為奈とも)の出自については以下の説がありはっきりしない。

*偉那公祖神説
 当地辺りを支配したと思われる為那氏について、
 ・古事記・宣化天皇(535--39?)条に、“天皇の皇子・恵波王(エハノミコ)為那君・多治比君の祖なり”とあり、
 ・また書紀・宣化元年条には、“(皇后との間に生まれた一男三女のうち)上殖葉皇子(カミツウエバ)偉那公・丹比公二姓の先祖なり”
 ・新撰姓氏禄(815)には、「摂津国公別 為奈真人 宣化皇子火焔王之後也」とあり
            (猪名公は、天武13年(685)に八種の姓の第一・真人-マヒト-の姓を与えられている)
とあり、恵波王・上殖葉皇子・火焔王と異なるものの、いずれもイナ公は宣化天皇皇子の後裔とし、
 ・これらを受けてか、大日本史(水戸光圀編・元禄10年1697)に「(イナツヒコ・イナツヒコは)蓋し偉那公之祖神なり」とある。
 ただ、この猪名真人(猪名公)は大化改新以後に現れた氏族で、古いヤマト朝廷時代の猪名県主とは異なり、猪名県主の祖神を祀ると目される当社の祭神とするには疑問ともいう。

*渡来人説
 ・応神紀31年条に、
 「武庫水門に、諸国が奉った500艘の船が停まっていたとき、一緒にいた新羅船からの出火により多くの船が焼失した。新羅人を責めたので、新羅王が匠者(船大工)を奉ってきた。これが猪名部(イナベ)の始祖なり」(大意)
との記事がある
 ・また新撰姓氏禄には、
  「摂津国諸蕃 為奈部首 出自百済国人中津波手也」
  「摂津国未定雑姓 為奈部首 伊香我色乎命六世孫金連之後也」
と、出自の異なる猪名部2氏が記されている。

 この猪名部なる氏族は、木工・造船に係わる技能を持った氏族で物部氏に属したといわれ、そこからイカガシコオの後裔を名のったとも思われ、当社は、この猪名部氏の祖神を祀るとの説もあるが、猪名を名乗るとはいえ、居住地も猪名川の上流域・下流域と異なり、猪名部氏と当社との係わりは見当たらないという。(以上、式内社調査報告1977)

 なお、当社の西約4km強の伊居太(イケタ)神社の境内末社・猪名津彦神社を、当社からの勧請とする説がある。
 為那都と猪名津、当てる漢字は異なるがいずれもイナツヒコ神社と呼ぶから、当社からの勧請説も無碍には否定はできないが、伊居太社のそれは、応神の頃、織女クレハ・アヤハを連れ帰った阿知使主(アチオミ)を祀るとされることから、当社とは無関係と思える(別稿・伊居太神社参照)
 イナツヒコが猪名地方を支配した首長と解すれば、五月連山の東西に別個のイナツヒコを祀る神社があったもおかしくはない。

 また当社は、江戸時代には牛頭天王を祀るとされていたようで、大阪府誌(1903)は、
 「織田信長の其の氏神たる牛頭天王と源家の宗神たる八幡神宮とを除きて他の神社仏閣を破壊するに及びて、一時牛頭天王と称し、今に此の名あり」
と記す。
 北摂地方の神社で、織田信長云々の理由で牛頭天王と称したというものが多いが、疫病から逃れたいという庶民の願いから祀られたゴズテンノウを信長に仮託することには疑問がある。

※社殿等
 南側大鳥居をくぐり参道を進むと神門(修復工事中)が建ち、境内正面に拝殿、その奥に本殿があり、社殿左手に天満宮の小社殿があるだけで、特段記することなし。

為那都比古神社/大鳥居
為那都比古神社・大鳥居
為那都比古神社/神門
同・神門(修復工事中)
為那都比古神社/拝殿
同・拝殿
為那都比古神社/本殿
同・本殿


※医王山薬師寺
(伝・イナツヒメ神社旧社地)

 当社の西約1km 、御堂筋延伸線を越えて白島西の信号を北に、道路右に添う細道路を入った先にひっそりと建っている。元、イナツヒメを祀っていた大宮社の神宮寺・医王山持宝院の名残というが、今、その面影はない。

 大阪府誌(1903・明治初年)には
 「寺は寛平年中(889--98)尊宝法師(醍醐の僧)の開基にして昔時は七堂伽藍の荘厳眼を眩せしめると云ふ(本尊:薬師仏)。代々両社を管せしが建設の年月詳ならず、遺跡またみるべきなく、只、堂上ケ谷の字を存せるのみ」
とある。“両社を管せし”とは、神仏混淆時代に為那都比古神社2社の社務をとった神宮寺だったことを示す。
 今、住職はおいでだが檀家は少ないようで仏殿・境内ともにだいぶ荒れている。大阪府誌をみると、既に、江戸末期には衰微していたらしい。

医王山薬師寺/山門
医王山薬師寺・山門

医王山薬師寺/本堂
同・本堂
◎医王岩(ヨーガ岩)
 薬師寺前の道を左に、道なりに進むと池に突き当たり道が二手に分岐し、左の狭い山道を進んだ先に、樹林に囲まれて巨岩が起立している。

 摂津名所図会(1798)には、
 「医王岩・又の名を薬師石という。播州静が窟・石の宝殿の類なり。此所もオオナムチ・スクナヒコナの二神生ますの地により、医王岩と称するか。此二神は医道の祖なり」
とある。オオナムチ・スクナヒコナ云々とは両神が医道の神だからというが、すく下の薬師寺からくる後世の付会であろう。医王岩をヨーガ岩とよぶ由縁不明。

 旧大宮神社背後の山中にあるこの巨岩をみると、当岩を磐座(イワクラ)とした素朴な信仰が為那都比古神社の原点とみることもでき、この巨岩を磐座として拝するために建てられたのが、本来の為那都比古神社(大宮社)とも解される。
 また、この大宮社と為那都比古社との関係は、夫婦神を別けて祀ったというより、山宮・里宮関係の変型かもしれない。

 岩は、頂きに人頭様の岩をもった、筋肉隆々たる胸・腹をもった巨人が仁王立ちしているように見える。古資料には、高さ十三丈(約40m)とあるが、箕面市史には約25mとある。昔は周りが開けていたようだが、今は左右から樹木が覆い、全体像は見えにくい。
医王岩(ヨーガ岩)
医王岩(ヨーガ岩)

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