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摂津(嶋下郡)の式内社/井於神社
大阪府茨木市蔵垣内3丁目
祭神−−素盞鳴命・天児屋根命・菅原道真
                                                             2009.08.11参詣

 延喜式神名帳に『摂津国嶋下郡 井於神社 鍬靫』とある式内社。井於は“イノヘ”又は“イノベ”と読み、“井の上”・“井の辺”を意味するという。

 JR東海道線・千里丘駅の東北約400m、茨木市の南西部、摂津市との市界に近い住宅地内に鎮座するが、細い道路が入り組んでいてわかりにくい。

※祭神
 祭神は上記の三神で、江戸時代には三所明神と呼ばれたというが、これらは後世のもので、創建当時の祭神は不詳。
 境内に祭神・由緒記などの掲示がなく詳細不明だが、ネットにみる由緒略記によれば、
 「井於連が氏神として崇敬していた“井の神”即ち水の神・泉の神で、三宅郷の田畑の灌漑用水を守らせ給う神として、篤い信仰が捧げられていた。昔は、旱魃になると氏子の若衆が藁で作った龍を担いで村中を周り、終わって池中に投じて雨乞いをしたと伝えられている」
とあり、当社が水に係わる神社・農耕にかかわる神社であることを示唆している。

 境内末社に水神社(ハニヤスヒコ:土の神・ミズハノメ:水の神)がある。
 他の末社のように外から遷したとの資料がなく、古くから祀られていたと推測されることから、これが本来の祭神で、勧請されたゴズテンノウ(現スサノヲ)が有名となるにつれて傍らに押しやられ、遂には末社に貶められたと思われる。
 著名な神を勧請したがために、本来の祭神が脇に追いやられた事例は多い。

 
井於神社/末社・水神社
末社・水神社

 現在の祭神のうちスサノヲについて、
 「織田信長の頃、兵火に焼かれるのを免れるため、信長が信ずるゴズテンノウを祭神にした」
との伝承があり(式内社調査報告1977)、高槻・茨木市内の神社で同種の伝承をもつものは多いが、信長云々には疑問もある。
 この伝承からみて、祭神をスサノヲとしたのは明治の神仏分離のときで、それ以前・江戸時代まではゴズテンノウだったと思われる(別項・牟礼神社参照)

 またアメノコヤネについても、永正年中(1504--21、戦国時代)、三宅城城主だった三宅出羽守国村が春日大社から勧請したものといわれ、これまた本来の祭神ではない。

 残る菅原道真の勧請時期は不明だが、畏るべき御霊神だった道真が学問の神として一般に浸透するのは江戸時代ともいわれ、これも後世の勧請であろう。

 いずにせよ、これら神格の異なる三神を祀る理由は不明としかいいようはない。

※鎮座由緒
 当社は今、茨木市蔵垣内・旧三島郡三宅村大字蔵垣内にあるが、摂津名所図会(1798・江戸中期)
 「宇野辺村にあり、延喜式に出。今三所明神と称す」
とあるように、古くは大字宇野辺にあった神社で、
 大阪府誌(1903・明治初期)には
 「三宅村大字蔵垣内の西方にある式内の旧社にして、スサノヲ・アメノコヤネ・天満天神を祀れり。創建の年代詳かならざれども、初は大字宇野辺に鎮座ありしを、享徳年中(1452--55・桃山中期)此所に遷し、三宅郷の産土神として崇敬するにいたりしものなりと云ふ}
とあり、
 また、続日本紀・天平神護2年(766)条に
 「摂津の国の人で正七位下の甘尾雪麻呂に井於連の氏姓を賜った」
とある井於氏に関係するともいうが、甘尾氏・井於氏の出自、当地に居住していたとする資料もなく、これも詳細不明。
 なお、旧鎮座地名・宇野辺(ウノベ)とは、当社名・井於(イノベ)が訛ったものというが、宇野辺がどの辺りにあったかは不明。

 当地域は古く“井於荘”とも呼ばれたというが、茨木市史によれば、
 「井於は、蔵垣内を中心とする旧三宅村が井於荘だったと思われる。長秋記(中納言源師時・1105--36間の日記)・大治5年(1130)段に、『井於荘 遣使 雑色常家季』とあり、著者の源師時は村上天皇の曾孫で、このとき皇后権太夫であることから、井於荘は摂関家ではなく皇室領であったのではないか。
 ただ、井於神社は16世紀初頭(上記の天正年中)に三宅氏によってアメノコヤネが勧請されており、全く藤原氏(摂関家)・春日大社と無関係ともいえない」
とある。
 当地は古く12世紀(平安末期)以前から“三宅荘”と呼ばれる地域で、“三宅”が皇室の直轄領・“屯倉”からのものであれば、皇室領というのも頷ける。

 また三宅荘について、茨木市史に
 「蔵垣内を含む茨木・吹田・摂津の3市にまたがる地域は、中世以降も三宅荘とか山田荘と名づけられていた。しかし、その中枢地区は、中世に出羽守を称する三宅氏が居館を構えていた蔵垣内であったと考えられる
 この氏族の出自もまた、中臣大田連・中臣藍連らと同様にアメノコヤネを遠祖とあおぐ中臣氏であった」
とある。
 これに対して、三宅荘には、新撰姓氏禄(815)・諸蕃条にある
 「摂津国諸蕃(新羅) 三宅連 新羅国王子天日矛命之後也」
とある新羅系渡来人・三宅連が居住していたとする説もあり、はっきりしない。

※社殿等
 南に建つ大鳥居を入り参道を進むと正門が建つ。この正門は、かつて当地を居住していた三宅氏の菩提寺・常楽寺が明治6年(1873)廃寺となったとき、その一宇の門を移築したものという。
 社殿右手に、正面に“井於社”・側面に“三宅村”と刻した石碑(社号石)が立ち、台座に“菅博房建之”とある。この石碑は、由緒ある神社がわからなくなるのを憂えた徳川幕府が、幕臣・菅博房に命じて立てさせたものという(1736頃)

井於神社/鳥居
井於神社・鳥居
井於神社/拝殿
同・拝殿
井於神社/本殿
同・本殿
井於神社/正門
同・正門
井於神社/社号石
同・社号石

◎境内社
 社殿左手に、末社として水神社以外に“八幡神社”(八幡大神・須賀八耳命・天照大神・豊受大神)・“大国社”(大国主命・事代主)・“厳島神社”(市杵島姫命、覆屋背後の池中の小祠に祀られている)・皇大神社(天照皇大神・八幡大神)があるが、いずれも明治末期の神社統合令によって近傍各地から遷されたもの(明治42年1909)で、それぞれ覆屋の中に古い祠が収められている

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