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摂津(川辺郡)の式内社/伊佐具神社
兵庫県尼崎市上坂部5丁目
祭神−−主神:五十狭城入彦尊
                               配神:応神天皇・火之迦具土神・菅原道真・大物主神
                                                               2008.08.19参詣

 延喜式神名帳に『摂津国川辺郡 伊佐具神社 鍬靫』とある式内社。川辺郡七座の最初に記され、祭祀に当たって唯一鍬・靫の奉斎を受けているので、それなりの格式をもった神社である。ただ、社名・伊佐具の語意・由緒は不明。
 当社略記には、「当神社は、市内唯一の式内社」とあるが、東南約300mにあったイコタ古墳の上に鎮座する伊居太神社(イコタ、別稿・伊居太神社参照)もまた式内社を名のり、近接して二つの式内社があるというややこしい関係となっている。

 JR東海道線・塚口駅の東南約600m、住宅地のなかにある神社で、前面道路をはさんで南には小公園がある。

※祭神
 祭神・五十狭城入彦(イサギイリヒコ)とは、景行紀によれば景行天皇の第十皇子でヤマトタケル(小碓尊)の異母弟、成務天皇(ワカタラシヒコ)の同母弟に当たる(古事記では“若木之入日子−ワカキノイリヒコ”という)
 当社略記には、
 「武勇すぐれた御兄日本武尊(ヤマトタケル)と共に諸国を平定された、兄宮に勝るとも劣らざる英知の大神にして、庶民その偉功に景仰し社殿を営み当地に奉祀された。・・・」
とあるが、記紀ともにイサギイリヒコの事蹟・後継氏族などの記載はない。
 ただ先代旧事本紀(9世紀後半)によれば、古事記にいうワカキノイリヒコは“三河長谷部直の祖”という(地方豪族だからか、新撰姓氏禄には見えない)

 同じイサギイリヒコを祭神とする式内社として、愛知県岡崎市に『和志取神社』(ワシトリ)があり、その由緒には
 「景行天皇の皇子で、勅命によりこの地方の逆臣大王主等を捕らえ、これより国内治まり庶民大いに安堵するという。後、此の地に崩去され、和志山の地に陵墓を定め、神霊を祀りて和志取神社と称す」
とある。
 この神社は明治初年の一時、長谷部神社と改称していた時期があったいうから、旧事本紀にいう三河長谷部直がその祖・イサギイリヒコを祀ったものと思われる。
 なお景行天皇の御子80人ほどのうち、ヤマトタケル・ワカタラシヒコ(成務天皇)・イホキイリヒコ以外の御子たちは、諸国郡に派遣されたという(景行紀)から、イサギイリヒコ(ワカキノイリヒコ)は三河地方に派遣されたのであろう。

 この伝承をうけて上記由緒が記されたと思われるが、三河国に派遣されたイサギイリヒコが摂津国にある当社に祀られる由緒は不明。
 イサギイリヒコに係わる伝承の有無は不明で、今残っている当社に関係する伝承は、下記する神功皇后に係わるミヌメ神についてのもののみである。これらからみて、本来はミヌメ神を祀っていたものが、後世、イサギイリヒコに変わったのかもしれない(坂合部連については、別稿・伊居太神社−尼崎−参照)。在地の土着神を、記紀に記す神々に変更した事例は多々ある。。

※創建由緒
 当社略記によれば、
 「当社の創立年代は不詳だが、紀元860年(仲哀天皇9年、天皇の崩御年)以前であると思われる。
  これは神功皇后筑紫に行幸されるとき、当社神前に上陸、諸神を会して祈誓されし故事によりて明らかである」
という。
 これは、摂津国風土記逸文・美奴売(ミヌメ)の松原の条に、
 「美奴売と称するは神の名で、この神は元能勢郡の美奴売山にいた。
 昔、神功皇后が筑紫の国においでになった時、諸々の神を川辺郡の神前(カムサキ)の松原に集めて、幸いあらんことを御祈願された。
 その時、この神が『私も守護しお助けしましょう。・・・私の住む山の杉の木で、私が乗る船を造り、之に乗って行幸されれば、無事であらせられるでしょう』と教えたので、皇后は教えのままに船を造らせた。この神の船は遂に新羅を征伐したので、皇后は帰還後、この神をこの浦に鎮座させて祀り、この船を神に奉納した」(大意)
とあり、
 ここでいう川辺郡・神前とは現尼崎市神崎のことで、当社の辺りを指すことから略記に記されたのであろうが、元はミヌメ神を祀っていたというかすかな記憶があったからとも思われる。

 しかし風土記を読むかぎりでは、当地に神社が創建されたのは皇后の帰還後であり、皇后が出発前の神祭をおこなったのは臨時の神籬(ヒモロギ、仮説祭場)であって、常設の神社があったとは読めない。
  そこからみて、風土記の伝承をうけての創建由緒とはいうものの、当社の創建を仲哀9年以前とするのは疑問がある。

 当社は川辺郡で鍬靫をうける唯一の神社で、略記には
 「神名帳の川辺郡内筆頭の神社で、市内最古はもちろんのこと、特に祭神の御陵が現在も宮内省において管理奉祀されているように、他に類をみない由緒ある古社である」
とある。
 ここでいう祭神の御陵とは、岡崎市西本郷にある“和志山1号墳”(前方後円墳、L=60m、φ=35m、H=5m)のことらしいが、今、この古墳はイサギイリヒコの陵墓として宮内庁管理となっている。ただ、旧三河国にある祭神の陵墓を略記に載せるということは、逆にいえぱ゛、当社と祭神との係わりが薄く、何らの事蹟もないことを示唆するともいえる。

 ただ当社に係わって、延喜式に
 「新羅からの使節が来朝したとき神酒を供したが、その酒を醸すための稲を大和国・河内国・和泉国・摂津の国の8社から集めた。そのとき、当社も選ばれて30束の稲を住道社(大阪市東住吉区・中臣須牟地神社という)に送り、そこで集められた稲を以て酒に醸した。・・・」(延喜式玄蕃寮)
との記事があり、古代のヤマト朝廷から重要視されたことを示している。
 ただ、酒を醸す住道社(神須牟地社か)から遠く離れた当社が選ばれた理由は不明。鎮座地名・坂部が酒部とも記すことから酒の醸造に係わる神社ではないかとも推測されているが、これに関連するのかもしれない。

※社殿等
 道路脇の大鳥居を入った境内の正面に拝殿・本殿が並ぶが、特記するような事項はない。


伊佐具神社/鳥居

同・拝殿

同・本殿
 社殿右手に、白龍稲荷神社がある。本社社殿とほぼ同じ規模の社殿を有し、略記によれば、もと当社にあった神宮寺・福円山淨徳寺が、明治初年の神仏分離によって廃止されたとき、もとの観音堂を移してを稲荷神社として祀ったものという。今の当社は、イサギイリヒコを祀る式内社というより、福を与える稲荷神社として知られているらしい。

◎孝徳天皇行在所・小墾田宮跡
 境内の一画に自然石の石碑(約1mほど)が立っている。略記に、
 「孝徳天皇が長柄豊崎に遷都されたとき、舟運によりて神前浜に御上陸、風光を賞で給い、此の地に行在所・小墾田宮を営み給う。その状を知る碑境内にあり。
 玉葉雑二
  おはたゝ゛の 板だの橋の と絶えしを ふみなおしても わたる君かな  源実速」
とある石碑だが、自然石のため碑面の文字は読み難い(同趣旨らしい案内が石碑の傍らに立つが、これも文字がかすれていて読みづらい)
 孝徳天皇が長柄豊崎宮で政をとられたのは史実だが(孝徳紀・大化元年12月条)、小墾田宮とは推古天皇の古都で飛鳥・雷丘付近との説が有力で、それを当地付近に充てるのには疑問がある。
伊佐具神社/行在所宮跡の碑
行在所宮跡の碑

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