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摂津(嶋下郡)の式内社/天石門別神社
付−茨木神社
大阪府茨木市元町四番
祭神−−天石門別神社−−天手力男命・(配祀)天宇受売命・豊国神・東照神
 茨木神社−−建速素盞鳴尊・
(配祀)天児屋根命・誉田別命
                                                                2009.6.23参詣

 延喜式神名帳に、『摂津国嶋(島)下郡 天石門別神社(アメノイワトワケ)』とある式内社だが、今は茨木神社(イバラキ)の社殿後方に“奥宮・式内天石門別神社”として鎮座している。

 茨木市の中心市街地・阪急京都線・茨木市駅から139号線を西へ約500m、道路北側に面して大鳥居あり。長い参道奥に茨木神社社殿が、その奥に天石門別神社が鎮座する。市街地のなかにある神社で、元茨木川右岸に沿って南北に長い境内を有し、今、西側に元茨城川緑地が南北に連なり、憩いの場となっている。。
茨木神社/大鳥居
茨木神社・大鳥居
茨木神社/社殿配置図
茨木神社・社殿配置図

※祭神
◎天石門別神社
 今、天石門別神社の祭神はアメノタジカラオ以下の4座となっているが、大阪府誌(明治36年1903)には
 「アメノコヤネ命の外祖・アメノイワトワケ命とアメノウズメ命とを合祀せり・・・」
とあり(大阪府全志・大正11年1922も同じ)、アメノイワトワケがアメノタジカラオと替わっているが、社名からみてアメノイワトワケが本来の祭神であろう。ただ、アメノイワトワケの外祖をアメノコヤネというのは確認できない。

 アメノイワトワケとは、天孫降臨に際して天孫ニニギに従って、智慧の神・オモイカネ神や怪力の持ち主・タジカラオ神と一緒に天降った神で、
 「アメノイワトワケ神、亦の名は櫛石窓神(クシイワマド)と謂ひ、亦の名は豊石窓神(トヨイワマド)と謂ふ。この神は御門(ミカド)の神なり」(古事記)
とあるように“宮殿の門を守護する神”であって、神祇官西院坐二十三座の内にも“御門坐祭神八座”としてクシイワマド・トヨイワマド神が祀られている(宮廷四方の4門×2座)

 天孫降臨に随伴した神々は天岩屋戸神話で活躍する神々がほとんどだが、この神は出てこない(日本書紀にも出てこない)。ただ、同時に天降ったタジカラオが天岩屋戸の扉を引き開けてアマテラスを再現させた神であることから、同じ門・扉に関係する神として、より知名度が高いタジカラオに差替えたのかもしれない。

 配祀されている女神・アメノウズメは、天岩屋戸の前でアマテラスを呼び戻すための呪的な踊りをした神で、天孫降臨に際してサルタヒコを顕した神でもあるから、扉・門・道などを開くことと関係するともいえるが、わざわざ配祀される由緒は不明。
 同じ配祀神の豊国神・東照神は不明。神名からみて豊臣秀吉と徳川家康とも愚考されるが、これらを祀る由縁は見当たらない。

◎茨木神社
 今の主祭神はスサノヲ尊となっているが、かつては、下記するようにゴズテンノウではなかったかと思われる。
 配祀されているアメノコヤネと応神天皇はそれぞれ春日神社及び八幡神社の祭神だが、これらを合祀する由緒も不明だが、下記する織田信長の神社破却伝承からのものかもしれない。
 邪神・邪霊・疫病は外からやってくると信じた古人たちが、何時の頃かは不明ながら、当時の流行神(ハヤリガミ)でもあった防疫神・ゴズテンノウを祀ったものが、次第に、本来の祭神であるアメノイワトワケ神をさしおいて崇拝されるようになり、別社を創建して主祭神となったのかもしれない。いずれにしても、当社の創建に関する資料が見当たらず、詳細不明。

※鎮座由緒
 神社由緒によれば、
 「当神社は、平城天皇の御代、『大同2年(807)坂上田村麻呂が荊切(イバラキ)の里をつくりしとき、天石門別神社が鎮座された』と伝えられている。・・・この荊切の里は、今日の宮元町付近と伝えられている」
とあるが、管見したかぎりでは、当社創建年代に関する資料は見えず詳細不明。

 坂上田村麻呂(758--811)は平安初期の桓武・平城・嵯峨天皇に仕えた武官で、征夷大将軍として蝦夷地平定に赴いた(797〜)ことで知られる。
 武官として朝廷を守ることと、アメノイワトワケが宮門を守ることとは通底するから、田村麻呂が宮廷の守護神としてイワトワケを勧請したとも解されるが、田村麻呂創建云々とは、当社創建を古い時代にもっていくための付会ともいえる。

 この天石門別神社と茨木神社との関係はよくわからない。神社由緒には、
 「明治5年の社格制度により茨木神社が郷社に列せられるが、氏子による“元宮”天石門別神社への社格授与運動が起こり、同12年郷社に列し、一境内に郷社が2社ある全国でも珍しい神社」
とあり、茨木神社の元宮が天石門別神社らしいが、
 大阪府全志(大正11年1922)などには
 「古くは茨木神社と共に宮本町にありしも、後共に此に移りて・・・」
とあり、また、氏子の要請により別社として郷社に列していることからみると、別々の神社ともとれる。

 茨木神社の創建由緒・時期なども不明。ただ、茨木神社の主祭神・スサノヲにからんで、大阪府全志に
 「茨木神社は市街の西端字五十鈴にあり、スサノヲを主神として相殿にアメノコヤネ・応神天皇を祀れり。創建の年代は詳ならず。古は宮本町にありしが、天正年中(1573--92)織田氏の耶蘇教を信じて所在の神社神仏を焼却するに際し、天照大神・春日大神・八幡大神及び牛頭天王のみは焼くべからずとせしかば、牛頭天王と偽称し、以てその劫火を免れ、ついで今の所へ移転し、明治5年郷社に列し、・・・」
とあり、また神社由緒には、
 「高槻城主高山右近(1571--85)が、織田信長に衒い神社仏閣を焼却するに際し、信長が天照大神・春日大神・八幡大神及び牛頭天王の諸社は焼くべからずとしたので、ゴズテンノウを祀ると詐称して焼却を免れたと伝える。
 そして元和8年(1622)、スサノヲ大神を正殿に齋き相殿として春日大神・八幡大神を祀る社殿を新たに築いて本殿とし、天石門別神社を奥宮として今日に至る」
とある。

 これらの資料からみると、16世紀にはゴズテンノウを祀ると称する神社が宮本町付近にあったことは確かなようで、今の茨木神社の主祭神が、ゴズテンノウと同体とされるスサノヲであることからみて、この記述は茨木神社を指すと思われる。

 また、織田信長あるいは高山右近による神社仏閣の破却を免れるために祭神・ゴズテンノウを詐称したとあるが、信長が破壊したのは敵対勢力としての社寺であって、すべての社寺の破却を目論んだとは思えず、ましてや、皇大神社・春日社・八幡社・牛頭天王社を除いた(信長の生土神が尾州津島の牛頭天王だったからという−摂津名所図会)など、解せない。
 また高山右近は有名なクリスチャン大名で、右近がおこなった神社仏閣の破却は信仰上からのものと思われる。とすれば“○○神だから壊すな”と祭神によって区別したというのも解せない。

 これらに対して、大阪府史蹟名勝天然記念物(発刊期不明)には、天正10年(1582)に天石門別神社から出された禁制があること、文禄2年(1593)の棟札に“播州太田郡茨木氏神三社相殿”として春日大神・牛頭天王・八幡大神が挙げられていることから、ゴズテンノウの勧請は詐称ではなく、その頃流行した防疫神としての勧請であって、その時期は天正以後ではないかと記している。

 今の主祭神はスサノヲとはいうものの、ゴズテンノウとスサノヲとは同じ防疫神としての神格を有し同体とされることからみて、江戸時代まではゴズテンノウが主祭神だったのかもしれない(ただ、江戸中期末の資料・摂津名所図会には祭神・スサノヲとあり、平仄があわないが)。それが明治初年の神仏分離に際して、ゴズテンノウを祀ることが禁じられたため、スサノヲに差し替えられたとも考えられる。

※社殿
◎天石門別神社
 茨木神社本殿の背後(北側)に建つ。切妻造・妻入りの簡素な社殿とみえるが、これは覆屋で、中に春日造の本殿、その左右に流造の相殿があり、それぞれの祭神が祀られているという(神社由緒)
 当地に社殿が造営されたのは元和8年(1622)のことで、それまでは小祠だったらしい。現覆屋は昭和49年(1974)の造営。
 社殿前に酒樽が奉納されているが、社殿床下に“赤井”と称する名水があるというから、酒造に必要な名水を求めての奉納かもしれない。

天石門別神社/鳥居
天石門別神社・鳥居
天石門別神社/社殿
天石門別神社・社殿

◎茨木神社
 本殿の造営は天石門別神社と同じく元和8年で、中にスサノヲを祀る正殿と春日神・八幡神を祀る相殿があるらしい。
 当所は本殿のみだったが、明治13年(1880)新たに弊殿と拝殿が檜皮葺きで建造されたが、昭和4年(1929)現在の銅板葺きに葺き替えられたという。

茨木神社/拝殿
茨木神社・拝殿
茨木神社/本殿
同・本殿

※末社
 境内の両側の末社7社が点在している。皇大神宮(アマテラス大神)・稲荷神社(ウカノミタマ・サルタヒコ)・愛宕神社(ホムスヒ)・天満宮(菅原道真)・主原神社(アメノコヤネ・応神天皇)・多賀神社(イザナギ)・皇大神社(アマテラス)・事平神社(オオモノヌシ・崇徳天皇・カナヤマヒコ)・厳島神社(イチキシマヒメ)・恵美須神社(コトシロヌシ・オオクニヌシ)を数えるが、天満宮には、摂河泉守護職に任じられた楠木正成が茨木城(砦)を築いたとき鎮守として勧請したもので、廃城後に当社地内に遷したとの伝承がある。

◎黒井の清水
 境内左手奥に“幻の名水 黒井の清水”と称する井戸があり、傍らに自然石の石碑が立っている。大阪府全志によれば、
 「天石門別神社の床下に赤井あり。その西に黒井あり。共に名水にして、豊川村大字宿久庄の青井と併せて嶋下郡の三清水と称し、黒井は豊臣秀吉の御茶の水に汲みて大阪城に輸せしものなりといふ。今も町内の飲用水なり」
とある。
 今は竹製の蓋が被さり、用いられてはいないらしい。
茨木神社/黒井の清水
黒井の清水

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