トップページへ戻る

摂津(嶋上郡)の式内社/神服神社
大阪府高槻市宮之川原元町1丁目
祭神--素盞鳴命・熯之速日命・麻羅宿禰

 延喜式神名帳に『摂津国嶋上郡 神服神社』とある式内社で、一般にシンプクと呼ぶらしいが、正式社名はカムハトリ(又はカミハトリ)

 JR高槻駅の北西約2.5km、駅から原大橋または上の口行きに乗車、浦堂バス停下車、すぐの信号を左(西)へ入ったところに鎮座する。道路をはさんだ南に清水小学校がある。
 大鳥居を入った広い境内奥にに社殿が建つが、入母屋造・平入りの拝殿の後ろに分離して、瑞垣に囲まれた神域内に唐破風を持つ本殿が鎮座している。境内には末社・社務所など関連社屋が建つのみで閑散としている。社務所も閉まっていて、用のある人は隣の神主宅までとある。

神服神社/大鳥居
神服神社・大鳥居
神服神社/拝殿
同・拝殿
神服神社/本殿前
同・本殿前の門と瑞垣
神服神社/本殿
同・本殿

※祭神
 当社祭神はスサノヲ・熯之速日(ヒノハヤヒ)・麻羅宿禰(マラ スクネ)となっているが、本来のそれはヒノハヤヒ・マラスクネの2座で、スサノヲは後世の合祀という。
 ヒノハヤヒとは、イザナミが火の神・カグツチを産んで亡くなったとき、怒ったイザナギがカグツチを切ったときに生まれた神(古事記、日本書紀は、カグツチを切った剣の鍔からしたたる血から生まれたという)
 マラスクネについては、新撰姓氏禄に
 「摂津国神別(天神) 服部連 熯之速日命十二世孫麻羅宿禰之後也」
とあるように、ヒノハヤヒの子孫で且つ服部連の先祖であり、続いて
 「允恭天皇(書紀では412--53)の御代、織部の司に任ぜられ、諸国の織部を統領し、よって服部連と号す」
とあるように、全国の機織部を統括したという(ただし、記紀の允恭朝に、これに該当する記述はない)

 当社の辺りは、かつて摂津国嶋上郡服部(ハトリ)郷に属し、この地を本貫とする服部連一族がその祖・ヒノハヤヒとマラスクネを祀ったのが始まりという。
 ただ、マラスクネの名は姓氏禄以外には見えず、また姓氏禄・大和国神別に「服部連 天御中主命十一世孫天御桙命之後也」と、祖神を異にする服部連もあり、その出自ははっきりしない。

 機織・養蚕に係わる説話として
①書紀・応神37年条
 「阿知使主(アチオミ)・都加使主(ツガオミ)を呉に遣わして縫工女を求めさせた。・・・呉の王は縫女の兄媛(エヒメ)・弟媛(オトヒメ)・呉織(クレハトリ)・穴織(アナハトリ)の四人を与えた」
②書紀・雄略14年条
 「(呉に遣わされていた)身狭村主青(ムサノスグリアオ)らは呉国の使いとともに、呉の献った手末(タナスエ)の才伎(テヒト)、漢織(アヤハトリ)・呉織(クレハトリ)と衣縫(キヌヌイ)の兄媛・弟媛らを率いて(帰ってきた)・・・。
 衣縫の兄媛・弟大三輪神社に奉り、弟媛を漢(アヤ)の衣縫部(キヌヌイベ)とした。漢織・呉織の衣織は飛鳥衣縫部・伊勢衣縫の先祖である」
③同・15年条
 「天皇は詔して秦の民を集めて秦酒公に賜った。公は租税としてつくられた絹などを献って、朝廷に沢山積み上げたので“太秦”の姓を賜った}
などがあり、いずれも機織りの技術はアチオミやハタ氏といった渡来人によってもたらされたという。
 これらの説話からみて、当地の服部連も機織技術を持った漢(アヤ)系の渡来氏族であり、当社本来の祭神はその祖神(マラスクネ)であろう。

 スサノヲが合祀された由縁ははっきりしないが、、日本書紀・天安河での誓約(ウケヒ)の段・第3の一書に、
 「スサノヲの左の足の中からヒノハヤヒ命が生まれた」
とあることから、服部連の祖神・ヒノハヤヒの父神として祀ったともみれるが、日本書紀の一書(第4)に記す、スサノヲが高天原を追放されたとき、その子・イタケルをつれて一旦新羅国に降り、そこから改めて出雲国に帰ってきた、との伝承から、渡来人の祖神に擬せられることが多く、当社もその一つとも考えられる。

 別伝として、“織田信長がアマテラス・スサノヲ以外の神を祀る神社を破壊せよと命じたとき、破壊を免れるためにスサノヲを祀ると詐称した”ともいう(大阪府史蹟名勝天然記念物)。当地辺りには、信長(あるいは高山右近)による神社破壊を免れるために特定の神(アマテラス・スサノヲ・ゴズテンノウなど)を祀ると詐称したとの伝承をもつ神社が幾つかあるが、信長がそういう命令を発したかどうかは疑問(別項・天石門別神社参照)
 ただ近世の頃、当社はゴズテンノウを祀る神社として知られていたというから、江戸時代に流行した防疫神としてのゴズテンノウを祀っていたものが、何時かの時点で同一神格をもつスサノヲに替わったのかもしれない。

※鎮座由緒
 当社の創建について、神社社頭に掲げる由緒には
 「伝承では允恭天皇のとき麻羅宿禰が織部司に任ぜられたというから、8・9世紀の頃、服部氏の氏の神を勧請し、あわせて氏族の始祖をその本貫の地に祀ったのが創祀である。
 当時は服部神社と呼ばれ、のち醍醐天皇の延喜年間(901--23)神服神社と定められ現在に至っている」
とあり、祭神にからむ伝承からみて妥当な創建伝承であろう。

 当社の北西800m、帯仕山一帯に“塚脇古墳群”と呼ばれる後期群集墳があり(20数基あったという)、発掘調査の結果、金環・紡錘車・石棺片などが出土しているという。
 この古墳群には大陸系の墓制とされる方墳が多く、且つ紡錘車など機織りに関係する遺物が出土していることから、服部連一族の墓陵の可能性が強いという。
 また、当社の南、芥川をはさんだ対岸に式内社“阿久刀神社”があるが、そこにも顕宗天皇の御代に蚕織絁絹の見本を献上したとの伝承があり、古く、この辺り一帯には養蚕・機織りに関係する氏族が集中していたことが覗われる。

 創建後の経緯について、大阪府誌(明治36年1903)
 「降りて天正の頃数々の兵火に罹り旧記を失なひて中世の沿革を知る能わず。爾後、社域も縮小し漸次衰頽して今日に至りしものならん」
というが、町中の神社としては結構な広さを維持している。

※末社

 今、境内には末社の春日神社と稲荷神社の2社が建ち、他に小さな祠1基がある。
 大阪府全志(大正11年1922)には、“明治40年(1907)に春日神社(祭神:アメノコヤネ)・稲荷神社(ウカノミタマ)を境内に移し、上宮神社(服部連)・若宮神社(アメノコヤネ)・神明神社(アマテラス・トヨウケ)を合祀した”とある。明治40年代に強行された神社統合整理によって、近傍の字から当社に移された社であり神々である。
神服神社/末社目春日社
末社・春日神社

トップページへ戻る