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摂津(嶋下郡)の式内社/三島鴨神社

【三島鴨神社】 
  大阪府高槻市三島江2丁目
  祭神−−大山祇神・事代主神
論社−−【鴨神社】
  大阪府高槻市赤大路町
  祭神−−大山積(祇)命

 延喜式神名帳に、『摂津国嶋下郡  三島鴨神社』とある式内社だが、その後裔社として高槻市三島江の“三島鴨神社”と同赤大路町の“鴨神社”の2社があり、論社(候補社)となっている。

※祭神
◎大山積神(オオヤマツミ)
 両社ともオオヤマツミを主祭神とし、三島鴨神社は加えて事代主(コトシロヌシ)を併祭神としている。
 しかし延喜式に記す三島鴨神社の祭神は一座であって、それはオオヤマツミを指すと解される。とすれば、コトシロヌシは後世の追祀かと思われる。

 オオヤマツミとは、一般にはイザナギ・イザナミの神生みによって生まれた“山の神”である“大山津見神”を指す(古事記)
 オオヤマツミそのものにはこれといった事蹟はないが、その御子神には、八岐大蛇説話に登場するアシナヅチ(クシイナダヒメの父)・スサノヲの后カムオオチヒメやニニギの妃コノハナサクヤヒメなどがあり、古代の大王家との関係は深い。

 一方、伊予国風土記逸文・大山積の神・御島条によれば、
 「乎知郡(ヲチ)の御島(現愛媛県越智郡大三島)においでになる神の御名はオオヤマツミの神。又の名は“和多志(ワタシ:渡し)の大神”である。この神は仁徳天皇の御代に顕現なされた。この神は百済から渡っておいでになり、摂津国の御島(三島)においでになった神である」
という。“渡しの神”といえば海の神・航海の神で、記紀にいう山の神・オオヤマツミとは同名異神となる。

 三島鴨神社の由緒には、
 「淀川鎮守の神として、百済よりここ摂津の“御島”にお迎えした」
とあり、
 また鴨神社由緒にも、同じように
 「伊予風土記では百済からの渡来人が祀った神とされ、百済の第25代武寧王(斯麻王)の没(523)により、これを“斯麻の神”・“嶋の神”更に“御嶋の神”として祀られ、別名“和多志(ワタシ)の大神”(海の神)とも記されている」
とあり、両社とも渡来神としてのオオヤマツミをもって祭神としている。

 百済の武寧王(在位501--23)とは朝鮮半島における当時の強国・高句麗に壊滅的打撃を与え、中国南朝の梁に朝貢する(521)など、百済の国威を発揮したとされる王で、その諱(イミナ)を斯麻(シマ)といった。
 武寧王の没後、百済からの渡来人がその諱から“斯麻の神”として崇めていたものが、わが国で同音の“島”へ、更に“御島”へと変化し、渡しの守護神・航海の守護神と化したのが元姿かもしれない。

 全国的にオオヤマツミを祀る神社は多く、祭神としてはオオヤマツミ単独の神社、コトシロヌシを併祭するものもある。
 そのなかで
 ・摂津の三島鴨神社
 ・伊与の大三島神社−−現大山祇神社(愛媛県大三島町)、推古2年694に摂津三島より遷ると伝えるが、諸説あり
 ・伊豆の三島神社−−静岡県三島市、大山祇神社の分社という(時期不明)が諸説あり、
               初め伊豆諸島の三宅島に鎮座したが、後、伊豆下田の白浜海岸を経て現在地へ遷ったという
の神社を「三・三島社」と称し、摂津の三島社については他と区別するために“鴨”を加えた、ともいう(大阪府誌1903)

 この三・三島社について、三島鴨神社由緒には
 「当社から御魂が遷されて、伊与の“大山祇神社”、伊豆の“三島神社”がつくられ、“日本三『三島』”として崇拝されるようになり、三社の根源社として、当社は格別に崇められている」
とあり、
 鴨神社由緒には
 「当社・オオヤマツミを守護神とする百済系の三島氏が百済との海上交易を深めるため、当摂津国から愛媛県の伊与大三島に“三島大社”を勧請し、後の三島水軍・村上水軍の守護社となった。また、伊豆にも東上し、伊豆の“三島大社”を起こすなど、当社は全国千数百の三島神社発祥の大本の地である」
と記し、両社とも三島社発祥の地は当社だと主張している。

 しかし、摂津の三島神・オオヤマツミの原点は、式内社調査報告(昭和52年1977)
 「古代の難波を“難波八十嶋”と呼んだように、大阪湾内には旧淀川をはじめとする幾筋もの河川が運び込む土砂によって造られた陸地(砂州)が点在していたが、その島々が形成されていく有様を神の威力・神の仕業と感じ、これを“御島神”と呼んだ」(大意)
と記すように、神秘的な自然現象を神の仕業とする自然神信仰に発するもので、その御島神が土地の神・三島神へと変貌したともいう。
 また伊豆の三島神社についても、その原点は伊豆諸島に多い火山の噴火と、そこから起こる新島の出現という現象を神の仕業として祀ったものともいう(最初に鎮座したという三宅島は現在でも活火山の島として知られる)

◎事代主命(コトシロヌシ)
 記紀神話では、出雲神話の主神・オオクニヌシの子神とされ、父オオクニヌシから、葦原中国を天神に譲れと迫るタケミカヅチへの回答を任され、天ッ神への恭順を宣言して海中に隠れたとされる。ここから、コトシロとは“事知る・言知る”の意で、託宣を司る神とされる。

 一方、出雲国造神賀詞(イズモクニノミヤツコカンヨゴト)には、
 「オオナムチ命が申されますことは、この大倭の国こそは皇孫命のお鎮まりなさるべき国であるので、・・・ご自分(オオナムチ)の御子であるアジスキタカヒコネ命の御魂を葛木の鴨の社に鎮座させ(現高鴨神社)、コトシロヌシの御魂をウナテに坐せ(現高市御県坐鴨事代主神社)、・・・これらを皇孫命の身近の守護神として貢りおいて、云々」
とあり、オオナムチ(オオクニヌシ)が皇室の守護神として自分の子神を都の周りに鎮座させたという。新任の出雲国造による神賀詞奏上の初見は元正天皇・霊亀2年(716)とあるから、8世紀初頭には、出雲の神・コトシロヌシが皇室の守護神として葛城の地にも祀られていたのであろう。

 しかし、元々は大和・葛城地方で崇敬されていた“神”(田の神ともいう)で、葛城山の一言主神(ヒトコトヌシ・善事も悪事も一言で言い放ち決定するという)の神格の一部を引き継いたことから託宣神の神格が加上され、葛城を本拠とする葛城賀茂(鴨・加茂)氏が奉斎した神ともいう。

 その在地の神が出雲系とされる由緒について、出雲族の葛城進出にともなって出雲系の神と化したとの説、ヤマト政権の強大化にともなう葛城・賀茂氏の衰頽のなかで、出雲系として記紀神話に組みこまれたとする説などがあり、はっきりしたことはわからない。
 なおコトシロヌシは、国譲り交渉のとき海にあそんでいたこと、国譲りを承諾したのち海中に隠れたことなどから、同じ海の神・漁業の神を起源とする福の神・エビスと習合して、各地のエビス神社に祀られることが多い。

◎オオヤマツミとコトシロヌシ
 コトシロヌシを三島神社の祭神とすることについては、
 ・伊豆国賀茂郡に坐す三島神がコトシロヌシで、これが伊予の三島神と同体だから、摂津の御島神神社もコトシロヌシである
とする説(廿二社本縁)
 これに対して
 ・越智郡(伊予の大三島神の御名はオオヤマツミ神で、近来コトシロヌシとするのは甚だしき誤り也
と否定する説(新撰神名牒)
 また
 ・伊予の大三島神を遷祀したのが伊豆の三島神であるとする説が古く、伊豆の三島神をコトシロヌシとする説は新しいが、両説とも確実性はなく、三島の名が共通するによる付会説である。伊豆の三島神は御島神で、伊豆諸島を造成・開発された神と信じられた特異な神の意である(三島大明神考)
などがあり、
 当社についても、
 ・神代記にコトシロヌシが八尋鰐と化して三島溝咋姫と通じたとある。この溝咋姫の父三島溝咋耳神はオオヤマツミの子なるにて由縁がある。故に相殿にコトシロヌシを祀ったのであろう。オオヤマツミが当社本来の神であることは明らかで、近世、コトシロヌシを主祭神とするのは違う
とする(新撰神名牒)など諸説があり、いずれも式内・三島鴨神社の主祭神はオオヤマツミであって、コトシロヌシは近世になっての付会とするのが多い。(以上、式内社調査報告1977より抄出)

 しかし、式内・三島鴨神社が“鴨”を冠することからみて鴨(賀茂)氏との関係も無視できず、また鴨神社の辺りに鴨林(カンバヤシ)なる小字があったことなどからみて、古代のある時期に当地へ進出した賀茂氏が、その進出にともなって従来の三島神・オオヤマツミに被せて自家の祖神・コトシロヌシを併せ祀った、というのが妥当であろう。

◎賀茂(鴨)氏
 新撰姓氏禄には、賀茂(鴨)を名乗る氏族として
 @山城国神別(天神) 賀茂県主  神魂命孫武津之身命之後也
 A山城国神別(天神) 鴨県主  賀茂県主同祖  神武天皇欲向中州之時、山中嶮絶、跋渉失路、於是 神魂命孫鴨建津之身命、化如大烏翔飛奉導、天皇嘉其功、特厚褒賞。天八咫烏之号、従此始也
 B大和国神別(地祇) 賀茂朝臣  大神朝臣同祖  大田田祢古命孫大賀茂都美命(大賀茂足尼・大鴨積)奉賀茂神社也
    (大賀朝臣−−大和国神別(地祇) 素佐能雄命六世孫大国主之後也)
 C摂津国神別(地祇) 鴨部祝  賀茂朝臣同祖  大国主神之後也
 D左京皇別  鴨県主  治田連同祖  彦坐命之後也
   (治田連−−開化天皇皇子彦坐命之後也)
 E摂津国皇別  鴨君  彦坐命之後也
の6氏を記している。

 このうち@Aの賀茂県主系は、所謂“山城賀茂”といわれる氏族で、神武天皇が熊野の山中で道に迷ったときヤタガラスとなって導いた賀茂建角身命(タケツヌミ)を始祖とし、溯れば神魂命(カミムスヒ)に至る。京都・葛野地方を本拠とし、山城賀茂氏関係の神社として上賀茂(カモワケイカヅチ)・下鴨(タケツヌミ・タマヨリヒメ)の両社がある。

 BCの賀茂朝臣系は、“葛城賀茂”といわれる氏族で、オオモノヌシの子のオオタタネコの孫・大鴨積命(オオカモツミ)を始祖とし、葛城を本拠とする。葛城賀茂氏関係の神社として高鴨神社(アジスキタカヒコネ)・鴨都波神社(コトシロヌシ)がある。

 DEは開化天皇の皇子を始祖(皇別)とし、上記氏族とは別系統と思われるが、詳細不明。

 この山城賀茂・葛城賀茂の関係については、その祖神が異なることから別々の氏族とする説、葛城賀茂が山城に進出したのが山城賀茂とする説などがあり、定説はない。
 当社に関係する鴨氏は、オオクニヌシの御子・コトシロヌシを祀ることからみて葛城賀茂の系統であろう。


【三島鴨神社】

 現在の神社は、JR高槻駅の南約5km、駅から柱本行きバスで西面口下車、東へ約500m(そのまま乗っていたら、帰路のバスが神社前・三島江に停まるらしい)、運送基地・倉庫などが立ち並んだ中に位置する。神社前を東に進むと淀川右岸堤防へ出る(約500m)
 バス停からの道路は神社北側を走り、社域の角に小さな鳥居があり、境内へは北西から入ることになる。境内の北寄りに南面して平入・切妻造の拝殿が、その奥に流造の本殿が鎮座する。社殿正面(南側)の参道の先に大鳥居が立ち、その右脇に“式内三島鴨神社”の石標が立つ。
 境内には摂社・大将軍社(タケミカヅチ)・厳島神社(イチキシマヒメ)・竈神社(オクツヒコ・オクツヒメ)、および末社・唐崎神社(オオヤマツミ:三島鴨神社若宮・アメノコヤネ・菅原道真)・柱本神社(ウガノミタマ・菅原道真)・西面八幡神社(ホムタワケ)の3社がある。

◎創建由緒
 当社由緒によれば、
 「仁徳天皇が河内の茨田堤を造ったとき、淀川鎮守の神として百済より、摂津の“御島”にオオヤマツミを勧請した」
と仁徳天皇時代の創建とするが、これは風土記記述を受けた伝承として受け取るべきであろう。
 由緒は続けて
 「御島とは淀川の“三島江”にある川中島のことで、この辺りは淀川で最も神妙幽玄な景観をもっていた。ここは、古代の淀川本流に玉川湖沼が淀川に流れ込む入り江・玉江(三島江の別称)にあって、玉川水路が流出する土砂が堆積したもので、玉川の土砂をもってできた故に“御島”と崇められてきた。
 当社はもと“御島(三島)の社”として崇められ、淀川の鎮守であるとともに王都難波を守護する神として、祈りつづけられてきたが、豊臣秀吉が、淀川右岸堤防を築いたとき、川中島にあった当社を、三島江村の中に遷した」
とあり、
 他にも、
 ・当社いにしえは堤の上にあり、・・・(摂津名所図会1798)
 ・昔、当社は澱川の中流にありて社殿広壮を極めしが、文禄年中堤塘を築くに当りて今の地に奉遷し・・・(大阪府誌1903)
 ・旧社地は三島江村の東淀川堤防の辺りにして今川床と為ると云う。これ其地は河中にあり、文禄5年澱川修築の際、行水の害となるを以て現今の地所へ遷座し・・・(神社明細帳1910)
など、いずれも、昔は淀川の中洲にあったが、文禄年中(1592--96)に現在地に遷座したのが現在の三島鴨神社だという。

 ただ、これらの由緒は渡しの神・オオヤマツミを祀る三島神社としての由緒と解され、そこにはコトシロヌシを祀る鴨社としての由緒は含まれていない。後述するように、元々オオヤマツミを祀っていた三島社に、後世になってコトシロヌシを合祀したためであろう。

三島鴨神社/大鳥居
三島鴨神社・大鳥居(南側)

三島鴨神社/北側鳥居
同・北側鳥居
三島鴨神社/拝殿
同・拝殿
三島鴨神社/本殿
同・本殿


【鴨神社】
 JR摂津富田駅の西約800m、国道171号線から北に入った住宅地の中に鎮座する小社。三島鴨神社の北北西約5km弱に当たる。
 国道脇に立つ大鳥居をくぐり、民家間にのびる参道を進んだ先に、南面して平入り・切妻造・瓦葺の拝殿が、その奥に流造・銅板葺の本殿が建つが、三島鴨神社に比べて境内・社殿ともに小さい。

◎創建由緒
 当社由緒によれば、
 「創建年紀は不明なるも、初代神武天皇から第9代開化天皇(4世紀初め)までの奈良葛城王朝を支えた“鴨氏”によるとの伝承もあるが、伊予風土記では『仁徳天皇の頃、最初摂津国・御島の地に坐した』とあり、続日本紀によれば『摂津国嶋下郡の三島鴨神社なり』とある。即ち百済系の渡来人が、その頃創建したもので、・・・」
とあり、オオヤマツミを祀る三島社としての由緒が記されている。

 由緒前段でいう神武から開化天皇までは、欠史9代としてその実在が否定されていることから、その真偽は不明とする以外にないが、初期ヤマト朝廷の頃、奈良葛城地方に葛城氏を中心とする勢力があったことは、実在度が高いとされる葛城襲津彦(応神朝、葛城氏の祖)の存在、あるいは古代ヤマト王朝の妃に葛城氏出身者が多いことから確認される。

 また、“鴨氏が当社の創建に関与したとの伝承があるが”というが、当社辺りの小字名に“東・西・南鴨林(カンバヤシ)”があったことから、何時の頃からか鴨氏が当社辺りにも進出していたと推測され、彼らが、従来のオオヤマツミに被せて、その祖神を祀ったことから鴨神社を名乗ったとも考えられる。

 これら鴨氏の存在から、当社祭神を“山城賀茂と同神”とする説(二十一社記)、“鴨御祖大神”(摂陽群談1702)とする説がある。
 山城賀茂が祀る神とは、京都・下鴨神社・西本殿の祭神・建角身命(タケツヌミ=カモミオヤ大神)を指すが、当社祭神は、同じ賀茂氏の祖神でも、葛城賀茂氏が奉斎したコトシロヌシである可能性が大きい(宮司さんは、当社に関与する鴨氏は葛城鴨と云っておられた)

 ただ当社は、鴨神社を名乗るものの、祭神にコトシロヌシの名はなく、今の由緒も、鴨神社と名乗る由緒を直接的には語っていない。応仁の乱以降の戦乱によって社記などを焼失したというが、そこには鴨社創建に係わる何らかの記録があったのかもしれない。
 
 大阪府誌(明治36年1903)
 「当社往時の神域は一町五反歩余りの広さを有せしが、中古五反歩余に減じ、左右の山林一町余は除地たりしも、享保以来高入となり、社殿も応仁の頃兵火に罹りて焼尽せしかば、その後再建し、文禄年間再び造営せりといふ。
 明治5年村社に列せらる。今の境内は1900坪を有し、本殿・拝殿を存す。末社に稲荷神社あり」
とあるが、今は民家に囲まれた神社で、やや長い参道奥の狭い境内に建つ社殿は、一見してまだ新しく見える。

鴨神社/大鳥居
鴨神社・大鳥居
鴨神社/拝殿
同・拝殿
鴨神社/本殿
同・本殿


※論社ということ

 論社とは、式内社の後継社とされる神社が複数あることで、論社とは、いわば式内社の候補社ともいえる。
 現在の三島鴨社・鴨社のいずれが式内・三島鴨神社の後継社かについては、古くから諸説がある。
 その大きな論点は、両社の所在地に係わるもので、延喜式によれば、式内・三島鴨神社の所在地は摂津国嶋下郡となっているが、現在の両社の社地はいずれも旧嶋上郡に属する。

 特に現三島鴨神社の所在地は、条里制の研究などからみて昔からの嶋上郡であり、古資料に
 「三島江が旧嶋上郡に属して旧嶋下郡でないことは、両郡の条理の遺制より推定して断言できる。続日本紀にいう、“陽成天皇元慶8年(884)に従五位下を授けたられた摂津の三島神”とは当社のことだが、それは延喜式に挙げる三島鴨神社ではないと知るべし。・・・ 
 伊予に遷されたのは三島神社であって鴨神社ではない、延喜式にいう三島鴨神社は“三島の鴨神社”のことで三島神社ではない。この三島鴨神社はかつて幾島明神(多くの島々の神か)と称し、郡内の赤大路字鴨森に鴨神社と称するものがある」(大阪府史蹟名勝天然記念物・1931、大意)
とあるように、現三島鴨神社を式内・三島鴨神社とすることに疑義が呈されている。

 しかし現三島鴨神社が、昔は淀川に突出した砂州上にあり、16世紀末頃、淀川堤の修築に際して河川内となり現在地へ遷座したと伝えることから、淀川からかなり離れた内陸部にある鴨神社に比して、風土記にいう“渡しの神”との古伝承に合致するとして、当社を式内社の後裔とする説も根強い。
 確かに、現三島鴨神社をオオヤマツミを祀る三島社と解すればそうなるが、そこには鴨を名乗る由縁は見えない。

 対する鴨神社は、その所在地・赤大路字鴨林が両郡の境界辺りにあり、現在の地図でみても茨木市域(嶋下郡)内に食い込んでいることから、元は嶋下郡だったものが、何時の頃かに嶋上郡に変更されたのではないかといわれ、鴨神社を以て式内・三島鴨神社とする説がある。

 また、式内社調査報告に記載する資料には
 「旧記が無く不詳だが、伝聞によればオオヤマツミ命鎮座の地は嶋下郡と称し[当村は往古嶋下郡に属していたが、江戸時代に嶋上郡に編入すという]、且つ藍野御陵(継体陵)より凡そ4町(約400m)巽方(東南方)にあり。之を三島鴨神社という。俗に五位の鴨社又は三島社と伝う」(神社明細帳、明治初年  注−嶋上郡編入は江戸期以前ともいう)
 「(当社は)赤大路村の北端にあり、・・・往古延喜式内社にして・・・応仁の乱に兵火に罹るを以て、仮に祠殿を造営す。今の社は文禄年中(1592--96)の再建なりと雖も、旧記既に焼尽するに由なし。享保5年(1720)社域減じて今の形となる」(阿武野村誌)
とある。
 神社明細帳にいう“藍野陵巽方4町”が現鴨神社附近に当たることからみると、現鴨神社を以て式内・三島鴨神社の後継社とするのが妥当とも思える。

 今、鴨神社の由緒には
 「当社からの分社の三島鴨神社の由緒では、“地所は、嶋上郡、嶋下郡の中間で三島藍の陵(継体天皇御陵)より巽方4町にあり、往古は小社に非ず”とある」
と記し、現三島鴨神社は鴨神社の分社であって、鴨神社が式内・三島鴨神社であると主張しているようにみえる。

 たまたまお逢いした両社の宮司さんの話などを勘案すれば、式内・三島鴨神社は現鴨神社の辺り、赤大路町字鴨林付近に鎮座していたが、その辺りが京に通じる古い街道筋に近接していたことから、応仁の乱(1467--77)以降の戦乱に巻き込まれてすべてを焼失するなど荒廃して祭祀が続かなくなったために、何時の頃かに、式内・三島鴨神社という格式もろとも三島江の方に遷ったのではないかと思われる。

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