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摂津(嶋下郡)の式内社/新屋坐天照御魂神社
                                                              2009.08.03参詣

 延喜式神名帳に、
 『摂津国嶋下郡 新屋坐天照御魂神社(ニイヤニイマス アマテルミタマ)三座 名神大 月次新嘗 就中天照御魂一座預相嘗祭』
とある式内社で、同名の式内社が以下の3ヶ所に鎮座している。
 ・大阪府茨木市西福井3丁目(旧三島郡福井村)−−以下、“西福井社”という
 ・ 同   同  西河原3丁目(旧三島郡西河原村、旧称:新屋村)−−以下、“西河原社”という
 ・ 同   同  宿久庄5丁目(旧三島郡上河原村)−−以下、“上河原社”という

※祭神および鎮座由緒
 今、3社の祭神は次のようになっている。
 ・西福井社−−天照皇御魂大神(アマテルスメミタマ) 
              
・天照国照天彦火明大神(アマテルクニテル アメノヒコホアカリ)・ 天津彦火瓊々杵大神(アマツヒコ ホノニニギ)
           (ただし、ホノニニギを除いた2座とする資料が多い)
 ・西河原社−−天照御魂神(アマテルミタマ)(天照国照彦火明大神)
           相殿神−−天児屋根命(アメノコヤネ)・建御名方命(タケミナカタ)
 ・上河原社−−天照皇御魂大神
           ・天照国照彦火明大神・天津彦火瓊々杵命

 当社祭神はいずれも三座となっているが、延喜式に
 「(三座の中でも)アマテルミタマ一座は(月次・新嘗に加えて)相嘗祭にも預かる」
と注記して二座と区別していること、
 また西福井社社頭に掲げる由緒記に、
 「第10代崇神天皇の御宇、アマテルミタマ神が福井の西の丘山(日降ケ丘、ヒフリオカ)に降臨され、同7年9月、物部氏の祖・伊香色雄命(イカガシコオ)を勅使として丘山の榊に木綿を掛け、注連縄を引いて奉斎したのが創祀とされる」
とあるように、主祭神はアマテルミタマ神であることは確からしい。
 西福井社・西河原社の境内に立つ「新屋坐天照御魂社一座」(江戸中期・元文元年1736頃、並河誠所の式内社調査を基に菅博房建立したもの)との石標は、それを示唆していると思われる。

 この神が3社に別れて祀られている由縁について、由緒記には
 「神功皇后が、新羅出兵に際して新屋の川原で禊祓いと戦勝祈願をされ、凱旋ののち、アマテルミタマ神の幸魂と荒魂を東の川下と西の川上の辺りに祀られた。これが西河原社と上河原社」
とある。
 神功皇后云々は別として、古くから西福井社に祀られていたアマテルミタマ神を、ある時期に分祀したのが西河原・上河原の2社ということで、ここから西福井社が新屋坐天照御魂神社3社の中心との見方が強い。

 なお、当社の社号・“新屋”は古地名を指すが、かつての“新屋郷”に属したのは西河原社のみで、西福井社は“安威郷”に、上河原社は“宿久郷”に属していたことからも、当社の原点は西河原社といえる(式内社調査報告)

 これらの由緒からみると、西福井・西河原・上河原の3社ともに同じ三座を祀るととれ、現在の各社祭神もそうなっているが、五畿内志のひとつ摂津志(1735、並河誠所)には
 「一座在於西河原 一座在於福井村 一座在於宿久庄上河原」
とあり、三座を一座ずつ3ヶ所に分けて祀ったともとれる。ただ、どの神がどの神社に祀られたのか記されていないという瑕疵がある。

◎アマテルミタマ神
 天照御魂神の神格ははっきりしない。西福井社の由緒記には
 「天照大神(アマテラス)を讃えまつっての神名である」
とあるが、アマテラスは最高神・皇祖神として神階など贈られなかったのに対して、当社のアマテルミタマ神には“正四位上”の神階が贈られていること(朱雀天皇・天慶3年-940)、また、“天照”を“アマテル”と読むことからみて、この神は皇祖神・アマテラスではない。

 また“御魂”は一般に“ミタマ”と読むが、“ミムスヒ”とも読む(山城国・木嶋坐天照御魂神社)。“ミ”は美称として、“ムス”は“魂”・“産”とも記し“生成する”・“繁殖する”ことを、“ヒ”は“霊”と記すように“生命力”・“霊力”を意味する。

 ここからアマテルミタマ神とは、万物を産みだし生育する“ムスヒ(産霊)の神としての日神”であり、アマテラスが皇祖神として伊勢の地に祀られる以前の古くから、各地(特に畿内)に祀られていた日神・太陽神(男神)だが、この神は記紀には一切登場しない(神社と古代王権祭祀・大和岩雄)

 アマテルを冠する式内社は畿内以西に8社あり、そのうちアマテルミタマ社は4社を数え、その4社(大和国・他田、同・鏡作、山城国木嶋および当社)は全て畿内に鎮座する。
 これらアマテルミタマ社4座は、いずれも“日知り”の地に鎮座する。
 日知りとは“日読み”であり、太陽の動きによって冬至・夏至・春分・秋分・立春・立夏・立秋・立冬といった季節の節目を知る(読む)ことをいう。
 古代の権力者は、日を読むことによって一年の始まりや、あるいは農耕を始める時期を知ってマツリゴトをおこない、四季の順調な循環を神に祈るとともに、統治の手段としたという。

 新屋坐天照御魂社が3社あることについて、由緒記は神功皇后が新羅からの凱旋を感謝して西福井社の東西に祀ったというが、それは闇雲に祀られたのではなく、
 西福井社からみて東南東の、冬至の日の出方向の線上に西河原社(正確には磯良神社−当社の旧社地)が立地し、、
 同じく西南西の、夏至の日の出の方向線を反転した線上に上河原社が位置しており、
天照御魂神社としては当然の配置とみていいという(「神と人の古代学」他・大和岩雄)

 この日知り・日読みというのは、古代の権力者がおこなうマツリゴトであり、古代にあって、冬至あるいは夏至の日などには、在地の権力者による日読みのマツリゴトがおこなわれ、そこではムスヒの神としての日神・アマテルミタマ神が祀られたと推測される。

三社の位置関係と、日の出遙拝線

◎アメノヒコホアカリ神・ホノニニギ神
 祭神三座のうち残る二座について、西福井社と上河原社はホアカリ神とホノニニギ神とするが、西河原社は異なっている。
 日本書紀・一書8に、アマテラスの子・オシホミミの子・天照国照彦火明命(アマテルクニテル ヒコホアカリ)と、同・一書6及び古事記に天火明命(アメノホアカリ)とある神で、書紀では尾張連の遠祖という(第6の一書)
 ホノニニギは高天原から降臨した天孫を指し、ホアカリの兄弟神とされる(古事記、書紀一書6・8)

 一方、先代旧事本紀(物部氏系の史書・9世紀後半撰上)によれば、その天孫本記冒頭に
 「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(アマテルクニテル ヒコ アメノホアカリ クシタマニギハヤヒ)、亦(マタ)名天火明命、亦名天照国照彦天火明尊、亦云饒速日命(ニギハヤヒ)・・・」
とあり、また薦神社(京都府宮津市)に伝わる海部氏系図(970年代成立、国宝、偽書説あり)には、その祖神・ホアカリ命について
 「彦火明命 亦名天火明命・天照御魂神・天照国照彦火明命・饒速日命」
とある(ホアカリを祖神とする尾張氏系図にも同様の記述があるという)
 これらの系図には賑々しい神名が並んでいるが、簡単にいえば、“ホアカリ命とニギハヤヒ命あるいはアマテルミタマ神とが、いずれも同じ神”と主張するもので、いずれも、記紀にいう皇統譜への異議申し立てとみることができる。

 このように、ホアカリが他神と一体となったのは、記紀のなかでこれといった事蹟がなく自由であったため、大王家以外の伝承と結びつきやすく、物部氏・尾張氏(ホアカリを祖神とするが、ホアカリ=ニギハヤヒは物部氏系とされる)などの祖神として取り込まれたわけで、両氏以外にもホアカリを祖神とする氏族は多く、当地にいた新屋連も物部氏系の氏族という。

 なお、ホアカリは通常・火明と記すが、古代の仮名遣では甲類(日・霊)・乙類(火)と異なるものの、民俗行事などでは“火”と“日”は同じと解され、両者とも“燃えるもの・照り輝くもの”であったことから、火明命と日明命とは同じ神であり、ここからホアカリに天照国照が冠されたという。

◎二座の祭神についての異説
 アマテルミタマ神以外の二座について、古くから異説があり、栲幡千々姫命・手力雄命とする説(神祇宝典)、伴馬立神・伴酒着神とする説(神祇志料)などがある。特に後の2座について、
 ・嘉祥2年(849)奉授伴馬立天照神伴酒着神並従五位下(続日本後紀)
 ・貞観元年(859)摂津国従五位下馬立天照神伴酒着神並授正五位上(同)
と神階を授与されていること、摂津国に天照を名乗る神社は当社しかないことなどから、この二神は当社に祀られていた神で、この二神と貞観元年に従四位下に叙せられたアマテルミタマ神を併せた三神を当社の祭神とする説がある。

 上記のように、アマテルミタマ神とホアカリ神が異名同神とすれば、残りの二座とは伴馬立神・伴酒着神だったのかもしれないが、馬立神・酒着神の神格は不明。馬立をマタチあるいはマタツと読み、真龍(マタツ)として水神とする説もあるが、語呂合せ的ニュアンスが強く疑問。

◎祭祀氏族
 由緒によれば、当社の創祀は物部氏の祖・イカガシコオ命によるという。イカガシコオは物部氏の遠祖・ニギハヤヒの6世の孫(先代旧事本紀)で、開化・崇神両天皇朝で大臣を務めたとされる人物で、日本書紀・崇神7年条に、
 「物部氏の先祖のイカガシコオを神班物者(カミノモノアカツヒト−神に捧げるものを分つ人)としようと占うと吉とでたので、イカガシコオに命じて沢山の平甍(ヒラカ−祭具)を祭神(カミマツリ)の供物とさせた」
とある。由緒で、崇神天皇の勅により当社を創始したというのも、この記事に仮託された伝承であろう。

 古く、当地に居住し当社の祭祀に係わったとされる“新屋連”について、先代旧事本紀には
 「ニギハヤヒの十一世の孫・物部竺志連公、新屋連等の祖」
とあり、新屋連も物部氏系という。摂津・河内国には物部氏系の氏族が多く、新屋氏もそのひとつであろう。

 一方、当社が鎮座するかつての新屋郷は、尾張の新屋郷を移したものといわれるが、新撰姓氏禄に依れば尾張氏はホアカリを祖神とする氏族で、新屋連も尾張氏に係わる氏族と推測され、姓氏禄には
 「右京神別 丹比宿禰 火明命三世孫天忍男命之後也 ・・・庚午年新屋を作り、新屋の二字を加えて、丹比新屋連と為す也」
との氏族がある。
 この丹比新屋連が尾張からの移住氏族かどうか、また旧事本紀にいう新屋連と同一氏族かどうかは不明だが、ホアカリ=ニギハヤヒとする旧事本紀の記述によれば、丹比新屋連も物部氏系の氏族となる。
 
 これらからみて、当社の祭神は物部氏系の一氏族・新屋連が、その祖神・ホアカリを祀ったのが始まりで、海部氏系図にいうホアカリ=アマテルミタマということから、天照御魂神と天照国照彦火明命とを同体として祀ったとも推測される。

【新屋坐天照御魂神社−西福井社】
 JR東海道線・茨木駅の北約3.7km、府道・余野茨木線沿いに鎮座する。茨木駅から忍頂寺又は茨木サニータウン行バスを“福井宮の前”で下車、少し戻った西側に“延喜式内名神大 郷社 新屋坐天照御魂神社”との石標が立ち、日降丘山麓に向かって参道が延びる。
 参道の先に境内入口となる二の鳥居が立ち、境内中央奥に拝殿、その奥に透塀に囲まれた神域に三間流造檜皮葺の本殿が建つ。 

 由緒書きによれば、
 「当社は、中世以前嶋下郡の総社と位置づけられていたが、鎌倉以後、社領の没収などで衰微した。しかし、天正年間(1573--92)茨木城主中川清秀の崇敬を受け、その奥方・性寿院が社殿及び玉垣等を改修し(天正12年1584という)、今日の基が造られた」
とある。
 現在の社殿は、天保年間(1830--44)に改修されたもの(その後も改修あり)で、この時も中川氏から応分の寄進があったという。
 なお、江戸時代には防疫神・牛頭天王を祀るとしていたが、明治以降、従来の祭神に変えたという(式内社調査報告1977)が、ゴズテンノウを祀ったのは当時の流行からのもので、本来の祭神ではない。

 社殿の軸線は日降丘に向かい、社殿右手・稲荷社横に日降丘への登頂口があり(頂上まで約200m)、頂はアマテルミタマ神が降臨した聖地とされ、四方に青竹を立て注連縄を張った中央に
 『聖地 日降丘 第10代崇神天皇7年秋9月、伊香色雄命、天照御魂神亦の名火明大神を齋奉る
と刻した石標が立つ。

 社殿が日降丘を拝する位置にあり、頂上に日神を祀ったとおぼしき聖地(山宮跡)があることは、当社の原点が日降丘を神の降臨地とする神奈備信仰にあったことを示唆するもので、現在の社殿は丘上の聖地にあったであろう山宮に対する里宮の位置に当たる。
 なお、日降丘一帯には約30基からなる新屋古墳群があり、今10数基を残すという。当社創建に係わる氏族(新屋連)の墳墓であろうという。

新屋坐天照御魂神社/西福井社・社標
府道脇の社標
新屋坐天照御魂神社/西福井社・一の鳥居
新屋坐天照御魂神社
西福井社・一の鳥居
新屋坐天照御魂神社/西福井社・拝殿
同・拝殿
新屋坐天照御魂神社/西福井社・本殿拝所
同・本殿拝所
新屋坐天照御魂神社/西福井社・本殿
同・本殿
日降ケ丘頂上の聖地
日降丘頂上の聖地

 境内には、摂社・須賀神社(祭神:スサノヲ命)のほか、末社・六社合祀殿(オオトシ神他5座)・稲荷社(丸山稲荷・ウカノミタマ命)・天満宮(菅原道真)の小祠、池中に立つ石神(オオワタツミ神)、道祖神石標(ヤチマタヒコ命)、大神宮などの遙拝所4カ所がある。

【新屋坐天照御魂神社−西河原社】
 阪急京都線・茨木市駅の北約2km、国道171号線・西河原交差点の西北角に位置する。道路をはさんだ南に磯良神社(疣水神社)がある。阪急茨木市駅から花園東和苑行きの近鉄バスで“疣水神社前”下車。直進して国道に出ると目の前に鎮守の森がある。

 社頭に掲げる由緒には、
 「主祭神−−天照御魂神(天照国照彦火明命)
  相殿神−−天児屋根命・建御名方命
 当地西河原の周辺はその昔新屋郷といわれ、遙か古代からアマテルミタマ神がお鎮まりになった。・・・
 天正の頃までは神域広大、神事も盛んにおこなわれ、近隣7村の産土神として崇敬された。しかし戦国争乱などにより衰運に傾き、寛文9年(1669)社殿は旧神域の西北隅にあたる今の社地に移り、同12年社殿が新しく造営された」
とあり、
 式内社調査報告(1977)には
 「天正(1573--91、室町末期)以前には神域も広大で、近隣の総社として上下の崇敬が篤く、神事も盛大だったかが、天正以後社領を失い、神域も縮小され、神事も振るわなくなった。・・・寛文9年旧社地の西北隅に移り、同12年に社殿を造営した・・]
とある。

 当社祭神は、上記のようにホアカリをカッコ書きしてアマテルミタマ神と同体としている。これは上記海部氏系図にいう両神同体観からのものと解されるが、残る二座を中臣(藤原)氏関係の祖神を祀るのは解せない。

 なお、現在地に移る以前の社地とは、南約100mにある磯良神社・通称疣水神社(下記)の辺りを指し、境内社であった磯良神社が大をなして居座り、本来の社であった当社が境内西北隅に移ったという形となっている。
 今の社殿は、昭和44年(1969)に本殿覆屋と拝殿を改築したもの。

新屋坐天照御魂神社/西河原社・社頭
新屋坐天照御魂神社
西河原社・社頭
新屋坐天照御魂神社/西河原社・拝殿
同・拝殿
新屋坐天照御魂神社/西河原社・本殿
同・本殿

 由緒には、末社として東之神社(応神天皇・住吉三神・磯良神)と須佐神社(スサノヲ)・稲荷神社(ウカノミタマ)があると記すが、今、稲荷社以外に、それらしきものは見えない。社殿左手に合祀殿らしきものがあり、これに祀られているらしい。

◎磯良神社(疣水神社)
 茨木市三島丘1丁目
 祭神−−磯良大神

 天照御魂神社・西河原社の南約100mに鎮座する。当社は、もともと新屋坐天照御魂神社(西河原社)の境内社として祀られていたものだが、当社にある神水・“玉の井”が有名となり諸人の崇敬を受けたことから、母屋である西河原社を社地西北隅に移して独自の社殿を構えたという。

 玉の井について、摂津国名所図会(1798)には“よるべの水”として
 「西河原村新屋社の東南一町許りにあり。原此所は新屋神社の神籬なり。よるべの水は社頭の神水なり。世人この水を疣水(イボミズ)といふ。ここに来たって疣・黒痣を濯ふ時は、忽ちに抜落つるとぞ。天照御魂社の神水なれば、面貌の痣にも限らず、邪念の穢れを清め洗う時は、などか美とならざらんや」
とある。
 この神水で洗うと、疣が落ち痣が消えると信じられて庶民の信仰を集め、その社勢が天照御魂社を凌いで独立したということで、今、両社の間に国道が横切ることから別々の神社となり、天照御魂社に比べて広い境内に立派な社殿が建っている。

 泉そのものは、水量は減じたものの生きているようで、境内の一画に『御神水舎』があり、近くの人が神水を貰いに来ていた。

磯良神社/大鳥居
磯良神社・大鳥居
磯良神社/拝殿
同・拝殿
磯良神社/神水舎
同・神水舎

【新屋坐天照御魂神社−上河原社】
 大阪モノレール彩都線・豊川駅の北約600m、モノレールが走る府道・茨木摂津線の東側に位置する。駅から北上、国道171号線を越えて府道の右側を進むと右手に鎮守の森が見える。
 玉垣に囲まれた境内に入ると、疎林の中に拝殿・本殿のみがひっそりと建っている。

 社頭に立つ由来碑には
 「当社は延喜式神名帳にその名が載せられている古い神社で、新屋坐天照御魂神社三座のひとつで、式内社である。昔は国家の大事に際し、朝廷から奉幣して、臨時の名神祭をおこなわせた夕べの森に鎮座する国家指定の由緒正しい神社です」
と簡単に由緒を記しているが、当社に冠する資料が少なく、詳細不明。

新屋坐天照御魂神社/上河原社・大鳥居
新屋坐天照御魂神社
上河原社・大鳥居
新屋坐天照御魂神社/上河原社・拝殿
同・拝殿
新屋坐天照御魂神社/上河原社・本殿
同・本殿

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