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摂津(嶋上郡)の式内社/野身神社
(上宮天満宮)
                                                                2009.06.13参詣

 『野身神社』は、延喜式神名帳に『摂津国嶋上郡 野身神社』とある式内小社。
 今、『上宮天満宮(ジョウグウ)』 の境内摂社である『野身神社』がそれだとされているが、その南約1.5kmの野見町に鎮座する『野身神社』もまた式内社と称し、論社(候補社)となっている。

【野身神社−−上宮天満宮・境内摂社】
   高槻市天神町1丁目
   祭神−−野見宿禰(ノミノスクネ)

◎上宮天満宮
   祭神−−菅原道真・武日照命(タケヒナテル)・野見宿禰命

 JR東海道線・高槻駅の東端から北に延びる商店街の突き当たり、日神山(ヒルガミヤマ・H=42m)の頂部に鎮座する“上宮天満宮”(古くは上宮天神社といった)の境内摂社が『野身神社』で、山麓の大鳥居から参道(坂道、約300m)を登った先にある“三柱山門”の正面に上宮天満宮が、山門を入ってすぐ右手、石垣を積んだ低い盛土の上に野見神社鎮座する(駅から天満宮まで約600m)

 日神山一帯は弥生人の住居跡として銅鐸も出土し、南北方向に並ぶ4基の古墳のうち、中央の小さな円墳上に野身神社が位置するという(神社由緒)。今、古墳の面影は見えないが、円墳の周りを石垣で方形に囲い盛土して社殿を造営したためらしい。

 江戸中期の名所案内・摂津名所図会(1798)をみると、左下から伸びる石段右に民家に囲まれて“昼神車塚古墳”が、参道を登り切った右手の塚の上に小さな祠があり“のみ社”と記され、右手上方に天満宮本殿がみえる。
 古書には、
 「社域は京街道の上に在り。・・・山高からず緩く坂路を登る。右に車塚あり。坂路の尽くるところ石を畳み壇を築き上に小祠を安ぜり。野見宿禰の祠是れなり」(大阪府誌1903)
と記し、基本的な社殿配置は今もほとんど変わっていない。

野身神社/社殿配置
野身神社・社殿配置
上宮天満宮/摂津名所図会(部分)
摂津名所図会(部分)
上宮天満宮/大鳥居
上宮天満宮・大鳥居
上宮天満宮/参道石段
同・参道の石段

上宮天満宮/石標
同・石段下の石標
(創建927年−我国第二の天満古社とある)

※祭神
 野見宿禰は、出雲から呼び出されて当麻蹶速(タギマノケハヤ)と角力をし、これを倒してケハヤの領地(当麻地方)のすべてを与えられ(垂仁紀7年)、皇后日葉酢媛(ヒバスヒメ)の死にあたって、それまでの殉死に替えて埴輪(ハニワ)を作って陵墓に立てたことを賞して“土師職”(ハジのツカサ)に任じられた人物で、土師連らの先祖という(垂仁紀32年)

 神社由緒には、
 「野見宿禰を千数百年も前から齋き祀ってきた・・・」
とあるが、これは野身神社を指すものであろう。

 上宮天満宮の祭神・『武日照命』(タケヒナテル、建比良鳥タケヒナトリ・武夷鳥・天夷鳥など神名多様)は、天穂日命(アメノホヒ)の御子(古事記)。アメノホヒは、アマテラスとスサノヲの誓約(ウケヒ)の段でアマテラスの勾玉から生まれた神(ホノニニギの弟)で、スサノヲの御子(日本書紀)で、記紀ともに出雲国造・土師連らの祖神という。国譲りの段では交渉の使者として出雲に派遣されたが、オオナムチに媚びて3年経っても復命しなかったとあるが、出雲国造神賀詞ではフツヌシを従えて天降りしオオナムチに国譲りを承諾させたとある。本来は出雲系の神で、のちに高天原神話に編入されたともいう。

 タケヒナテルについては、崇神紀・60年条に、天皇が
 「武日照命の、天からもってきた神宝を出雲大神の宮に収めてあるのだが、これを見たい」
と仰せられたとあるのみで、他に見当たらない。
 ただ祖神を祀るのであれば、土師氏の祖とされるアメノホヒとなりそうなものだが、何故か、その御子・タケヒナテルとなっている(土師氏はタケヒナテルの後裔とする系譜もある)
 そのタケヒナテルが当地へ降臨したとの伝承がある(日本の神々3)というが、出典不明。

 土師氏について、新撰姓氏禄には“土師連・土師宿禰”を名乗る神別氏族として6氏を挙げるが、何れの氏族もアメノホヒの後裔とし、なかには14世の孫・野見宿禰から出たとするものもある(山城国・和泉国−土師宿禰)。当地に関連するものとして
  「摂津国神別  土師連  天穂日命十二世孫飯入根命(イイイリネ)之後也」
がある。
 土師氏(ハジ・ハニ)は、野見宿禰の埴輪伝承に見られるように大和朝廷で葬送儀礼・陵墓築造・埴輪などの祭祀土器製作などに従事した氏族で、後(光仁朝・天応元年781)に“秋篠氏”・“菅原氏”・“大江氏”の3氏に別れている。そのひとつ菅原氏から出たのが『菅原道真』である。

※鎮座由緒
 野身神社は、上宮天満宮鎮座(993・下記)以前から当地にあったと思われるが、その由緒・時期など不明。
 延喜式内社であるから10世紀初めには鎮座していたことは確かだが、
 大阪府誌には
 「此の地昔時は野見の郷と称せしといへば、和名抄(930年代成立)に見ゆる島上郡濃味は恐らく此処なるべく、而して姓氏禄摂津神別の部に野見宿禰の裔なる土師姓を載せたれば、一条天皇の御宇(986--1011)既に在りし野見神社は此等の姓の人の祀り始めしものならん」
と確実な年代は未詳とし、
 また続けて
 「尚、類聚国史延暦11年(792)4月の条に、島上郡菅原村の野見神社(現野見町の野身神社)の事見え、而して野見の郷と菅原村とは深く関係を有せるものなれば、或いは類聚国史に見ゆる野見神社は是れならんか。但、延喜式所載の野身神社は此れなるか、将、野見神社なるか明らかならず。名所図会には彼(菅原村)を以て式内となし、摂津志には全く彼を記せずして之れのみを載せ・・・」
と、8世紀末の島上郡に野身神社と称する神社があったが、それが当社を指すのか、論社の野身神社なのか不明としている。

 ただ現今の見解では、当社の北北西約2.3kmにある“今城塚古墳”(L=190m、6世紀初〜前期、高槻市郡家新町)、同じく約4kmにある“大田茶臼山古墳”(伝継体陵・L=226m、5世紀中〜後期、茨木市太田2丁目)、上宮天満宮境内の“昼神車塚古墳”(6世紀中葉、前方後円墳・L=60m、巫女・狩人・犬・猪などの埴輪11基、埴輪片出土)などから出土した埴輪が、同じ埴輪窯(新池埴輪窯、高槻市上土室)で焼成されたものであることからみて、二つの巨大古墳築造に関与した土師氏一族が、日神山一帯を自家の墓域として昼神以下の古墳を築造した可能性は高く、その中で当社が創建されたのであろうという。
 また当社が小古墳の上にあることからみて、7〜8世紀以降に祖神・野見宿禰を祀ったのであろう。

 ただ、大阪府誌などに
 「明治12年(1879)に至り初めて野見神社を(天満宮)本殿に移し、併せて武日照命・菅原道真を祀り、・・・」
とあり、下記の上宮天満宮由緒と平仄があわない。

 上宮天満宮(上宮天神ともいう)について、伝承によれば、
 「一条天皇・正暦4年(993)、太宰府に左遷されて憤死し怨霊と化した菅原道真を宥めるために、正一位左大臣の位を遺贈する勅使として菅原為理が太宰府に赴いた。御霊代などを奉じての帰路、芥川を溯り当地の上田部(市役所西)に上陸し、領主・近藤氏の城館に宿った。
 ところが、いざ出立となったとき神輿が動かなくなったので、為理が卜占して神意を伺うと、道真が
 『この地は野見の里と称し、山上に祖廟があり、野見宿禰は菅家の祖である・・・』
と託宣したので、ただちに為理は道真の画像を奉安して社殿を建て、左に武日照命、右に野見宿禰を配祀した」
という。

 この伝承からみると、正暦4年以前から野見神社が鎮座していたところへ、道真を主祭神とし、武日照命・野見宿禰を併せて天満宮を創建したことになるが、明治12年に野見神社を合祀したとの記事と食い違う。
 あるいは、菅原道真のみを祀ったのが天満宮の原姿で、明治になって武日照命と野見宿禰を合祀したのかもしれない。

 また神社由緒には、
 「実際の創建はこれより50年も早く、京都北野社鎮座以前であり、全国天神社のうち2番目の古社とされている」
とある。
 ここでいう“50年も早く”とは、参道下の石標にある927年を指すと思われるが、927年とは延喜式撰上の年で、そのとき既に鎮座していた野身神社を天満宮の前身とみての記述であろう。

 因みに、北野天満宮の創建は天暦元年(947)で、最も早いと思われる太宰府のそれは延喜5年(905)というから、上宮八幡宮の創建が主張通りの927年であれば、第二番目の天満宮となる。しかし、927年にあったのは野見宿禰を祀る野身神社であって、菅原道真を祀る天満宮ではない。

 今、日神山の神社といえば上宮天満宮であって、道を尋ねた地元の人は“天神さん”と呼んで野見神社は忘れられているらしい。天神さんの名があまりに有名で且つ親しまれているため、本家の野身神社が脇に追いやられた、というのが実態とみえる。

※社殿

◎野身神社
 上宮天満宮参道上の三本山門の右手、低い石垣の上に北面して鎮座する。低い白壁に囲まれた神域は、周りを樹木・灌木に囲まれ、鳥居などもなく注意しないと見過ごす。
 野身神社の本殿は、白塀に囲まれた神域の中央に一間流造の小さな祠だが、壁越しに覗き込まないと見えない。

 北面する門の左手に
  「式内 野身神社 併野見宿禰墳」
との石柱が立つが、花盛りの紫陽花に囲まれて下部は見えない。他に社名を記したものは見当たらない。なお、野見宿禰墳とは、当社が鎮座する塚(古墳)の被葬者を野見宿禰とする伝承によるもの。
 上宮天満宮より古く、摂社とはいうものの、平安時代から続く式内社であることを知る人も少ないであろう。

野身神社/正面
野身神社・正面
野身神社/本殿
同・本殿
野身神社/側面
同・側面(石垣上に社殿の屋根が見える)

◎上宮天満宮
 境内正面の入母屋造の割拝殿(中央部が通路となっている拝殿)の先、瑞垣に囲まれた神域に神明造・平入りの本殿が建つ。現在の本殿は平成8年(1996)放火により焼失したのを同14年(2002)に再建したもので、竹製という珍しい建物。屋根が竹で葺いてあるため軽やかですっきりとしている。

上宮天満宮/割拝殿
上宮天満宮・割拝殿
上宮天満宮/本殿正面
同・本殿正面
上宮天満宮/本殿
同・本殿

*境内には、末社として皇大神宮・厳島神社・春日社・四社殿(日吉社・金比羅社・稲荷社・荒神社)が鎮座しているが、その鎮座由緒など不明。 

◎昼神車塚古墳
 上宮天満宮への参道(石段)登り口の右手、日神山南麓に接して、府道をはさんだ南に位置する前方後円墳(後円部が南)。日神山南麓に接する前方部を横切って府道が通っているが、交差部は前方部の下をくぐるトンネル構造となっている。
 全長約60m、後円部直径約35m、前方部幅約40m、古墳時代後期・6世紀中頃の築造という。
 野身神社の祭神・野見宿禰の墓という伝承がある古墳で、摂津名所図会(1798)には民家に囲まれた塚の上に“のみ塚”とある。

 今は上宮天満宮の境内に含まれるが、東西南側は民地に接するため全体は見えないし、古墳が見える北側は鉄柵で囲まれ中へは入れない。墳丘上に“車塚 上宮天満宮境内”との石標が立ち、テラスには前方部から出土したという角笛をもつ狩人・猪を追う犬・人物像・円筒埴輪などが並べられているが、いずれも複製品。

昼神車塚古墳/石標
昼神車塚古墳・石標
昼神車塚古墳/全景
同・全景(北西方より)


【野身神社】
  大阪府高槻市野見町
  祭神−−須佐之男命・野見宿禰命
 
 当社は、延喜式式内社・野身神社を名乗る論社で、阪急高槻市駅の南約500m、旧高槻城内に鎮座し、高槻市の文化・体育施設群の一郭を占める。皮肉なことに、邪神としてゴズテンノウを排斥し当社社殿を破壊したキリシタン大名・高山右近(在高槻城主1573--85)の記念聖堂が北・150mにある。

※鎮座由緒
 神社由緒には、
 「社記によれぱ、人皇第59代宇多天皇の御宇(887--97)、当地方に悪病が流行し多くの死者が出た。その時、『社殿を造り、牛頭天王を祀れば悪病は治まる』との神託があり、早速祀ったところ悪病はたちまち終息した。国人らは大いに喜び、社殿を造り、牛頭天皇社として祀ったのが当社の起源である」(大意)
と創建由緒を記し、末尾に
 「明治元年の神仏分離令により、ゴズテンノウはスサノヲ命と名を替え、更に野見宿禰を合祀して『野身神社』と改称し、延喜式内社として郷社に列した・・・」
と野身神社を名乗る由緒を記している。

 大阪府史蹟名勝天然記念物には
 「野見神社  旧城内椋の木に在り。野見宿禰・素盞鳴命を祀る。社伝によれば宇多天皇の時当国に悪疫流行し、国人悲嘆の折から素盞尊の神託あり、社壇を設けて崇敬せしかば悪疫終熄し、民其生を安じたるに始まるといふ。
 然れども、もとは牛頭天王と称したるものにして元禄2年(1689)の当社神主藪久兵衛藤原重広の社記には祭神三座・“牛頭天王一座 八幡宮一座 相殿二座(春日大明神・諏訪大明神) 弁財天一座 末社二座(山王権現・大将軍)”とありて、野見宿禰は是蓋し後世式内神社に擬せんとして合祀したるにはあらざるか」
と、野見宿禰を合祀したのは“式内社を称するための作為”と断じている。

 明治初年の神仏分離に際して、ゴズテンノウの名はスサノヲに替えられ、素盞鳴神社あるいは八坂神社を名乗った事例は多い。当社がゴズテンノウをスサノヲへと変更したのは当時の風潮に載ったものだが、併せて野見宿禰を合祀したのは、式内社を僭称し郷社への格付けをねらったものとも思われ、それは上記由緒をみるかぎり無理がある。ただ、社頭の案内書には、式内社云々の記述はない。 
野身神社/鳥居
野身神社・鳥居
野身神社/拝殿
同・拝殿

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