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摂津(嶋下郡)の式内社/須久々神社
付−−春日神社
須久々神社−−大阪府茨木市宿久庄
   春日神社−−−  同  同  清水2丁目
祭神−−須久々神社:速素盞鳴命・稲田姫命
                      春日神社:天児屋根命・武甕槌命・経津主命・比売大神
                                                                 2009.08.03参詣   

 延喜式神名帳に『摂津国嶋下郡 須久々神社 鍬靫』とある式内社。今、茨木市宿久庄に鎮座する須久々神社を式内社として比定しているが、その西南西約1kmの春日神社も“元須久々神社”と称している。

◎須久々神社
 JR東海道線・茨木駅の西南約4kmに鎮座する。国道171号線・豊川1丁目交差点から分岐する府道・茨木能勢線の道路沿いに立つ一の鳥居から北へ、田畑脇の参道を進んだ突き当たりの山麓に鎮座する。
 すぐ東が梅花女子大、北一帯が茨木ゴルフ場。バス便はあるが、一日数本のため不便。JR茨木駅から石橋行バス・道祖本バス停(豊川1丁目)から歩くのがわかりやすい。

 雑木林に囲まれた社域は狭く、拝殿・本殿のみが建っている。大阪府全志(1922)他に「境内は百三坪を有し、本殿のみを存す」とあるから、古くから変わっていないらしい。
 境内の社務所は無人、由緒書きなど何もないため祭神名・鎮座由緒など不詳(以下、別途資料により記す)
 社殿はまだ新しく、境内右手に“社殿竣工記念 平成元年”の石碑が立つから氏子はあるらしいが、参詣する人も少ないらしい。

須久々神社/一の鳥居
須久々神社・一の鳥居
須久々神社/二の鳥居
同・二の鳥居と社標
須久々神社/拝殿
同・拝殿
須久々神社/本殿
同・左:拝殿 右:本殿

◎春日神社
 大阪モノレール彩都線・豊川駅の北約500m、モノレールが走る府道・茨木摂津線の西側を府道を越えて北へ、道路から1ブロック入った清水池を過ぎた左手山麓に一の鳥居が見える。なお、道路を挟んだ東側には“新屋坐天照御魂神社・上河原社”が鎮座する。

 一の鳥居すぐの石段を登った先の参道と境内左右には春日燈籠が並立し、春日社の趣を呈している。一の鳥居・神額、拝殿・神額には「元須久々神社 春日神社」とある。境内には拝殿・本殿のみで他の社殿はないが、山麓の雑木林が開けた明るい神社となっている。
 一の鳥居左に、“月の清水跡”と刻した自然石の碑が立つ。傍らの説明板によれば、三代実録(901)に「清和天皇(858--76)が諸国の名山霊場を巡礼された折、嶋下郡勝尾寺に参詣され、眺望のよい西山の寺院に一泊されて観月の宴を催された。その折、里人が桃の花を“山の井”に挿して歓待した。天皇は喜ばれ“月の清水”(桃の清水ともいう)と命名された、と伝える」とある。

春日神社/一の鳥居
春日神社・一の鳥居
春日神社/拝殿
同・拝殿
春日神社/参道
同・参道

※鎮座由緒
 当社の創建年代は不詳だが、神宮雑例集(鎌倉初期)
 「天平12年(740)4月5日、春日御社を寿久山社に遷し奉る。是、右大臣大中臣清麻呂致仕して島下郡寿久郷に籠居、住居近くに崇め奉るもの也」
とあり、大中臣清麻呂(702--88)が職を辞して当地に隠棲したとき(781)、その住居の近くに祖神を祀ったのが創建とされる(春日神社由緒にも同意の記述あり)
 古く、この辺りが中臣氏の領地だったことから、清麻呂が致仕後に隠棲し、奈良・春日社を勧請したのであろうという。なお大中臣清麻呂とは、藤原鎌足の叔父・国子の孫・中臣意美麻呂の子で、藤原氏の支族・大中臣氏の祖(神護景雲3年769、大中臣の姓−カバネ−を受けている)

 今、式内・須久々神社は宿久庄(字須久山)に鎮座する須久々神社とされているが、春日神社社頭の由緒に
 「清麻呂は一座を縁深い須久々山に、一座を清浄な春日山に祀ったと思われる」
とあるように、かつての宿久庄内には“須久々”を名乗る神社が2社併存していたらしい。
 春日神社が“元須久々神社”と称するのは、この経緯からくるものだろうが、式内社・須久々神社であると主張しているのではないらしい。

 式内社・須久々神社の創建後の推移は不明だが、現春日神社について由緒には
 「中世以降、茨木地方は藤原氏の勢力が強かったためか、本神社も春日神社と称するようになった。しかし江戸末期頃より再び須久々神社と改称したが、近年春日神社と改めて現在に至っている」
とある。

※祭神
 当社の創建由緒からみて、当社祭神は奈良・春日神社と同じくアメノコヤネ以下の4座を祀るはずなのに、現須久々神社のそれはスサノヲとその后・イナダヒメとなっている。
 由緒からみた当社とスサノヲとの接点は見当たらず、その奉祀由緒も不明。

 大阪府名所旧跡記念物(1931)
 「大中臣清麻呂が其の住居付近に其の祖神を祀りたるものなれば、祭神は蓋しアメノコヤネなるべきなり」
というのが妥当で、現春日神社の祭神が古態を残しているといえる。

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