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摂津(豊島郡)の式内社/垂水神社
大阪府吹田市垂水町1丁目
祭神−−主神:豊城入彦命
           相殿:大己貴命・少彦名命

                                                                  2009.09.01参詣 

 延喜式神名帳に、『摂津国豊島郡 垂水神社 名神大 月次新嘗』とある豊島郡唯一の式内名神大社。

 阪急千里線・豊津駅の北西約600m、豊津駅南を東西に通る商店街を西へ、最初の信号を北へ、突き当たりを西へ進むと参道(左右に石燈籠あり)に出る。参道を右(北)へ進んだ千里丘陵の南端・垂水岡の麓・小高いところに鎮座する。参道を左(南)すれば“一の鳥居”が立っている(右に社標・「郷社 垂水神社」あり)

 参道を北進、急な石段を登ったところに“二の鳥居”が立ち、正面に拝殿・その後ろに本殿が鎮座する。社殿の右に“玉之井の井戸”(由緒不明)・“皇大社(イザナギ・イザナミ・アマテラス)”・“祓戸所(イブキドヌシ・セオリツヒメ・ハヤアキツヒメ・ハヤスサラヒメ)”・“戎社(カナヤマヒコ・カナヤマヒメ・トヨウケヒメ・コトシロヌシ)”の末社(小祠)が並ぶ。
 なお社殿左手(西側)には、当社の根源である滝の跡、稲荷神・不動尊等を祀る小祠が固まっている。

垂水神社/一の鳥居
垂水神社・一の鳥居
垂水神社/拝殿
同・拝殿
垂水神社/本殿
同・本殿
垂水神社/玉之井の井戸
玉之井の井戸
垂木神社/末社・戎社
末社・戎社

※祭神
 主祭神の豊城入彦命(トヨキイリヒコ)とは、崇神天皇の第1皇子だが、皇位を弟に譲り東国経営に派遣されたという皇子で、崇神紀48年条に次の挿話がある。
 「天皇が豊城命(トヨキ=トヨキイリヒコ)・活目尊(イクメ=垂仁天皇)を呼んで、『二人とも可愛いので、どちらに皇位を譲る決めかねるので、夢で占いたい』とおっしゃった。
 二人は身を浄め神に祈って寝、それぞれ夢を見た。兄トヨキ命は、“御諸山(三輪山)に登って、東を向いて八度槍を突きだし、八度刀を振る”夢を見た。イクメ尊は“御諸山の頂に縄を四方に引き渡し、粟を食む雀を追い払う”夢を見た。二人は、自分の見た夢を天皇に報告した。
 天皇は、『兄は東に向かって武器を用いたので、東国を治めよ。弟は四方に心を配って稔りを考えたので、吾が位を継げ』と告げ、イクメ尊を皇太子とし、トヨキ命には東国を治めさせた」(大意)

 皇位継承を夢占(ユメウラ)によって決めた事例だが、実態は、イクメ尊の母が物部氏出身で、トヨキ命の母が紀氏出身という母方の出自によるものであろう。
 なお、夢占の場が三輪山だったことは、アマテラス伊勢鎮座以前のヤマト朝廷において、三輪山の神(オオモノヌシ)が特段に崇拝されていたことを示唆するという。

 当社由緒記には
 「トヨキイリヒコが第一歩を記したのがこの垂水の地であり、子孫が神として祀り、社を阿利真公とその末裔に伝えたという」
とあるが、管見した限りでは、東国に派遣されたトヨキイリヒコが当地を経由したとの記録・伝承など見当たらず真偽不明。

 また、当社は祈雨祭における祈願神社にされるなど水神的神格が強く、それが何故トヨキイリヒコに繋がるのかも不詳。
 本来の祭神は水を掌る素朴な水神だったものが、朝廷との係わりができた以降、トヨキイリヒコを祀るようになったのではないかともいう(日本の神々3)

※鎮座由緒
 当社の創建時期は不詳だが、当社由緒には
 「この地方に勢力を持っていた阿利真公が大化の改新頃(646)におこった旱魃の折、垂水岡(千里丘)から湧き出す水を、当時の難波長柄豊崎宮に送り、その功を讃えられて、垂水公の姓(カバネ)を賜るとともに垂水神社を創祀したという」
とあり、当社の創建を7世紀前半頃としている。

 これは、新撰姓氏禄(815)にある
 「右京皇別 垂水公 豊城入彦命四世孫賀表乃真稚命之後也
              六世孫阿利真公。孝徳天皇の御代(645--54)、天下旱魃河井涸絶。干時阿利真公 造作高樋 
              以垂水岡基之水 令通宮内 供奉御膳。天皇美其功 使賜垂水公姓 掌垂水神社也」
を受けたもの(トヨキイリヒコの後継氏族は上毛野君・下毛野君など東国に多いが、垂水公も後継氏族とされている)

 難波長柄豊崎宮とは、大化改新(645)後に即位した孝徳天皇が都した所謂・前期難波宮を指すが、その跡地については
 ・上町台地の先端附近説−−現中央区法円坂一帯
 ・旧摂津国西成郡長柄・本庄村一帯説−−現北区(旧大淀区)豊崎から長柄にかけての一帯
との説があったが、今では大阪城南方の法円坂附近説が確実視されている。。
 姓氏禄に記す長柄豊崎宮がどちらを指すにせよ、いずれも当地からは遠く、且つその間に神崎川をはじめとする諸河川があり、いかなる手段で水を送ったかは不明。

◎石走る垂水(イワバシル タルミ)
 当社の社名・地名である“垂水”とは、“高い崖から流れ落ちる水”を意味し、当社にあっても、
 「垂水滝 垂水神社社殿の西側にあり。水量は多からざれども如何なる旱天にも水涸るることなく、清冽にして甘味あり。諸病も治するの効ありとて、遠近より来りて滝に打たるるもの、水を汲みて持ち帰るもの多し」(大阪府史蹟名勝天然記念物1928)
とあるように、清水が流下する滝があったという。
 今、社頭・石段下を左に入った処に滝の名残が2ヶ所残っているが、水量減少してチョロチョロと流れるだけ。しかし時たま、水垢離の行場として訪れる行者もあるという。

 垂水は、古く、“石走る垂水”(岩間からほとばしるように流れ出る清水)と詠まれることが多く、万葉集にも、
 ・石走る 垂水の上の さわらびの 萌え出づる春に なりにけるかも(no1418、志貴皇子)
  (岩をほとばしり流れる 垂水のほとりの さわらびが 芽を出す春に なったことだ)
 ・命を幸(サキ)く良(ヨ)けむと 石走る 垂水の水を むすびて飲みつ(no1142、読人不知)
  (命の無事を願って、岩をほとばしる垂水の水を、手ですくって飲んだ)
 ・石走る 垂水の水の はしきやし 君に恋ふらく 我が心から(no3025、読人不知)
  (岩をほとばしり流れる滝の水のように、私は、心からいとおしい貴女に恋している)
などを見ることができる。

 志貴皇子とは天智天皇の第7皇子で、光仁天皇の父。慶雲3年(706)に難波を訪れているから、水神を祀る聖地で難波宮とも関係の深い当地を訪れたであるうということで、滝(1)の前に志貴皇子の歌碑が立ち(単に垂水を詠み込んであるからかもしれない)、傍らに色鯉が泳ぐ池がある(湧き水かどうかは不明)


万葉歌碑・志貴皇子

(1)
(奥に滝が流下する水場がある)

(2)・水場
(滝口の上に不動尊あり)

 今の当社は、住宅に囲まれた古社というだけで式内社の趣きはなくなっているが、古資料に
 「社は昔時大いに崇敬され、旱魃風水等に際し朝廷より祈願せられしこと屡々正史に見ゆ。延喜式の八十島神祭に預かり給ひし垂水神二座も当社の祭神なるべく、叙位叙勲奉幣等の正史に見ゆるもの亦多し」(大阪府史蹟名勝天然記念物)
とあるように、旱魃・多雨に際しての祈雨祭あるいは新天皇即位後に難波津で行われた八十島祭(住吉・大依羅・大海・とともに幣帛を受けている)などで奉幣を受けたといい、
 正史にも
 「仁明天皇承和3年(836)6月、奉松尾・賀茂・御祖・住吉・垂水等社幣、祈雨也」(続日本後記)
以下、旱魃・長雨のたびに、賀茂や住吉といった著名神社とともに当社に対しても祈雨・止雨の祈願がなされたとの記録があり、その度に神階が登っている。

 これらのことからみて、当社祭神をトヨキイリヒコとはするものの、本来の祭神は水を掌る自然神・水神であり、当社の南に広がる田畑における穀物の豊饒を司る農業神でもあったと思われる。 

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