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妙見信仰/星田妙見宮 
(正式社名:小松神社)
大阪府交野市星田9-60-1
祭神−−天御中主大神・高皇産霊大神・神皇産霊
                                              2007.07.05参詣、2021.02.22再訪・改訂

 星田妙見宮は、JR学研都市線(片町線)・星田駅の東南約3qにある妙見山(H=162m)の頂きに鎮座する。
 JR星田駅の東を流れる妙見川に沿って南下(堤防上の桜並木)、妙見阪小学校前を過ぎて妙見橋(欄干朱塗り)を渡った右手に一の鳥居が立つ。

 
境内案内図(左下が入口、参詣の栞より)

※由緒
 当宮参詣の栞には、
 「当社の縁起によりますと、平安時代・嵯峨天皇弘仁年間(810--24)に弘法大師が交野へ来られた折、獅子窟寺吉祥院の獅子の窟に入り仏眼仏母の秘法を唱えられると、天上より七曜の星(北斗七星)が降り3ヶ所に分かれて地上に降りました。
 (この三ヶ所は一辺八丁の三角形をなし、俗に八丁三所といわれる)
 現在もこの伝承は当地に残っており、星が地上に落ちた場所として、一つは星田傍示川沿いの高岡山東の星の森、もう一つはこの星田乾にある降星山光林寺境内、そしてもう一つが当宮であり、現在も降臨したと伝わる磐座を影向石(織女石)と称してお祀りしています。

 弘法大師は自ら『三光清岩正身の妙見』と称され、『北辰妙見大悲菩薩独秀の霊岳』・『神仏の宝宅諸天善神影向来会の名山』としてお祀りされました。
 後世には淳和天皇・白河天皇・後醍醐天皇を始め楠木正成・加藤清正以下など、多くの崇敬者を集めたと伝わっています。

 平安時代には『神禅寺』と称されており、河内長野の天野山金剛寺の古文書には『嘉永元年(1106)9月23日、星田神禅寺』と記載されています。
 また天文4年(1535)神明帳には、『小松大明神』と記されています」
とあり、
 当由緒は、平安時代の『妙見山影向縁起』(貞観17年−875))並びに江戸時代に書かれた当社縁起書に記載されているという。

 また、河内の名所旧跡・神社仏閣・歌枕の地などを記した「河内名所図会」(1801)には、
 「妙見神祠(ミョウケンノヤシロ) 妙見山にあり。神躰巨石三箇、鼎(カナエ)の如く峙(ソバダ)ちて丘の如し。
 前に石の鳥居・拝殿・玉垣・石段等あり。土人、織女石(ヲリヒメイシ)とも妙見石とも呼ぶ。
 此神祠の旧名小松明神〔潅頂禄〕にみへたり。
 抑、妙見尊は、神道家には天之御中主尊と称し、陰陽家には北辰星といひ、日蓮宗徒には妙見菩薩と仰ぎて、近年おおいに奉信す」
とあり、右の絵図が載せられている。

  この絵図には峨々たる高山の上に鎮座するかのように描かれているが、そう高い山ではない。
 今は祭の時以外は訪れる人も少なくひっそりとしているが、江戸時代には、多くの善男善女が物見遊山をかねて参詣した名所だったという。

 日蓮宗徒云々に関して、鎌倉時代には社殿の南に「妙見山竜光寺」なる日蓮宗の社坊があったといわれ(位置不明)、神に祈願する拍手(カシワデ)の傍らで、法華太鼓がドンツクドンツクと鳴り響くという複雑な山だったらしい。

名所図会・星田妙見

 交野町史(1963)には
 「当社の起源は遠く太古にさかのぼる。倉治の交野山・寺村の竜王山又は磐船神社等にあるように、山頂の巨巌または特に顕著な巌は、日本人古来の風習で、これを神聖視し拝祀している。
 この妙見山の二つの巌もそれで、太古ここは星田の聖地として、神の岩座(イワクラ)と考えていいだろう。その記憶が後世には、これを影向石として祀られたことによってわかるのである。

 その後平安の始めとなると、交野地方一帯は京都朝廷の遊猟地となり、大宮人が鷹狩りや散策のために来ることが多かった。
 又当時の朝廷では陰陽思想が盛行となり、宮人たちが交野へ遊猟に来ると、彼らの眼にふれる山・川・野・森・村・神社等すべての風物を天界の事象に附会して解釈し、又甘野川を天野川、甘田の宮を天田の宮・乾田を星田とするなど、天界に関係する名称が付けられた。
 恰もその頃、寺院縁起などの作者は、どのような空言(ソラゴト)でも当時の民衆は信じると知っていたようで、当地方に多い天界の名、中でも星田の地名を利用して、高僧(弘法大師)の法力により天上から星が降ったとの説話を創作し、ここに当山御神体(双岩)は北斗七星の影向石として崇められるようになった。

 当社には「妙見山影向石略縁起」なる古記録があり、そこには
 「大師これより此獅子の岩窟に入て、仏眼尊の秘法を修し玉うに応じて、天より七曜の星降臨し給ひ擁護し玉ふ。
  時に此星、伊宇の三点の如く、当村
(星田)の三ヶ所に下り給ふ。故に当村を三宅庄星田村と号して、末世に其現瑞を伝るなり
とある。


 当社に北斗七星を祀るということは、平安時代初期頃から説かれた本地垂迹思想からで、日本の神である天御中主尊は北斗七星を神格化したもの、その元は北辰菩薩という仏様だということからきている。
 だから此の山がお宮さんであっても、拝殿でお経を唱えても差し支えなく幸福を与えるということで、それが悉く日蓮宗の宗旨に適っていることから、ここに日蓮宗が入り、妙見山竜光院という宮寺ができて、山上で神を拝む拍手の音とともに、法華の太鼓がドンドンと鳴り渡るという複雑な山になった。(中略)

 当山は神仏混淆のまま江戸時代の終わりまで続いたが、明治維新の神仏分離の法令で本来の磐座を祀る小松神社とかえったが、一般にはまだ妙見さんといって、開運祈祷のために遠くから参詣する人もある」
とある。

※祭神
 参詣の栞には
   天御中主大神(アメノミナカヌシ)・高皇産霊大神(タカミムスヒ)・神皇産霊大神(カミムスヒ)
    仏教にては北辰妙見大菩薩(ホクシンミョウケンダイボサツ)、陰陽道にては太上神仙鎮宅霊符神(タジョウシンセンチンタクレイフシン)
とある。

*天御中主神
 天御中主大神以下の三神は、天地開闢の時、最初に高天原に独神として成りでて、そのまま身を隠したという神々で、造化の三神と呼ばれる。
 その中心となる天御中主神は、記紀には何らの事蹟も記されておらず、この神を祀る神社もないという不思議な神で、観念的な神格とも見られている。

 ただ中世になって古事記の見直しが盛んになると、国学者等によっていろんな神格が加上され、特に平田篤胤の復古神道において、当神を北斗信仰(妙見信仰)の神と習合させたことから脚光を浴び、明治初期の神仏分離によって仏教系では北辰妙見大菩薩、神道系では天御中主神、陰陽道では太上神仙鎮宅霊符神と称して祀るようになったという。

*北辰妙見大菩薩
 北辰妙見菩薩はインドで始まった菩薩信仰が、中国で道教の北極星・北斗七星信仰と習合してわが国に伝来したものという。
 仏教にいう“菩薩”とは、“悟りを求める人”あるいは“悟りを得た人”の意で、仏に次ぐ地位にある尊格だが、妙見菩薩は菩薩とは称するもののインド由来のそれと異なり、仏教パルテノンでは、弁財天や毘沙門天などと同じく“天部”に属する。
 一般の菩薩に比べて格が低いということだが、その分、身近な尊格として親しみやすかったのかもしれない。

 妙見とは“妙なる視力”、事の善悪や真理をよく見通すという意で、七仏所説神呪経(5・6世紀頃中国で成立した偽経)には、
 『吾は北辰菩薩、名づけて妙見という。・・・吾を祀らば護国鎮守・除災招福・長寿延命・風雨順調・五穀豊穣・人民安楽にして、王は徳を讃えられん』
と現世利益の功徳を讃えている。

 わが国では密教や修験道で重要視され、これを勧請しての国家鎮護・除災招福の祈願が密教僧あるいは修験僧によって盛んにおこなわれたという。
 特に日蓮宗では「日蓮が宗門隆盛を祈っているとき、天から大きな明星が降りてきた」とか「日蓮が伊勢の常明寺に滞在しているとき、北辰妙見菩薩が姿を顕した」といった伝承から、宗祖・日蓮との関わりが深く、妙見菩薩を祀る星祭りが盛大におこなわれたという。

 参詣の栞には、
 「妙見信仰とは、北極星を北天の中心に位置する不動の星・高貴な星と崇め、北極星とそれを補佐し万物に恵みを与える北斗七星を神格化したものです。
 妙見様は緒星諸神、方位方角を支配する尊い星神とされ、人の星(運命)を司る神様であると伝えられています」
とある。

 妙見信仰には星辰信仰・道教・密教・陰陽道など様々な要素が混淆しているためか、その尊像は一定していない。
 当宮所蔵の尊像は、北斗七星を頂き、剣を両手で下方に突き立て、玄武(亀)の上に乗った女神像として描かれているが、
 仏教曼陀羅では二臂の菩薩像として描かれている。
 また特異なものとして、北摂の能勢妙見宮の尊像は甲冑をまとい、右手に大刀を振りかぶり左手に印を結んだ武人の姿をとっており、他にも種々の姿形があるという。

 
当社蔵の妙見尊像
 
二臂の妙見尊像
 
能勢型妙見尊像

*太上神仙鎮宅霊符神−−下記


※社殿等
◎山頂
 当宮にはいわゆる本殿はない。
 石段を登りきった猫の額ほどの平地に西面して建つ拝殿正面には『星田妙見宮』の扁額が、正面軒下には十二支と方位を組み合わせた十二支方位盤(子の方角が北を指す)が掛かり、ここが星辰信仰の聖地であることを示している。


拝殿への石段 
 
星田妙見宮・拝殿(正面)
 
同・拝殿
 
同・内陣
 
同・軒下の十二支方位盤 

◎影向石(ヨウゴウセキ)
 拝殿の裏の雑木林の中に注連縄を張った大きな岩が2個座っている。
 これが当宮のご神体で、1個は拝殿裏の左手すぐに、もう1個は正面すこし離れた処にみえる。
 伝承にいう、天から降ってきた北斗の星というのが是だろうが、元々は神が依りつくとされる磐座で古くから信仰対象となっていたものに、空海の祈願により七曜の星が降ってきたという伝承を被せたのが当社影向石であろう。

 
影向石(拝殿左奥)
 
影向石(拝殿正面奥)

◎鎮宅霊符社
 拝殿左(北側)に建つ別棟の社殿には、右に『鎮宅霊符神』が左に『三宝荒神』が祀られている。
 大坂春秋(60号)によれば、
 『当社の宮司が昭和61年、鎮宅霊符神の神託をうけて、拝殿の北側に小さな社殿を建て、拝殿の中にあった鏡の御魂と玄武を安んじ奉った』(「星田妙見宮散見」野崎敏生)
とある。

 霊符社内陣には、中央:鎮宅霊符神、右:素盞鳴命、左:饒速日命との扁額が掲げられ、その前に“八稜の鏡”と“玄武像”が置かれている。
 今はその前に金の御幣3本が立つため鏡・玄武像はよく見えないが、10数年前には御幣がなく実見できた。
 この二つは、かっては拝殿に安置されていたもので、鏡の裏には「鎮宅霊符神=天御中主命、元治元年甲子(1864)」とあるという。


左:三宝荒神社、右:鎮宅霊符社 
 
鎮宅霊符社・扁額
 
同・内陣(現在)
 
御幣に隠れて鏡・玄武像はみえない
 
かつての内陣
(中央にみえるのが八陵の鏡と玄武像)

*玄武像
 玄武像(約50p)は亀に蛇がからんだ姿をしているが、これは四方を守る四神の一つ“北方の守護神”で水神。
 これは、五行説において“玄武”が、方位は北・色は黒(玄)・五行は水・季節は冬とされていることによるもので、
 また、“亀”は長寿と不死の、“蛇”は生殖と繁殖の象徴であることから、亀と蛇が合体した玄武は陰陽が合わさった姿を表すという。
 当社の玄武像は、当社祭神・北辰妙見菩薩が北極星を指すことから、同じ北方に坐す霊獣として奉納されたので(大正6年大坂商人の奉納という)、当社参詣の栞には、「玄武は妙見さまのお使い」とある。
 なお太上神仙鎮宅七十二霊符にも霊符神の下に玄武像が描かれている。

 なお、わが国における四神信仰は、キトラ古墳(7世紀末〜8世紀初頭)から発見された石室の壁に青龍(東)・朱雀(南)・白虎(西)・玄武(北)の四神が描かれており、飛鳥時代に知られていたのは確かという(推古朝ともいう)

 
玄武像と八陵の鏡
 
玄武像(キトラ古墳) 

*霊符社に合祀されている素盞鳴命は、記紀神話にいう天照の弟神で荒ぶる神だが、当社に合祀される由縁は不明。
 また饒速日命とは、神武天皇の東征に先立って大和に天降ったという天つ神で、その降臨地が天野川上流の磐座神社辺りとの伝承がある。
 古く、交野の辺りは物部系氏族が支配した地で、そこから物部氏の祖神饒速日命を祀る神社が多かったというから、その名残かもしれない。

◎太上神仙鎮宅七十二霊符(タジョウシンセンチンタクナナジュウニレイフ)
 妙見宮には各種のお札があるが、その中心をなす霊符を「太上神仙鎮宅七十二霊符」という。
 当社に伝わるこの霊符は、江戸時代(元治元年-1865のものという)から伝わる版木で摺るという由緒あるもので、霊符の中央上部には、両脇に武神を従えた鎮宅霊符神が座し、その足許には玄武が描かれ、その周囲に、72枚の霊符が並んでいる。
 霊符神は中国風の服装で、この神が中国からの伝来であることを示している。
 神像の上に見える3個の光芒は、由緒にいう天降った3個の星であろう。
 なお、当宮には鎮宅霊符の他に北斗七星霊符など数種の霊符があり、社務所には幾つかのサンプルが置かれている。

 
太上神仙鎮宅霊符
 
同・神像部拡大
 

北斗七星霊符

 この霊符について、参詣の栞には、
 「星辰信仰の霊地である当宮には北斗七星霊符など多数の霊符が伝わっています。
 中でも、当社の最高神として伝わる太上神仙鎮宅七十二霊符は中国皇帝の守護符として尊ばれ、除災開運に絶大な霊力を発揮したといわれる秘法の霊符です。
 我が国には推古天皇の時代に来朝したと伝わります。
 人生にまつわる72の災い事を鎮める霊符として、朝夕に心を込めて祈ることで富貴繁栄を将来するとされます」

 また当宮HPには
 「太上秘法鎮宅霊符とも呼ばれる72種の護符。
 現在の所、道蔵の「太上秘法鎮宅霊符」が原典とされ、中世初期に伝来したものと考えられています。
 陰陽道に限らず仏教・神道などの間でも広く受容されました。
 この霊符を司る神を鎮宅霊符神と言いますが、元来は道教の玄天上皇(真武大帝)であると考えられています。玄天上帝は玄武を神格化したものであり、北斗北辰信仰の客体でありました。
 それ故、日本へ伝来すると妙見菩薩や天之御中主神等と習合し、星辰信仰に影響を与えています。
 星辰信仰の客体であり、また八卦が描かれるため陰陽道では受容しやすかったものと思われます」
とある。

 栞には、この霊符に祈れば富貴繁栄が招来するとあるが、中国には
 「漢の頃、貧しくて病難災厄が続いていたある一家に、ある日二人の童子が訪れたので貧しいながらも一心にもてなしたところ、帰りがけに鎮宅霊符を授け、
 『これを朝夕礼拝祈念すれば、10年にして家おおいに富み、20年にして子孫繁栄、30年にして天子がその家を訪れるであろう』
と告げた。
 奇しきことと思いながらも礼拝していたら、お告げの通りに天子が訪れて来るまでに富み栄えた。
 その家を訪れた天子は、この話を聞き、この霊符の霊験あらたかなことに驚き、自らも信奉し且つ天下に弘めさせた」
との伝承があるという。

◎三宝荒神社
 鎮宅霊符社の左に祀られている『三宝荒神』とは、本来は仏教でいう仏法僧の守護神だったが、神道の荒ぶる神や修験道・民俗宗教などと習合して三面六臂の忿怒相で表され、強力な僻邪力(ヘキジャリョク、邪悪を排除する力)をもつとされ、火の神・竈神・ご不浄の神などとも習合し、家宅の裏側にあってその家を守護するとされる。
 ただし粗末に扱えば非常な災厄をもたらす怖い面も併せもつという。
 社殿軒下に『三寶大荒神』との扁額が掛かり、内陣には朱塗りの小祠が鎮座しているが、当宮に三宝荒神が祀られる由縁は不明。

 
三宝荒神社・扁額
 
同・内陣の小祠

※末社
 当社境内には頂上に鎮座する上記以外に数多くの末社か参道沿いに点在するが、資料なく、その勧請由緒・時期等は不明。
 以下、山麓から参道に沿って記す。

 
星田妙見宮・境内略図
:七星塚の位置)

 妙見川を東に渡った右手に当宮一の鳥居が立ち、南へ長く延びた参道の途中に二の鳥居が立つ。
 当宮はいま妙見宮と称しているが、神社としては「小松神社」が正式名称で、参道途中の右手に『小松神社』と刻した社標柱が立っている(側面に「大正2年建之」とある)


星田妙見宮・社頭 
 
同・一の鳥居

同・参道 
 
小松神社・社標柱

*祖霊社・地蔵堂・庚申社
 参道の突き当たり右手、簡単な瑞籬の中に小祠3宇(祖霊社・地蔵堂・庚申社)が北面して並ぶ。
 ・祖霊社−−当宮に関係する先人の霊を祀る小祠
 ・地蔵堂−−台座には「延命地蔵尊」とあるが、傍らの案内には「十願地蔵尊」(ジウガン ジゾウソン)とあり、
         「十願地蔵尊とは、私たちの人生に於て最も大切な十の願いを叶へ、常に私たちを守り導き下さるお地蔵さま」とある。
 ・庚申社−−案内なく祭神不祥だが、暗い内陣に一面多臂の尊像が見えるから、青面金剛(ショウメンコンゴウ)かと思われる。
         庚申信仰とは、60日毎に巡ってくる干支の庚申日の夜、皆が集まって徹夜して延命長寿などを祈ったというもので(これを庚申講といった)江戸時代に流行した世俗信仰をいう(神社暦に庚申日が記されており、今も信仰は残っているらしい。別稿「庚申信仰とは」参照)


全 景 
 
鳥 居
 
左:地蔵堂・中:祖霊社・右:庚申社

地蔵堂 
 
祖霊社
 
庚申社

*表参道入口
 祖霊社の反対側に表参道の鳥居が立ち、山上への登坂が始まる。


左:下社稲荷社・右:表参道鳥居 

表参道・入口鳥居 
 
石 段

*下社稲荷社−−倉稲魂大神
 表参道の左に接して鎮座する稲荷社で、朱塗りの鳥居列奥の緩やかな石段の上に朱塗り瑞籬に囲まれて朱塗りの小祠が鎮座する。案内等なし。

 
下社稲荷社・鳥居
 
同・全景

同・社殿 

*絵馬堂
 参道(石段)の途中に横長・亙葺き・四方吹き放しの社殿があり、栞掲載の境内図には「絵馬堂」とある。
 ただ、内陣に掲げる扁額には「天尊山」とあるが、絵馬堂と天尊山との関係は不明。
 内陣の左壁に、天の川の対岸に立つ大きな天女像図(北辰妙見菩薩か)が掲げられ、口元から地上へ7っの星が降っている。

 
絵馬堂
 
同・内陣

同・壁画 

*烏枢沙摩明王堂(ウスサマ ミョウオウ)−−烏枢沙摩明王
 参道を登っていくと、左手に烏枢沙摩明王を祀る小祠がある。
 烏枢沙摩明王とは密教にいう明王の一尊で、天台系密教(台密 )では五大明王の一尊として尊崇される(東密では金剛夜叉)
 古代インドでウッチュシュマあるいはアグニと呼ばれた炎の神で、「この世の一切の汚れを焼き尽くす」との功徳を持ち、仏教に取り込まれた後も、「烈火で不浄を焼き尽くして清浄とする」神力をもつことから、心の浄化はもとより日々の生活のあらゆる不浄を清める功徳があるとされ、特に便所の不浄を清めてくれる明王(神)として祀られることが多いという(Wikipedia大意)

 堂内には、炎形の容器のなかに一面多臂の黒い神像が祀られているが、ゴチャゴチャしてよくわからない。
 なお、生駒市の生駒聖天(宝山寺)には、頭髪を火炎のように逆立たせた憤怒相の明王が、火炎を背負い、右手に金剛刀・左手に戈を持ち、右足を挙げて岩上に立つ一面四臂の像として祀られている。 


烏枢沙摩明王堂 
 
同・神像
 
烏枢沙摩明王像
(生駒聖天)

 烏枢沙摩明王堂から山頂までの間に末社はない。

*青龍社・豊臣稲荷社・白玉稲荷社・龍王社
 表参道の頂上拝殿へ至る石段下から右(南)に山道が降り、その先に4社が鎮座する。
・青龍社−−青龍大神
 坂道を下ってすぐの左にある朱塗りの小祠で、前に「青龍大明神」との幡が立ち、祠内には鏡が安置されている。


青龍社 
 
青龍社・社殿 

・豊臣稲荷社
 青龍社からだいぶ進んだ処に鎮座する小社で、道より少し高くなった処に鎮座する。
 鳥居の奥に朱塗り・亙葺きの社殿(覆屋)が建ち、内陣には一間社流造の小祠が鎮座する。
 境内に立つ幡には「豊臣稲荷大明神」とある。

 
豊臣稲荷社・鳥居
 
同・社殿(覆屋)
 
同・内陣に鎮座する小祠

・白玉稲荷社

 豊臣稲荷社の少し先にある小祠(右写真)
 社名表示・案内等なく詳細不明だが、境内略図にC白玉稲荷とあるのが是と思われる。 
 稲荷社と称することから祭神は稲荷神であろうが詳細不明。
 ただ、小祠内の扉が3枚あることから3柱の神を祀ると思われる。

 なお参詣の栞の境内図には白玉稲荷社はみえず、末社の中には入っていないのかもしれない。

 

・龍王社−−豊正龍王・豊玉龍王
 豊臣稲荷社から先に進んだ道の左に鎮座する朱塗りの小祠で、右に豊正龍王・豊玉龍王と刻した石碑が立つ。


龍王社・全景 

龍王社 
 
同・石碑

 龍王社前から先へ道は続くが境外への道で、ここで引き返して表参道へ戻ることになる。

*登龍の瀧(不動明王)・金色龍王社
 表参道・社務所下から右(南)へ降る石段があり(帰り道との案内あり)、その先に2社が鎮座する。
・登龍の瀧−−不動明王
 石段を下りきった処にある細い瀧で、傍らに火炎を背負った不動明王が立ち、かつては行者の修行の場だった聖地であろう(今、修行が為されているかどうかは不明)。
 呼称は登龍の瀧と豪壮だが、実際は岩場左上の筧(管とみえる)から細い流水が落ちているだけだが(水流は細くて写真では見分け困難)、背後の岩場の状態をみると曾ては豊かな水が落ちていたのかもしれない。
 また、滝水は平たい石に上に落ちるようになっており、修験行者がこの石の上に立って滝水を浴び、右手の不動明王に向かって祈願したのであろう。

 なお、注連鳥居を入ってすぐに石を以て六角形に区画された処がある。
 これが何を為すところかは不明だが、瀧の前で行われた護摩壇の跡かと思われる。


登龍の瀧・注連鳥居 

同・全景 
 
同・瀧と不動尊
(左上から水が落ちている)

同・滝壺と不動尊 
(水は左の平石に落ちる)

不動明王
 
護摩壇跡か

・金色龍王社−−金色龍王

 登龍の瀧右手の岩場の上に鎮座する一間社流造の小祠だが、
 社名表示なく、資料もないため詳細不明。







 なお、この小祠前を先に進むと、表参道前に出る。
 

◎その他
*七星塚
 参道沿いの7ヶ所(上記境内略図のの地点)に「七星塚」と称する塚が立ち、その台座には貧狼星(トンロウセイ)・巨門星(コモンセイ)・禄存星(ロクゾンセイ)・文曲星(モンコクセイ)・簾貞星(レンジョウセイ)・武曲星(ムコクセイ)・破軍星(ハグンセイ)とある。

 これらは天体の動きと人の営みには密接な関係があるとする古代思想から、人の運命と北斗七星とを関連づけたもののようで、境内に掲げる「あなたの守護星をご存じですか」との案内によれば、
 ・これら7星は「本命星」(ホンミョウショウ)と呼ばれるもので、
 ・北斗七星の中から、各人の生まれた十二支により選定され(たとえば、子年生まれは貧狼星)、その年に生まれた人の一生の寿命を司る故に、本命星といい、一生変わりません
とあり、本命星と北斗七星との関係、十二支との関係を示した図が描かれている。
 しかし、人の一生が生まれた年の干支によって最初から運命づけられるとは、何のための人生かと思われる。

 
本命星と北斗七星の関係
 
本命星と十二支との関係

 参道に建立されている七星塚(本命星)は下の7基で、仏像は如意輪観音らしいが、いろんな姿態をしている。

       
     

*神紋及び幟り
 拝殿の幔幕あるいは参道に立つ幟などに描かれた当社の神紋は、“北斗七星の周りを八卦(筮竹)が丸くとりまく”という特異な紋で、当宮と北辰・北斗信仰や陰陽道との関わりを示している。
 八卦の上に描かれた3個の星座は、天降った3個の星を示すものであろう。

 また、境内各処に立つ“幟り”には、神紋の下に「星と霊符の社 星田妙見宮大神(中央)・太上神仙鎮宅霊神(右)・三寶大荒神(左)」と紺地に白く染め抜かれている。

 
神 紋
 
幟り 

*七夕祭(7月6・7日)
 七夕祭りは初夏を感じさせる風物詩の一つだが、本来は8世紀頃に伝来した星祭り・乞功奠(キッコウデン)が変化したもので、“この夜に願ったことは3年以内にかなう”といわれていた。
 古く、宮中での重要な節会(セチエ)の一つだったものが次第に民間にも広まったといわれ、今のように、竹を立てて願い事を記した色紙を飾るのは江戸時代以来という。

 当宮参詣の栞には、
 「当宮には伝統的な七夕祭祀が伝わっています。当宮のご神体・織女石(影向石)とは七夕の織姫を祀る石ということです。
 江戸時代、貝原益軒の南遊紀行にも『此谷の奥に星の森あり。星の社あり。其神は牽牛織女也』と記されています
 古今和歌集には、当地・交野の原で在原業平が惟喬親王の狩猟の供をした時に、『狩り暮し 棚機津女に宿借らむ 天の川原に我は来にけり』と詠んだ歌があり、この頃には既に交野ヶ原に七夕伝承が定着していたものと思われます
とある。 

参道に立つ七夕飾り
(2007.07)

 わが国では“七夕”と書いて“タナバタ”と読むが、本来の音訓にはその読みはない。
 古くタナバタとは棚機(機織り機)のことで、水辺に置かれた棚機場でカミの衣を織りながらカミの訪れを待つ織女を“タナバタツメ”と呼んだ。
 そこに、旧暦七月七日の夜、天の川をはさんだ牽牛と織女とが年に一回会うという中国伝説が伝来して、中国の織女がわが国のタナバタツメと習合したという。

 なお中国の伝説とは、「天の川の東岸にいた天帝の娘・織女は、毎日、天人の着物に使う布を織るのに忙しく化粧する暇もなかった。それを憐れんだ天帝が、西岸にいる牛飼いの牽牛と結婚させた。
 ところが織女が夫婦生活に溺れて布を織らなくなったので、怒った天帝がふたりを別れさせ、七月七日の晩にだけ会うことを許した」(大意)というもの。

*地名・星田の由来
 生駒連山中に発し北進して淀川にいたる天野川一帯は、古く弥生時代から拓けた農耕地だったが、そのなかにあって星田山(現妙見山、H=143.5m)は禿げ山で、その周りも水利の便も悪いため水田耕作がままならず、牧場として利用されるだけで『乾し田』(ホシダ)と呼ばれていたという。
 ところが平安時代になって、多くの大宮人がこの辺りに遊猟にやってくるようになると、、当地に残る降星伝説を聞いての詩的連想から、荒れた田畑は美しい星の降る田畑へ変貌し、「乾し田」が同音の『星田』になったという。

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