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日野宮神社
福井県今立郡池田町常安13-1
祭神--天照皇大神・誉田別尊・臘嘴鳥皇子・皇子御母岐多志媛
                                                    2019.10.26参詣

 JR北陸本線・武生駅の東約15km、池田町を通る国道417号線南の小道沿いにある小社だが、道路脇には石灯籠2基が立つだけで鳥居は奥の方に立つため注意しないと見過ごす可能性がある。管見したネット地図に表示はない。
 旅行会社主催の池田町を巡るウォーキング・ツアーの途上にあった神社。

※由緒
 社頭に掲げる案内には
 「当日野宮神社は、欽明天皇の第三皇子・臘嘴鳥皇子(アトリノオウジ)の創建といわれ、有名な狼祭など古い由緒を持つ神社であり、・・・」
とあるが、細かいことは記していない。

 地元観光協会の方のお話では、嘗ての当社はオオカミ神社(王神・狼)と呼ばれていたそうで、とすれば、狼を神として祀る珍しい神社という。

 その由縁として、社伝によれば、
 ・欽明天皇15年(550)、第三皇子・臘嘴鳥皇子(アトリノミコ)が、秦大津父(ハタノオオツチ)が2頭の狼が争うのを諫めたという故事に則り、勅令を奉じて、佐飛・和田・恩地の3臣を従えて伊勢国・鈴鹿の山中に入り、人々を苦しめていた猛狼を捕らえた。
 ・天皇は、これを犬王と号し、遠国に連れ下って守護せよと命じた。
 ・皇子は三臣とともに山々を巡り谷を渡り、深山渓谷を求めて当庄内に入り、まず荒谷に着き遂に常安に移り、猛狼を山中の岩窟に封じ、犬王霊神として祀り、麓に草庵を築き、天照大神を祀って日野宮と号されたのが当社の始まりで、
 ・その後、敏達天皇12年(583)に皇子が当地で崩せられたので、日野宮に合わせ祀った
という。

 臘嘴鳥皇子--書紀には、29代欽明天皇と蘇我稲目の娘・堅塩媛(キタシヒメ)との御子13人の一人で第三皇子とあるが(用明天皇の同母弟)、その事蹟等の記載はなく、上記社伝は当地に伝わる伝承であろう。

 秦大津父の故事とは、
 ・欽明天皇幼少の頃、「秦大津父なる者を身近におけば、壮年になって天下を治められるであろう」との夢告をうけ、これを山城国紀伊の深草の地に見いだして、これを召し、「何か変わったことがなかったかと」と問われた
 ・これに対して秦大津父が、「商用で伊勢国に行った帰り、山中で二匹の狼が噛みあって血まみれになっているのと出会ったので、『あなたたちは恐れ多い神であるのに、争ってはなりません』とこれをおしとどめ、命を助けてやりました」と答えた
 ・これを聞いた天皇は、大津父を身近において手厚く遇され、即位後、大津父を大蔵の司に任じられた
というもので(欽明紀、大略)、ここでの狼は神として遇されている。


 今、臘嘴鳥皇子が猛狼を封じたという岩窟の所在地は不明だが、遙か谷の奥にあるといわれ、戦前までは7月25日の夜、神主が一人で岩窟を訪れ供物を供えての神事(狼祭)が行われ、その夜は、村中が燈火を掲げず外出を禁じる風習があったという。

◎伝来品
 社頭の案内には、
 *工芸品 伯牙弾琴鏡(ハクガダンキンキョウ)--文部省認定重要美術品・昭和16年7月
    昭和13年、対岸の王神(オウジン)の森付近の道路を改修した際に出土した古鏡で、中国の『伯牙』の伝承を鋳出した唐式鏡であり、奈良時代に作られたものである。
 *彫刻 鬼神面(キシンメン)--池田町指定文化財・平成6年2月
    この面についての伝承等はないが、古面の多い当地でも鬼神面は唯一この面のみである。
 *彫刻 狛犬一対--池田町指定文化財・平成6年2月
    鎌倉時代から南北朝時代に作られたと思われ、阿吽の対象を巧みに表現した力強い像である。
とある。

 伯牙弾琴鏡とは、中国春秋時代の晋の大夫で琴の名手といわれる伯牙が琴を弾じ、それに聞き入る友人・鍾子期の様を鋳出した古鏡をいうが、当社のそれが如何なる経緯で当地に埋蔵されたのか、また中国からの伝来鏡かどうかは不祥。

 また、王神の森について、国道脇に立つ案内には
 「史跡 王神の森遺跡(池田町指定文化財・昭和47年指定)
  この地区は、足羽川が渓谷から平坦部に出る出口にあたり、右岸の山麓を中心に早くから集落が形成されていたと考えられる。
 この遺跡から、縄文式や弥生式の土器・石器が多く出土し、住居跡も確認されている複合遺跡である。
 この遺跡の東端部から「伯牙弾琴鏡」と呼ばれる鏡が出土し、欽明天皇第三皇子・臘嘴鳥皇子が猛狼を岩窟に封じ、居住された処と伝えられるように、対岸の日野宮神社からこの地にかけては古くから神聖な霊地とされてきた」
とある(一部省略)

 当地は能面打ちが盛んな土地柄で、今回参詣した神社でも幾つかの能面が所蔵され、志津原17-2にある能面美術館には古面と新作面が数十面展示されている(好きな方には一見の価値あり、入館料300円)
 鬼神系の能面には、顰(シカミ)・癋見(ベシミ)・獅子口(シシグチ)など数種類があるが、当社のそれがどれなのかは不明。当地では唯一の古面というから、あるいは別系統の面かもしれない。

※祭神
 天照皇大神は、上記伝承にもとずく当社の主祭神だが、皇子が如何なる由縁でアマテラスを祀ったのかは不明。
 誉田別尊(応神天皇)をまつる由縁は不明。
 臘嘴鳥皇子は、当社創健者としての合祀で、
 皇子御母岐多志媛(ミコミホキタシヒメ)は皇子の母・堅塩媛を指す。
 

※社殿等
 国道417号線の道路脇にやや大きな石灯籠2基が立ち、傍らに「村社 日野宮神社」との石標が立ち、狭い広場の左奥に、鳥居が西面して立ち、参道が延びる。

 今の社殿等は簡素なものだが、資料によれば、
 「天延3年(975)頃、領主斉藤加賀守吉信が社殿を改造し、神楽殿・絵馬堂等も造営したが、朝倉氏滅亡(1573)の翌年・天保3年(1574)9月の一向一揆に際して破却され社殿悉く烏有に帰した。
 その後、文禄4年(1595)6月神祇官の許可を得て、慶長元年(1596)に本殿、天保14年(1843)3月に拝殿、嘉吉元年(1848)8月に鳥居を改築した」という。

 
日野宮神社・社頭
 
同・鳥居

 杉木立に挟まれた短い参道の奥に入母屋造・妻入の拝殿が建つ。内陣は暗くて拝見不能。


同・参道 

同・拝殿正面
 
同・拝殿側面

 拝殿の奥、少し離れた石垣3段の上に切妻造・平入りの本殿が建つ。
 形からみるとこれは覆屋で、中に本殿社屋が鎮座するのかもしれないが、扉が閉まっていて内部の様子はわからない。


同・本殿 
   同 左

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