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大瀧神社岡太神社
福井県越前市大滝町13-1
祭神--大瀧神社:国常立尊・伊弉諾尊
     岡太神社:川上御前(岡太大神)
                                                 2019.10.26参詣

 当社は大瀧神社(オオタキ)・岡太神社(オカモト)の2社からなっており、背後の権現山(H=323m)山頂付近にある奥の院には両社別々の社殿をもって鎮座し、山麓の大滝町にある里宮では両社が同じ社殿内に鎮座している。

 また、両社のうち岡太神社は、延喜式神名帳(927)に『越前国今立郡 岡太神社』とある式内社。
 (なお、越前市粟田部町にある岡太神社も式内・岡太神社と称し論社となっているが、由緒・祭神ともに当社とは異なる)

 北陸本線・武生駅の東約7km、越前市の中央部北寄りにある権現山の南麓に鎮座する。

※由緒
 境内に立つ案内には、
 「当神社は神体山である権現山の山頂付近に建つ奥の院(上宮)と里宮(下宮)とから成り立ち、奥の院には大瀧神社(オオタキ)と岡太神社(オカモト)の本殿が並び建っている。この山麓にある社は、その両社の里宮である。

 大瀧神社の創建は、社伝によれば、推古天皇の御代(592--628)大伴連大滝の勧請に始まると伝えられている。
 ついで、奈良朝に至って元正天皇の養老3年(719)、越の大徳と称せられた泰澄大師(タイチョウタイシ)がこの地に来たり、大徳山(権現山のこと)を開き、水分神(ミクマリ)であり紙祖神(シソシン)である川上御前を守護神として祀り、国常立尊・伊弉諾尊の二柱を主祭神とし、十一面観音をその本地とする神仏習合の社を建て、大滝兒大権現(オオタキチゴダイゴンゲン)、または小白山大明神と称し、その別当寺として大滝寺を建立し、社僧を置き神事を司らしめられたと伝えている。

 岡太神社は、この村里に紙漉きの業を伝えたとされる川上御前を祀り、延喜式神名帳(927)にも記載されている古社で、往古よりこの神域に摂社として祀られた。
 この紙祖神としての川上御前に対する里人の信仰は篤く、神の教えに従い、古くから大滝神郷一円を中心に、優れた紙を漉いてきた。

 中世には大滝寺は平泉寺の末寺となり、48坊の堂塔伽藍が山頂・山麓に並び、社僧600~700人を擁して隆盛を極め、神領70余町、日野川以東の村落48ヶ村を氏子とするにいたった。
 南北朝時代には足利の軍勢に抗し、その兵火により一時衰退するが、室町時代の中葉、国主・朝倉氏の帰依篤く、再び社運は興隆した。
 天正3年(1575)織田信長の一向一揆攻略の際、再度兵火に会い、一山ことごとく灰燼に帰したが、その後に領主となった丹羽長秀の保護により漸く復興することになる。
 江戸時代には、初代藩主結城秀康をはじめ代々藩主の崇敬篤く、兵火のため焼失した社殿も復興された。
 その後、老朽化により天保14年(1843)には江戸後期の社殿建築美の粋を尽くした現在の里宮の本殿・拝殿が再建された。

 明治維新後、神仏分離令によって『大滝兒大権現』は大滝神社と改称され、昭和3年には県社に列せられ今日に至っている。
 なお、大正12年7月には、大蔵省印刷局に摂社岡太神社の御分霊が奉祀され、紙祖神川上御前は名実ともに全国紙業界の総鎮守として多くの人々の信仰を集めている。
 昭和59年(1984)5月21日、現里宮の本殿・拝殿がその歴史・記録の確かさと、建築の美しさを認められ、国の重要文化財としての指定を受けた」
とある。

 また、創建にかかわる伝承として、
*大瀧神社
 「社伝によると、1300年前、泰澄大師が現在の大瀧神社の裏山(奥の院の地)に、毎朝紫雲がかかっているのを見て尋ねたところ滝があり、その滝口に四抱半もある大杉が立っていた。
 大師が、この大杉に紫雲がかかっているのを見て一心に祈願を込めると、稚児姿の国常立尊を感得したので、その場で更に17日間の修行をつづけ、山の上と下に堂を建てて大滝寺と号し、大滝稚児大権現として奉祀した」

*岡太神社
 「当社創立の年月詳かならずと雖も、当所地主の神にして同区神宮谷より清く流るる岡本川の川上なる字宮垣(場所不明)と称する所に鎮座し給ひし式内の神社なり。
 嘗て当村人家未だ少かりし頃(継体天皇が、まだ越前おられて男大迹王-オオドノオウと呼ばれていた頃ともいう)、此の神少女となりて出現し、村人に告げて『此の郷田畝少なく、将来農業を以て子孫を養ふこと難かるべけれど、爾來製紙を以て子孫の業とせよ』と宣ひ、手から上着を脱して竿頭に掛け、懇切に其の業を教へ給へり。
 村人等其の神託を恠(アヤシ)み、その何れより来ませしやを問ひ奉れば、『我は此の郷にうしはく地主の神なり』と答え給ひぬ。村人恐懼して仰ぎ奉れば既に消失し給ひてその影なし。
 村人等直ちに神託に遵い製紙の業を創め漸次盛況を見るに至れり。斯して郷民等其徳を慕ひ川上に社殿を建立し岡太神社と斎き奉りき。

 神域一町余歩ありて崇敬殊に厚かりしが、泰澄大瀧寺を創むるに至り、当社は漸次衰微の姿となり、剰(アマツサ)へ延元2年(1337)社殿回禄(火災)に逢ひ遂に大瀧神社の奥の院相殿に斎き奉るに至りぬ。
 岡本川の川上に鎮座し給ひし神なれば、川上御前とも川上御神とも尊称し奉れり。
 元禄元年(1688)別に社殿を同境内に建立して摂社と為せり」(今立郡神社誌・1919)
などがある。


 上記由緒およびネット資料等を参考に、当社の創建及び沿革を時系列的に記せば以下のようになる([ ]内は私見)
 *継体天皇の御世(507--531)
   岡太川(現岡本川)上流部に紙祖神・川上御前の顕現及び紙漉き技術の伝授、里人、女神顕現の地に岡太神社を創祀し、紙漉きの業を始む
  [創建当時の岡太神社の祭祀形態が如何なるものだったかは不明。この時期(6世紀)に現今のような社殿形態があったとは思えず、あったとしても神籬(ヒモロギ)などを設けての神マツリだったと思われる]

 *推古天皇の御世(592--628)
   大伴連大瀧による国常立尊・伊弉冉尊の勧請 ⇒大瀧神社の創建
  [大伴連大瀧の出自は不明で、ネットにみえる大伴連系譜に大瀧という名は見えない。
   また大瀧が勧請した国常立尊・伊弉諾尊が如何なる由縁で当社に勧請されたか、またその祭祀形態が如何なるものだったかは不明]

 *元正天皇・養老3年(719)
   越(コシ)の大徳と称される泰澄大師が当地に入り、修験道の聖地・大徳山大滝寺を開き、大瀧神社を以て鎮守社とし、あわせてて大滝兒大権現と称した ⇒神と仏とか習合した修験道道場としての大瀧神社の成立

  [泰澄和尚伝説(10世紀後半頃というが13世紀中葉説もありはっきりしない、以下、泰澄伝説という)によれば
   ・泰澄大師(タイチョウ)は、白鳳22年(682というが、白鳳が私年号でありはっきりしない)、越前国麻生津(現福井市三十八社町)に生まれた
   ・14歳の時、十一面観音の霊夢を見て、冬より越智山(越前市大谷町、H=612m)に登り修行した
   ・養老元年(717)、霊夢に現れた貴女の教えによって、白山の神である伊弉冉尊すなわち妙理大菩薩の神託をうけ、白山(石川県と岐阜県にまたがる山で日本三霊山の一つ、H=2702m)の頂上に登って妙理大菩薩の本地・十一面観音他二神を拝し、同所にて養老3年(719)まで一千日の修行をなした
   ・養老6年(722)、元正天皇の不予(病)を加持し、功により護持僧徒となり禅師の号を授けらる
   ・天平9年(737)の疫病流行に際し、勅令により十一面法を修して終息させ、大和尚位・泰証の号を賜るが、父の名を慕って泰澄と名乗ることを請い、これを許された
   ・天平宝字2年(758)、越智山の大谷に籠り、神護景雲元年(767)、その地で入寂
とあるが(大要)、養老6年・天平9年の事蹟を含めて続日本紀などの公的史料には泰澄の名は一切見えず、白山修験道の開祖とはいうものの、半ば伝説化した修験者ともいえる]

  [案内は、大瀧寺の開山を養老3年(719、頂いた別資料にも今年・2019は創建1300年に当たるある)というが、泰澄伝説によれば、養老3年は泰澄が白山頂上での修行を終えて下山した年ではあるが、下山後の事蹟は不明で、管見のかぎりでは、泰澄伝説に大瀧寺の名はみえず、養老3年・泰澄開山の確証はない]
  [ただ、養老3年に白山修験道の拠点道場であり且つ白山登拝の起点ともなる三馬場(バンバ、加賀・越前・美濃国に各一ヶ所、越前での馬場は平泉寺馬場と称し、現平泉寺白山神社の前身)を開いたという伝承があり、養老3年大瀧寺開山説もそれに準拠したかと思われる]
  [しかし、この三馬場は、泰澄登拝以降盛んとなった修験者の白山登拝に伴って、その便のために開かれたものであって、その開設は白山之記(1163)がいう天長9年(832)頃とするのが妥当かと思われ、大瀧寺の開山も、平泉寺馬場開設以降の白山信仰の展開の中でのこととみるのが順当かと思われる]
  [その時開山された大瀧寺は、権現山山頂の現奥の院の地から麓にかけてあったと思われる]

 修験道道場としての大瀧寺開山以降、当社は神仏習合の修験道道場として世に知られ、大瀧神社はその中に吸収されて殆ど忘れられてしまったと思われる。
 当社は古社であるにもかかわらず延喜式に列しておらず、延喜式制定時(927)の当社は寺として認識されていたと思われる。

 *案内は“水分神であり紙祖神である川上御前を守護神として祀り”というが、この時点での岡太神社は岡太川の上流に鎮座していたと思われ、如何なる形での奉祀かは不明。

 *案内に“南北朝時代には足利の軍勢に抗し・・・”とある
  これは延元元年(1336・南北朝初期)から翌年にかけての金ヶ崎城(南朝側の拠点、敦賀市)を巡る攻防戦を指し、その時の兵火によって社殿が焼失したということであろう。
  この時、岡太神社の社殿も焼失したため、大瀧神社奥の院の相殿神として祀り、その後、別に社殿を境内に設けて岡太川上神社と称したとあり(今立郡神社誌)、これが奥の院での2社殿併祀の始まりであろう。

 江戸時代までの大瀧神社は、神社というより白山信仰を中心とする修験道の社寺として栄えたが、明治の神仏分離によって修験道が排斥されたことから、大瀧寺を廃し神社として独立したものの次第に衰微し、それに代わって岡太神社が“紙祖神を祀る神社”・“製紙業始まりの神社”として表に出てきたと思われる。

 いずれにしろ、当社に関する資料は大瀧神社・大瀧寺(大滝兒大権現)・岡太神社とが混在していて、もひとつすっきりしない。


※祭神
  大瀧神社--国常立尊(クニノトコタチ)・伊弉諾尊(イザナギ)
  岡太神社--川上御前

 大瀧神社が国常立尊・伊弉諾尊を奉祀する由縁は不明。

 岡太神社の祭神・川上御前は、上記伝承に基づく紙祖神としての奉祀であろうが、日本の神々8(1985)には
 ・伝承にいう川上御前は、水神である水波能売命(ミズハノメ)あるいは水分神(ミクマリ)ともいわれ、岡太神社が水霊神を祀る神社であるのは明かだか
 ・それが、いつしか里人によって紙漉きを教えた生業の神として信仰されるようになった
 ・これは、この地の発展にともなった水神信仰の変貌であろう
とあり、その原姿は岡太川の上流に坐して当地一帯の水を司る水神だったのではないかという。


※社殿等

 
大瀧神社岡太神社周辺・略図(資料転写、上が北)
(左下に一の鳥居、中央に里宮の社殿、右上に奥の院がみえる)

 西面する二の鳥居(朱塗り、神額には右に岡太神社・左に大瀧神社とある)から境内に入ると、境内左の石垣の上に唐破風を有する神門が南面して建ち、その左右に回廊が延びる。

 
大瀧神社岡太神社・二の鳥居

同・神門と廻廊 
 
同・神門

 神門を入った先が社殿域で、入った正面に豪壮な社殿(国指定重要文化財)が南面して建つ。

 社殿について、参詣の栞には
 「天保15年(1844・江戸後期)に予定されていた式年大祭(御開帳)に備えて造営されたこの社殿は、曹洞宗本山永平寺の勅使門を作りあげた棟梁大久保勘左衛門の手になる建築である。
 普通の神社は、拝殿と本殿がそれぞれ独立して建てられているが、彼は、一間社流造りの本殿の屋根を、入母屋造妻入りの拝殿に連結して葺きおろした複合社殿を考案した。
 山の峰を集めたような、あるいは幾重もの波が寄せあうような屋根、複雑さの中に流れがあり、重厚さの中に躍動がある」
とある。

 
大瀧神社岡太神社・社殿(栞より転写)

 当社社殿は、基本的には切妻造平入りの本殿と入母屋造の拝殿を相接して建てたものだが、特異な構造として、
 本殿屋根に設けられた破風(上から千鳥破風・唐破風・千鳥破風)を下方に伸ばして、拝殿屋根の唐破風の上に被せたような構造で、千鳥破風と唐破風からなる四つの破風が流れるように相重なるさまは、他には見られない独特の形をしている。

 
同・拝殿正面
 
同・拝殿
(屋根の破風の重なりが見所)
 
同・本殿

 拝殿正面・本殿側壁には華麗・繊細な彫刻装飾が施され、参詣の栞には
 「拝殿正面の獅子・龍・鳳凰・草花の彫刻、さらには本殿側面・背面の中国の故事を題材とした丸彫りの彫刻など精巧を尽くした作品で飾られている」
とある。


同・拝殿側面 
 
同・本殿側面

◎境内社
 社殿の左、一段高くなった一画に金保神社(キンポ)・巌乃神社(イワノ)の小祠2宇が鎮座するが、案内等なく如何なる社かは不明。
 また社殿右に御輿殿があり、華麗な御輿が5基安置されている。
 参詣の栞によれば、毎年5月3~5日に行われる「神と紙の祭り」の最終日、神様がこの御輿に乗りうつって奥の院から里宮まで神幸されるという。


左:金保神社・右:巌乃神社 
 
御輿殿
 
御 輿

 なお、神門・廻廊の左に「十一面観音堂」があり、神仏習合時代の面影を残している。

◎奥の院

 由緒にいうように、当社の原点は、背後の大徳山(権現山)の山頂付近にある奥の院で、 参詣の栞には
 「里人は背後の大徳山を“お峯”と崇め、山全体が神体山である。
 山頂付近に奥の院三殿(右から岡太神社・大瀧神社・八幡宮)があり、簡素な構成ながら江戸初期から中期にかけての代表的な建物である」
とある。
 岡太神社・大瀧神社はわかるが、八幡宮の勧請由緒等は不明。

 境内南から約30分ほどで行けるらしいが、今回は時間の関係で参詣はていない。

 

奥の院三殿(参詣の栞より転写)

[付記]
 越前和紙
 当地(五箇地域-不老・大滝・岩本・新在家・定友)は、川上御前による紙漉き技術教示以来の製紙業が盛んにおこなわれ、神社で頂いた「越前和紙」との資料には、
 「伝説が示すように越前和紙は、日本に紙が伝えられた4~5世紀ごろには既にすぐれた紙を漉いていたことが正倉院の古文書にも示されており、最初は写経用紙を漉いていたようで、そののち公家武士階級が紙を大量に使い出すと、紙漉きの技術・生産量も向上し、『越前奉書』など最高品質を誇る紙の生産地として、幕府・領主の保護を受けて発展してきました。
 日本最古の藩札『福井藩札』や明治政府発行の『太政官札』の用紙が漉かれたのもこの地です。
 その後、印刷局紙幣寮の設置となって、日本の紙幣と越前和紙は密接な関係となりました。 
 さらには横山大観をはじめ、多くの芸術家などの強い支持を得て、全国に越前和紙の名は知られています。
 そのような長い歴史と伝統のなかに育まれた越前和紙の里では、品質・種類・量ともに日本一の和紙産地として生産が続けられています」
とあり、当社一帯には今も60軒余りの和紙業者が生産に当たっているといわれ、紙の文化博物館・卯立工芸館・パピルス館などの資料館がある。

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