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白 石 神 社
福井県小浜市下根来(シモネゴリ)9-2
祭神--白石大神
付--鵜の瀬

                                                       2020.01.31訪問

 JR北陸本線・東小浜駅の南約4.5km、駅前から国道35号線を南下、遠敷川に架かる遠敷橋を渡った右岸に白石大神を祀る白石神社が鎮座し、広場左手に鵜の瀬公園資料館が建つ。

 神社の下流約150mの遠敷川右岸に、東大寺二月堂への“お水送り”で知られる『鵜の瀬』があり、その辺り一帯は鵜の瀬公園として整備されている。 

【白石神社】
※由緒
 境内に案内等なし。
 若狭姫神社で頂いた由緒記には、
 「祭神は若狭彦神・若狭姫神を白石大神、または鵜の瀬大神と讃えて奉祀
  若狭彦神社創祀の社と伝えるが、年代不詳」

 頂いたパンフレット・「お水送り」に
 「若狭彦神社境外社で、若狭彦神社が現在地に遷座される前の創建地である」
とあるのみで、当社に関する資料はほとんどないが、伝承によれば、当地は和銅7年(714)白石の地に降臨された若狭彦・若狭姫両神が、現在地へ遷られる前に坐した社という。

※祭神
   白石大神--若狭彦神・若狭姫神

※社殿等
 遠敷橋を渡った先の広場の奥、叢林に囲まれた石垣の上に鎮座する。
 社殿といっても簡単な覆屋で、中に本来の社殿が鎮座するが、外から見えるのは正面向拝と社殿正面の格子扉のみで、一間社流造かと思われるが詳細不祥。
 なお、向拝に掲げる扁額には『白石大明神』とある。

 
遠敷橋
 
白石神社・社頭

同・覆屋 
 
同・社殿

 

【鵜の瀬】
 鵜の瀬公園内にある案内(小浜市)には
 「天平の昔、若狭の神願寺(神宮寺)から奈良の東大寺にゆかれた印度僧・実忠和尚が、大仏開眼供養を指導の後、天平勝宝4年(753)に二月堂を創建し修二会を始められ、その2月初日(旧暦)、全国の神々を招待された際、すべての神々が参列されたのに若狭の遠敷明神のみ見えず、ようやく2月2日夜中1時過ぎに参列された。
 それは、川漁に時を忘れて遅参されたもので、そのお詫びもかねて若狭より二月堂の本尊へお香水の閼伽水を送ると約束された。
 その時、二月堂の下の地中から白と黒の鵜が飛び出て、その穴から泉が湧き出たのを若狭井と名づけ、その水を汲む行事が始まり、それが有名な『お水取り』である。
 
 その若狭井の水源が この鵜の瀬の水中の洞穴で、その穴から鵜が奈良まで潜っていったと伝える。
 この伝説から、地元では毎年3月2日夜、この淵で、根来八幡の神人と神宮寺僧が神仏混淆の『お水送り』行事を行う習いがある」

 若狭姫神社由緒記には。
 「白石神社の北方150m、遠敷川をはさんで、若狭彦神社の飛地境内がある。
  鵜の瀬という霊域にして、清流が巨巌に突当たるところの深淵を、奈良二月堂の若狭井の水源と伝えている。
  この巨巌は、若狭彦神・若狭姫神の降臨ましましたところ、またこの鵜の瀬は、若狭彦神社の送水神事(豊作を祈願する神事)の斎場でもある」
とある。

 白石神社の少し下流、遠敷川屈曲点の右岸にある霊域で、一旦橋を渡って国道へ戻り、下流方へ約100mほど行った右手に素木の一の鳥居が立ち、傍らに自然石に『鵜の瀬』と刻した石碑が立つ。
 一の鳥居を入り少し下がったところに素木の二の鳥居が立ち、傍らの覆屋の中に小祠が鎮座するが社名等は不明。

 二の鳥居を入って緩い石段を下り、玉石を敷きつめた河原(お水送り神事の斎場)の対岸、鬱蒼たる樹木に覆われたなかに注連縄が張られた巨巌があり、此処が聖地・鵜の瀬であることを示している。
 伝承によれば、この巨巌の下にある穴から、東大寺二月堂・お水取りに際して当地から御香水が送られ、二月堂本尊にお供えする閼伽水として使用されるという。

 なお“鵜の瀬”とは、若狭彦・姫神が降臨されたとき、二羽の黒い鵜が両神を出迎えたという伝承に由来するといわれ、辺り一帯は「鵜の瀬公園」として整備されている。


白石神社前広場から見た鵜の瀬 

鵜の瀬・一の鳥居 
 
同・二の鳥居

鵜の瀬・全景(手前は玉石の河原) 
 
同・中心部
 
同・注連縄部(拡大)


◎お水送り神事
 3月12日から始まる東大寺二月堂でのお水取りの前、3月2日に当地で行われる神事で、パンフレット・お水送りには、
 「お水送りは動と静、火と水の華やぎの神事で、夕闇が迫る神宮寺の回廊から、赤装束の僧が大松明を振り回す韃靼(ダッタン)の行に始まり、境内の大護摩(オオゴマ)に火が焚かれると炎の祭典は最高潮に達する。

 やがて、大護摩から松明に貰い受けた火を手に、2キロ余り上流の鵜の瀬に向かう。ホラ貝の音とともに、山伏姿の行者や白装束の僧侶を先頭に3000人もの松明行列が続く(一般の人も松明を持って参加できるらしい)
 大護摩で最高潮に達した火は、ここで静かな流れに変わり、一筋の糸を引く光りの帯となる。

 河原でも大護摩が焚かれ、住職が奏上する送水文とともに御香水を筒から遠敷川に注ぎ込む。
 悠久のロマンの中に一瞬の燦めきを残して、若狭の自然と火と水は一体となり、お水取りの行われる大和国に至るのである」
とあり、一連の神事は午前11時頃から午後9時過ぎまで続くという。

◎良弁和尚生誕の地

  この白石の地は、東大寺大仏殿建立に尽力し、東大寺初代別当に任ぜられた良弁和尚(689--773)生誕の地といわれ(鎌倉出身・近江国出身など諸説あり)、白石神社前の広場に『良弁和尚 生誕の碑』との石碑が立ち(右写真)、傍らの案内には、 
 「良弁和尚は、伝説によれば、持統3年(689)ここ小浜下根来(シモネゴリ)に生まれましたが、子供の時に鷲にさらわれ奈良金鐘寺(東大寺の前身)で育てられました。
 彼は、東大寺で法相宗を義淵(ギエン)に学び、新羅の僧・審祥(シンショウ)を講師に招き華厳経講を開いて華厳宗を広めました。
 その後、東大寺の建立に尽力し、初代別当となり、宝亀4年(773)84歳で亡くなりました。

 お水取りを始めた実忠は、若狭出身の良弁が師匠であり、若狭遠敷明神が魚釣りをしていて修二会行事の勧請に遅れたお詫びとして、十一面観音にお供えする閼伽水を送ることになったという逸話から、二月堂前の井戸を『若狭井』となづけました」
とある。




◎二月堂修二会
 東大寺二月堂の修二会(シュニエ)とは、練行衆と呼ばれる11人の行者たちが仏の前で自らの過去の罪障を懺悔し、その功徳によって天下泰安・万民豊楽・五穀豊穣を祈るもので(3月1日~15日)、十一面観音悔過(ケカ)と呼ばれる。(神道で年始めに行われる祈年祭の仏教版ともいえる)
 その一連の法要になかで行われるのが通称・『お水取り』と呼ばれる行事で、3月12日の深夜、呪師に率いられた5人の練行衆が暗闇のなかを松明に導かれて二月堂下の閼伽井(若狭井ともいう)に赴き、“お香水”を汲み取り本尊に供える行事をいう。
 なお、お香水とは、その昔、遠敷明神が送ると約束した若狭・鵜の瀬の水を指す。

 修二会の起源について、二月堂縁起絵巻(1545)には、
 「天平勝宝三年(751)辛卯十月、実忠和尚(ジッチュウカショウ)、笠置寺の龍穴より入て、北へ一里ばかりを過ぐるに、都率天(トソツテン・兜率天とも記す)の内院なりけり。四十九院、摩尼宝殿を巡礼す。其内、諸天衆(デンジュウ)集りて、十一面悔過(ケカ)を勤修する所あり。常念観音院と云う。
 聖衆の行法を拝して、此の行を人中に摸して行うべき由を伺う。
 聖衆告て曰く。此の所の一昼夜は、人間の四百歳にあたる。然ば行法の軌則、巍々として千返の行道懈(オコタ)らず。
 人中の短促の所にては更に修めがたし。また、生身の観音をばましまさずば、いかでか人間すべからく摸すべきと云う。
 和尚重て申さく、勤行の作法をば急にし、千返の行道をば、走りて数を満つべし。誠を致て勧請せば、生身何ぞ成給はざらんとて、是を伝えて帰りぬ」
とあり、この時、実忠が持ち帰って始めたのが二月堂修二会で、400年の時差を埋めるために走りながら行をなすこととしたという(練行衆がおこなう「走りの行」がこれに当たるという)

*実忠(ジッチュウ、726--?)について、
 ・掲示には印度僧とあるが、その出自は不祥。
 ・経歴によれば、神亀3年(726)の生まれというのみで出身地等の記述はなく、印度生まれかどうかははっきりしない。
 ・東大寺の良弁に師事して華厳を学び、師の没後、東大寺の造営・財政を担当し修理別当となったというから、どちらかといえば実務方を担当した僧だったかと思われる(西大寺他の造営にも関係したらしい)

◎遠敷神社
 東大寺二月堂の向かって左隣りに朱塗りの小祠・遠敷神社がある(奈良市雑司町)
 二月堂左(北側)の屋根の付いた石段を上り、二月堂舎左横の“く”の字に折れた石段を上った処に鎮座し、朱塗りの鳥居の奥に同じく朱塗り・春日造の社殿が鎮座する(二月堂にはお参りするも、ここまで上ってくる人はほとんどない)
 
 傍らの案内には、 
 「遠敷明神が閼伽水を献じたとの伝承は東大寺要録(1106・平安後期)に載っており、平安時代には既に二月堂近辺に勧請されていたことが想像され、中世の絵画にも他の二社(飯道社・興成社)と共に描かれている」
とある。

 
二月堂全景
(左下に閼伽井屋・
その右に屋根付きの石段がみえる)
 
遠敷神社・鳥居

 
遠敷神社・社殿

◎また、二月堂の左下には、若狭から送られてくる“お香水”が湧くという閼伽井屋(アカイヤ、国重要文化財)があり、正面左に「若狭井」との石碑が立つ。
 傍らの案内には、
 「この閼伽井屋は、修二会に際し毎年3月12日(13日1時過ぎ)に、この屋屋にある井戸より本尊十一面観世音菩薩にお供えするお香水(閼伽水とも)を汲む儀式をおこなう処である。
 天平勝宝4年(752)実忠和尚が二月堂で初めて修二会をおこない諸神を勧請した際、若狭国の遠敷明神が献じたものであるところから『若狭井』とも呼ばれる。
 現在の建物は、13世紀初期に再建されたものであろう」
とあるが、扉が閉まっていて中にある井戸は実見できない。


閼伽井屋 

若狭井の石碑 
 
二月堂周辺略図

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