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諏訪阿須疑神社
福井県今立郡池田町稲荷113-1
祭神--倉稲魂命・大野手比売命・建御名方命
                                                   2019.10.26参詣

 延喜式神名帳に、『越前国今立郡 諏訪阿須疑神社三座』とある式内社の論社の一。
 (他に、論社として越前市南中町にも諏訪阿須疑神社があるが、その由緒等は不明)
 社名は“スワアスギ”と読む。

 JR北陸本線・武生駅の東約15km、国道476号線の東側にある式内社で、池田町役場の南にあたる。

※由緒
 境内の案内には
 「当社は池田郷48ヶ村の惣社として、多数の氏子の礼拝と尊崇を受け、古くから栄えてきた神社である。
 延喜式神名帳の越前国伊万太千郡(今立郡)の条に諏訪阿須疑神社三座とみえている。
 また社伝に依れば、稲荷大明神(倉稲魂命・ウカノミタマ)元正天皇・霊亀2年(716)当社大杉の梢に影向し給うとあり、大野手比売命(オオヌデヒメ)・建御名方命(タケミナカタ)の二柱の神は地主神として、それ以前より祭祀奉ると伝えており、1300年以上の歴史をもつ県内屈指の古社である。

 古来、国司・主護・武将等の崇敬高く、数々の参詣奉納の記録が残されており、中でも、一乗谷城主・朝倉氏の崇敬篤く、三代貞景公が当時の池田領主・池田勘解由左衛門を普請奉行として、延徳3年(1491)七堂伽藍を建立し寄進された。
 その後、天正2年(18574)兵火(一向一揆の騒乱)にあい焼失したが、幸い本殿一宇のみ残った。
 これは旧国宝であり現在重要文化財の指定を受けている。神社建築では県内最古の本殿である」
とある。


 これによれば、当社は霊亀2年(8世紀初頭)穀神・ウカノミタマ(稲荷神)が杉の大木に影向したのが始まりというが、福井県神社庁のHPには、
 ・スワの神・建御名方命は、25代武烈天皇の御代(5世紀末)に池田郷野尻から稲荷(当地)に移り給うたと伝える
 ・アズキの神と申す大野手比売命は、池田郷草分けの地主神で、山畑農耕の小豆の生産神信仰とも深い関係がある
 ・倉稲魂命は、元正天皇の霊亀2年9月7日、大野手比売命と建御名方命の御神託によつて、山城国の飯盛山から影向されたと伝えられている
とあり、当社は先ず諏訪の神・健御名方命を祀る社として始まり、後に(時期不明)地主神・大野手比売命を合祀し、更に霊亀2年に倉稲魂神を勧請して3社体制となったという。

 しかし、健御名方を祀ったという武烈天皇の御代とは5世紀末頃であり、その当時、今のような神社形態を設けての祭祀があったとは思えず、この健御名方奉祀が如何なる形のものだったかは不明で、当社創建時期を武烈朝とするには疑問がある。

 また、大野手比売命は池田郷の地主神というが、池田郷の成立時期が不明であり、その奉斎が何時頃まで遡及できるかは不明。

 延喜式には祭神三座とあり、延喜式制定当時(927)、既に上記三座が祀られていたのは確かだろうが、その奉祀由縁はもひとつすっきりしない。


※祭神
 頂いた参詣の栞によれば
 本殿祭神
  ・左殿 大野手比売命(オオヌテヒメ) あづきの神
  ・正殿 倉稲魂命(ウカノミタマ)     いなりの神
  ・右殿 建御名方命(タケミナカタ)   すわの神
  ・併祀 大田命(オオタ)        もとは別宮に祀られていた
  ・併祀 田中社(タナカ)        もとは別宮に祀られていた
とあり、倉稲魂命(稲荷神)を主祭神とし、相殿に大野手比売命・建御名方命を祀り、後年、大田命・田中社を併祀したという。
 (今の当社は、稲荷神を祀る社とされているようで、大野手比売以下の祭神は消えかかっているらしい)

*倉稲魂命(ウカノミタマ)は、
  素盞鳴(古事記)あるいは伊弉諾・伊弉冉(書紀)の御子とされる食物神で、特に稲の神とされ、参詣の栞には
  「お稲荷さまとして親しまれてきた神で、地主神の諏訪・阿須疑の大神の御神託により、元正天皇霊亀2年、山城国飯盛山(位置不明、京都府城陽市に飯盛山はあるが同市内に稲荷神社はない)より影向されたと伝える」
とある。
 当社に祀られるのは、食物(稲)の豊穣を願ってのことと思われ、江戸時代の古文書に
 ・稲荷村 稲荷社 池田の惣社--越前地理指南(1685)
 ・今立郡稲荷村 正一位惣社稲荷大明神--鯖江藩寺社改牒(1721)
とあるように、江戸前・中期の頃から当社は稲荷社として崇敬されていたようで、そこに諏訪阿須疑の名はみえない。

 しかし、江戸後期になると、古文書に
 ・稲荷大明神社記に曰く『稲荷神社は即ち古の諏訪阿須疑神社也 
   勝戸郷(池田の旧称、下記)の辺りに在りて大野手比売を祭り小豆明神と称す--越前古名考(1801)
 ・稲荷神社 池田惣社 諏訪阿須疑神社--越前名蹟考(1816)
とあるように、諏訪阿須疑の名がみえてくるという。

 当社に倉稲魂(稲荷神)を勧請したのは、それまでのアズキの神という特定の穀神を祀ったいたところへ、より広い食物の神である倉稲魂を勧請加上したともとれる。

*大野手比売命
  参詣の栞には
  「アヅキの神と称する小豆島の姫神である。池田の草分けの地主大神で、山畑農耕の小豆生産の信仰とも関係が深いと考えられる」
とある。
 大野手比売とは、古事記・国生みの段のみに見える神で、そこには(大八洲以下の国生みに次いで)
 「次ぎに・・・小豆島(アヅキシマ)を生みき。亦の名を大野手比売と謂ふ・・・」
とあり(書紀には見えない)、国生み14ヶ国のなかで10番目に生まれた小豆島の別名とある。
 なお香川県小豆島(ショウドシマ)では島の地主神として崇敬され、小豆島町蒲生では『島玉神』として祀られ(石祠)、土庄町には『大野手姫神社』があるという(ネット資料)

 ただ、古事記が小豆島に“アヅキ”との訓を付けている理由は不明で、西郷信綱は
 「応神紀に『淡路島 いや二並び(フタニラビ) 小豆島(アヅキシマ) いや二並び よろしき島々・・・』の歌がある。淡路島と並んでおり、内海航行上 重要な島であったと見える。
 今はアヅキ島とはいわず ショウド島と音読する。二荒(フタラ)がニコウないしニッコウとなった如し。
 大野手比売の名義は不明。アヅキが野に生ずるという程度の連想か」
として(古事記注釈・2005)、穀物の小豆との関連を示唆してはいるが、本居宣長が「名の義 未だ思ひ得ず」というように(古事記伝・1798)、もひとつはっきりしない。
 (応神紀の歌は、天皇が后・兄媛との別れに際して「我が立ち寄りたい淡路島と小豆島は二つ並んでいるのに、我は一人になってしまった・・・」と歌ったとある-大意)

 栞は、大野手比売命を地主大神というが、大野手比売とは古事記・国生みの段のみ登場する小豆島の女神で、その女神を地主神として奉斎したのは、
 ・当地が山間部に立地するため、通常の稲作農耕より雑穀を主体とする山畑農耕が主体であったことから、その象徴として小豆の生産守護神を以て地主神としたのではないか
 ・一説のよれば、勝戸郷に鎮座していた勝戸神社が当社に合祀され、その勝戸(ショウコ・ショウト)と小豆(ショウズ)の音の類似から勝戸を小豆に改め、これをアヅキと読んで、小豆島の神・大野手比売を祭神としたのではないか
というが、いずれも隔靴掻痒の説であって今ひとつ判然としない。
 なお旧地名・勝戸郷について、和名抄(937)
  「勝戸 今池田と称する所以は、円融天皇の御宇・天延年中(983--75・平安中期)、地主大神の神縁によりて、吉備国小豆島(今は香川県だが、古くは吉備国-岡山県に属し池田村があった)の郷名に作いてこれを改む」
とあり(ネットでみる和名抄では確認できない)、嘗ては勝戸郷と称していたという。

 穀物としての小豆は縄文時代から食用にされていたようで、縄文・弥生遺跡からの発見例も多く、
 古事記に、
 ・高天原を追われたスサノオが、降っていく途中で大気都比売神(オオゲツヒメ)に食物を乞うたとき、比売が食物を鼻・口・尻から取り出したのをみて、汚れたものを食べさせるのかと怒って比売を殺した
 ・ところが、その死体から稲・粟・麦・小豆・大豆などの五穀が生じ、鼻から小豆が生まれた
 ・神産霊(カミムスヒ)の御祖神が、これらを取らせて五穀の種とされた
とあるように(書紀では、月読命の保食神殺しのなかに、陰-ホトに小豆が成ったとある)、古くから五穀の一つに数えられていた。

*建御名方命(タケミナカタ)
  出雲の大神・大国主(大己貴)の御子で、国譲りに反対して武甕槌命と争い、敗れて諏訪国に逃げ込んだという神で、参詣の栞には
  「諏訪の神と称す、出雲系の武神で、武烈天皇の御代(5世紀末)、郷内野尻よりお移ししたと伝える。大国主命の御子」
とあるが、その諏訪の神が当社に勧請された由縁は不祥。
 ただ、福井県内には諏訪神社が何社かみえ、越国と諏訪との間で人的・物的交流があったことを示唆しており、当地でも何らかの関係があったのであろう。

*大田命
 参詣の栞には
  「猿田彦神の子孫、伊勢神宮地の地主神とされている。お稲荷さまの摂神で、寿命福徳の守護神としても崇められている」
とある。
 大田命は記紀等には見えないが、倭姫命世紀(鎌倉時代)によれば、姫が天照大神を祀るに相応しい地を求めて諸国を巡っていたとき、伊勢の地主神・猿田彦の子孫である大田命が、天照大神の鎮座地として伊勢・五十鈴川の川上の地を献上し、姫は其処に宮を建てたという。
 お稲荷さまの攝神ということから、主祭神・倉稲魂命(稲荷神)との関係から祀られたと思われるが、お稲荷さまの攝神が何を指すのかは不明。
 また、栞に“もとは別宮”とあるが、それが何処にあったのか、また当社に併祀された時期は不明(次の田中社と同じように一向一揆以降かと思われるが、確証はない)

*田中社

 参詣の栞には、
 「大国主命(大己貴・大穴牟遅の神)を祀る」
と簡単にあるが、京都の伏見稲荷大社の祭神五座のなかに田中大神があり、また背後の荒神峯に田中社との摂社があり、いずれも大己貴命を祀るという。
 当社に田中神が祀られるのは、大国主命(大己貴命)と倉稲魂神とが同じ素盞鳴命の御子ということからかと思われるが、詳細は不明。

 なお、当社大鳥居の右脇に「田中社旧址」との一画があり、玉垣に囲まれた中に御幣を垂らした竹の柱が立ち、傍らの案内には
 「田中の社旧址  霊亀2年9月7日、倉稲魂命影向の砌、摂社大己貴命を此処に別宮として奉斎した旧址である。
  天正2年9月一揆騒乱以降、御霊代を本宮に奉斎した。今、御輿渡御の御旅所となっている」
とある。 

田中社址


※社殿等 ([ ]内は参詣の栞及び傍らの案内からの転写)

 
諏訪阿須疑神社・境内略図

*大鳥居・神門
 足羽川を東へ渡ってすぐの道路の向こう側に朱塗りの大鳥居(柱の前後に小柱をもつ四脚鳥居)が西面して立ち、杉並木に挟まれた参道が延び、その途中に、二層となった朱塗りの神門(楼門)が建つ。

 [大鳥居  朱塗り、往古高さ三丈(約9m)、宝暦5年(1755)再建の時、高さ二丈一尺(約6.3m)と伝える。
  昭和61年、篤志者の寄進により現在の鋼鉄製の鳥居として再建された]

 なお、大鳥居の前に玉垣に囲まれて小さな太鼓橋が架かっており、「お枕橋」(反り橋とも)と呼ばれている。
 [お枕橋  石造り。現在のものは昭和61年再建したもの。
  神の化身の大蛇が、これを枕として、尾は本殿に達していたとの云い伝えがある(千日様伝説)

 [神門(町指定文化財)  嘉永3年(1850)再建。朱塗りで地元民からは「赤山門」と呼ばれ親しまれている。
  天正2年の一向一揆の兵乱で焼失したが、嘉永3年に池田郷山田の大工統領・猪名部善右衛門の手によって再建された三間一戸・八脚の楼門である。
  切妻平入りの惣欅造りで、屋根は桧皮葺きであったが、平成11年に銅版葺きに改修された。
  嘗ては、社頭のお枕橋の東にあったが、戦後現在地に移された]


諏訪阿須疑神社・大鳥居
(前に見えるのが「お枕橋」) 
 
同・参道
(奥に神門がみえる)
 
同・神門(楼門)

*拝殿(町指定文化財)
 参道突き当たりに小ぶりな石の鳥居が立ち、石段を上った上に大きな入母屋造の拝殿が西面して建つ。

 [天正2年の一向一揆で焼失、元禄2年(1689)、焼失前の面影を残して再建。間口八間・奥行き五間半の大拝殿である。
  内部は、社檀が開閉式で本殿を直に拝することかできる。
  正面中央には一段高くなった能舞台があり、右手奥の御輿殿は楽屋として使われる。また、左手奥には囲炉裏が設けられ、大晦日の夜、厄年にあたる氏子達が参籠し、この火にあたることで厄払いができると信じられている。
  もとは茅葺屋根であったが、昭和56年、現在の銅板葺きに改修された]

 
同・拝殿遠望
 
同・拝殿 
 
同・拝殿正面
   
同・拝殿内陣(栞より転写)

*本殿(国指定重要文化財)
 拝殿の奥、二段となった石積みの上段、石段上に立つ小さな鳥居のすぐ奥に、本殿が西面して鎮座する。
 といっても、外から見えるのは本殿を覆う覆屋であって、側面から本殿の流造屋根と側壁の一部が覗けるのみで、全体像を見ることはできない。

 [三間社流造、檜皮葺、昭和 16年1月国宝指定。戦後、重要文化財となる。
 当本殿は、土御門天皇・延徳3年(1491)に越前守護一乗谷城主・朝倉貞景が、池田領主勘解由左衛門平時忠を普請奉行として再建したもので、再建当時は本殿のほか拝殿・仏殿・護摩堂・三重塔・鐘楼・山門の七堂伽藍の偉容を誇っていたと伝える。
 その後、天正2年の一向一揆の兵乱により他の堂宇は焼失したが、幸いこの本殿一宇のみは焼失をまぬがれている

 建築様式は、三間社流造で檜皮葺きの屋根を持ち、和様・唐様・天竺様の三様式が融和した優美な室町中期の特色をよく表している。県内最古の神社建築である]


同・本殿覆屋正面 
 
同・本殿全景(栞より転写) 
 
同・本殿覆屋側面
 
同・覆屋内部
(流造の本殿の屋根が見える) 

◎境内社他
 拝殿後ろの石段の下段左に小社3社が鎮座する。右(拝殿側)より
 *市杵島姫神社
  [厳島神社の祭神である市杵島姫の神を祀る]
   切妻造板葺の小祠
 *祖霊社
  [平知度(タイラノトモノリ)を祖とする宮司家の祖先を祀る]
   覆屋の中に一間社流造の小祠が鎮座する。
 *秋葉神社
  [離村となった「田代」の氏神である]
   一間社流造の小祠


境内社・市杵島姫社 

同・祖霊社 

同・秋葉社 

 *おとの池
  拝殿右側に「おとの池」との小さい池があり、水神社との小祠が鎮座している。
  [神へのお供え物を洗ったともいわれている。
   神の化身の大蛇が潜み、不浄な者が引き込まれるとか、大蛇が少女の姿で現れるとか伝えられている]
  観光協会の方の話では、神仏習合時代、この池の背後に三重塔があったといわれ、「おとの池」とは「お塔の池」ではないかとの説があるという。今、塔の痕跡はない。

 *池田郷「御魂社」
  拝殿右の「おとの池」の背後にある小祠
  [昭和23年5月15日奉鎮、現在合祀数507柱
   社殿はもと上池田尋常小学校の奉安殿を移築したもので、池田町内の戦没者を慰霊する祠]
  この左手に、稲荷の大杉への登坂路入口がある。

 
おとの池
 
境内社・御魂社 

 *一里塚と道祖神の祠
 大鳥居から道路を挟んで向かい側(西側)、足羽川の辺(橋のたもと)に幹が二股に分かれた大木が聳え、その根元の覆屋の中に道祖神の小祠が鎮座している。
 傍らの案内には、
 「史跡 一里塚(町指定文化財、昭和52年指定)
  一里塚は、慶長9年(1604)頃から全国的に造られたもので、主な街道の一里毎に保塁を造り、欅(ケヤキ)と榎(エノキ)を抱き合わせて植えて旅人の道標とした。
 また、ここは旅人の憩いの場や道のり計算の場であり、駕籠賃や馬子賃・人夫代などの計算基準とされた所でもある。
 池田町内では西角間(ニシカクマ)や柿ヶ原などにも造られたが、現在ではこの一里塚だけが往時の形を伝えている。
  欅-周囲:5.28m 高さ:約15m   榎-周囲:2.7m 高さ:約15m

 道祖神(ドウソシン)の祠
  現在、保塁の上に祀られている道祖神の祠は、昭和の始めに造営されたもので、池田惣社・諏訪阿須疑神社本殿を模し、五分の一の大きさに造られているといわれる」

 道祖神とは「塞(サエ)の神」とも呼ばれる神で、民俗学では、此方と彼方との境界にあって、彼方から来る邪神・悪霊の侵入を遮って安全を守ってくれる神とされ、それが川辺や橋のたもと・峠の上・村境など境界と呼ばれる場に祀られることが多いことから、此方から外に出ようとする旅人は、この道祖神に旅の安全を祈ったという。

 ここの道祖神が川の辺・橋の袂に祀られるのは、そこがひとつの境界であったことからで、昭和の始めに造営されたというが、それ以前から別の形(石碑等)で祀られていたかと思われる。

     

 *稲荷の大杉

 境内背後の山中に「稲荷の大杉」(県指定天然記念物・昭和39年指定)か聳えている。

 境内の案内には、
 「当社の社伝には『元正天皇霊亀2年、倉稲魂命、山城国飯盛山より当社大杉の梢に影向し給う』と記されており、倉稲魂命影向の神籬(ヒモロギ、神が降臨する聖地であり仮設の祭祀場)と伝えられている。
 また、この大杉は、伊弉諾尊・伊弉冉尊を祀る神木とされ、荒魂大杉大明神と称えられ、多くの人々から尊崇礼拝されている。 
 千数百年を経た今も樹勢は盛んであり、県内はもちろん、北陸地方でも有数の大杉である]
とある。

 目通り-8.6m  主幹根回り-11.7m  樹高-約40m  樹齢-千数百年」
とある。
 10~20分程度で行けるらしいが、時間の都合もあり実見していない。

稲荷の大杉(栞より転写)

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