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若狭神宮寺
福井県小浜市神宮寺30-4
                                                   2020.01.31参詣

 JR小浜線・東小浜駅の南約1.8km、駅前から南下する国道35号線の西側、道から少し入った処にある古寺。
 若狭彦神社(上社)の南約800mに位置し、当寺の南東約1.4kmに東大寺二月堂への“お水送り”で知られる鵜の瀬がある(別稿・白石神社参照)。
  寺 号  霊応山神宮寺
  宗 派  天台宗
  本 尊  薬師如来

※縁起
 頂いた縁起書によれば、
 「由来
 若狭は朝鮮語ワカソ(往き来)が訛って宛字した地名で、奈良も朝鮮語ナラ(都)が訛って宛字されている。
 この地方が若狭の中心で白鳳以前(7世紀後半)から開け、この谷は上陸した半島・大陸の文化が大和へ運ばれたる最も近い道であった。
 それは対馬海流にのってきて着岸した若狭湾の古津から、遠敷(オニフ=朝鮮語のウォンフー・「遠くにやる」が訛った)や根来(ネゴリ、朝鮮語のコーリ「汝の古里」が訛った)と京都や奈良が100kmほどの直線上にあることである。

 この地方を拓き国造りをした祖先が遠敷明神(若狭彦命)で、その発祥地が根来の白石で、都へ近道の起点に良地をえらび、遠敷明神の直孫・和朝臣(ヤマトアソン)赤麿公が8世紀初め山岳宗教で、紀元前銅鐸をもった先住のナガ族の王を金鈴に表し、地主の長尾明神として山上に祀り、その下に神願寺を創建され、翌年勅願寺となった。
 その秋には、紀元一世紀頃、唐服を着て白馬に乗り影向し、すでに根来白石に祀られていた遠敷明神を神願寺に迎え神仏習合の道場とされた。
 これが若狭神願寺の起源で、鎌倉時代初め若狭彦神社の別当寺(神宮寺)となって、神宮寺と改称したものである。

 また、神願寺の開山・赤麿(和氏)公は、白石の長者の神童(幼児)を大和に伴い、当寺の名僧・義淵僧正(大樹)に託され、後東大寺開山良弁僧正になられ、神願寺へ渡来した印度僧・実忠和尚が良弁僧正を助けて東大寺を完成し、さらに二月堂を建て、お水取り行法を始められた。
 その若狭井の水源が白石の鵜の瀬であるから、白石神社で行ったのを伝え、根来八幡宮では毎年3月2日、山八神事を行い、同日夜、神宮寺から神人と寺僧で鵜の瀬へお水送り神事がある」
という。

 また略歴によれば(要点略記)
 ・和銅7年(714)--元明天皇7年、若狭彦の直孫・和朝臣赤麿公鈴応山神願寺創建
 ・霊亀元年(715)--元正天皇勅願寺となり、若狭彦神を根来白石より迎え神仏習合の寺となる
 ・延暦17年(798)--桓武天皇の勅願で七堂伽藍再建
 ・永保3年(1082)--雷火により本堂・本尊焼失
 ・寬治5年(1091)--本堂再建、仏像新造
 ・延宝元年(1239)--七堂伽藍廿五坊再建
 ・宝治2年(1248)--若狭彦神社の別当寺となり神宮寺と改称
 ・天文14年(1545)--雷火により本堂焼失
 ・天文22年(1553)--本堂再建
 ・寛文2年(1662)大地震により本堂・仏像破損
 ・延宝3年(1675)--本堂・仏像修理
 ・明治4年(1871)--神仏分離令により若狭彦神社・遠敷明神社の社殿破壊
             御神体の差し出しを命じられるも身代わりを出し、御神体は秘蔵
という。

 当社は今若狭神宮寺と称する寺院だが、本来は神と仏が同居した神仏習合の神宮寺で、明治の神仏分離によって神社部分を廃絶し単独の寺院になったもの。

 神宮寺とは、簡単にいえば、神仏習合思想によって神社境内あるいは近接して建立された寺院をのことで、そこでは、社僧と呼ばれる僧侶が神前で読経・加持祈祷などを行い、後には神社神事・経営の一切を牛耳ったともいわれる。

 古いものとして越前・気比神宮寺、伊勢・多度神宮、常陸・鹿島神宮寺などがあり、当社もその中に数えられている。

 当寺が神宮寺となった由来は不祥だが、大宝宝宇7年(763)建立という伊勢の多度神宮寺(三重・桑名市多度)に残る資財帳(788)には、
 ・天平宝宇7年、多度大神が人にのりうつり、「吾は多度の神なり。吾れ久劫(長い時間)を経て、重き罪業をなし、神道の報いを受く。いま冀(コイネガワク)ば永く神の身を離れんがために、三宝(仏教)に帰依せんと欲す」との託宣あり。
 ・ここにおいて満願禅師(720--816、近くで道場を営み仏教を弘めていたという)、神の坐ます山の南辺を伐り掃い、小堂および神の御像を造立し、号して多度大菩薩と称す。・・・
という(義江彰夫・神仏習合-1996)

 若狭神宮寺についての確たる資料は残っていないが、義江氏は同書の中で
 ・若狭彦太神が彼を祀る豪族・和赤麿(ヤマトアカマロ)に、神の身を受けている故に苦悩は深い、よって仏法に帰依して神道から免れたい旨の告白をおこなったという。
 ・そこで、神を祀る豪族自らが僧となって深山に修行を重ね、大神の菩薩像をつくり、それを安置する堂を神願寺と名づけて、仏に帰依したいとする大神の願いを満たしたのではないか
という。

 これらの大神は、神であることに苦痛を感じ、そこから脱するために、神の身から離れて(神身離脱)仏教に帰依することを求めたというが、この神であることの苦痛とは如何なるものかははっきりせず、一説として、神も人間と同じく煩悩を持つものであり、これを苦痛として、そこから解脱するために仏教にすがったというが、神をも衆生の一とみる仏教側からの解釈ともいえる。

 神宮寺建立の背景について、義江氏は
 ・8世紀後半という時代は、神を背負って支配してきた地方豪族が治世に行き詰まり、仏教にその打開の道を見いだしはじめた時代であった。
 ・地方の神々の苦悩、神の身を脱して仏法に帰依しようとする願いとは、地方を支配してきた豪族層の苦悩でもあり、仏教への帰依も、実際には彼らが欲する仏法帰依にほかならなかった。
 ・若狭神宮寺の場合も、若狭大神を祀っていた豪族・和赤麿は、同時にこの大神信仰を共有する地域社会の実質的支配者であり、その行き詰まりを打開しようとする自らの願いを、大神の仏法帰依に託して神願寺を創建したと見ざるを得ない
として、神の名のもとでの支配に行き詰まった地方豪族が、代わりとなる支配理念を仏教に求めたことが、神宮寺建立が弘まった原因ではないかという。

 ただ、神宮寺建立の殆どが僧侶によって為されたことは、建立の背後に、仏と神とを同体あるいは仏を神の上に置こうとする仏教側の思惑があったとみることもできる。

 当寺を開山したという和赤麿とは百済系の渡来人といわれ、新撰姓氏録には
  「左京諸蕃 百済 和朝臣 百済国都慕王十八世孫武寧王より出也」
とあり、その系譜を見ると、
  武寧王-純陀太子-○ー○-○-○-○ー赤麿
                            |-乙嗣-新笠(光仁天皇后)
とあり、赤麿は白壁王(後の49代・光仁天皇)に嫁いで50代桓武天皇を生んだ和新笠(ヤマトニンカサ、高野新笠-タカノノニイカサともいう)の伯父にあたる(その信憑性は不問)
 和氏(ヤマトウジ)本来の姓(カバネ)は“史”(フヒト・文書類を取り扱う氏族)であったが、新笠が光仁天皇の后であることから宝亀年間(770--780)に“高野”の氏名と“朝臣”の姓を贈られている。

 古代の若狭国は、日本海側における朝鮮半島との交流路の一つで、多くの半島人が往来していたといわれ、遠敷明神の遠敷が朝鮮語の訛(ナマ)りとすれば、唐服を着て降臨したという明神は、これら渡来人が半島から持ち来たった神であり、当寺の開山・赤麿公はこれら渡来人の統率者であり、遠敷明神直孫・赤麿と百済武寧王の後裔・赤麿を同一人物とみてもおかしくはない。

 良弁僧正・実忠和尚については、別稿・白石神社参照。


※堂舎等
 国道35号線のすぐ西、田圃に囲まれて仁王門が建ち、中に2躰の仁王像が立っている。
 縁起書には
 ・仁王門(北門)--鎌倉時代末、重要文化財
            単層屋根・切妻造・柿葺(コケラフキ)二軒和様式八脚門
とあるが、約700年余り経過した時代物で傷みが見える。

 
若狭神宮寺・仁王門

同・仁王像(吽像) 
 
同左(阿像)

 今、仁王門から本堂に至る参道の両側は田畠となっているが、嘗ては多くの坊舎が立ち並んでいたようで、古絵図には○○坊との堂舎名が20数舎ほど記されており、当時の隆盛ぶりを示している。


若狭神宮寺・参道 
 
同・古絵図 

 仁王門から参道を進んだ正面に、柴垣に囲まれて瓦屋根の簡素な表門があり、「お水送り若狭神宮寺 参拝口」との表示がある。

 入口を入った境内右手に入母屋造の堂々たる本殿が東面して建ち、向拝前面には注連縄が張られ、嘗ての神仏習合時代の面影を残している。
 縁起書には
 ・神宮寺本堂--室町時代末・天文22年(1553・室町時代)再建 重文 屋根入母屋造桧皮葺
とある。
 本堂内須弥壇には、本尊・薬師如来像をはじめ日光月光菩薩像・千手観音菩薩像などの仏像が並んでいるが、撮影禁止。

 
同・表門
 
同・本堂

同・本堂(側面) 

◎神像

 当社には、男神・女神の像2躰が秘蔵されており、縁起書には
  「男神(若狭彦)・女神(若狭姫) 鎌倉初期 重文 座像二躯」
とある。

 嘗ての神宮寺奥の院(本堂のすぐ南にあったらしい)に奉安されていたというが、神像は門外不出として秘蔵されているため如何なる姿かは不祥だが、ネットによれば、衣冠束帯の男神像(座高:49.1㎝)・小桂姿の女神像(座高:50.9㎝)という。 

神像(資料転写)

 門外不出というのにネットにみえるというのは解せないが、現地ガイドの話では、嘗て国立博物館からの要請で一度だけ調査が行われたそうで、その時撮影したという写真を見せてくれたが、ネットにみる神像がそれかどうかは不明。
 あるいは、上記略歴の中で「御神体の提出を求められたが身代わりの像を出し、御神体は秘蔵」という身代わりの神像かもしれない。

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