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青 島 神 社
宮崎県宮崎市青島2丁目
祭神−−彦火々出見尊・豊玉姫命・塩筒大神
                                                         2011.10.26参詣

 九州・宮崎の東海岸・日向灘に面する日南海岸国定公園の一画、周囲約1〜1.5kmの小島・青島のほぼ中央に鎮座する古社で、青島全島を境内とする。
 今は橋によって繋がっているが、18世紀中頃までは一般人の渡島は許されず、藩の役人と神職のみが島入りしていたという。

※由緒
 当社参詣の栞によれば、
 「青島神社は彦火々出見命が海積宮(ワタツミノミヤ・海神宮とも)からご還幸された御宮居の跡として、彦火々出見命・豊玉姫命・塩筒大神の三神をお祀りしています。
 奉祀の年代は明らかではないが、平安朝の国司巡察記・“日向土産”の中に『嵯峨天皇の御宇(804--23)奉崇青島大明神』と記されてあって、文亀(1501--03・室町末期)以降は、藩主・伊東家の崇敬厚く、社殿の改築、境内の保全に力を尽くし、・・・」
とあり、これによれば、当社は、おそくとも9世紀初頭以前からの古社であるといえる(但し、祭神名は不明)

 この由緒によると、当社は海神宮(ワタツミノミヤ)から帰ったヒコホホデミが宮居を構えた地となるが、神話上の話とはいえ、日向三代の活躍舞台とされる“吾田の長屋の笠狭崎”は、薩摩半島西海岸(現鹿児島県南さつま市−旧加世田市付近)といわれ、そこから移動したとの記述はない。

 その記述がないということから、各地にいろんな伝承が生まれたと解され、当地に残るヒコホホデミ上陸の地というのもその一つだろうが、これ以外にも、近くには
 ・当地の南・日南市鵜戸の地にはヒコホホデミの御子・ウガヤフキアヘズの生誕の地とする鵜戸の洞窟(鵜戸神社がある)
 ・その陵墓・吾平山上稜、
 ・その妃・タマヨリヒメの陵などの伝承地があり、
 ・また“吾田町”(アガタ)との地名もある。
 しかし、現吾田町の前身である“吾田村”は明治22年(1889)の町村制施行によりできた新らしい村で、合併した旧5ヶ村には吾田との村名はなく、何らかの意図をもって付けられた地名としかみえない。

 これらからみて、当地がヒコホホデミの還幸・居住の地というのは、当地が旧日向国に属する海辺であることを根拠に作られた伝承で、当社がそのはじめからヒコホホデミを祀っていたかどうかは不明ともいえる。

 当社の前身についての資料・伝承などは皆無に近く何ともいえないが、青島に近い松添貝塚から出土した縄文後期から晩期にかけての遺物の中に、鯨の骨・魚の骨・貝殻などに加えて、装飾を施した骨製釣り針が出土していることから、この辺りでは、海と密着した生活が営まれたと想像され(日本の神々)、それらの人々が営んだ海洋信仰にもとずく神マツリの場が当社のはじまりとも推測されるが、その実体は不明。

※祭神
 記紀・日向神話にいう山幸彦・海幸彦説話にかかわる、彦火々出見尊(ヒコホホデミ・山幸彦)・豊玉姫命(トヨタマヒメ・海神の娘)及び塩筒大神(シオツツ=塩土老翁-シオツツノオジ)を祀る。

 山幸彦・海幸彦説話から、当社にかかわる箇所を抄出すれば、
 「山幸彦(ヤマサチヒコ=ヒコホホデミ)は山の幸を、海幸彦(ホスソリ)は海の幸を得る力を持っていた。あるとき互の道具を交換して幸(獲物)を得ようとしたが、それぞれ幸を得ることは出来ず、加えて、山幸彦は兄から借りた釣り針を無くしてしまった。
 山幸彦は、別の釣り針を新しく作って兄に返そうとしたが、兄はもとの釣り針を返せと責め立てた。
 兄に責められ途方にくれた山幸彦が海辺をさまよっていると、一人の老翁(シオツツノオジ=塩筒大神)が現れ、山幸彦から理由を聞くと、竹を以て無目籠(マナシカゴ)を造って山幸彦を乗せ、海神(ワタツミ)の宮に送った。
 海神の宮に着いた山幸彦は海神の娘・トヨタマヒメと結ばれ、3年が経ったとき、鯛の口の中から無くした釣り針を見つけ、国に帰って兄に釣り針を返すとともに、海神に貰った霊珠の力を借りて兄を懲らしめ服従を誓わせた」(大意)
となる。

 当社祭神は、この説話に登場するヒコホホデミ(山幸彦)と、その妃・トヨタマヒメ(海神の娘)および山幸彦を海神の宮に送ったシオツツノオジ=シオツツ大神となる。
 なおシオツツノオジ(塩土老翁とも記す)とは、天孫降臨条では、皇孫・ホノニニギに笠沙崎で国土を献上した土豪・事勝国勝長狭(コトカツクニカツナガサ)の別名として、また神武前期でも「東に美地あり。青山四もに周れり。・・・」と、東方に大和との美地があることを教示した老翁として登場し、“潮路を知る神霊”であろうという。

※参詣記
 本土と島を結ぶ弥生橋を渡り、海沿いの道なりに右へ回りこむと、自然と社殿前に至る。
 朱塗りの神門をくぐった先に、大きな千鳥破風・唐破風を有する拝殿が、その奥に同じく朱塗りの本殿が建つ。
 文献によれば、文亀3年(1503・室町時代)に領主・伊東氏によって再興され、以後、伊東氏代々の保護を受けたというが(日本の神々)、現在の社殿が再興時のものか、その後の改築等があったのかは不明。

 また、社殿右手の朱塗りの門をくぐり進んだ先、亜熱帯性樹林(国指定の天然記念物)に囲まれた中に、旧社地と呼ばれる地があり、朱塗りの覆屋のなかに“元宮”の呼ばれる朱塗りの小祠が鎮座している。
 (カメラ操作失敗のため写真なし)


青島遠望(左手に橋がある)
(観光ガイド地図より転写)
青島神社・拝殿

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