トップページへ戻る

鹿児島神宮
別称:大隅正八幡宮
鹿児島県霧島市隼人町内
祭神−−天津日高彦穂々出見尊・豊玉比売命
相殿神−−帯中比子尊(仲哀天皇)・息長帯比売命(神功皇后)
       ・品陀和気尊(応神天皇)・中比売命(応神皇后)
                                                       2011.10.27参詣

 延喜式神名帳に、『大隅国桑原郡 鹿児島神社 大』とある式内社で、大隅国はもちろん日向国・薩摩国を含めた南九州3国にある式内社(11座)のなかで唯一の大社。
 ただ、国司からの奉幣をうける国弊大社であって、神祇官が奉幣する官弊大社ではない。

 これは、官弊大社とするには一段低くみられたとも解されるが、中央から遠隔の地にあることから、やむなく国司に奉幣を任せたのかもしれない(神祇拾遺に、「五所八幡宮は遠国のため拝謁の便ならず。因って、後柏原天皇・大永年中-1521〜27-之を一つにまとめ山城国北山荘に奉祀す。今の上京極の五所八幡宮是也」とあるという)
 
 大隅国一の宮だが、一般には、鹿児島神宮というより“大隅正八幡宮”の方が認知度が高い。

 なお、現在の社名・鹿児島神宮は、明治7年(1874)、新政府(太政官)の指令により旧称・正八幡宮を改称したもので、その時官弊中社に指定されている(その後、明治28年-1895-官弊大社に昇格、戦後社格消滅)
 また、当社の北西約11kmほどに、当社主祭神・ヒコホホデミの陵墓とされる“高屋山上陵”(タカヤノヤマノエノミササギ)がある(別稿・「日向三稜」参照)

※由緒
 当社の創建由緒について、鹿児島神宮史(1989)は、
 「当社の創祀は古く、ヒコホホデミ尊の宮居させ給う高千穂宮をそのまま御社殿として奉斎したものであろう。一説には、神武天皇の御創建ともある」
というが、
 ・ヒコホホデミ尊はホノニニギ尊から位をうけ、かつて、現在の大隅国桑原郡宮内の地にいた。亡くなった後、その廟を鹿児島神社と名づけた。延喜式にいう鹿児島神社がこれである−−神代山稜考(1792)
 ・ここは、ヒコホホデミ尊が大宮をたてて都した処で、その旧址は今の石体宮である−−旧記(成立年代不明)
といった伝承があり、いずれも、当地をヒコホホデミの宮居跡とする。

 しかし、記紀に於けるヒコホホデミは、山幸彦海幸彦説話のなかで山幸彦として登場するだけで、それ以外の事蹟あるいは宮居についての記載はない。そこから、いろんな伝承が生まれたようで、上記以外にも主なものとして
 ・日向国諸県郡都城邑(現宮崎市都城市付近)−−三国名勝図会(1843)・薩 隅日地理纂考(1871)
 ・旧大隅国肝属郡内之浦郷(現鹿児島県肝属郡肝付町付近)−−神代三陵考(1869)
などの宮居伝承があり、江戸時代には内之浦説が有力視されていたという。(別稿「鵜戸神社」・「日向三陵」参照)

 このように、ヒコホホデミの宮居伝承地が各地にあることは、記紀に何らの記載がないことから、各々の土地で“我が地こ、皇孫の都をもってきたい”という願望を込めてつくられた伝承とも推測され、当社が最初から、ヒコホホデミの都があったから尊を祭神として創建したというのは疑問ともいえる。

◎石体宮(シャクタイグウ)
    祭神−−ヒコホホデミ尊
 当社の北東約300mに石体宮と称する小祠があり、当社の摂社となっている。
 ここには、
 ・石体宮は、ヒコホホデミ尊の山稜であると伝えられている。今の鹿児島神社の正宮(現社殿)は和銅元年(708)の建立で、それ以前は、石体の宮に社殿があった−−正宮家伝(成立年代不明)
 ・この石体宮は、ヒコホホデミ尊がはじめて都した宮殿(高千穂宮)の跡である。そこには神廟をたて、石の神像を安置した。鹿児島神社がもとあった場所である。神社が山上に遷ったのちも、石像は元のように、ここに留めて崇めているという−−麑藩名勝考(1798)
などの伝承があり、この地がヒコホホデミの宮殿跡で、今の鹿児島神宮の前身という。

 なお、石体宮のご神体である石に“八幡神が顕現した”との伝承もある(下記)

石体宮・拝殿(背後に本殿がある)
(当社資料から転写)

 石体宮のご神体は“石”(石の神像)といわれ、三国名勝図会(1843)
 「土地の人の話では、神体の石は坤軸際(コンジクサイ・地軸の深いきわ)から出ているので、人力で動かすことはできないという。
 石体は秘物になっていて、藁薦をもって覆ってある。毎年その藁薦を変えるときは、神官のみが潔斎して内陣に入り、薦更の式をするという。また、そのあと深く密閉して人はそれを見ることができない」
とあるという(日本の神々1・1984)

 ご神体が石であることは、当社のはじまりが、岩石・巨樹などをカミの依代(ヨリシロ・神が顕現する聖所)とする自然神信仰であったことを示唆するもので、このご神体の石に降臨したであろう神が当社本来の祭神かもしれない。

 この石に降臨した神名、すなわち当社本来の祭神名は不明だが、
 ・当社一帯が、かつて隼人族の一大拠点であり、大隅・薩摩の境界に近い鹿児島湾奥部から霧島山麓にかけては、隼人の雄族・曾君(ソノキミ)が盤踞し、養老4年(720)の隼人反乱の中心勢力として、あるいは天平12年(740)の藤原広嗣の乱の主力として活躍したこと(曾君は、後に曾於郡の大領に任ぜられている)
 ・明治以前までの当社社家の末席に、隼人十八家があったこと
 ・当社の神事に隼人舞と称する歌舞が伝えられていること
など、当地一帯に隼人に係わるものが多々みられることから、隼人族(特定すれば曾君)が奉斎した社が当社の前身ではなかろうかという(日本の神々1)

 蛇足を加えれば、山幸彦海幸彦神話で、山幸彦(=ヒコホホデミ)に屈服して服従を誓った海幸彦が“隼人の祖”とされることから、その隼人族に睨みを効かせる意味で、隼人族の祖神に代えてヒコホホデミを祭神としたとも愚考できる。

◎大隅正八幡宮
 当社は、古くから“大隅正八幡宮”とも呼ばれ、神社明細帳(昭和27-1952)にも
  「鹿児島神宮(国分八幡・大隅正八幡)
と、カッコ内に、国分八幡宮あるいは大隅正八幡宮との別称が記されているという。

 通説では、大隅正八幡宮は、承平年間(931--38)、平将門・藤原純友の乱(935--41)平定祈願のため九州各地に石清水八幡宮から神霊を勧請創建した(宇佐八幡宮からともいう)“九州五所別宮”(大分八幡・千栗八幡・藤崎八旛・新田神社・当社)の一社といわれ、これによれば、正八幡宮は10世紀中期前半頃に鹿児島神社に合祀されたことになる。

 しかし神宮史には、当社社家の一説として
 「欽明天皇5年(543)、鹿児島神社の上に雷電おびただしく人々皆奇異の思いをなしけるに、八流の幡降り来たり、示現の奇特あって、応神天皇・仲哀天皇・神功皇后を合祭す。是当神社を八幡と称する張本なり」
との伝承もあり、これによれば五所別宮創建以前から祀られていたことになる。

 一方、八幡宮の総本社とされる宇佐八幡宮に伝わる伝承では、八幡神(応神八幡神)は欽明天皇32年(571)に御許(オモト)山麓・菱形池のほとりに顕現したという。

 とすれば、大隅の正八幡の方が宇佐八幡より約30年ほど早く顕現したことになり、これが一般に流布して、今昔物語には
 「八幡大菩薩は、はじめに大隅国に現れ、つぎに宇佐宮に遷り、更に石清水に顕現した」
とある。
 また、当社が正八幡宮と“正”の字を冠するのも、宇佐八幡よりも早い創建、即ち八幡宮の嚆矢であるとの主張のあらわれともいう。
 しかし、欽明朝初期には未だ応神八幡神は成立していないと解されることから、これらの説は、宇佐八幡神の顕現伝承に対抗して、宇佐の欽明32年顕現より早い同5年顕現説を立てたとも解される。

 なお、八幡神は、古く、宇佐・御許山(オモトヤマ)頂上の3体の巨石に、3人の女神が降臨したとする磐座信仰が原点で(宇佐氏奉斎)、それに辛嶋氏が持ちこんだ新羅神信仰が習合し、更に大神氏が奉じる応神天皇信仰が加上されて、現在の八幡神=応神天皇とする応神八幡神が成立したとされているトップページ・宇佐神宮の項参照)

 史料上での大隅正八幡の初見は、百練抄(13世紀中葉)に記す掘川天皇・寛治2年(1086)の、「大貳実政、正八幡宮の神輿を射た」との記事で、九州五社別宮創建時期よりも約150年ほど後世のことといわれ、これを嚆矢として12世紀に入ると、当社所蔵の文書にも正八幡宮・大隅正八幡宮の名が散見されるようになり、一方では鹿児島神社との社名はみられなくなるという(日本の神々1)

 正八幡に関しては、上記の顕現伝承とは別に、幾つかの伝承があり、著名なものとして
 「震旦国陳大王の娘大日留女(オオヒルメ)は、7歳の時に朝日が胸に射し入り懐妊して王子を生んだ。これを怪しんだ王臣たちが母子ともに空船(ウツロブネ)に乗せて、船の着いた所を所領とするようにと大海に流しやった。
 船はやがて日本国鎮西大隅の礒の浜に着き、土地の人は、この王子を正八幡神として祀った。継体天皇(欽明の3代前・欽明の父帝)の御代のことという」(八幡愚童訓・鎌倉後期頃・大意)
との伝承があり、ここでは、正八幡宮の創建は欽明朝より古い継体朝となっている。
 この伝承は母子神信仰の一類型で、ウツロ舟(密閉された容器・中に神が隠るともいう)に身を託して(乗せられて)人里に漂着する母子が神として祀られたという説話のひとつだが、これには、いろんな解釈がある(省略)

 他にも、正八幡宮にかかわって
 ・長承元年(1132)、太宰府から「正八幡宮の高さ4尺・弘3尺・厚2尺の石が自然に出来て、そこには“八幡”の2字銘があった」との話が報告された
  この石体宮の石体に八幡神が垂迹したと聞いた宇佐宮の神官が3人の使者を遣わした。使いは命のままに石を焼いたところ、たちまち石が裂けて、中に“正八幡”の文字が現れた。3人は驚いて逃げ出したが、一人は直ちに、一人は途中で、一人は宇佐に帰って亡くなった。是みな神罰を蒙ったものである。
 ・宇佐の使いがやってきて芋の茎を焼いたところ、その煙が立ちのぼり、結んで“正八幡”の文字が浮かび、数日間消えなかった
 ・八幡神が出現したのは神社の南の鹿児山で、その山の岩が崩れて金光を発した。これを怪しんだ神官が神楽を奏して神託を乞うたところ、応神天皇の霊が顕現したので、神社に配祀した
といった伝承があ。(日本の神々1)
 ここで、宇佐宮の神官が出向いたということは、正八幡宮創建時には宇佐八幡宮は既にあったということになり、欽明5年創建との伝承と平仄があわない。

 また、これらは“石”を依代とした神の顕現伝承であり(ここから、八幡神が石体宮の石体に顕現したとの伝承が生まれたのであろう)、それは、宇佐八幡神の前身・三女神が御許山(オモトヤマ・宇佐八幡宮の奥宮)の巨石に降臨したという顕現伝承と類似しており、それらを念頭においた伝承と思われる。

 当社に正八幡神が合祀された理由ははっきりしない。
 ただ、続日本紀(797)・和銅7年(714)3月15日条によると、
 「隼人は道理に暗く荒々しく、法令にも従わない。よって豊前国の民200戸(約5000人ほどという)を移住させて、統治に服するよう勧め導かせるようにした」
とあり、南九州統治のために北部九州の豊前国(宇佐八幡の所在地)から住民を集団移住させ、隼人族を教導させているが(同時に、肥後国からも集団移住があったという)、大隅国の国府所在地である桑原郡(和銅6年に曾於郡を分割して新設された)に豊国郷あるいは大分郷があることからみて、この時の移住地が当社が鎮座する桑原郡であったのは略間違いないであろうという。

 その時、移民たちが、自らが奉斎する神・八幡神(応神八幡となる前の原八幡神であろう)を大隅の地に捧持して行ったことはあり得ることで、これらが当地と八幡神とが結びつく機縁となったとみられる。
 (正八幡神が石体宮のご神体・石に降臨したとの伝承、そのご神体を包む藁薦など、宇佐八幡神との類似点が多い)

 加えて、養老4年(720)に大隅の隼人族が1年数ヶ月に及ぶ大反乱を起こしているが、これの征討軍(征隼人大将軍は大伴旅人)の将軍の一人として豊前守・宇奴首男人(ウヌノオビトオヒト)が八幡神(原八幡神)の分霊を薦枕(コモマクラ)に遷し、これを奉じて従軍、神の威力のもとに反乱を鎮圧したという(この時、抵抗する多くの隼人を殺戮したといわれ、その慰霊のために始まったのが放生会という)
 この戦勝によって、八幡神は蕃夷の鎮圧に霊験を発揮する神として認められ、これが、平将門・藤原純友の乱平定のための宇佐八幡宮への戦勝祈願及び九州五社別宮・即ち大隅正八幡宮の創建に連なったと推測される。(以上・日本の神々)


※祭神
 当社は、鹿児島神宮と大隅正八幡宮という神格を異にする2社からなっており、ヒコホホデミ以下の祭神を次のように別けて祀るという(神社明細書・1952)

 ・鹿児島神宮
   中央正座−−−−−ヒコホホデミ・トヨタマヒメ(ヒコホホデミの妃)
 ・大隅正八幡宮
   向かって右相殿−−仲哀天皇・神功皇后(仲哀の妃)
   向かって左相殿−−応神天皇・中比売(応神の妃)
 なお、拝殿内陣の拝所(本殿正面)もこれにあわせて3座に別れている。
鹿児島神宮/拝殿・内陣
拝殿・内陣
(正面に拝所3座がみえる)

 当社の由緒・沿革からみるかぎり、この6座を祭神とするに異論はないが、神名帳に“祭神一座”となっていることからすると、延喜式当時の祭神はヒコホホデミ一座だったとも推察される(元社とされる石体宮の祭神はヒコホホデミ一座)

 ただ、当社が鹿児島という地名を社名とすることから、本来の祭神は在地の神だったとも考えられ、その意味では、
 「当社は、当初からヒコホホデミを祀っていたのではなく、当地が南九州のほぼ中心部にあって霧島山に近いことからして、当初の祭神は、隼人諸神のなかでも重視されてきた神であって、中央政府は、隼人族によって奉斎されてきた神々を存続させることによって、隼人支配を容易にしようと考えたのであろう」(日本の神々1・大意)
ともいうが、火を噴く山に坐す神を畏怖し鎮めるための神マツリの場が原点とも思われる。


※社殿等
 神宮には東から入る。
 一の鳥居・二の鳥居をくぐり、一の坂(石段・以下同じ)を登り神橋を渡り、更に二の坂・三の坂を登った上が境内で、真っ直ぐ進むと社殿正面に出る。

 正面、一段高くなった基壇上に南面して“勅使殿”(軒下の神額には正八幡宮とある)、その奥に縦長の拝殿、その奥に本殿と並ぶ。

 神宮史によれば、当社は、鎌倉時代以降屡々火災に遭ったとあり、現在の社殿は、享禄3年(1530)藩主・島津貴久により造営されたという。
鹿児島神宮/社殿配置
鹿児島神宮・社殿配置

神橋より参道を望む
鹿児島神宮/勅使殿
鹿児島神宮・勅使殿
鹿児島神宮/拝殿
同・拝殿(左)・本殿(右)
鹿児島神宮/本殿
同・本殿

◎末社
 境内、社殿の右手に
 ・四所(シショ)神社−−大雀命(オオササギ・仁徳天皇)・石姫命(イワヒメ・仁徳の皇后)・荒田郎女(アラタノイラツメ・石皇后の妹)・根鳥命(石皇后の弟)
 ・武内神社−−武内宿禰(タケウチノスクネ)
 ・隼風(ハヤチ)神社−−日本武尊(ヤマトタケル)
が並ぶ。
 仁徳以下の4座(四所神社)・タケウチスクネ(武内神社)は応神天皇・神功皇后(正八幡宮)に縁が深いことから、末社として祀られたのだろうが、ヤマトタケル(隼風神社)を祀る由縁は不詳。当地が隼人の地であることから、景行天皇紀にいうヤマトタケルの西征伝承(熊襲征伐)にかかわって祀られたのかもしれない。


末社・四所神社

末社・武内神社

末社・隼風神社

 上記以外に、次の末社があるが(神宮史)、その鎮座由緒など不明。
 ・三之社−−二の鳥居前
   一の社−−豊姫命(トヨヒメ・神功皇后の妹)・磯良命(イソラ)
   二の社−−武甕槌命(タケミカツチ)・経津主命(フツヌシ)
   三の社−−火蘭降命(ホスソリ・海幸彦)・大隅命・隼人命
 ・御門(ミカド)神社−−二の坂下の両側(北・南)−−豊磐間戸命(トヨイワマド)・櫛磐間戸命(クシイワマド)−−門の守護神
 ・雨之社−−三の坂を登った南側−−豊玉彦命(トヨタマヒコ・ヒコホホデミの岳父-海神)
 ・山神神社−−本殿後方の山中−−大山祇命(オオヤマツミ・ヒコホホデミの外祖父-山の神)
 ・大多羅知女(オオタラチネ)神社−−本殿後方の山中−−息長帯媛命(オキナガタラシヒメ)
 ・稲荷神社−−本殿後方の山中−−宇賀魂命(ウガノミタマ-稲荷神)・大宮売命(オオヤノメ)・猿田彦命

トップページへ戻る