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霧 島 神 宮
鹿児島県霧島市霧島田中
主祭神−−天津彦彦火瓊瓊杵尊
相殿神−−木花開耶姫尊・彦火火出見尊・豊玉姫尊
          ・鵜茅草葺不合尊・玉依姫尊・神日本磐余彦尊
                                                       2011.10.25参詣

 延喜式神名帳に、『日向国諸県郡 霧島神社』とある式内社だが、古くから、式内・霧島神社を名乗る神社として、
  ・霧島神宮(キリシマ)−−鹿児島県霧島市田中(右図・@)−−当社
  ・霧島岑神社(キリシマミネ)−−宮崎県小林市細野(右図・A)
  ・東霧島神社(ツマキリシマ)−−宮崎県都城市高ア町東霧島(右図・B)
  ・霧島東神社(キリシマヒガシ)−−宮崎県西諸県郡高原町蒲牟田(右図・C)
の4社がある。
 いずれも、高千穂峰(右図・を北から東・南にかけて囲むように立地する神社で、霧島神宮(鹿児島県)を除く3社は宮崎県側に位置する。

 この4社のいずれが式内・霧島神社かについて確証はないが、明治7年(1874)鹿児島県側の当社を官弊大社とし、同10年(1877)宮崎県側の3社をその摂社としており、時の明治政府が当社を以て式内・霧島神社に比定したとも解される。

式内・霧島神社・論社/位置図
 
 なお、霧島山とは鹿児島県と宮崎県県境付近に拡がる火山を含む連山の総称で、最高峰の韓国岳(カラクラタケ・H=1700m)・霊峰高千穂峰(H=1574m)・今も噴煙をあげる新燃岳(シンモエダケ・H=1421m)など20あまりの峰々からなっている。

※由緒
 当社参詣の栞によれば、
 「当神宮は、天祖・天照大神の“豊葦原の千五百秋(チイホアキ)の瑞穗の国は是れ吾が子孫(ウミノコ)の王(キミ)たるべき地なり。宣しく爾(イマシ)皇孫(スメミマ)(ユ)きて治(シラ)せ行(サキ)くませ。・・・”との御神勅を畏み戴いて、三種の神器を捧持して高千穂峰に天降りまして、天壌無窮の皇基を建て給うた我が国肇国の祖神・瓊瓊杵尊を御祭神として奉斎し、相殿に6柱の皇霊を配祀しております。
 わが国最古の歴史書・古事記及び日本書紀に、ホノニニギが“日向の襲の高千穂峰に天降ります”とある霊峰は、本宮の背後に天聳り立つ高千穂峰で、頂上に天の逆矛があります。
 本宮は、遠い神代の古から御由緒があるこの霊峰に鎮座ましますと伝えられており、延喜式にも日向国諸県郡霧島神社と記されています」(大意)
という。

 また、続けて、
 「旧記によると、本宮はもと高千穂峰(H=1574m)と御鉢(オハチ:噴火口・H=1408m)との中間・背戸丘(セトオ)に奉斎されていたが、山上噴火のため悉く炎上の災に遭い、村上天皇の天歴年間(947--57)天台の僧・性空上人が御鉢の西麓・高千穂河原瀬多尾越に再興奉還した。
 その後、文歴元年(1234)の大噴火で神殿・僧坊悉く災禍に遭い、それから田口の待世の行宮に250年間奉斎されたが、後土御門天皇の文明16年(1715)僧・兼慶(真言宗)という人が、藩主・島津忠昌公の命をうけて再興したのが只今の社殿です。
 その後、別当寺華林寺からの失火により全焼の災に遭われたが、時の藩主・島津吉貴公の寄進により、中御門天皇・正徳5年(1715)に重建せられたものが現在の御社殿で、今より290余年前の建築で、絢爛たる朱塗りの本殿・拝殿・登廊・勅使殿等その配置の妙を得て輪奐の美をなしています」(大意)
とある。

 上記由緒は当社を中心として記述されたものだが、式内社調査報告(1978)・日本の神々1(1984)などの諸資料を参照すれば、創建当初の霧島神社が高千穂峰の西方にあったのは事実らしいが、度重なる火山噴火によって遷座を繰りかえし、その間に分社・社名変更などもあり、その経緯は論社4社全体として見る要がある。

 諸資料を参照しながら推測を交えて経年的に示すと、次のようになる。
 @続日本後紀(869)に、
  「承和4年(837)8月日向国諸県郡霧島岑(キリシマミネ)神を官社に預かる」
とあり、三国名所図会(1843)・霧島岑神社条に、大略
  「(承和4年官社に預かったのは)霧島岑神社ならんか、承和の時、当社は霧島山の絶頂にあったから“岑”の字が用いしなるべし」
とあることからみて、高千穂峰西方にあった社は、“霧島岑神社”と呼ばれていたらしい。
 なお、三代実録(901)の天安4年(858)8月条には
  「日向国の従五位上の霧島神に従四位下を授く」
とあり、9世紀より以前に当社(あるいは、その前身社)が高千穂峰近くの何処かにあったのは確かといえる。

 Aこれが噴火により焼失したため、僧・性空が再興いたというが、その経緯について
  ・天歴年間(947--57)に性空上人が西麓の高千穂河原に奉遷して再興した−−日本の神々1
  ・応和年間(961--64)に、京師の僧・性空が霧島山に入って庵を結び、一寺を瀬戸尾(セトオ)に建てた。
   これを瀬戸尾権現又は霧島中央権現と称し、始めて神仏を合体した−−式内社調査報告
とあり、僧・性空の再興というのは同じだが細部は異なっている。

 僧・性空が奉遷再興した地・高千穂河原(H=970m)とは、高千穂峰の西約2km(当社の北東約4km)付近で、いま霧島神宮跡地として整備されているという(不参)

 性空とは、霧島山一帯で修業していた修験僧のようで、霧島山の周辺にある神社をまとめて“霧島六社権現”として整備したというが、その中心となったのが霧島山中央六社権現と呼ばれた霧島岑神社で、あとの5社は順次整備統合されたものと思われる。
 また、この再興経緯からみると、再建後の霧島岑神社は神宮寺(別当寺とも)と一体となった宮寺形態の神社で、霧島修験道の拠点でもあったらしい。

 なお、霧島六社権現とは、次の6社をいう。
 ・霧島山中央六所権現(別当寺:瀬多尾寺)−−霧島岑神社 ・霧島東御在所両所権現(同・錫杖院)−−霧島東神社
 ・東霧島権現(同・勅詔院)−−東霧島神社          ・西御在所霧島六社権現(同・華林寺)−−霧島神社
 ・狭野大権現(同・神徳院)−−狭野神社            ・夷守六所権現(同・宝光院)−−霧島岑神社に合祀(明治時代)

 B元永3年(1112)・仁安2年(1167)−−霧島山の噴火により損傷を受けるが、現地にて修復。

 C文歴元年(1234)−−大噴火により社殿・僧坊全て焼失したので、社地を長尾山麓に求めて遷座。
                →現在の“東霧島神社”(ツマキリシマ)
        これは、霧島岑神社の遷座及び東霧島神社への社名変更と見ることもできるが、いずれにしろ、
        この時点で、霧島岑神社は一旦消滅したともとれる。

 D文明16年(1484)−−領主・島津忠昌が霧島岑神社の再興を図り、兼慶という僧に命じて
   ・霧島東社を霧島岑神社の旧地に近い祓川の山上(位置不明)に建立し、東御在所権現と称した。→霧島東神社の前身
   ・霧島西社を大隅国姶良郡田口村に建立した。→現在の霧島神宮の創建
        この両社建立は、霧島岑神社を2社に別けて再興したのだろうが、2社とした理由など不詳。

 E天文13年(1544)−−藩主・島津貴久が、霧島東社が祓川山上にあっては噴火被災の恐れありとして、
               高原郷蒲牟田の地に遷座させた。→現在の霧島東神社

 F享保14年(1729)−−霧島岑神社を東霧島神社から分離して小林村に遷座、霧島中央権現と称した。→現在の霧島岑神社

 これらの経緯からみると、霧島神社の原姿は霧島山に対する素朴な自然神信仰で、生活・農耕に必要な水を与えてくれるとともに、時には火を噴く畏るべき神である山の神・火山の神を鎮めるための神マツリの場が、当社の始まりだったと思われる。

 当社が延喜式内社に列したのは高千穂峰近くにあった時点(原霧島岑神社)で、が故に、祭神一座の小社とされたもので、未だ、ホノニニギ以下の神々は祀られてなかったとも考えられる。

 そんな霧島連峰を神奈備とする素朴な山の神信仰が、仏教(神仏混淆の色彩が強い修験道)と習合することによって、お山の周りにあった幾つかの遙拝所が霧島六所権現として整備統合され、その中の一社として霧島神社が文明16年(室町末期)に創建されたもので、その意味では、一連の霧島神社4社のなかで最も新しいといえる。

 また、式内・霧島神社には論社4社があるが、上記経緯からみて、そのいずれもが曾ての霧島岑神社の系譜を曳くものと解され、いずれも式内社と称しておかしくはない。

 ただ、論社4社のなかで霧島神宮が盛況をみているのは、明治の神祇政策によって当社が官弊大社に列した(明治7年)からだろうが、何故、関連する4社のなかで、当社を以て官弊大社としたのかは不明。

 当社は今、霧島神宮と称しているが、これは明治7年(1874)2月、官弊大社に列した時に改称したもの。

※祭神
 当社祭神として、火瓊瓊杵尊(ホノニニギ)を主祭神に、相殿神として木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメ)以下6柱、合計7柱の神々が祀られている。

 所謂、天孫降臨から神武天皇に至る日向神話に登場する神々で、皇統譜で示せば
  アマテラス−−オシホミミ−−ホノニニギ−−ヒコホホデミ−−ウガヤフキアヘズ−−神武天皇
となり、神武天皇を除き、以下のような夫婦神3組からなっている。
  ・ホノニニギ−−コノハナサクヤヒメ(大山祇神の娘、神吾田津姫-カムアタツヒメ・鹿葦津姫-カシツヒメともいう)
  ・彦火々出見尊(ヒコホホデミ)−−豊玉姫(トヨタマヒメ-海神の娘)
  ・鵜茅草葺不合尊(ウガヤフキアヘズ)−−玉依姫(タマヨリヒメ-トヨタマヒメの妹)

 皇孫・ホノニニギの降臨地を、当地即ち霧島山系の高千穂峰とすることから、降臨したホノニニギを主祭神として祀ったのだが、延喜式に記す式内・霧島神社は小社であって、皇統譜の冒頭に位置する重要な神々を祀るにしては社格が低く、また“鍬靫”といった特別の奉献物もなく、一般神社並みに扱われている。

 これらからみると、延喜式編纂当時(霧島峯神社の時期)に“祭神はホノニニギ”と認識されていたかどうかは疑問で、その頃の当社は素朴な自然神(山の神・火の神)信仰であったかとも思われ、
 日本の神々1には
 「霧島山は南九州の中心部にあり、火山でもあったところから、山に対する信仰とともに、噴煙や火災・降灰や鳴動が周辺の人々の生活を不安におとしいれたことが十分に想像できる。この神の怒りを鎮めるための遙拝の地が、霧島山周辺の各処にできても不思議ではない。
 したがって、各地の社はすべて霧島山を神体としておこったもので、もとは周辺部にもっと多くの拝所があったと推察されるが、次第に統合されていったのであろう」
とあるが、その統合後の姿が霧島六社権現であろう。

 ただ、その自然神からホノニニギへと移った経緯・時期などははっきりしない。極言すれば、当社が官弊大社に列した明治初年の頃かもしれない。

 なお、当社以外の論社には、当社と同じ7柱の神々に加えて、イザナギ・イザナミ双神(東霧島神社)又はアマテラス大神(霧島東神社)が祀っている神社がある。

※参詣記
 広い境内の三の鳥居をくぐり、石畳みの参道を進み、低い石段を登った正面に、切妻造朱塗唐破風を有する勅使殿があり、左右に長庁が伸びている。
 その奥、長廊下を経て切妻造朱塗りの拝殿と同じく本殿が縦に並ぶ。(カメラ操作の失敗で、写真なし)


霧島神社・社殿正面
(参詣の栞から転写)

同・社殿配置図
(左に同じ)

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