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新 田 神 社
鹿児島県薩摩川内市宮田町
祭神−−天津彦々火瓊瓊杵尊
配祀−−天照皇大御神・正哉吾勝々速日天忍穂耳尊
                                                             2011.10.27参詣

 JR鹿児島本線・川内駅の北西約2.5km、川内川河口から約10kmほど遡上した右岸から約1.5kmほど北上した処にある独立峰・神亀山(H=70m・亀山・可愛山ともいう)の頂上に南面して鎮座し、社殿の背後に、皇孫・ホノニニギ尊の陵墓とされる可愛山稜(エノミササギ)がある。

※由緒
 当社の創建由緒について、当社参詣の栞によれば、
 「皇孫・ホノニニギ尊は、沢山の神々を引き連れて今の鹿児島県の霧島にある高千穂峰に天降り、はじめて米をお作りになった。
 続いて、鹿児島県の加世田市(現南さつま市)にある笠沙宮(カササノミヤ)に移られ、山の神の娘であるコノハナサクヤヒメと結婚されて、その後、海路東シナ海を北上されて川内の地に到来され、この地に立派な千台(ウテナ)すなわち高殿を築いてお住まいになった。川内(センダイ)の名は、この千台(ウテナ→センダイ)から来ている。
 やがて、尊が亡くなられたのでお墓が造られたが、それが今の“可愛山稜”(エノミササギ)で、その尊を祀ったのが新田神社の始まりといわれている。もともと社殿がなく、お山そのものが神社であったとも伝えられる。
 なお、当社の“新田”という名称には、ホノニニギが川内の地に川内川から水を引いて新しく田圃をお作りになったという意味が込められている」(要約)
という。

 また新田宮縁起文(1214・鎌倉初期)には
 「八幡新田宮は、地神第三の天孫・ホノニニギが最初に降来されたとき、塩土の翁(シオツチノオジ)にあい、城壁と、その上に姫垣(丈の低い垣)とを構え、高城(郡)の千台(川内)を起こした処である」
とあり、
 三国名勝図会(1843・江戸末期)には、
 「当地は、ホノニニギの都した処であって、高城千台の宮を建てた跡であるので、郡を高城(タキ)と名づけ、邑を千台(センダイ)という」
とある(安本美典・「邪馬台国は、その後どうなったか」・1992、以下、安本著書という)

 記紀神話を要約すれば、皇孫・ホノニニギは日向の襲の高千穂峰に天降り、そこから吾田の長尾の笠狭崎(カササノミサキ)に移り、そこで木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ、亦の名・神吾田津姫-カムアタツヒメ・鹿葦津姫-カシツヒメ)を娶り、3人の御子が生まれ、亡くなって筑紫の日向の可愛山稜に葬られた(書紀本文)とあるだけで、笠狭から他に移ったとの記述はない。

 神話上の地名を云々しても意味はないが、通説では、“吾田の長尾の笠狭”とは薩摩半島の西海岸の南部・現鹿児島県南さつま市(旧加世田市)辺りといわれ(他にも諸説がある)、当社が鎮座する薩摩川内市とは約50kmほど離れている。

 このキャップを埋めるのが、「海路東シナ海を北上して川内の地に到来され」との一節だろうが、古資料によれば、
 ・おもうにホノニニギは、はじめ高千穂の宮にいて、つぎに笠沙の崎にうつり、そこで没したとすれば、この御陵の所在地ははなはだ遠いことになる。笠沙からこの地に遷都したのであろう−−薩隅日地理纂考(1871・明治初期)
 ・神社に伝わる説では、『ホノニニギは後に笠沙の岬からこの地に遷都されて、・・・』という。笠沙の岬は今の加世田郷で、その地においてお亡くなりになったとすれば、御陵の場所が遠いので、この地に遷都されたのであろう−−神代三陵異考(1875・明治初期)
とあり(他にも、同趣旨の古資料がある)、笠沙の地から海路当地へ移られたとの伝承があるという。

 これらの伝承は、記紀に笠沙からの移動記事がないこと、換言すれば、その後の動きについては制約がないことから、皇孫の都を当地に充てたいという願望を含めた推測に基づいて作られた伝承だろうが、その真偽を云々しても意味はない。
 これらの伝承に基づいて当地にホノニニギを祀る神社があり、陵墓があると解すべきであろう。

 当社の創建年代(社殿建立)について、主なものとして、神亀2年(725・奈良時代)説・貞観年代(859--77・平安前期)説・元慶6年(882・平安前期)説がある。
 ・聖武天皇の神亀2年創立−−三国神社伝記(1808・江戸後期)
 ・御建立以来三百余歳之間(万永元年から300年前といえば、清和天皇貞観7年865となる)
             −−新田神社文書(平安末〜江戸時代までの古文書集)所収の寺家政所下文案(万永元年−1165・平安末期)
 ・陽成天皇・元慶6年、薩州新田宮建立−−三国名勝図会(1843・江戸末期)
 ・無格社 可愛山稜の側に在り 元慶6年創建 ニニギ尊を祀る−−鹿児島県地誌(1882・明治中期初)

 ただ、これらの創建説に対して、
 ・三代実録・貞観2年(882)の神階授叙条に、当社の名がみえないこと(薩摩川内市内では、当社以外の2社への授叙記録がある)
 ・延長5年(927)撰上の延喜式神名帳に、当社の名がみえないこと(いまだ社殿がなかったかもしれないという)
から、神亀2年説・貞観年間説・元慶6年説は疑問とし、“恐らくは平安中期頃(930--1060頃)ではないかと思われる”ともいう(新田神社と可愛の山稜・1988)

 しかし、当社の古い別称・八幡新田宮(新田八幡宮)の由縁が、下記するように、承平年間(931--38)の八幡神勧請(九州五所別宮)によるとすれば、それ以前の平安前期(794--930頃)には、新田神社(新田宮)が当地にあったことになる。

 今、当社は神亀山(可愛山−エノヤマor亀山ともいう、H=70mほどの独立山)の頂上にあるが、薩隅日地理纂考(1871・江戸末期)には
  「(神亀山)山上には、はじめ山陵だけがあって、宮殿はなかった」
とある。

 これは、古くからの神奈備山信仰に類するもので、山頂にある聖地(山稜か)を麓(里宮)から拝していたのが当社の始まりであったことを示唆し、その旧社地が、神亀山中腹にある平地(下記)と推測されるが、神代三陵異考(1875)には
  「新田宮は、はじめ今の地から東7・8町(約800m)の川内川の向かいにある隅之城(クマノジョウ)郷宮里村に鎮座されていたので、地名を宮里とよんだ」(今、当社の南・川内川の対岸に“宮内”の地名がある。ここにいう“東”は“南”の誤記であろう)
ともいう。

 これは、笠沙崎から当地に移られたホノニニギが最初に都したのが川内川左岸・宮里の地で、その宮跡に創建されたのが当社とするものだが、他にも屋形原説・妹背城跡説・都八幡説(いずれも薩摩川内市内)などがあり、各々が、そこから神亀山中腹に移ったとの説もあり(鹿児島県川内の宮)、また一説によれば、
  「ホノニニギを主神とする新田宮が現在地(神亀山)にあり、別に石清水八幡宮祠官紀氏の勧請した応神天皇を主神とする八幡宮が、隈之郷宮里村にあった。
 新田宮の東部に近接する薩摩国府が、新田宮を主社とすべく、両社を合祀して大きくし、八幡新田宮としたものであろう」
ともいう(新田神社と可愛の山稜)

 これによれば、宮里にあったのは八幡宮で(若宮八幡が鎮座していたが、今はないという)、当社は、それとは別に神亀山の中腹にあったことになり、神亀山遷座以前のホノニニギの宮跡については、いくつものの伝承があり混乱している。

 上記のように、当社は今、神亀山山頂に鎮座するが、その経緯について、上記・安本著書によれば、概略
 ・往古の神社は、今の神社に参る山の半ばほどの処の平地にあって、今も宮殿の礎石が残っている。
 ・承安2年(1172・平安末の院政期)、神官たちが山頂に遷したいと朝廷に願い出たので、朝廷で占ったところ吉とでた。
 ・承平3年(1173)、中腹にあった新田八幡宮の正殿以下門廊が炎上したので、同4年、山頂に遷して仮宮を営んだ。
 ・改めて、山頂遷座の可否について朝廷に奏聞、その御裁可を得て、永仁7年(1199)3月、正殿以下数社を山上に造営した
という。
 山頂部にあった古社(山社)を山麓(里宮)に移した事例は多いが、当社では逆に山麓から山頂に移っており、その間に何らかの事情があったと推察される。

◎八幡新田宮
 曾ての当社は、“新田八幡宮”(八幡新田宮ともいう)と呼ばれていたようで、
 「新田神社文書には“新田宮”、和漢三才図会には“新田明神”とあるが、その他はほとんど“八幡新田宮”である」
という(新田神社と可愛の山稜)

 当社が八幡新田宮と呼ばれた由縁は、通説では、平安中期はじめに起こった平将門・藤原純友の乱(承平・天慶の乱-935--41)の鎮圧祈願のために、九州各国に石清水八幡から神霊を勧請した“九州五所別宮”に列したためといわれ、それは
 ・当社は八幡三所神明の垂迹、九州五所別宮の第一云々−−新田宮所司神官等解文(1247)
 ・承平年中の将門逆乱を伏するため八幡別宮を九州五所に崇め奉る云々−−肥後藤崎八旛宮社祠神官等解文(1357)
との古文書によって証される。
 なお九州五所別宮とは、筑前大分宮(福岡県)・肥後藤崎宮(熊本県)・肥前千栗宮(佐賀県)・薩摩新田宮(当社)・大隅正八幡宮(鹿児島県)をいう。

 ただ、八幡神が最初から新田神社に合祀されたものか、上記のように、隈之城宮里村に五所別宮の一社として勧請された八幡神(応神天皇他)を、古くからの新田神社に合祀したものかは不明。

 当社が、藩主・島津家の崇敬をうけたのは、皇孫を祀る神社というより、清和源氏の氏神として武家階層の篤い崇敬をうけた八幡神を祀っていたことがおおきいと思われる(島津家の出自については諸説があり、その一つに源氏に連なるというのがある)

 なお、当社が八幡宮を併称する由縁として、この九州五社八幡宮説の他に、
 ・当社をより繁栄させるために、八幡大神を勧請して隆盛を極めた男山八幡宮にならって社殿(四の宮社・武内社)を造営し、八幡を名乗ったもので、それは元慶年間(877--85)の頃であったろう−−神代三陵志(1843)
 ・八咫鏡の八と、母・栲幡千々姫(タクハタチヂヒメ)の幡とをとって八幡と称すとも云う−−神社誌(1769)
 ・伝に云う、皇孫が授けられた八咫鏡と栲幡千々姫の御号、此を奉じて八幡という 新田は旧地名なり−−麑藩名勝考(1795)
などがあるが(大意・新田神社と可愛の山稜)、いずれも牽強付会の感が強い。

 ただ、今の当社には、由緒・祭神ともに、曾て八幡新田宮とよばれていたことを示唆する痕跡はみられない。

※祭神
 今の祭神は、主祭神・ホノニニギ尊にその祖母神・アマテラス大神と父神・オシホミミ尊を祀るが、古資料によっては
 ・中尊:ホノニニギ、左:アマテラス、右:タクハタチヂヒメ(ホノニニギの母神)
の三座とあり、父神・オシホミミに代えて母神・タクハタチヂヒメとするものが多々みられる。

 これに対して、当社を八幡新田宮とする資料には
 ・新田明神 新田に在り 祭神三座 神功皇后・応神天皇・武内大臣−−和漢三才図会
 ・祭神 応神天皇・神功皇后・玉依姫の三神なり 三陵考にホノニニギ・アマテラス・タクハタチヂヒメとするはヒガゴトなり−−太宰管内志(1841)
とあり、江戸時代には、応神八幡神が主祭神(所謂・八幡宮)と理解していたようだが、今の当社には、本殿左に応神天皇・神功皇后に関係の深い武内宿禰の祖神を祀る武内宮があるのみで、他は八幡神の痕跡はみられない。

※社殿等
 大鳥居をくぐり、小さな太鼓橋2基を渡り少し進むと、322段の石段下に達する。石段下の両側には、入口を守る小祠2社がある。
 ・西門守神社−−櫛石門戸神(クシイワマド)
 ・東門守神社−−豊石門戸神(トヨイワマド)
 この両神は、天岩屋から出てきたアマテラスの新しい宮殿の門を守護した神で、宮殿・神殿の門戸の守護神とされる。
 櫛(豊)石窓神(クシ-トヨ-イワトマド)、天石門別神(アメノイワトワケ)ともいう。

新田神社/鳥居
新田神社・鳥居
新田神社/末社・西門守神社
同・末社・西門守神社
新田神社/末社・東門守神社
同・末社・東門守神社

 石段を約100段ほど登った処に小さな広場がある。承平年間までの旧社地跡で、南西の隅に小祠3社が建ち、朱の木柵の中に旧社殿の礎石が残り、傍らに
 「当社は、高倉天皇・承平3年までこの所にあったが、同年中神火のため炎上したので、奏聞宣旨を下し賜い、今の頂上に遷座した。此の石は、即ち当時の神殿の礎石の一つで、今に残存せしものである」(大意)
とある。
 ・高良神社(コウラ)−−天鈿女命(アメノウズメ−−天岩屋の前で、アマテラスを呼び出す舞を舞った女神)
 ・中央神社−−大山祇命(オオヤマツミ−−ホノニニギの妃・コノハナサクヤヒメの父神)
 ・早風神社−−級長津彦命・級長津女命(シナツヒコ・シナツヒメ−−風を司る神)
 ただ、これら3社を当地に祀った由緒・時期などは不明。

新田神社/旧社地跡
旧社殿跡
新田神社/旧社殿・礎石
旧社殿・礎石
新田神社/末社・高良神社
末社・高良神社
新田神社/末社・中央神社
末社・中央神社
新田神社/末社・早風神社
末社・早風神社

 石段を登り切った上に社殿が建つ。
 正面に、南から勅使殿、その奥に大きな舞殿、それより小ぶりの拝殿、短い弊殿を隔てて、その奥に大きな本殿覆屋(入母屋造)が縦に並ぶ。
 本殿覆屋の中には、祭神3座を祀る社殿が鎮座していると思われるが、詳細不明。

 社頭の案内には、
 「本殿・弊殿・拝殿・舞殿・勅使殿が一直線に並び、本殿両脇に摂社を置き、互いに回廊でつなぐ配置は圏内唯一です。また本殿は、仏教寺院の建築様式と類似しており、神仏習合の名残が窺えます」
とある。

 社殿等の配置図によれば、本殿の両脇に
 ・若宮四所宮(東側)−−ヒコホホデミ・トヨタマヒメ・ウガヤフキアヘズ・タマヨリヒメ
 ・武内宮(西側)−−彦太忍信命(ヒコフツオシノマコト−孝元天皇の皇子)
との摂社がある。
 今、武内宮の祭神はヒコフツオシノマコト命となっているが、この命が八幡神(応神天皇・神功皇后)に関係の深い武内宿禰(タケウチスクネ)の父(又は祖父)であることからみて、本来は武内宿禰を祀っていたとも思われ、そこから類推すれば、若宮四所宮には応神八幡神以下の神々が祀られていた可能性もある。

新田神社/勅使殿
新田神社・勅使殿
新田神社/社殿
同・社殿
(左から、舞殿・拝殿・本殿)
(勤番所前から)
新田神社/社殿配置図
同・社殿配置図

※可愛山稜(エノミササギ)
 本殿背後の山頂に、ホノニニギの陵墓とされる可愛山稜があり、社務所脇から社殿東側を迂回して行くことができる。
 この山稜については、別稿・「日向三陵」参照。

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