トップページへ戻る

狭 野 神 社
宮崎県西諸県郡高原町蒲牟田
主祭神−−神倭伊波礼彦天皇(神武天皇)
相殿神−−吾平津姫命・天津彦火瓊瓊杵尊・木花開耶姫命
              ・彦火々出見尊・豊玉姫命・彦波瀲武鵜茅草不合尊・玉依姫命
                                                        2011.10.25参詣

 JR日豊本線から別れる吉都線(えびの高原線)・高原駅の南西約3kmに鎮座する。高千穂峰の北東約6kmにあたる。

※由緒
 当社略記には、
 「社伝によれば、孝昭天皇の御代(今より凡そ2500年前)、神武天皇の御降誕の地に社殿の創建があったのが、当社の創祀という」
とあるが、孝昭天皇はその実在が否定されている(欠史9代)ことからみて、孝昭朝創建というのは古くみせるための伝承にしかすぎず、大日本地名辞書(1907・明40)に、
 「狭野神社 近年推論して、神武天皇の降誕の地であるとして、官社に列した」
とあることからみると、誕生の地という伝承をもとに、当社に神武天皇を祀ったのは後世のことかもしれない。

 当社名・狭野にかかわって、日本書紀・神代紀末尾に
 「(ウガヤフキアヘズ尊、その姨・玉依姫を以て妃としたまふ。・・・)一書・1に曰く、まず彦五瀬命(ヒコイツセ)を生みたまふ、次ぎに稲飯命(イナヒ)、次ぎに三毛入野命(ミケイリノ)、次ぎに狭野尊(サノ)亦は神日本磐余彦尊(カムヤマトイワレヒコ)とまうす。
 狭野とまうすは年少くまします時の名なり」
とあり、神武天皇の幼名・狭野尊(サノノミコト)に因むという。
 
 また三国名勝図会(1843)・薩隅日地理纂考(1871)には
 「(諸県郡高原郷)蒲牟田(カマムタ)村狭野−−神武天皇皇居ならびに降誕のあと(皇子原−オウジバル)。高千穂山(霧島山)の東の峰の東北の麓にあって、土地の人は“宮の宇キ”(ミヤノウト)、または“権現の宇キ”(ゴンゲンノウト)という。
 広い野の中の四段ばかりになって一段と高くなった処があり、神武天皇皇居の跡という。古事記に『カムヤマトイワレヒコ命、その伊呂兄(イロト−同腹の兄)イツセ命と二柱、高千穂宮に坐して・・・』とある宮は、すなわちこれであろう。

 神武天皇がここで生まれたのは、その父ウガヤフキアヘズ尊が、都城(現宮崎市都城市)の高千穂宮からここに遷都されたのである。ニニギ尊からカムヤマトイワレヒコまで代々の大宮は、その所がかわっても、なお高千穂宮というのは、いずれも高千穂山の畔にあったからである。
 往古、狭野神社があったが、高千穂山炎上のさい焼けて、いまは別の処にある」
とあり(安本美典・邪馬台国は、その後どうなったか・1992、以下「安本著書」という)、当社の西約1kmにある皇子原の地(現皇子原公園付近)がカムヤマトイワレヒコ(神武天皇)の生誕地で、当社の旧鎮座地という。

 皇子原について、高原町公式HP(歴史の散歩道・史跡)には、
 「皇子原は高原町一帯を見下ろす高台にある。古代には子供を産む際、家とは別に産屋を建てる風習があり、宮の宇キの高千穂宮におられたウガヤフキアヘズは要害の地である皇子原に産屋を建てられたという。
 昔から、非常に神聖な地とされており、近くに皇子神社・御腰掛け石・産湯石などがある」
とあり、今、小祠と石碑が立っているという(高原町指定史跡・不参詣)

 出産に際して、家とは別の処に建てた産屋(その都度造られる仮屋)で子供を産み、母子ともに一定期間を過ごすという風習は古くからのもので、処によっては大正末期頃まで残っていたという。
 産屋を自家の外に建てるのは、お産およびそこから発生する出血を“穢れ”(白不浄・赤不浄)として忌み、その穢れを家の中(日常生活の場)に持ちこまれるのを忌んだためというが、この不浄観は平安時代以降に生まれたといわれ、これを神代時代にあったとするのは疑問。

 この皇子原生誕説に対して、
 「ウガヤフキアヘズの尊は、タマヨリヒメを妃として皇子・狭野尊を、日向国諸県郡高城(タカジョウ、タキともいう)にお生みになった。この地に佐野権現神社があり、神武天皇を祀っている。天文年間(1532--55)に、神社を同郡高原郷に遷し申しあげた」
ともいう(神代山稜志・1843)
 高城とは、狭野の南東約20kmの辺りで、今は宮崎県都城市に属し、JR都城駅の北北東約10kmほどに当たる。

 ウガヤフキアヘズが都していたという都城には、
 ・ホノニニギ尊は、はじめ、高千穂の山上におられたあと、都城に遷都され、この地がヒコホホデミ尊からウガヤフキアヘズ尊までの大宮所であったのであろう。都島・宮丸などというのは、高千穂の宮から出た名である−−薩隅日地理纂考(1871)
 ・ヒコホホデミ尊は、高千穂の宮で亡くなられた。この高千穂宮は日向国諸県郡都城邑の皇居である。ヒコホホデミ尊は、はじめ、国分市(現霧島市)宮内に都し、海神の宮から帰って後は、内の浦(現鹿児島県肝付町)を経て、都島(現都城市)に都した−−三国名勝図会(1843)
などの伝承があり(以上、安本著書)、“高千穂の宮”候補地の一つとなっている。

 当地は、神武天皇東征出発以前の都跡とされ、付近に、狭野渡(出発に際して最初に渡られた川)・馬登(出立に際して最初に馬に乗られた所)などの伝承地があるというが(高原町HP)、当地以外にも
 ・都城市都島町字本城・都之城跡(現城山公園)
 ・宮崎市神宮町・宮埼神社
 ・宮崎市北方の皇宮屋(コグヤ)
 ・高千穂町・四皇子ヶ峰(神武の4皇子誕生地)
などがあり、室町・鎌倉時代には宮埼説が有力だったという(安本著書)

 神武天皇は美々津(日向市東海岸に比定)から東征の旅へ船出したとの伝承があるが、狭野の地で生まれ、成長して都城を経て宮崎の地に移り、そこで東征を決意し、北上して美々津から船出したというのもひとつの想定経路ではある。

 当社創建以降の経緯については、数度にわたる被災・遷座により旧記などほとんどが焼失しており、中世以前は不詳といわれるが、略記によれば、
 ・桓武天皇・延歴7年(788)3月、霧島山の噴火により社殿炎上。
 ・村上天皇・天歴年間(947--57)に僧・性空上人が整備した霧島六社権現の一社として狭野大権現と称した(別当寺−神徳院)
 ・霧島山は、その後も数回の噴火を繰りかえしたが、殊に四条天皇・文歴元年(1234)12月の噴火により社殿堂宇ともに焼失したので、ご神体を東霧島神社(ツマキリシマ・現都城市高ア町)に奉遷した。
 ・後奈良天皇・天文12年(1543)、藩主・島津貴久公の命により高原町西麓鎮守神社に仮宮を営んで遷座、慶長15年(1610)狭野の旧蹟に奉遷した。
 ・その後は島津氏の崇敬をうけ社殿等の造営改築が行われていたが、中御門天皇・享保元年(1716)・同3年の噴火により被災して霧島岑神社(キリシマミネ・現小林市細野)に遷座、同6年(1721)小林より現在地に戻った。
 ・大正4年(1915)6月、官弊大社宮埼神社(宮崎市神宮町、神武天皇・ウガヤフキアヘズ・タマヨリヒメ)の別宮となったが、戦後、昭和27年(1952)7月に分離、単独の狭野神社として現在に至る(大意)
という。

 村上天皇(946--67)の頃に整備されたという霧島六社権現のなかに、当社が狭野大権現として列していることからみると、10世紀以前から何らかの神マツリがおこなわれていたと思われる。ただ、同時代に編纂された延喜式内社には列しておらず、皇祖を祀る神社として認識されていたかどうかは不詳。

 あるいは、当社の西南約約7kmほどにある高千穂峰を神奈備として遙拝した聖地(里宮)、あるいは当地一帯に居住した隼人族に関係する神マツリの場が原姿かとも思われるが、管見のかぎりでは、それらを示唆する資料・伝承は見当たらない。

 なお霧島六社権現とは、神社と寺院(特に修験道系)が一体となった宮寺形式の社寺で、霧島神社(西御在所霧島六社権現)・霧島岑神社(中央六所権現)・霧島東神社(東御在所両所権現)・東霧島神社(東霧島権現)・狭野神社(狭野大権現−当社)・夷守神社(夷守六所権現)の6社から成っている。

※祭神
 今の祭神は、主祭神をカムヤマトイワレヒコ(神武天皇)とし、相殿に、その妃・アヒラツヒメ及び両親・祖父母・曾祖父母を祀る。これらは、当社主祭神・神武天皇に因む神々で、諸資料ともにこれら8柱を祀るとするに異論はない。

 創建当初の祭神が、これら8柱であったかどうかは疑問だが、現祭神に替わるべき神名は不明。特定の神ではなく、隼人族が崇敬した祖神、あるいは山の神・火の神といった自然神だったのかもしれない。

※参詣記
 国道223号線(霧島パードライン)の西側に参道入口があり、一の鳥居から本殿までの参道(約1km)の両側には杉を主体とした樹木が茂り、“狭野の杉並木”という。約400年ほど前植えられたとかで、曾ては200本近くあったというが、だいぶ少なくなっている。
 参道の終わり近くに神門があり、その先を右折して社殿に至る。
 社殿は、南から外拝殿・拝殿・弊殿・本殿と縦に並ぶが、古びた素木の社殿で静謐さが漂う。
 (カメラ操作の失敗で、写真消失)

トップページへ戻る