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日 向 三 陵

 記紀神話のなかに、日向神話とよばれるカテゴリーがある。その範囲については諸説があるが、ここでは、高天原から日向の襲(ソ)の高千穂の峰に天降った皇孫・天津彦彦火瓊瓊杵尊(アマツヒコヒコ ホノニニギ)から、御子・彦火火出見尊(ヒコホホデミ、火折尊-ホオリ)及びその御子・彦波瀲武鵜葦草不合尊(ヒコナギサタケ ウガヤフキアヘズ)までの、いわゆる日向三代にかかわる神話をいう。
 皇統譜としては、次のとおり。
  アマテラス−オシホミミ−ホノニニギヒコホホデミウガヤフキアヘズ−カムヤマトイワレヒコ(神武天皇)

 日向三陵とは、ホノニニギ・ヒコホホデミ・ウガヤフキアヘズが鎮まる陵墓で、次の三陵をいう(日本書紀)
 ・ホノニニギ−−筑紫の日向の可愛之山稜(エノミササギ)
 ・ヒコホホデミ−−日向の高屋山上稜(タカヤノヤマノウエノミササギ)
 ・ウガヤフキアヘズ−−日向の吾平山上稜(アヒラノヤマノウエノミササギ)
 なお古事記では、ヒコホホデミの陵について「御陵は、高千穂の山の西にあり」と記すのみで、ホノニニギ・ウガヤフキアヘズについての記載はない。

 現在の認識からいえば、神話上の人物に陵墓があるのはおかしいことだが、神話が史実と信じられていた古代にあっては、陵墓はあって当然で、延喜式諸陵寮(927撰上)には、三陵ともに、
  「在日向国、陵戸無し
   巳上神代三陵 山城国葛野郡田邑陵南原に於いて之を祭る。其兆域東西一町南北二町」
とある(陵戸=墓守
 後段の記述は、この三陵が大和から遠い遠隔の地にあり現地での祭祀ができないため、山城国葛野郡(カドノノコホリ)の田邑陵(タムラノミササギ)で祭祀が行われていたことを示すという。
 なお田邑陵とは、文徳天皇の陵墓(京都市右京区太秦三尾町・異論あり)といわれ、延喜式諸陵寮には
  「田邑陵 文徳天皇 山城国葛野郡に在り 兆域東西四町南北四町 守戸五烟」
とある。

 これは、少なくとも平安時代には、この三代の神陵が南九州・日向の地にあると認識されていたことを示すが、“日向国”とのみあって“郡名”がないことは(神武陵以降は、“在○○国○○郡”とある)、その当時、既に具体の所在地がわからなくなっていたともとれる。

 上記三陵は今、
 ・可愛山稜(ホノニニギ)−−鹿児島県薩摩川内市宮内町(新田神社境内)
 ・高屋山上陵(ヒコホホデミ)−−鹿児島県霧島市溝辺町麓
 ・吾平山上陵(ウガヤフキアヘズ)−−鹿児島県鹿屋市吾平町上名
と、すべて鹿児島県内とされている。
 これら三陵は、明治7年(1874)7月に天皇の御裁可をうけて決定されたもので、現地を調査してのこと(明治4年頃らしい)となっているが、その裏には、明治新政府で勢力をもっていた薩摩出身者の関与が伺われるという。

 ただ、その指定が天皇の御裁可であったにしろ、何もない処を皇孫等の陵墓としたのでは一般の、あるいは地元の理解が得られるわけではなく、そこには、古くから何らかの形で崇拝されていた聖地(墓など)があったと思われるが、その原姿は、その土地を支配した首長たち(隼人族)の墓ではないかという。

 ただ、ホノニニギ以下の皇孫等は、記紀によれば、代々隼人の女性を母とし、また妻に迎え、隼人族の中で育ったとされることから、古代の母系系譜を重視する慣習からいえば隼人族の出身ということになり(以上、日本神話の形成-松前健・1970、大意)、これら首長の墓を皇孫等の陵墓とすることへの違和感・拒絶感はそれほどなかったかとも思われる。

 また、南九州の各地には、上記以外にも三陵伝承地として、主として鹿児島・宮崎両県内(旧日向国)に、可愛山稜・7ヶ所、高屋山上陵・9ヶ所、吾平山上陵・6ヶ所があるという。

 なお、記紀神話を架空の創作とする説が云々されており、それによれば日向三代は実在しないことになるが、当小文は、日向三代の実在性については不問とする。
 また、当小文は 、安本美典著・「邪馬台国は、その後どうなったか」(1992、以下・安本著書という)を参考に、現地での見聞を加味して記した。

【可愛山稜】(エノミササギ・又はエノサンリョウ)
   鹿児島県薩摩川内市宮内町−−新田神社境内
 JR九州新幹線・薩摩川内駅の西北約2km余の川内平野の中にある独立した小山・神亀山(亀山・可愛山ともいう、H≒70m)の頂上・新田神社の背後に鎮まる。神社社務所脇から社殿東側(右側)を迂回する小道を進み石段を登ると山稜前に達する。

 ホノニニギの陵墓について、書紀には
 「久にありてホノニニギ尊崩(カムアガ)りましぬ。因りて筑紫日向可愛之山稜〈此をば埃(エ)と云ふ〉に葬りまつる」
とあるが、古事記には記載はない。

 可愛山稜が当地に比定されたことに関して、当山稜がある新田神社(神亀山山頂)に残る伝承によれば、
 「ホノニニギは、笠沙の地(現南さつま市が有力)でコノハナサクヤヒメと結ばれた後、東シナ海を北上して川内川河口に至り、川を溯って神亀山山麓に都した」(大意)
とあり、この伝承を根拠の一つとして神亀山山頂に比定されたものらしい(別稿・「新田神社」参照)

 山稜は、基壇(2段構成)上の玉垣に囲まれた中に鎮まり、拝所正面には小形の鳥居(神明型)が立っている。山陵内及び周囲は老樹の林で、静寂な雰囲気が漂う。

 当山稜の築造年代は不明。ただ 薩隅日地理纂考(1871・明治4年)に、
  「山上には、はじめ、山稜だけがあって、宮殿はなかった」
とある。
 新田神社が現在地(山頂)に遷座したのは永仁7年(1299・鎌倉末期)というから、山頂には、それ以前から山稜があったのであろう(今の結構になったのは、明治7年の指定以降であろう)

 また陵形についても、方墳(南北11m・東西10m)説・塚式円墳説・扁平な小方丘説があるが、拝所前から見たところでは墳丘らしきものはみえない。
 なお方墳とすれば、用明天皇陵・推古天皇陵が方墳であることから、6世紀末から7世紀前半頃の古墳形式となり、それ以前と思われる神代の陵墓とするのは年代的に合わないという(安本著書)

可愛山稜/拝所全景
可愛山稜・拝所全景
可愛山稜/正面
同・正面拝所

 今、当山稜は新田神社の背後に接しているが、安本著書によれば、神代三陵異考(1875)・薩隅日地理纂考(1871)
 「嘉永3年(1850)、新田宮の社殿改造のとき、正面拝殿(宝殿)の下から切石で覆われた高まりが発見されており、ここがホノニニギを葬ったところではないか」(大意)
との一節があり、この説によれば、陵は新田神社社殿の下にあることになるが、その真偽は不明。

 神亀山は略円形の小山だが、西方に細く突出部が延びている。その突端部を“亀の頭”と全体を“亀の姿”とみて、俗称・亀山ともいう。
 この亀の胴部の頂上にあるのが、今の“可愛山稜”だが、当地には、他にも
 ・中の陵−−亀の首部(新田社の西北西約300m−−三国名勝図会)−−中陵神社(小祠)あり
         ニニギ陵墓説の他に、ホスセリ(ホノニニギの二男)の陵墓ともいう
 ・端(ハシ)の陵−−亀の東部(中の陵から西北西約50m−−麑藩名勝考)−−端陵神社(小祠)あり
         ニニギ陵墓説の他に、コノハナサクヤヒメ(ホノニニギの妃)の陵墓ともいう
 ・川合(カアイ)の陵−−端の陵の西北西約2.5km亀山から谷をへだてた“川合山”(H≒18m)の麓
         ニニギ陵墓説の他に、アメノホアカリ命(ホノニニギの兄弟)又はホテリ命(海幸彦−ホホデミの兄)の陵墓ともいう
との伝承地が3ヶ所ある(安本著書)。曾ては論議が交わされていたらしいが、今、これらの3陵がどうなっているかは不明。

神亀山/航空写真
神亀山・航空写真
(新田神社・参詣の栞から転写)
神亀山模式図
神亀山模式図
(安本著書に加筆)

 なお、中の陵の小祠付近から文化3年(1807)に石槨(棺を収める石室)が発見され(端の陵からとする資料もある)、また端の陵には組合式石棺の一部が露出しているというから、古くからの墓所と推測されるが、中の陵から出土した石槨が隼人族の墓に多用された様式(地下式板石石室墓)に類似していることから、古代、この辺りを支配した豪族(隼人族)の墓とみるのが順当であろうという(新田神社社殿下にあるという墓らしきものも同じか)

◎その他の伝承地
 上記4陵(新田神社下を含めると5陵)は、いずれもホノニニギの陵墓を薩摩川内市内・神亀山付近に求めたものだが、上記の安本著書によれば、これら以外にも伝承地として以下の7ヶ所があるという。

*鹿児島県内
 @南九州市穎娃町(エイマチ、旧薩摩国穎娃郡−エノコオリ−穎娃郷)
   前王廟陵記(1696)に記す、「可愛は、今の薩摩の国穎娃郡」による説のようだが、可愛と穎娃の音の一致からのものらしい。

*宮崎県内
 A西都市三宅(旧日向国児湯郡斎殿原村)−−陵墓参考地(明治29年-1896)
   西都原古墳群内にあるある通称・男狭穂塚(オサホツカ、帆立貝形墳・L=175m・H=18m)をホノニニギの、隣接する女狭穂塚(メサホツカ、前方後円墳・L=174m・H=15m)をコノハナサクヤヒメの陵墓とするものだが、この両墳は5世紀頃の築造とされ、年代的には不適合。
   なお、当地付近には三宅神社(ホノニニギ)・都万神社(コノハナサクヤヒメ)がある。

 B宮崎市木花(旧日向国宮崎郡木花村)
   宮崎市・木花にある霊山(リョウゼン)を充てる説で、ホノニニギの行宮があったといわれ、近くにコノハナサクヤヒメの無戸室(ウツムロ・御子を産んだ産屋)の跡があるという。
   神社考(?)に「霊山嶽はホノニニギの山稜である」と、日本書紀口訣(1367・南北朝時代)にも「可愛之山稜、日向国宮埼にあり」とあるが、いずれも根拠不詳。

 C宮崎市南方町御供田(旧日向国宮崎郡南方村)
   当地には「この地がホノニニギの笠沙の宮跡」との伝承があり、奈古山(H≒30m)の頂きにある前方後円墳(L=54m)をホノニニギの陵とする説だが、前方後円墳とすれば年代的には不適合。山稜の背後には奈古神社(ホノニニギ・ウガヤフキアヘズ・神武天皇)がある。

 D延岡市北川町長井(旧日向国臼杵郡北川村)−−陵墓伝説地(明治7年−1874)
   延岡市中心の北方約8kmにある可愛(埃)(エノタケ、H=782m)山頂にある巨石(三本石)の辺りを、ホノニニギの陵墓とするもので、山麓に、ホノニニギを祀る神社(可愛山稜吾田神社)があるという。
   高千穂峰を宮崎県西臼杵郡高千穂町付近とすれば、その東方約35kmにあたる当地が可愛山稜である可能性は高い。

 E東臼杵郡高千穂山東南の榎岳
 F延岡市北川町俵野
   この2ヶ所は、D北川町長井の可愛岳と同一ヶ所を指すらしい

 安本氏は、その著書の中で
 「(現可愛山稜を含めて)8っの伝承地の中には、誰かか思いつき的に述べたとみられる説も幾つか含まれている。また、同じ地を指しているとみられるものもある。
 ホノニニギの陵についての8っの伝承地のうち、もっとも古くからの文献があり、もっとも有力とみられるものは鹿児島県川内市の亀山(現可愛山稜)であり、次ぎに根拠があるようにみえるのは、宮崎県東臼杵郡(現延岡市北川町長井)の可愛の岳である」
というが、それらの文献・根拠は、“可愛山稜は当所なり”という前提に立ってのものともとれる

【高屋山上陵】(タカヤノ ヤマノウエノミササギ・又はタカヤ サンジョウリョウ)
   鹿児島県霧島市溝辺町麓
 鹿児島空港の北約5km、国道504号線(北薩空港道路)を北上、国道東側の神割岡(カミワリオカ・標高≒390mほど)の山頂に鎮まる。
 当山稜をヒコホホデミの陵墓とする資料は、三国名勝図会(1843)以下数多く定説的になっている。他にも伝承地は幾つかあるものの、陵墓参考地あるいは陵墓伝承地として公式に指定されたものはない。

 ヒコホホデミの御陵について、
  書紀−−−日向の高屋山上陵に葬りまつる
  古事記−−御陵は、即ちその高千穂の山の西にあり
とあり、当山稜の所在地は、古事記にいう“高千穂山の西”に符合し(霧島連山の高千穂峰の北北西約24km)、これが、当地を山稜に比定した切り札らしい。

 しかし、安本著書によれば、神割岡を高屋山上陵としたのは明治になってからとあり、調査時(明治4年・1871)のことを記した薩隅日地理纂考には、溝辺町麓にある神割岡をヒコホホデミの稜とした事情について、
 「官命によってこの地に来、扁額に鷹大明社とある神社を見、神主に由来を尋ね、棟札を見たところ、鷹屋大明神と記したのが一枚あった。更に、山稜のことを尋ねたが、いっこうに知る人がいなかった。
 とりもなおさずこの神社であって、山稜は神割岡であった」
とあり、これについて安本氏は
 「調査を始めたころは、この地をヒコホホデミの陵とする伝承は、ほとんど存在しなかったか、知られていなかったような記述である。後に、詳しく調べることによって明らかになったのであろうか」
と記し、山稜指定について疑問を呈している。

 確かに、“山稜のことを知る人がいなかった”という前段と、“山稜は神割岡であった”という後段との間には飛躍がある。社名・鷹屋を山陵名・高屋に結びつけたともとれるが、それだけで神割岡を山稜とするのは疑問といえる。

 鷹大明社という社は、今、当山稜の南約800mほどにある高屋神社を指すと思われる。今、この神社の祭神はヒコホホデミというが、これは明治に入ってからの祭神で、江戸時代までは“祭神不詳”(鷹屋大明神という一般的名称で呼ばれていたらしい)だったという(三国名勝図会・1843)

 上記のように、当地にはヒコホホデミに関する伝承はほとんどみえないが、宮崎県東海岸には、海神宮(ワダツミノミヤ)から帰った尊が青島(現青島神社)に上陸されたとか、御子・ウガヤフキアヘズが鵜戸の窟(現鵜戸神社)で生まれたとかの伝承があり、尊の都は海辺にあったとも解される(鵜戸神社境内には、ウガヤフキアヘズの陵墓・吾平山上陵の比定地がある)
 尊が“後に宮殿を当地付近に移した”といえばそれまでだが、尊にかかわる伝承(山幸海幸伝承)からみて、その陵墓が海から遠く離れた山中にあるのは解せない。
 海とのかかわりを重視すれば、高千穂峰からの方位は異なるものの、江戸時代に有力視されていたという大隅半島南部の肝属郡肝付町内(下記)に求める方が納得がいく。

 当山稜を“高屋”と称する由縁について、書紀・天孫降臨の段・一書3に、ホノニニギが高千穂峰から移った笠沙の地(現南さつま市)で3人の御子がお生まれになったとき、
 「竹刀を以て、その児のヘソの緒を切る。その捨てし竹刀、後に竹林に成る。故、その所を名づけて竹屋と曰ふ」
とあり、竹島の地は、薩摩半島南部の笠沙の地(現南さつま市)辺りに比定され、往古、その跡にヒコホホデミを祀る高屋神社があったという。

 これらのことからみて、“高屋”とは笠沙の“竹屋”が転じたもので、為にヒコホホデミを祀った地を“高屋”とよび、この溝辺にある高屋も、元からの地名ではなく、ヒコホホデミを葬ったので高屋と称したのであろうというが(安本著書・大意)、竹屋→高屋というのは牽強付会の感もある。

 国道504号線の東側(九州自動車道との間)、ちょっとした広場に山稜への登坂口があり、傍らに「天津日高彦火火出見尊 高屋山上陵」との標石が立つ。
 広場から200余段の石段(一部に緩やかな坂路あり)を登り山頂に至ると、杉の巨木を主とする樹林に囲まれた拝所正面に出る。

 拝所の結構は他の天皇陵と同形で、玉垣に囲まれた2段基壇上に小形の鳥居(神明型)が立っている。山稜は、小山(神割岡)の上に更に盛り土をした処ともいわれ、中を覗くと低い円錐形の高まりが見える。ただ、この高まりが最初からあったものか、陵墓整備の際に作られたものかは不明。

高屋山上陵/拝所正面
高屋山上陵・拝所正面
高屋山上陵/拝所全景
同・拝所全景
高屋山上陵/標石
入口に立つ標石
高屋山上陵/入口付近
同・入口付近

◎その他の伝承地
 ヒコホホデミの陵墓としては、当山稜の他に9ヶ所の伝承地があるが(安本著書、以下同じ)、陵墓参考地・伝承地との公的指定はない。霧島の高千穂峰を天孫降臨の地とすれば、いずれも、古事記にいう“高千穂山の西”と符合しないためと思われる。

*鹿児島県内
 @霧島市隼人町(大隅国姶良郡)
   鹿児島神宮(主祭神:ヒコホホデミ)の摂社・石体宮(シャクタイノミヤ)を充てる説。
   石体宮は、鹿児島神宮の旧社地で、ヒコホホデミの宮殿の跡という。社伝には、“此所がヒコホホデミの山稜”とあるというが、調査しても陵の痕跡はないという(別稿「鹿児島神宮」参照)

 A肝属郡肝付町北方(旧大隅国肝属郡内之浦郷北方村)
   当町中央北寄りにある国見山(H=887m・内之浦湾奥の北西約6km)を陵墓とする説で、江戸時代にはこちらの方が有力視されていたという。ただ、当地は高千穂峰から南南東の方向で、古事記の記述とは異なる。
   当地を高屋山上陵の所在と主張する白尾国柱の神代三陵考(1869・明治2年)によれば、
  「高屋の山上陵は内之浦北方村の高屋山の頂きにあって、俗に国見の陵(又は国見権現)と呼ばれている。・・・陵は内之浦郷と高山郷との境の峰にあるが、山道は難路で、容易には登ることができない。・・・
  調べてみると、古記に、“ヒコホホデミ尊が遊行して現在の内の浦郷に到着し、ここで亡くなった。よってこの地の高屋の山の上に葬り申しあげた”という。
  陵の上に、自然の円い御影石が一つ置かれている。石は周りが8尺(約2.4m)ばかりで、半ば土地に埋まっている。ここがヒコホホデミ尊を葬ったところである。・・・陵の上の草むらに祠が建っている。・・・土地の人は国見権現とも、縮めて国見様ともいう。
  山稜の麓に、景行天皇の創建になるといわれる高屋大明神である。・・・」(大意)
とあり、
 大日本地名辞書が引用する延喜式廟陵記(成立時代不詳)には
  「山稜は山上にある。山名は国見山という。麓に廟がある。高屋大明神という。・・・」
とあるという(内の浦は、景行天皇・行宮の地ともいわれ、今は宇宙ロケットの発射地として知られている)
  古事記にいう“高千穂峰の西”とは方向が異なるものの、いろんな伝承があることからみると、当地も捨てがたい。

 B南さつま市加世田宮原(旧薩摩国川辺郡宮原村)
 C南さつま市加世田内山田(旧薩摩国川辺郡加世田郷内山田村)
 D南さつま市笠沙町
   この3ヶ所は、皇孫3代が笠沙の地(旧加世田市・笠沙町一帯)から他に移らなかったとするもので、BCは内山田にある竹屋山を、Dは野間岬の野間岳を高屋山上稜とするものだが、高千穂峰からかなり離れており(約80km)、高千穂峰のすぐ西とのニュアンスをもつ古事記の記載からみて、山稜とするには疑問ともいう。

*宮崎県内
 E宮崎市木花町(旧日向国那珂郡加江田村)
   ホノニニギの可愛山稜との伝承がある霊山の西にある久牟鉢山(クムハチヤマ)を高屋山上陵とする説で、日向地誌(1884)には
  「久牟鉢山 霊山から西に向かって1kmほどにあがつた処で、久牟鉢山の頂きにある。その頂きに小祠がある。
   神社考にヒコホホデミ尊の陵であるという」
とあるというが、はっきりしない。

 F宮崎市村角町(旧日向国宮崎郡大宮村大字村角)
   宮崎市の北方・村角町の橘尊(タチバナソン)という処に高屋神社(ヒコホホデミ・景行天皇を祀る)があり、神社の西側にヒコホホデミの陵といわれる高く盛りあがった場所があるというが、神社境内から出土した祝部式土器(イワイベシキ)が須恵器の別名であることから、神話のころの遺物としては時代が合わないという。

 G西都市都於郡町(旧宮崎県児湯郡都於郡村高屋)
   都於郡町(トノコオリ)・高屋の地を高屋山上陵とする説だが、根拠等詳細不明。

 H西臼杵郡高千穂町押方又は田原(旧日向国西臼杵郡高千穂町大字押方、又は田原村大字河内)
   押方にある神塚山あるいは田原の水の神塚を充てる説だが、古代の墳墓と認めるには疑問ありという。

 安本氏は、高屋山上陵について、
 「霧島市溝辺町がかなり有力だが、肝付町内の浦は、江戸時代に有力視されていたもので無視できない」
という。

【吾平山上陵】(アヒラノ ヤマノエノミササ又はアヒラ サンジョウリョウ)
   鹿児島県鹿屋市吾平町上名(アヒラマチ カンミョウ)
 大隅半島のほぼ中央部、鹿屋市の南東部(肝付町との境界近く)、県道544号線を県立大隅広域公園(標高=96m)から少し南下した道の東側に入口がある。

 ウガヤフキアヘズの陵墓について、書紀・神代下の最後尾には、
 「久しくましましてウガヤフキアヘズ尊、西州(ニシノクニ)の宮に崩(カムアガ)りましぬ。因りて日向の吾平山上陵に葬りまつる」
とあるが、古事記には記載がない。

 江戸末期以降の文献によれば、当地を吾平山上陵とするものが多いが、その根拠ははっきりしない。
 当地に比定されたのは、当地が、旧大隅国肝属郡姶良郷(アヒラゴウ)に属していたことから、陵名の“吾平”と郷名“姶良”の音・アヒラの一致によるものかと思われる。

 ウガヤフキアヘズについては、記紀には、その生誕時の伝承を除くと、4人の皇子が生まれたという以外に何らの事蹟もなく、上記の“西州の宮”が何処を指すのか不明。
 また他の2陵墓が霧島の高千穂峰の辺りにあるのに、当山稜のみが、遠く離れた大隅半島の中央部にあるのは解せないし、その疑問を解消するに足りる伝承などは見当たらない。

 現地は、吾平山上陵との表示がある入口から、玉砂利を敷きつめた参道を進み、数基の小橋を渡った先の山裾に山稜(洞窟墓)がある。途中の川辺に、伊勢・五十鈴川の禊ぎ場のように、石段を降りて禊ぎをする場所がある。

 山稜は、小川をはさんで、対岸の小高い岩山の山裾にひらく洞窟の中に鎮まるが、小川のこちらから見えるのは洞窟正面の玉垣と鳥居のみで、中の様子は見えない。

 当山稜の様子について、江戸後期から明治初期にかけての諸資料をまとめた上記・安本著書から要点を抄出すれば、
 「吾平山上陵の吾平は、大隅の国姶良郷のことで、今、俗に“鵜戸の窟”(ウドノイワヤ)という。
 御陵は大きな磐の洞窟の中にある。洞窟の山を総称して“鵜戸山”という。大巌窟は山の根にある。山の高さは約18m余りで、上には古い松、雑木が繁茂している。
 洞窟は北東の方に向かっている。その様子は尋常でなく、人工で作れるものではなく、その中は、広く平坦で清浄である。奥行き約18mほどで、横幅は22mほどである。
 洞窟の入口から18mばかりのところに、切石を敷き並べて土台とし、その上に約3mの小社を建てている。中には古鏡数面が収められている。昔は、この小社は、ここにでなく山上にあった。
 この社壇の下は、井戸のような深い穴であったが、慶長9年(1904)に洪水が洞窟の中を洗い、穴を埋めたという。
 社壇の後ろに、土の岩が盛り上がっていて奇観を呈している。これが吾平の御陵である(玉体をおさめたところは、社壇の切石の下ともいう)。
 洞窟の前に、幅5〜7m程度の小川が流れている。深い川ではない。源は、姶良の東嶽から出た石川(市販地図には姶良川とある)で、大変清らかである。
 川を隔てて、陵墓の北の方に鵜殿(鵜戸)神社があり、鵜戸六所権現ともいう。ウガヤフキアヘズの尊を祀る」
となり、古くから、当地がウガヤフキアヘズの陵墓という認識があったことを示唆している。


吾平山稜・兆域見取図

同・絵図
(年代不明・江戸時代のものであろう)
(両図とも安本著書より転写)

(カメラ操作の不具合で、写真は消失した)

 洞窟に近寄れないため現況は不明だが、入口から山稜近くまでの様子は兆域見取り図とイメ−ジ的にはほとんど変わっておらず(鵜殿神社は不参詣)、上記の記述からみて、当洞窟内に墓あるいはそれに類する埋葬施設があったのは確からしい。

 洞窟について、出雲国風土記(713)・宇賀郷の条に、
 「北の海の浜に脳(ナヅキ)の礒あり。・・・礒より西の方に窟戸あり。岩屋の中に穴あり。人入ることを得ず。夢にこの窟の辺りに至る者は必ず死ぬ。古より今に至るまで、黄泉(ヨミ)の坂・黄泉の穴といへり」(大意)
とあるように、古く、“洞窟は黄泉国(死者の国)への入口とされ、死者の霊がそこから黄泉国へ向かい、正月や盆・彼岸には、そこから出て娑婆へ帰ってくると信じられていた”といわれ、洞窟が黄泉国と通じているとされることから、古く、洞窟は風葬の地であり、死者を葬る墓所でもあったという(石の宗教・五来重・2007)

 この風習からみると、当洞窟が古代人の墓所であったのは確かだろうが、そこに葬られているのは、古代の大隅の地に盤踞した隼人族で、当地一帯を支配した首長とも推測され、その隼人の墓所を、明治初年になって、陵名と地名の一致からウガヤフキアヘズの吾平山上陵に比定したとも解される。

◎その他の伝承地
 ウガヤフキアヘズの吾平山上陵として、当山稜の他に次の6ヶ所がある。
 @宮崎県日南市宮浦(旧日向国南那珂郡鵜戸村)−−鵜戸神社境内−−陵墓伝説地
   日南市の東方、日向灘に突出する鵜戸岬に鎮座する鵜戸神社の境内にある“速日峰”(ハヤヒノミネ)の山頂を吾平山上陵とするもので、明治7年(1874)、上記の吾平山上陵が指定されたとき、それに対する宮崎県側からの強い反発をうけて、やむなく“陵墓参考地”に指定されたと解される。
   ただ、これといった伝承のない現吾平山上陵に比べて、鵜戸岬にウガヤフキアヘズ生誕の地とする伝承(別稿・鵜戸神社参照)があるのは有利で、尊はこの辺りに都され、その地で亡くなられたので生誕の地に葬ったと解釈すれば筋が通っている。
 しかし、生誕伝承および御子の名前を除いて、尊に関する事蹟・伝承が何ら残っておらず、その真偽を判断できるだけの資料はない。

 また、霧島の高千穂峰に近い狭野の地がウガヤフキアヘズの御子・狭野皇子(後の神武天皇)の生誕地で、都されたという伝承が霧島の高千穂峰に近い狭野の地(宮崎県高原町蒲牟田、別稿・狭野神社参照)にあり、その地に尊の都があったと解されるが、当地とは離れすぎていて、両者を繋ぐ伝承などはない。

 A宮崎県日南市油津(旧日向国南那珂郡平野村)
   鵜戸崎の南東約8kmほどにある油津町を流れる掘川右岸に小丘があり、日向纂記・日向古墳記に、
  「油津の北の山の岡の頂きに、陵がある。・・・古くから、古老は、日本書紀にいう吾平の山上陵はこれであると伝えている」
とあり、傍らにの吾平津神社(旧称:乙姫大明神)には神武の妃・吾平津姫(アヒラツヒメ)を祀るというが、これは油津を吾平津と解したもので、これを以て、当地を吾平山上陵とするのは疑問という。

 B宮崎県宮崎市佐土原町(旧日向国宮崎郡広瀬村字吾平)
   佐土原町内にある前方後円墳(H≒7.5m)を充てるもので、古墳の南に吾平神社があるものの、前方後円墳という墳形からみて年代的に合わないという(神代とは、古墳時代より前の時代と解される)

 C宮崎県西都市三納町(旧日向国児湯郡三納村)
   前方後円墳があり、その地の小字を阿良平(アラヒラ)ということから、この古墳を吾平山上陵に充てたものだが、前方後円墳という墳形からみて年代的に合わないという。

 D宮崎県高千穂町三田井(日向国西臼杵郡高千穂村三田井)
   日向古墳誌(発刊年不明)
  「吾平陵は、三井田から熊本へ抜ける街道の北1km余に小さな円丘の頂きにある。・・・土地の人は、この陵をウガヤフキアヘズの陵墓と言い伝えている」
とあるが、高千穂峰を西臼杵郡の高千穂とする説に関連して述べられた説で、根拠はないという。

 E熊本県山鹿市菊鹿町(旧肥後国山鹿郡日向村)
   吾平山御陵考(1860)との古書に、
  「山鹿駅の北約2里あまりの日向村(ヒムキムラ)に吾平山があり、その6・7合目辺りの南側山腹に、ウガヤフキアヘズの陵墓といって土を盛り上げた古い塚があり、麓に吾平山相良寺(ゴヘイサンアイラジ、吾平・姶良に通じる)がある。
  ウガヤフキアヘズの陵墓について、書紀は「隠れられたところは西州(ニシノクニ)の宮、御陵は日向吾平山上陵」というが、西州の宮の“西州”とは皇孫三代が都した日向国からみて西の国、すなわち肥後国を指す。
  また日向とは、日向国を指すというより、朝日が真っ直ぐに射し込む地(ヒムカ)を意味し、当御陵は朝日のよく指し向かう処にあり、古事記にも、肥国のことを“建日向豊久士比別”(タケヒムカトヨクジヒワケ)という。
 そこから、書紀は“日向(ヒムカ)の吾平山上陵”と記したのであろう」(大意)
という。

 古く、“朝日の直刺(タダサ)す地・夕日の日照(ホデ)る地”を日向(ヒムカ)・日知(ヒシリ)の聖地として神マツリをおこなったという事例は各地の神社に残っているが、当説も、日向をヒムカと読むことで山鹿の吾平山に充てたのだろうが、語呂合わせ的牽強付会との感が強く、他にも、ヒムカの地と解される地は多くあり、肥後の地のなかで当地のみを取りだして吾平山上陵とするには疑問がある。

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