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鵜 戸 神 宮
宮崎県日南市市宮浦
主祭神--鵜茅草葺不合尊
相殿神--大日孁貴尊・天忍穂耳尊・彦火瓊瓊杵尊
   ・彦火々出見尊・神日本磐余彦尊

                                                        2011.10..26参詣

 九州・宮崎の東海岸・日向灘に面する日南海岸国定公園の一画、太平洋に突きでた鵜戸崎(ウドミサキ)の突端に鎮座する古社。社名は“ウド”と訓む。

※由緒
 当社の創建は、当地をウガヤフキアヘズ生誕の地とする伝承によるものだが、当社参詣の栞には
 「当神宮は、“鵜戸さん”と愛称され、・・・日南市鵜戸の日向灘に面した、自然の神秘な洞窟の中にある。
  この洞窟は、主祭神(ウガヤフキアヘズ)の産殿の址と伝えられる霊地で、およそ一千平方メートルの広さがある。
  当神宮のご創建は、代十代崇神天皇の御代と伝えられ・・・」
とあり、
 またネット資料(Wikipegia)には、
 「社伝によれば、本殿の鎮座する岩窟は豊玉姫が主祭神を産むための産屋を建てた場所で、その縁により崇神天皇の御代に上記6柱の神を“六所権現”と称して創祀され、推古天皇の御代(592--628)に岩窟内に社殿を創建して鵜戸神社と称したと伝える」
とある(出典資料名不明)

 当地がウガヤフキアヘズ生誕の地とする伝承は江戸時代にはあったようで、日本書紀口訣(江戸初期頃)には
 「ウガヤフキアヘズが産屋を設けた海辺は“日向の宇土の浜”である」
とあり、
 神代山稜考(1792・江戸後期初・白尾国柱)には、
 「ウガヤフキアヘズ尊は、はじめ日向国那珂郡宮の浦の宇土浜に降臨した。・・・鵜戸山という山がある。飫肥府(現日南市)から三里十八町の距離である。巌窟は浜辺にあって東南に向かっている。巌窟中に廟がある。即ちここがウガヤフキアヘズ尊の聖誕の地である」(大意)
とあり、
 また神代三山陵紀行(岬茫洋・近年の著)には、
 「吾平山上陵(ウガヤフキアヘズ陵墓)のある吾平町(鹿屋市)の古老は、『ウガヤフキアヘズの誕生地は日南市の鵜戸神宮ですから、昔は、飫肥鵜戸詣り(オッウドサアメイリ)といって、日南までお参りに行っていました』と語っていた。
 日南の鵜戸神宮には、御陵参考地としての吾平山稜もある。鵜戸は二つでも、お墓は吾平で誕生地は日南という、そんな伝説が何時頃からか出来ていたのであろう」
とあり、日向三代にかかわる神社を巡ったところでは、当社がウガヤフキアヘズを祀るというのは定説化している。
 ただ尊の生誕伝承からみて、その地を海辺に求めるのはわかるが、それが当地であることを示唆する伝承等は見当たらない。

 また、社伝等にいう崇神朝の創建というのは、書紀・崇神7年条に
 「オオモノヌシ・ヤマトオオクニタマを祀るに併せて、別に八十万(ヤオヨロズ)の群神を祀った。よって天つ社・国つ社・神地・神戸を定めた」(大意)
によると思われ、これを援用して崇神朝創建とする古社は多く、当社もその一社であろう。

 また権現号とは、仏が仮に神となって現れたとする本地垂迹思想によって神に贈られた称号であって、仏教伝来以前の崇神朝に権現という観念はない。六所権現と称して祀ったというのは、後世(平安以降か)に作られた伝承であって、当社が崇神朝創建とする伝承とともに、当社を古く見せんがための創作伝承に過ぎない。

 なお、大隅国鵜戸権現社記なる古文書には、
 「聖武天皇・天平19年(747)勅して六所権現の号を賜った」
とあるというが、これも疑問。
 また、推古朝(592--623)に社殿を造営したというのも、確証はない(欽明朝-539--71-とする資料もあるらしいが、これも同断)

 参詣の栞によれば、
 「その後、桓武天皇の延歴元年(782)には、天台宗の僧・光貴坊快久が勅命によって当山初代別当となり、神殿を再興し、同時に寺院を建立して、勅号を“鵜戸山大権現吾平山仁王護国寺”(ウドサンダイゴンゲン アヒラサンニンノウゴコクジ)と賜った」
という。
 これによれば、当社が8世紀中頃にあったのは確かとなるが、神殿再興・寺院建立ということからみると、神社と寺院が一体となった宮寺形式の神社で、神官ではなく僧侶(別当)による祭祀がおこなわれていたと思われる(その名残が社殿に残っている)
 そのことが、当社が皇孫を祭神とするにもかかわらず、延喜式内社に列していない理由のひとつで、当社は寺院と思われていたのであろう。あるいは、延喜式撰上の頃には、皇孫を祀る神社との認識はなかったのかもしれない。

 今、当社の本殿は海辺の海蝕洞窟のなかに収まっている。
 洞窟とは現世と他界との接点・境界であり、海の彼方に理想郷・常世(トコヨ)の国があり、そこでは祖霊が永遠の命を生きていて、時に応じて子孫たちの処へやってくるとする観念(海上他界観)からすれば、洞窟とは、その理想郷・常世への出入り口でもある。
 換言すれば、洞窟とは死者が海上他界へ赴く入口であるとともに、常世の神が示現(誕生)する聖地であり、生まれ替わった祖先がやってくる通路でもあり、母胎であるともいう。
 更に、当地の地名・ウド(又はウト)とは“ウツ”(空)・“ウツロ”(虚・洞)にも通じる言葉で、内部が空虚なものを意味し、それは神が隠る聖なる容器ともいわれ、神は常世国から虚ろなる容器に入って顕れるもという。

 当社祭祀の中心即ち本殿が洞窟内にあることは、当地に、この洞窟をとおして東方海上(海中でもある)にある理想郷・常世を拝する信仰があったことを示唆するもので、そこに日向神話を付会・加上することによって、ウガヤフキアヘズを主祭神とする神社へと変貌させたものと思われる。

 なお、付言すれば、曾てのわが国には、お産の時、家の外に建てた仮の産屋で子供を産む習俗があったといわれ、その場合、海辺の村では渚近くに、山あいの村では小川の畔というのが多かったという。それは、出産時の出血を“赤不浄”として忌み、それによって家族全員あるいは家全体が穢されることを忌んだという。
 この不浄観は平安時代以降に生まれたというが、トヨタマヒメが渚に設けた産屋でウガヤフキアヘズを産んだとする伝承には、後世の習俗に連なるものがある。

※祭神
 記紀神話にいう日向三代の一柱・鵜茅草葺不合尊(ウガヤフキアヘズ)を主祭神に、相殿神として、尊に連なる大日孁貴尊(オオヒルメムチ=アマテラス)・天忍穂耳尊(アメノオシホミミ)・彦火瓊瓊杵尊(ヒコホノニニギ)・彦火々出見尊(ヒコホホデミ)・神日本磐余彦尊(カムヤマトイワレヒコ=神武天皇)を祀る。
 皇統譜にいう、
   アマテラス--オシホミミ--ホノニニギ--ヒコホホデミ--ウガヤフキアヘズ--神武天皇
といった神々である。

 記紀神話に、所謂海幸彦・山幸彦神話がある。当社にかかわる箇所を抄出すれば、大略
 「兄・海幸彦(ホスソリ)の釣り針を無くした山幸彦(ヒコホホデミ)は、釣り針を求めて海神(ワタツミ)の宮におもむき、海神の娘・豊玉姫(トヨタマヒメ)と結ばれる。
 3年たって、釣り針を見つけた山幸彦は妃・トヨタマヒメを残して国(陸上)に帰り、釣り針を兄に返すとともに、海神から貰った霊珠を駆使して兄を屈服させ服従を誓わせる。
 そのなかで、タマヨリヒメが陸上の尊のもとにやってきて、“私はすでに孕んでいて、今は出産の時期になりました。天つ神の御子を海原で産むべきではないと思って出てきました”と告げた。
 そこで海辺の渚に、鵜の羽で葺いた産屋を造ったが、その産屋の屋根がまだ葺きおわらないうちに御子が産まれた。そこから、御子の名ををウガヤフキアヘズという」(古事記)
という話で、その御子・ウガヤフキアヘズの誕生の地が当社の洞窟であるとして、尊を主祭神として創建されたのが当社となる。

 記紀によれば、皇孫・ホノニニギは高千穂峰から“吾田の長屋の笠狭崎”(薩摩半島西海岸の鹿児島県南さつま市-旧加世市-付近)に移り、コノハナサクヤヒメと結ばれたとあるものの、その後、そこから他へ移ったとの記述はない。

 その記述がないということから、いろんな伝承が生まれたのだろうが、ウガヤフキアヘズに関しても、当社境内には尊の陵墓とされる吾平山上稜(アヒラヤマノエノミササギ・下記)があり、近くには、妃・タマヨリヒメの陵(鵜戸古墳・円墳)の伝承地、北方にある青島神社には、海神の宮から帰った父・ヒコホホデミの上陸地という伝承がある。

 これらの伝承によれば、ウガヤフキアヘズは鵜戸の地で生まれ、当地に都し、当地で亡くなったともとれるが、一方では
 ・ヒコホホデミからウガヤフキアヘズまでの大宮所は、日向国諸県郡都城邑(宮崎県都城市)にあった--薩隅日地理纂考(1871)
 ・ヒコホホデミは、海神の宮から帰った後は、内の浦(現鹿児島県肝付町)を経て都島(都城市)に都した--三国名勝図会(1843)
などの伝承もあり、そこには鵜戸の地は出てこない。

 これらからみて、祭神・ウガヤフキアヘズとは、後世(時期不明)の付会かと思われるが、かといって、原初の祭神を推察できる史料伝承はない。
 ただ上記したように、当社が海辺の洞窟を中心として鎮座していることからみて、海洋信仰とのかかわりが推測され、東方海上に昇る太陽を拝するといった自然神信仰(日の神信仰)、あるいは遠く海の彼方にあるとされる常世(トコヨ)の国に向けての信仰(海上他界信仰)、そこからやってきて幸をもたらすという祖霊信仰などが混じりあった素朴なものだったと思われる。

※吾平山上稜(アヒラヤマノエノミササギ)--陵墓伝承地
 鵜戸崎の略中央・速日峯の頂上に伝・吾平山上陵がある。主祭神・ウガヤフキアヘズの陵墓といわれるもので、明治28年(1895)に陵墓伝承地に指定されたというが(当社HP、明治7年ともいう)、現鹿児島県鹿屋町吾平町にある鵜戸窟が吾平山上陵として指定されたとき、宮崎県側からの猛反発をうけ、その要請をうけて陵墓伝承地として指定されたという。(吾平山上陵については、別稿・「日向三陵」参照)

 境内・儀式殿横の稲荷神社の傍らに、山稜への入口があり、雑木(熱帯性樹木か)に覆われた山中に、自然石を雑に積みあげただけのやや急な石段が伸びている(片道約15分ほど、下りは足元要注意)

 山頂にある山稜は、簡単な門扉を備えた玉垣に囲まれ、傍らに陵名を記した立て看板が立っているが、通常の天皇陵にある鳥居はない。そこが、正式な山稜と伝承地との違いとみえる。
 山稜は前方後円墳で“速日峰古墳”と呼ばれるというが、見たところ単なる山の頂であって古墳とは見えない。前方後円墳であれば、(神代時代を何時の頃とみるかにもよるが)皇孫の陵墓とするには年代が合わない。

 山稜はほとんど整備されておらず、登坂路もだいぶ荒れている。又ここまで来る人はいないようで、ところどころに蜘蛛が巣を張っていた。


※参詣記
 西側(右図の上側)・土産物店の前から、曾ては本参道の石段(山越えの道で八丁坂という・約800m強・入口に朱塗鳥居あり)を登ったようだが、今はその南側に掘られたトンネルを通る新参道を利用して、東側海岸に出る。
 東側の海辺に沿って北へ、神門・楼門(いずれも朱塗り)をくぐり、小橋2橋を渡った先に、洞窟前へ降りる石段がある。

 一段低くなった洞窟の前にも朱塗りの鳥居があり、朱塗りの社殿が、洞窟内のほとんどを占めて建つ。社殿といっても、寺院本堂風の建物で、内陣が広く且つ窓が多い。神仏習合の名残ともいえる。

 社殿の裏に、乳房石(向かって左からみると、かろうじて乳房と見える)・お乳水(水場あり)といった見所があるが、観光用の見せ場でしかない。また洞窟前の岩場に、トヨタマヒメが乗ってきたという亀石があり注連縄が張ってあるが、これも同断。
 完全に観光化していて、神社がもっているはずの尊厳性・神秘性はみられない。                             (カメラ操作失敗のため、写真なし)
鵜戸神社/社殿配置図
社殿等配置・模式図
鵜戸神社/洞窟入口付近
青島神社・洞窟入口付近
(参詣の栞から転写)
鵜戸神社/社殿
同・社殿
(同左)

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